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私はいつだってあの子の影で、あの子の尾っぽ。後ろについたしっぽのことなんて、誰も気にしない。



教室の窓から見える満開になった薄桃色の桜と、真っ白なキャンバスに水っぽい絵具を刷毛でサッと塗ったような水色の空。
その対比が、綺麗だと思った。
私は浮かれて騒めく教室の隅でひとり、頬杖をつく。
四月。はじまりの月。
毎年憂鬱だったこの時期も、今年ばかりは少し違う。ほんの少し、いつもより気分が晴れやかだ。
私のことを知っている人は誰もいなくて、指をさしてコソコソ嗤う女の子たちもいなくて、生まれてはじめて感じた解放感。
真新しい木材を確かめるように、指先で撫で付ける。そんな机の中には、先月の学校説明会で購入した教科書。これもまたピカピカの新品だ。

(高校生…)

不意に先日からの立場を心の内で呟いてみた。なんだか擽ったい。つい一昨日の入学式の様子を思い出す。校長先生の挨拶、来賓の挨拶、担任の紹介。築年数の浅い綺麗な体育館で、式次第通りに進んでいく行事。私は真っ直ぐ背を伸ばし、前だけを見つめていた。何故なら、他の同級生たちみたいに、後ろの保護者席には私を見守ってくれる存在はなくて、気にする必要もなかったからだ。


来なくていいよ、と両親に言ったのは入学式の前の晩。家族五人で夕飯のテーブルを囲んだ時のこと。
「ひとりで大丈夫」と言えば、お姉ちゃんは「私が行こうか」と言ってくれたけど。でもそれも丁寧に断った。だいたいお姉ちゃんは仕事だもの。就職したばかりだし、そんな急に休めるわけもない。
お父さんは私の申し出に申し訳なさそうながら、それでもやっぱりどこか安堵しているみたいだった。…わかるよ。本当は"もう片方"の方に行きたいって知ってた。だから私は「本当に大丈夫だから」と念を押す。
そうしたら「そうか」って頷いて、それっきり黙り込んだ。もともと"片方"の学校に行く予定だったお母さんは、微妙な顔をしていた。一応心配はしてくれているらしい。

「こっちの入学式終わったら、迎えに行くから。学校で待ってて」
「いいよ、大丈夫」
「でも…」
「これから毎日電車通学になるんだよ。そんなことしてたらキリないでしょ?だいたい入学式終わったら、…入寮式もあるだろうし」

私はそう言って、その場で初めて自分の片割れに目をやった。何を考えているかわからない表情でただ箸を動かして、二杯目の白米を食べている、存在。よくもまあそんなに食べれると思う。私たちを構成するものはおんなじでこの世に産まれたばかりの時は私の方がほんのちょっと大きかったのに。今では向こうのほうが私よりも随分大きい。

その存在は、私と目も合わさない。
私をないものとして扱う。
私もそうだ。
すぐに目を晒して、食事に集中する。ただ言葉もなく、手と口を動かした。

---最後の晩餐。
そんな言葉が思い浮かんだ。



「それじゃあ、今日はまず自己紹介からはじめようか」

担任の太井先生の声に、私の意識は過去の記憶から突如浮上する。一限目のホームルーム。教師生活二年目の太井先生の、溌剌とした声が教室に響く。……自己紹介。まさか高校生になってまでそんなことをしなくてはいけないとは…と少しゲンナリした。
…私は、あんまりこういうことが得意ではない。声は小さいと言われるし、頭の中で考えたことがうまく言葉に出来なくてつっかえる。嫌だなぁなんて思っているうちに、非常にも出席番号一番の人から始まる自己紹介タイム。立ち上がってそれぞれ名前を言って、あとは好きなものとかハマっているものとかをそれぞれ楽しそうに話していく。
私は相変わらず頬杖をついたまま、それをぼんやりと聞いていた。

窓側の席。あ行の人たち。四人目。ガタガタっと椅子が動く音。ヌッと立ち上がったその背中が視界の端に映り込む。
…大きくもなく、小さくもなく。
だいたいそれぐらいの身長の人なんて、この教室には沢山いるのに。…でも、何故だか私はその姿に、あの片割れを思い出してしまっていた。

「梅宮聖一ッス!」

大きな声が、耳に届く。
真新しい学ランに、一昔前のヤンキーみたいな古臭い髪型、リーゼント。なんだか目が離せない。斜め前のその大きな背中を、私はただジッと見つめていた。彼のハキハキした声が続く。
出身中学校の名前は、地名から察するにこの辺りの学校だろう。地元の子だ、とそんなありきたりな感想を抱いていた私。その瞬間、彼の一際大きな声が、耳に届いた。

「あー、とりあえず野球部入って甲子園行くんで!応援ヨロシクッ!!」

言葉に書き起こすと、たぶん夜露死苦という発声になるんだろうか。だけどそんなことを気に留める前に、私は「甲子園」という単語に思わず身を硬らせた。心臓が嫌な音を立てて、ドクドクと脈打つ。何度か浅い呼吸を繰り返し、顔を伏せる。机の木目をジッと見つめながら、冷静さを取り戻そうと瞬きを繰り返した。

(こうしえん)

野球部があるのは知っていたけれど。そもそも住宅街にある学校で、グラウンドなんて猫の額ほどの狭さだからどの運動部もそんなに活発じゃないと聞いていたのに。それでもこの学校で、あの場所を目指す、という宣言。それを聞いて、先生は真っ先に「凄いなぁ、がんばれよ!」なんて激励の言葉を口にしている。その反面、クラスメイトの反応は様々だった。ほんの少しの騒めきが、波のように広がる。

(甲子園なんて、)

ぎゅっと唇を噛んだ。この学校でその単語を聞きたくはなかった。大きな声が耳に残っている。この人には近づかないでおこう。そう心に固く決心した。決めてしまえば、少し楽になる。
落ち着きを取り戻した鼓動。
息をゆっくりと吐き出した。
それから。
十分ほどで、教室の真ん中、最後尾に座っていた私の番になった。
前の人が座ったタイミングで、席から立ち上がる。
そんな私を振り返って見る人もいれば、興味なさげにぼんやりと窓の外を見ている人。様々だ。……リーゼントの彼は、私をジッと見つめていた。
そんな視線から逃げるように眼鏡のブリッジを指の腹で押し上げて、カラカラに乾いた唇をそっと開いた。

「成宮、満です。好きなことは…、読書と…料理、です。よろしくお願いします」

小さな声で囁くように呟いて、そして一礼。すぐに椅子に腰を下ろした。パラパラとした拍手。すぐに次の人が自己紹介をはじめる。私は何度も何度も、さっき自分が言った言葉を心の中で暗唱した。何年も春になると言葉にしてきた事実を、今年初めて口にしなかったのだ。胸に熱いものが込み上げてくる。

此処にいる人たちは、私の片割れを知らない。リーゼントの彼が口にした『甲子園』を本気で目指しているあの子を知らない。

だから、誰も、私を比べない。
比べることなんて出来ない。
それだけで心が晴れやかだった。

胸がスッと清涼感に包まれる。また頬杖をつきながら、クラスメイトの自己紹介に耳を傾けた。……だけど。ふいに、雑音まじりの声が頭の中に響き渡る。その文言は端的に事実を述べていた。

私の名前は、成宮満。
成宮鳴の双子の姉です。

それは白いシャツに染み付いた黒いインクのように。洗っても洗っても落ちない真実。それだけはどんなに足掻いても、否定できないのだと思い知らせるように。誰かの声が、私の耳元で囁くのだ。

その声は、やっぱりいつもどおり、もう随分と面と向かって口を聞いていない鳴ちゃんによく似た声だった。