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私が入学した足立区の鵜久森高校は、創立して十年と経っていないわりと新しい高校だった。だから校舎は新しく、近代的だ。ユニバーサルデザインを採用し、バリアフリーやエレベーターも完備されている。

そんな高校を、私が進学先に選んだ理由は自宅からもそう遠くなく近くもなく…同じ中学校から進学する子がひとりもいなかったから。だから私はこの学校を選んだ。
なにか目標があったわけでもない。
そんな惰性でしかない私の鵜久森での高校生生活は、あっという間に一ヶ月を数えた。そして、五月の連休明けのある日のこと。

私は彼と出会った。


借りていた本を数冊手に持って向かったのは、昼休みの図書室。カウンターで返却手続きを済ませて、いつもの棚の方へと足を進める。いくつか気になっていた小説を手に取り、それから実用書が揃った棚へ。勿論借りるのは料理のレシピ本だ。
家庭料理からお菓子、あとは各国の郷土料理が載っている本まで。料理と名のつくものはわりとなんでも借りるようにしていた。これは小学生の頃から変わらない。…多分、凝り性なんだと思う。
料理は好きだ。だってその通りに作ればその先に正解があって、道筋さえ間違わなければいいから。私が感じられる唯一の充足感。


すごいね、満。これ、うまいよ。

ふっと頭を過ぎるのは、やっぱり鳴ちゃんの声。小学生の時に、どうしても図書館で借りた児童書の中に書かれていたレシピを再現したくて、お母さんに協力してもらってつくったシュークリーム。出来上がったそれを、鳴ちゃんは「うまいっ!」と言いながら何個も食べてくれた。…その瞬間を私は今でも忘れられない。鳴ちゃんがいることで私はこんなできそこないみたいな性格になってしまったけど、唯一の誇りを築いてくれたのも鳴ちゃんで。


鳴と満は半分こなのよ。
だってそういう風に生まれてきたんだから。


それはお母さんの口癖。双子はひとつの魂がお母さんのお腹の中でふたつに別れて生まれてくるんだって、よくそう言ってた。だから離れていても伝わるテレパシーみたいな不思議な力があるって。…それを信じていた時もあったけれど……でも私たちの魂はもともと別々だ。そう思う。

だって男女の双子は必ず二卵性だって決まってるから。偶然にもふたつの卵子が排卵されて受精して、そして私たちが産まれた。姉弟がたまたまおんなじタイミングでお腹の中で育って、数分違いでこの世に誕生しただけ。今ならわかる。
だって鳴ちゃんと私の魂が半分こなら、どうして鳴ちゃんばっかりが神様に愛されてるんだろって。そんな風に考えてしまうの。

「あっ…!」

そんな私の相変わらずネガティブな考えを中断させるように、あたりにバサバサッと音が響いた。隣の棚の向こう側。影が見える。どうやら本が床に散らばった音らしい。私の足は気づけば音のした方へと向かっていた。

目に飛び込んできたのは、分厚い本が何冊もリナリウムの床に散らばっている風景。そして、車椅子の男の子。私は慌てて蹲み込んで、本をかき集めるように拾う。

「ありがとう」

拾った本を男の子に差し出したら、お礼を言われた。指先が触れる。穏やかな眼差しで私をジッと見つめて、それから細まった瞳。思わず胸が高鳴る。…すごく、綺麗な顔をしてる子だなぁって。ドキドキした。

「あ…っ、うん…」

私の役立たずの口は、それ以上の言葉を紡げない。思わず俯く。視界に映るのはピカピカの床に、私の上履きと、そして車椅子のステップに乗った男の子の足。彼の上履きのラインは私と同じ色。

(同級生だ…)

真っ先に思い浮かんだ言葉はそれだった。

「あの、」
「え…?」
「ごめん、もしよかったら…少し手伝って欲しいんだけど」

そんな言葉を紡いだ彼の視線は、本が並ぶ棚の上の方を彷徨っている。私もつられてそちらを見上げた。

「あ…っ、本…?」
「うん、どうしても読みたい本がとれなくて困ってたんだ」

その言葉に、彼がどうやら無理に自分でとろうとしてそれで手元の本を床に落としてしまったことを悟る。私は、すぐに「いいよ」と頷いて彼が読みたいという本に手を伸ばした。

「その青い背表紙の本なんだけど」
「これ?」
「うん」

背表紙に指を引っ掛けて、彼が望む本を綺麗に陳列された棚から引っ張り出す。随分と分厚いハードカバーだ。私はそれを直ぐに男の子に手渡した。

「ありがとう」

二度目の感謝。その言葉は、妙に擽ったい。私は「気にしないで」と頭を振った。本当に大したことはしてない。困った人がいれば手助けするのは当たり前だと思っているし。その校舎事情から鵜久森にはハンデをもっている人が入学しやすいという話を、学校説明の時から耳にしていた。

「他に手伝えることある?」

だからそんな風に彼に尋ねるのは、鵜久森生として当然、なんて。言い訳を心の中で並べていた。…本当は、なんていうか…もうちょっとこの人とお話がしたいなぁっていう下心があったのだ。私が今まで接してきた男の子の中にはいないタイプの人だったから。出会ったばかりだというのに、穏やかそうな雰囲気に心が和らぐ。

「もう大丈夫」
「…あ…うん、そっか…」

…断られてしまった。もしかして私の邪な考えを見抜かれてしまったのだろうか。気分が急に萎む感覚。思わず眉を下げた。だけどそれはどうやら考えすぎだったらしい。彼の「もうこれで借りたい本は全部揃ったから」と私に向かって微笑んだ。

私も今日借りようと思っていた本は既に手元に揃っている。なんとなく流れで彼とカウンターに向かうことになった。その途中で、名前も知らない同級生の彼は私を見上げて口を開く。

「料理が好きなの?」

どうやら私が手に持っていたレシピ本が気になったらしい。私は頷き、そして彼の手元の本をチラリと見た。なんだか難しそうな分厚い本ばかりだ。きっと頭がいいんだろうなぁとひとりで納得する。

「よく図書館にくるの?」

今度は私が彼に尋ねる番だった。

「うん。よく来る」
「そうなんだ。本は、好き…?」
「好きだよ。小説とかはあんまり読まないけどね。色々勉強したくて」

そんな会話を交わしながら、カウンターで貸し出し手続きを行った。彼が先。カウンターの司書の先生が「松原くん」と彼のことを呼んだのが耳に入る。

(まつばら…くん…)

心の中で呟いた。
きっと勉強の出来る優等生に違いない。優しそうだし、クラスでも人気者なんだろうなぁ、とか色々考える。松原くんが貸し出し手続きを終え、次は私の番。…松原くんは、私の貸し出しが終わるまで立ち去ることなくその場に留まってくれていた。やっぱり優しい。それだけで胸が温かい気持ちになる。

それからふたりで図書室を出た。帰る先は一年生の教室がある同じ棟の同じ階だから、途中まで一緒だ。松原くんのクラスは1組らしい。私は5組。

「そういえば名前聞いてなかった」

松原くんは別れ際、そんな言葉と共に私を見上げた。

「成宮満です」

思わず所作を正して頭を下げれば、彼は少し微笑う。そして同様に頭を下げた。

「松原南朋です」
「…まつばら、なお、くん」
「よろしく、成宮満さん」

彼の名前を確かめるように呟いた私に、松原くんはそっと手を差し伸べる。…これは、握手しようって意味なんだろうか。悩んでいるうちに、彼の指先が私の掌を包み込んだ。大きい手。なんとなくそれが意外だった。体温が、じんわりと伝わってくる。

「よろしく」

私はその時、彼と繋がった掌が嬉しくて。苗字だけじゃなくてちゃんと名前まで呼んでくれたことが嬉しくて。ほんのちょっぴり浮かれていたんだ。だから彼が借りた本がスポーツに関係するものばかりだったり、手のひらの硬い肉刺の跡だったり…そういうことにはちっとも気づかなくて。


…でもね。気づかなかったからこそ、きっとこの時から運命の歯車は、回り出していたのかもしれないって。
そう、思うの。