愛のかたまり

(高3の冬、入寮前の話)


「寂しいな」

その言葉は意外にも自分の口からするりと落ちたものだから、言った張本人ーー私自身が一番驚いたんじゃないだろうか。……でも、目の前の彼も、その青い宝石みたいな眼を見開いてるあたり、よっぽど意外だったらしい。うん、やっぱりそうだよね。

「……寂しいんだ?」
「驚くべきことに」
「ふーん」

どうやら後に続いた言葉は不服らしく、唇を尖らせてる。そういうところは小さい時からまったく変わってなくてわかりやすい。そこが可愛いかも、なんて思い始めたのはこの『お付き合い』が二ヶ月目を数えたからなのかな。少なくとも半年前の自分は、彼に対してこんな感情を抱いてなかった。

「……なる………鳴は、」
「成宮って言おうとした?」
「しょうがないでしょ、まだ慣れないんだよ。ずっと成宮って呼んできたんだから」
「…まあ、そうだけど。じゃあ今でも一也のこと一也って呼び間違えるわけ?」
「……なんでそこで御幸が出てくるの?名前なんて半年以上呼んでないよ」

私は眉を顰めて、目の前の彼氏(っていう肩書きで呼ぶにはまだ恥ずかしい)ーー成宮鳴を見る。鳴は私の言葉に納得したのかしてないのかよくわからない。相変わらずテーブルの上で腕を組んで、難しい顔をしてる。私は彼のそんな態度がずっと苦手だったけど……でも、怖いばかりじゃないって知った今はわりと平気だ。
鳴はよく一也のことを引き合いに出す。これは今に始まったことじゃなくて、彼から電話がかかってくるようになった夏からずっとそう。多分心配してるんだろうなって思うのだ。私は平気なのにね。

「昨日だって普通に御幸って呼んでたでしょ」
「そうだけど」

そう、昨日。少し遅い初詣にふたりで出かけて、御幸と会った。御幸は彼女ーー立花さんと一緒だった。こちらも初詣。奇遇だねって私は笑ったけど、御幸は変な顔してた。まあ確かに意外かもね。私と鳴が付き合うことになるなんて。人生って本当に不思議。そんなことを考えながら、目の前のグラスになみなみと注がれたメロンソーダをストローで啜る。穏やかな午後。厳かな気分になるお正月からゆっくりと日常に戻っていくーーそんな1月4日。私は鳴とファミレスデートをしていた。

元々会う予定はなかったんだけど(だって昨日デートしたし)、午前中のうちに急に鳴から連絡があって急遽こうして顔を突き合わせているというわけ。彼がなんで会いたいって言い出したのか最初のうちはわからなかったけれど、でも話しているうちに理解した。

明日、鳴は球団の寮に入寮する。

だからこそ私の口から零れ落ちた「寂しいな」って言葉。これは間違いなく本心だった。

「寂しい」

確かめるようにもう一度その感情を口にする。鳴は今度は驚かなかった。その代わり、グラスを持っていた私の右手に重なった彼の左掌。じんわりとした温かさが妙にくすぐったい。緑色の水面に浮く氷を見つめていた私は顔を上げて、もう一度、鳴の青色を見た。

「大丈夫だよ」
「……うん」
「たった四年だし、時間見つけて電話するし。……俺も、頑張るからさ……待っててよ」
「…うん」

こんなにセンチメンタルな気分になるなんて自分でも予想してなかった。だって私たちずっと犬猿の仲で、嫌いあってたと思ってたのに……それが今じゃ、ぽっかりと穴が開いた気分。
鳴と付き合うことになった日。私は日記に「きっとこの人のことを好きになる」って書いた。…もう、十分すぎるほど好きかも。そんな自分がなんだか気恥ずかしい。誤魔化すように鼻を鳴らして鼻水を啜る。鳴はそんな湿っぽい雰囲気を払拭するように、明るい声で私に語りかけた。

「さすがに一年目は難しいかもしれないけど、届けさえ出せば外泊も出来るらしいし、門限守れば、オフの日はデート出来るよ」
「そうなんだ」

それを聞いてちょっと安心したかもしれない。私だって四月から大学生で、色々と忙しくなるのは目に見えている。ずっと離れてたんだから、これからも少し離れてた方が私たちは上手くいくのかもしれない。そんな感じで私たちのこれからに思いを馳せる。ああ、そういえば、これは鳴に伝えておかないと。

「パパがね、鳴が神宮で投げる時は見に行きたいって」
「……オジサンが?」
「うん、そう言ってた。パパ、鳴のこと応援してるんだよ」
「…そっか」

鳴が安堵の表情を浮かべたものだから、私は首を傾げた。パパのこと怖がりすぎじゃない? 娘から見ても穏やかな性格の人なんだけどなぁ…なんでだろ。
むしろパパの方が鳴にビビってるよ。
一回一緒に野球見に行った時に鳴が生意気なこと言ってたから。なんてことは勿論、口には出さない。
だってそんなこと言うと鳴の機嫌が悪くなりそうだし。なんとなく彼の扱いがわかってきた私は、さながら猛獣使いの気分だ。鳴はなんていうかライオンっぽいしね。思わずライオン姿の鳴と、サーカス団員の格好をした自分を想像して笑ってしまった。

「なに?」
「なんでもない」

そんな風に私たちはしばらくの別れを名残惜しむように、穏やかな日差しが差し込む店内でゆっくりと二人の時間を過ごした。




「鳴って、なにか香水使ってるの?凄くいい匂いする」

仲睦まじいカップルみたいに(実際カップルなんだけど…)手を繋いでの帰り道。ひとりで帰れるよって言ったのに結局今日も鳴は私の自宅近くまで送ってくれた。そんな彼に別れ際尋ねたのはずっと気になってたこと。鳴は「そう?」と首を傾げた後、質問に答えるように「使ってるよ」と教えてくれた。

「意識高いね」
「普通じゃない?まあ、自分が買ったやつじゃないけどね、姉ちゃんが去年の誕生日にくれたやつ」
「ふーん」
「……なに、なんで急にそんなこと聞くの?」

繋いだままの手、指先に力を込めたのは鳴だ。ちょっと声が固いのはなんでだろう。緊張してるのかな。そう考えると私の方も緊張してきた。別にやましいことなんてない。……後ろめたさはあるけど。

「……鳴、明日誕生日でしょ?昨日はじめて知ったからプレゼント何にも準備出来てないのが、申し訳なくて。しかも私、鳴の好きなものって野球以外なんにも知らないし……」
「プレゼントは、名前で呼んでくれればそれでいい、いらないって言ったじゃん」
「…だけど、私たち付き合ってるわけだし。なんか無欲の鳴を信じられないっていうか……」

言葉尻はモゴモゴと口の中に消えた。昨日のデートで鳴の誕生日が1月5日だと知った私は、その時に(彼女の責務として)プレゼント買うよって言ったんだけど、鳴はいらないって断ったのだ。その代わりに名前で呼んで欲しい、それがプレゼントの代わりでいいと言って。でも鳴が欲しがり屋なのは長い付き合いだからわかってるし、私もやっぱり彼氏って存在に何かあげたかった。だけどーー

「形から入るタイプ?」
「え?」
「彼氏彼女だからプレゼント贈りたいの?」
「…それもあるけど……、私が鳴になにかあげたいなって思ったの」

それは間違いなく私の本心だ。鳴はそれを聞いて押し黙った。何か考えているらしい。それから突然、肩にかけていた鞄をガサゴソやり始める。結局、何が欲しいかって答えは貰えないんだろうか。溜息が漏れる。その時、

ーーシュッ

「えっ、何!」

突然首に巻いていたマフラーに『何か』をふりかけられ、驚きの声が出た。ワンテンポ置いて、鼻腔を擽るのは嗅いだことのある匂いーー鳴の香水のそれだ。それを理解した瞬間、私の身体は鳴の腕によって強く強く抱きしめられていた。突然の展開に、正直驚きを隠せない。

「……俺が野球以外、何を好きか知りたい?」

耳元で鳴の声がする。少し癖のある低音が、私の鼓膜を揺らす。

「紗南、お前だよ」
「……ッ」

その言葉を聞いた瞬間、私はハッと息を吞んだ。身体中がじわじわと熱くなる感覚。途端に恥ずかしくなって、顔を隠すように鳴のマフラーに顔を埋める。鳴がさっき私にも香水を掛けたからか、鳴の匂いがいつも以上に濃くて頭がクラクラした。……勿論、鳴の、熱烈な愛の言葉にも。鳴はそんな私の様子を知ってか知らずか、言葉を続ける。

「しばらく離れ離れだけどさ、マフラーにふりかけた俺の香水の匂い嗅ぐたびに俺を思い出してよ」
「……うん」
「…それから、プレゼントだけど。今年は本当にいらないよ。名前で呼んでくれるだけでいい」
「……」
「だけどさ」
「……?」
「来年は、お前の『全部』を頂戴」

囁かれた言葉のーー『全部』がなにを示しているかなんて……鈍い私でも理解る。言葉がうまく出てこない。俯いて、鳴のマフラーに顔を埋めたまま。しばらくお互い黙りこんでいた。

「ねぇ」

先に動いたのはやっぱり鳴だ。彼の指先が、私の熱をもった頬に触れる。鳴の指先は冷たかった。

「……約束、して」

鳴はいつだって強引で、だけど優しくて、……未だにちょっと信じられないけど、私のことが大好きで。切羽詰まった声で私に問う。対して、私が持ち合わせてる答えなんてひとつしかない。

「……うん、いいよ」

頷いた瞬間。昨日ファーストキスを交わしたばかりの鳴の唇と私の唇が重なった。自宅前、突然のキス。驚いたけどーーでも、やっぱり嫌じゃない。嬉しい。ゆっくりと目を細めて、鳴の柔らかい唇を堪能する。

ーー大好き。

そんな暖かな想いが胸の内に広がって、消えない。

ねぇ、鳴。私たちしばらく離れ離れでも、きっと大丈夫だよ。そう思う。そう思うよ。
だって私たちの間にはこんなにも大きな愛があって、私はもう鳴のことしか考えられなくて、私の言葉や仕草は全部鳴のためだけに存在してるんだから。だから大丈夫だよ。抱き寄せられた私の身体は、鳴でよかった、って歌ってる。この想いが伝わればいいな。

(鳴、大好き)

恥ずかしくて言葉に出来ないけれど。きっと伝わってるよね。
鳴もそう思ってくれてたら、嬉しいな。

(大好き)

私は心の内で、何度も何度もその言葉を呟いたのだった。