プロローグT


「すみれさん、紅茶で大丈夫ですか?」

自宅のキッチンに立っていた御幸一也はカウンター越しに、ダイニングチェアーに腰掛ける来客に尋ねた。すみれと呼ばれた彼女は「お気遣いありがとうぉ」と少し語尾の伸びた言葉で穏やかに微笑む。客人であるすみれと御幸はそれこそ十五年以上の付き合いになるが、彼女は相変わらず年齢不詳だ。女性に対して少し失礼かもしれないが、目尻に皺が増えたかなと思うぐらいで、パッと見は四十代ぐらいに見える。しかしその実年齢は今年で五十半ばだったはずである、と。思い出すのは御幸自身の恩師である母校の野球部監督ーー片岡鉄心の姿。そう、いま御幸家のダイニングルームにお行儀よく座り辺りをきょろきょろと見渡しているのは、それなりに世に名を知られた作家であり、片岡監督の愛妻ーー片岡すみれ。その人であった。

「ごめんなさいね、お正月早々お邪魔しちゃって」
「大丈夫ですよ、少し驚きましたけど」
「奥様と息子さんは?」
「俺の実家の方に顔出しに行ってます」

そんな会話を交わしながら、御幸は手慣れた手つきで紅茶を二人分淹れる。なんだかんだと来客の多い家だ。御幸自身の妻が買いそろえたティーカップに琥珀色の液体を注ぎ、食器棚の中が定位置のお茶請けの焼き菓子を皿に乗せたもの、その全てをトレーに乗せて、御幸はキッチンからダイニングへと戻った。すみれの前にカップと皿を置き、自分は彼女の向かいの椅子に腰を下ろす。

ふたりでひとまず、紅茶に口をつけた。
今回のすみれの来訪は、彼女がそう口にしたように突然のことで。御幸はその目的が皆目見当がつかず、少し落ち着かない様子。それでも、彼ももう三十代半ばである。面には出さずに、ただすみれからの言葉を待った。

「年末の特番、可愛かったわねぇ」
「……見ましたか、あれ」
「当然見るわよー!やっぱり小さい子供はいいわよねぇ」

年末の特番、とは。
御幸の旧友であり、現在米国で活躍中のメジャーリーガー成宮鳴の頼みによって渋々御幸と彼の息子が出演した(勿論、成宮の愛娘がメイン出演、更には御幸の後輩で現プロ野球選手、沢村栄純の息子も友情出演した)子供の初めてのおつかいを扱った番組のことである。ロケ自体はオフシーズンに突入したばかりの十一月に敢行され、その放送がつい先日あり、それをすみれが見た、という話だ。
番組の感想として、もうひとり欲しくなっちゃった、なんて。冗談か本気かわからないことを言うすみれである。御幸はなんと返せばいいかわからず誤魔化すように、ははは、と笑った。

「もう可愛いお嬢さんがふたりいるじゃないですか」
「可愛いって言ったって、弥生は十六歳で、葉月だって十三歳よぉ」
「……色々と、お噂は兼ねがね」
「あら、どんな噂?」

少女のように目を輝かせて、御幸に尋ねるすみれ。これもまた冗談なのか本気なのか判断がつかない。青道高校野球部OBの間では監督の愛娘たちふたりの噂は常に話のネタ。卒業して十年以上経つ御幸の耳にすら、その話題が入ってくる程なのだ。それほどまでに、若い娘ふたりは、とにかく強烈だった。特にーー長女の弥生に関して。

「弥生ちゃんは相変わらず奥村にべったりで、葉月ちゃんは降谷推し」
「そうそう!もう鉄心くんが困ってるのよ。葉月に関しては、ほら、降谷くんも結婚してアメリカに行っちゃったでしょ?だから本気ってわけじゃないんだけど。弥生がねぇ…」
「奥村も相変わらず独身貴族ですからね」

そう言う御幸の脳裏に浮かぶのは、自身より二歳年下の後輩。現在、母校で社会科教諭を務めながら野球部のコーチという二足の草鞋を履く奥村光舟の姿であった。
弥生はそれこそ幼い頃から、ちょっとどうかしてるぐらい奥村一筋で、歳を重ねるごとにその熱烈アピールは加速していた。そして今年の春、彼女は青道高校に入学し当然のことながら野球部のマネージャーになったのである。普段の様子は御幸の知るところではないが、なんとなく監督の頭を抱える姿が目に浮かぶ、と紅茶を飲みながら息を吐いた。

「それでね」

すみれはふっと声のトーンを落として、御幸を見つめた。普段の明るい雰囲気が、少しばかりなりを潜めて真面目な様子。御幸は思わず身構える。……ここからが、今回の来訪の本題なのだろう。

「御幸くんは十六年前の少し不思議な出来事を覚えてる?」

ーー十六年前。
今年、三十四歳になった御幸一也が、高校三年生だった年の話。今までの話の流れから、思いつくのはひとつだけだ。

「……弥生ちゃんと葉月ちゃんを名乗るふたりが、十六歳と三歳の姿で俺たちの前に姿を現したことなら」
「まさしく!」

すみれは御幸の答えに、正解だと言うように人差し指を立てた。そんな彼女の様子に御幸は苦笑い。今思い出しても、不思議な一日だった。それが起こったのは夏合宿前の、なんでもない平日のこと。部員たちが朝練の為にグラウンドへとぞろぞろ集まった際、迷子の幼女を発見した。自分の名前も言えないほどの幼さだったその女の子はやってきた片岡監督のことを「ぱぱ」と呼び、くっついて離れなかったので御幸たち部員は随分度肝を抜かれたのを覚えている。勿論監督も困っていた。そんな困惑した片岡はそのまま朝練を主将の御幸に任せて幼女を連れて監督室へと戻っていったのだが、警察に連絡している一瞬の隙に幼女は消えてしまったという怪異。そしてその後、午後の練習に突然嵐のような勢いで姿を現したのは、青道高校の制服を来た少女。彼女は自分を「弥生」と名乗り、そして午前中にふらりと姿を消した幼女を伴っていた。幼女は自分の妹で「葉月」と紹介したのを御幸は今でも覚えている。彼はあの場にいたのだ。
思い出に色濃く残る「弥生」はとにかく強烈だった。当時一年生だった奥村のことを「奥村コーチ」と呼び、べったりくっついて離れない。そして、沢村のことは「栄純さん」、降谷のことは「暁さん」、そして御幸のことは「みゆかず」と呼んだ弥生。…それは奇しくも、目の前に座るすみれの娘の弥生が、今御幸達を呼ぶ呼び名で…。

「……あれって、やっぱり弥生ちゃんたち本人だったんですか?」

御幸は半信半疑で尋ねれば、すみれは真面目な顔をして顎を引いた。

「そうみたい。弥生がそういう夢を見たって言ってたから」
「夢…」
「葉月は多分、三歳の時にそれを見てるのよ。だからよく覚えてないみたい。まあ、これはあくまで仮説なんだけどねぇ」

すみれは相変わらず鈴を転がすような声音で語る。御幸はそれに対して、結局なにを言いたいのだろう、と内心首を捻っていた。なんとなく本題が見えない。そんな彼の疑問に答えるように、彼女はゆっくりと口を開いた。

「それでね、この間の特番を見た弥生が思い出したことがあるって教えてくれたの。弥生はね、十六年前の青道のグラウンドに行く前に…大きな駅のプラットホームに居たんですって」
「…駅……」
「そうなのよ。真っ白くて光に包まれた不思議な駅舎。そしてそこにいた優しい女の人に此処が『未来でも過去でもない時の狭間』だって教えてもらったらしいの」
「………」
「その人が、成宮君の奥さんに似てたって。ほら、番組にチラッと映ってたでしょ、紗南さん」

紗南とはーーすみれが言ったように成宮鳴の妻の名前だ。そして御幸の幼馴染でもある。その名前を聞いた瞬間、御幸は言葉に詰まった。
少し不思議な出来事、未来でも過去でもない時の狭間、駅のプラットホーム。ぐるぐると彼の頭の中を駆け巡る単語たち。浅くなる呼吸に、御幸は平静を保とうと何度か深呼吸を繰り返した。
……七年前、成宮紗南が『記憶喪失』になったというのは彼女に関わったことがある人物であれば既に承知の事実だ。すみれは紗南との直接的な接点はなかったけれど、紗南が以前青道で吹奏楽部の外部講師をしていた縁もあり、夫である片岡や高島を通じて知っているのかもしれない。だがその事実の『本質』を彼女が理解しているかどうかは、御幸には判断がつかなかった。
だがすみれは、面白半分でその話題を引っ張り出す人でもない。まだ彼女の話には続きがあるのだ。御幸は確信していた。そしてそれは、勿論正解だった。

「弥生は、紗南さんだけじゃなくてね。一晟くんもその場所に居たって言うの。テレビをみて一晟くんの姿を見て随分驚いてたわ。あの時の子だ!って」

一晟は御幸の息子の名前だ。すみれの言葉はまだ続く。

「そして、一晟くんの横には御幸くんの奥さんの旭さんも居たって。旭さんは今より随分若くて青道の制服を着てたらしいんだけど、……ふたりで駅のプラットホームのベンチに座って仲良くお話してた姿を見たって」
「………」
「……ねぇ、御幸くん。これは、あくまで私の仮説なんだけど」

すみれは、そこで言葉を聞いて、改めて御幸の顔をジッと見つめた。穏やかな瞳が御幸を射抜く。

「弥生が見かけたのは、一晟くんじゃなくて、もしかしたら御幸くん本人だったんじゃないかしら」

彼女の口振りはまるで推理小説に出てくる探偵の語り口調だった。さすが作家なだけはある。そんな風に御幸は内心唸った。けれどすみれの仮説が事実である根拠がない。一晟に確認すれば早いが、彼は今留守である。確かめる術がない。それを指摘すれば、彼女は悪戯っ子のような笑顔を浮かべて紅茶を一口飲み、それからまた口を開いた。

「作家の勘よぉ、根拠はないわ。だってその方が面白いじゃない」

……そうだった。この人もまた、弥生に似て(というより、弥生がすみれに似ているのだ)破天荒で、直感を信じて突き進むタイプの人間だった。御幸は頭を抱える。面白い、で持ってくる話ではないだろう、というのが本音だったが……しかし、スルーするわけにもいかない。すみれはきっと御幸から『答え』を聞くまで、帰らないだろう。
騒めく気持ちを落ち着かせようと、御幸もまた一口、紅茶を飲んだ。もはやお手上げ。観念するかのように肩を竦める。

「……あくまで、俺は…自分が経験したことしか言えませんし、鳴たちが経験したような波瀾万丈な話じゃないですけど」

それでもいいですか、と。これは最終確認。そんな御幸の問いに、すみれはゆっくりと頷く。その瞳は少女のように爛々と輝き、これから話すであろう彼の話に胸を躍らせていることが手にとるようにわかった。

誰にも、話すつもりはなかった御幸自身が体験した不思議な話。知っているのは、自分と、彼の妻である旭だけ。ふたりの秘密だと……これが自分たちの『絆』なのだと。確かめ合った昔、昔の物語。
それを御幸が語る気になったのは、やはりーー紗南の名前がすみれの口から紡がれたから。

『あそこ』には二十七歳の紗南が居たのだ、と。今更思い知らされたから。
未来でも過去でもない時の狭間。
……きっと、彼女は『今』も『其処』にいるんだろう。
そんな確信めいた考えに、御幸は眉を下げる。

ここに妻の旭が居なくて良かったと思うのは、きっと話を聞けば彼女が泣いてしまうと御幸は理解していたからだ。

「……俺が、五歳の時に、母親は死にました」

そんな語りから始まるーーーこれは、御幸一也と立花旭が歩んできた、不離一体の愛の物語である。