プロローグU


物心ついた時の『最初の記憶』と言うのは、確かに自分の中にあったはずなのに、歳を重ねるごとにまるで掌からさらさらと崩れ落ちる砂上のように消えてしまう。とてつもなく脆く儚い。

御幸一也にとっての『最初の記憶』ーー掌に残っているそれはーー『白と黒』だった。

棚引く布。線香の匂い。次々とやってくる人々に頭を下げる寡黙な父親の姿。箱の中に眠った母親の姿。鮮明に覚えているのは、やはりそれが幼い御幸一也にとって衝撃的な出来事だったからだろう。
御幸が五歳になる年に、彼の母親が死んだ。
病気が発覚してあっという間の出来事だったらしい。その話は……あまりその当時のことを語らない父親からではなく、ある程度時が経ってから近所に住む幼馴染の母親が教えてくれたことだった。美人薄明。御幸の母を知る人たちはみんなそんな言葉を口にした。それほどまでに美しい人だったのだ。確かに御幸の朧げな記憶の中、穏やかに微笑む母親は美しかった。



母を亡くしたばかりの御幸が『その場所』で目覚めた時。辺り一面の白さに驚いたがーー微かに光り輝く輪郭が、其処が広く大きな駅舎であることを彼に知らせた。円形のホール。四方にプラットホームがあり、其処には古めかしい蒸気機関車が停車している。男の子らしくそれなりに電車に興味があった当時の御幸は心を躍らせていたのだが、此処が現実でないことはなんとなく本能で理解していた。これは『夢』なのだ。幼いながら、御幸はそう思った。
そんな『夢』の駅舎には、御幸以外にもたくさんの人がいた。ホームのベンチに座って機関車を眺めている人。忙しなくホームに急ぐ人。悩むようにぐるぐると歩き回る人。その人々を眺めていた彼を突然、

「御幸…?」

と呼んだのは、知らない大人の女性だった。

御幸は声がした方に振り返る。見上げた顔は、やはり知らない人だ。でもなんとなく懐かしい気もする。彼女は御幸の母親の葬儀の間、ずっと自分の傍にいてくれた大人に似ていた。
そんな見知らぬ女は、御幸の背に合わせるようにしゃがみ込んだ。視線の高さが同じになる。
緩くウェーブが巻かれた長い髪。お化粧をした顔。ほんのりと引かれた口紅。彼女は少しばかり狼狽えているのかーーその唇は小さく震えていた。

「……あなた、いま、何歳?」
「五歳」
「そう……どうしてここにいるか理解る?」

彼女の問いに、御幸は静かに首を横に振った。気付いたら此処にいたという言葉でしか今の状況を説明出来なかったからだ。理由はわからない。
覚えているのは、母親の葬儀で泣き疲れて、火葬場で骨になったその姿を見て、酷く胸が痛んだことだった。言葉にするなら絶望。最後に覚えている景色は、火葬場から葬儀会場の寺に戻るために乗せられたバスから見た車窓の風景。うつらうつらと船を漕いでいるうちに、気づけば彼は此処にいたのだ。

「……お母さん、死んじゃったの…?」

どうして目の前の彼女はそれを知っているんだろう。御幸は女の言葉を聞いた途端、目にいっぱいの涙を溜めて、頷いていた。その途端、彼女は小さな御幸の身体を抱きしめる。柔らかい身体が彼を包み込み、鼻腔を陽だまりのような匂いが擽った。花の匂いのする人。御幸は、心の中でそんな言葉を呟いた。
どれぐらいそうしていただろう。
彼女の身体がゆっくりと離れたとき、穏やかな瞳と目があった。やはりそれを見て既視感に襲われる。知らない人なのに、知っている。不思議な感覚だった。

「御幸は、こんな小さい時に、『此処』に来てたんだね。……知ってたら、なにか変わってたかなぁ」

その言葉は御幸に、というより彼女が自分自身に問い掛けているようなそれで。なかなか要領を得ず、幼い御幸はきょとんとした顔で首を傾げた。

「でも今……なんとなく理解ったよ。……私、ずっと疑問だったの。なんで旭だったんだろうって。そりゃあ、御幸と旭の波長はなんとなく似てるけど。それでも不思議だった。……だけど、今なら理解るよ。きっと、此処がふたりの『はじまり』だったんだね。おいで、御幸。会わせたい人がいるの」

彼女はそう言って、御幸の小さな手をとった。優しくギュッと握りしめて、彼を先導するように歩いていく。人の波を掻き分けるように、彼女は御幸を連れ立って歩いた。
さっき彼女が話した殆どの内容を、御幸は理解出来なかったけれど、今から彼女が自分と誰かを引き合わせるということだけはわかったものだから、彼の心臓が刻む鼓動は少しばかり早くなる。不安。それでも繋いだ手は暖かく、不思議な安心感があった。

「…俺、オネーサンと、どっかで会ったことある…?」

御幸は気づけば一文字にギュッと結んでいた口を開いて彼女に問うていた。彼女は、その言葉に、ふと歩みを止めて振り返り、もう一度御幸を見下ろす。先程は突然のことでまじまじと彼女の姿を観察出来なかった御幸だけれど、今度はしっかりと女の姿を見た。
グレーのタートルネックに、黒いレースのスカート。薄くて黒いストッキングを履いた脚は靴を履いてなかった。御幸自身の格好は、葬儀の時に着ていた白いポロシャツに七分丈のスラックス風のズボンだったのでーー多分、それぞれがこの『夢』を見た時の格好なのかもしれない、と幼いながらにそんな風に考える。

「うん、ずっと御幸の傍にいたよ」

彼女は何故だか泣きそうな声で、そう言った。

「俺の、そば…?」
「うん、そうだよ。ずっと居たの」

どうしてだろう。御幸も泣きそうだった。彼女の顔を見ていると不意に自分の幼馴染の顔が思い浮かんだのだ。一ノ瀬紗南。家が近所で、幼稚園では同じ青組。人見知りなのか大人の前ではいつも緊張した面持ちなのに、御幸を含め友達同士で遊ぶ時は笑顔いっぱいの可愛い女の子。ピアノが得意な女の子。目の前の女の人はそんな紗南を連想させた。似てないのに、そう思った。

「……紗南ちゃんに、似てる」

だから御幸は、思わず呟いていたのだ。
その言葉に、彼女はただ微笑むばかりでなにも言わなかった。


それから女は、御幸の手を引いて数あるプラットホームのうちひとつに足を踏み入れた。果てしなく続くホーム。ベンチが等間隔に並んでいる。両サイドに停車している汽車に乗り込んでいる人物もいれば、ただ佇んでいる人もいる。蒸気機関車の白い煙が辺りを揺蕩いーー幻想的であり、不気味であり、不思議だった。

「ここは何処…?」

汽車に乗れば何処かに行けるんだろうか。そんなことを考えて呟いた言葉だった。

「ここはね、『未来でも過去でもない時間の狭間』。世界に絶望した人だけが、来れる場所なの」
「…絶望?」
「五歳には難しいよね。それにこの場所に理屈なんてないし、…まあ、あんまり深く考えない方がいいよ」

悲しいことを経験した人が休憩する場所だよ、と。彼女は御幸が理解できそうな言葉で説明し直した。それでも彼女の語ったことが難しかったのは否定できない。御幸はこの場所が目覚めたばかりだ。状況を把握しきれていない。でも女性はこの世界の仕組みを全部理解しているような口ぶりだった。御幸はやはり首を傾げる。

「なんでそんなに詳しいの?オネーサンはずっとここにいるの?」
「……うん、そうだよ」
「……寂しくない……?俺もずっと…ここにいなくちゃ、いけないのかな……」

母親が亡くなって、御幸が大きな悲しみを抱いたのは確かだった。目の前の彼女は、本人が望むならずっとこの場所にいられるような口ぶり。だけどその時御幸の脳裏に思い浮かんだのは、父親の姿で。自分まで居なくなってしまったらきっと父親が悲しむ。そう思ったのだ。それを女性に伝えれば、彼女はやっぱり優しく微笑む。

「大丈夫、御幸はきっと戻れるよ」

力強いーー確信めいた言葉。そして彼女は「だけど、その前に」と言葉を続けた。

「あそこのベンチに座ってる女の子と、ちょっとお話してみて」
「……え?」
「きっと仲良くなれると思う」

彼女がそう言って、指さしたその先に。真っ白いベンチに腰掛けたーー制服を着た少女の姿があった。黒髪が艶々と美しく、真っ白い空間にぽっかりと浮いている。御幸がそんな彼女の姿を認識した瞬間、ここまで彼を連れてきた女の掌がゆっくりと離れた。

「行っておいで」
「……オネーサンは?」
「私はここまで。私の仕事はね、ここで迷ってる子たちを助けてあげることだから」
「子供が好きなの?」

御幸の純粋な問いかけに、女は言葉を詰まらせる。暫く考えを巡らせるように黙り込みーーゆっくりとその唇を開いた。

「…うん。昔は苦手だったけど。いまは好き。お母さんになりたいってそう思ってる」
「……お母さん……」
「……御幸が私にそう望んだように、ね」

彼女が御幸の顔をジッと見つめそんな言葉を呟いてその瞳が揺れたその時、「ここ何処ー!?えっ、なんで葉月がこんなにちっちゃくなってるの!?」と大騒ぎする声が先ほどまでふたりが居た場所から聞こえてきた。その途端、女はくるりと踵を返して、御幸に背を向ける。

「もう行かなくちゃ。私がふたりを引き合わせたなんて、不思議だけど……とっても光栄だよ。これもきっと運命だったんだね。バイバイ、御幸!元気でね!」

やっぱりよくわからない言葉を彼女は言い残して、そしてどんどん小さくなっていく背中。御幸は何度も何度も瞬きしたくなる気持ちを我慢して、人ごみに消えていくその姿を小さくなるまで見つめていた。

「……不思議な人だったな」

なんて呟いて、そんな不思議な女が最後に言い残した『お願い』を実行するために足を一歩前に踏み出した。葬儀用に父親が用意してくれた革靴で、タイル張りの床を歩く。硬くて、冷たい感触。だけどそれは次第とーー少女が座るベンチに近づく度に柔らかく暖かくなっていた。そうして気づけば、周囲の風景はさっきまでの真っ白い駅舎ではなくなっていて、上空に広がるのは春の青空。……どうして御幸が、春だと理解したのか。それは、ぶわりと風が吹いて彼の視界一面に土手に咲いていた桜が舞ったからだ。

彼が立っていた場所は、河川敷の土手の上だった。茶色い土に、緑色の雑草が生い茂る。ところどころに黄色い花。春の色だ。足元に流れる大きな川。荒川みたいだな、と思った。こういうのを心象風景と呼ぶというのをーー御幸が知ったのは、それから随分後のことだったけれど、彼がこの瞬間立っていたのは間違いなくそれだったのだろう。
そんな風に景色は様変わりしたけれど、目指して歩いたベンチはちっとも変化していなかった。そこに座る少女も。

「……あの」

御幸は勇気を出して、話しかけた。
そうしろ、とあの不思議の女性が言ったから。だから口を開いた。
少女が御幸の声に気づいて、俯いていた顔を上げる。そして御幸の方へと首を動かした。

「……誰…?」
「……御幸、一也」
「…一也くん…」

御幸の名前を確かめるように呟いた少女の瞳が、御幸をジッと見つめる。切長の目尻に黒曜石のような瞳。それを縁取るのは豊かな睫毛。一目見て美人だと、五歳の御幸でもそう思った。
御幸が見惚れた少女が、ゆっくりとその柔らかそうな唇を開く。

「私は…」
「………」
「私は、立花旭。……よろしくね、一也くん」

その瞬間。
また風が吹いた。
桜吹雪が、ふたりを包み込む。
まるで、ふたりの出会いを祝福するように。

ーーそれが、御幸一也 五歳 と立花旭 十五歳の『最初』の出会いだった。