引き合うさびしさの引力


どうして私、こんなところにいるんだろう。


それはここ一年、ずっと私の心の中に巣食う言葉だった。問いかけるのは自分自身。そしてその答えもまた…結局、自分しかもっていない。私にしか答えられない。


嗚呼、そうだ。お母さんが私を要らないって、そう言ったから、私はここにいるんだ。


ナイフのような鋭利な自分の言葉で、柔らかい自分の心臓を傷つけて胸の痛みで目を覚ました。頭が痛い。カーテンの隙間から差す朝日に意識は覚醒していくけれど、身体は動かなかった。ぼんやりとしばらくベッドの上で過ごしてーーふっと、思考が私に思い出させる。ついさっき、こうして朝を迎えるまで、長い『夢』を見ていた気がする。あれはなんだったんだろう。そんな言葉が浮かんだ、その時。

「旭、そろそろ起きなさい」

部屋の扉をノックする音に、慌てて身体を起こした。ドアが開いて、お父さんが私の部屋に顔を出す。そして私の姿を見て、僅かに目を見開き、それから顔を顰めた。

「制服のまま寝てたのか?」
「……そう、みたい…」
「よっぽど入学式が楽しみだったんだな」

呆れたような、ホッとしたような言葉。私は曖昧に微笑む。そういうわけではないけれど、説明するのが面倒くさかった。だってまさか私がお母さんに内緒で会いに行っていたなんて知ったら……お父さんはきっと怒るに違いない。その姿がありありと目に浮かぶ。だから口を噤んだ。余計なことは言わない方がいい。それは、ここ数年両親の泥沼の離婚劇に翻弄され続けた私が唯一学んだこと。

「朝食、もうすぐ出来るから起きなさい」
「……はい」

もう一度促されて、私はベッドからノロノロと起き上がって、リビングへと戻るお父さんの背を追うように部屋を出た。真新しい3LDKのマンション。親子ふたり暮らしには広すぎるくらいだ。ダイニングキッチンとひと続きのリビング、お父さんの書斎と私の部屋、残りの一部屋は物置部屋。リビングと接するバルコニーは広くて、ガーデニングでもすればきっと華やかになるんだろうけれど、ワーカホリックのお父さんはそんな時間を持ち合わせていないし……私も今はそんなことに取り組む気力がなくて、結局其処は寒々しいままだ。まるで私の心をそのまま表しているみたい。なにもなくて寂しくてつまらない存在。そんなことを毎朝ーーダイニングで朝食を摂るたびにリビング越しに殺風景なバルコニーを見てーー考えていた。

「いい朝だな」
「…そうだね」
「入学式日和だ」

ダイニングテーブルの椅子に腰かけたタイミングで耳に届いたお父さんの言葉に、頷く。確かにいい天気だ。窓に差し込む穏やかな春の日差し。お父さんは相変わらず感情の機微が分かりにくいけれど、それでも嬉しそうだった。だったら入学式ぐらい来てくれればいいのに。お母さんなら絶対来てくれた。ふっと心に浮かび上がる言葉に、ハッとして、瞬時に否定するように頭を振った。じんわりと視界に浮かび上がる涙を耐えて、お父さんに気づかれないように唇を噛む。泣いちゃ駄目。自分に強く言い聞かせた。幸いお父さんは、朝食の準備の為にキッチンに立ち私に背を向けている。

(…別のこと、考えよう…)

頭を振って、考えるのは、目が覚めるまで私が確かに存在していた『夢』の世界のこと。
元来、夢とはひどく朧であるはずで、いつも自分が見るそれは確かにそうなのにーー今日見た『夢』は妙にリアルだった。真っ白な世界。駅のプラットホーム。気づけば、私はぼんやりと突っ立っていたのだ。昨日、お母さんに見せに行くために着た青道高校の制服。それを着たまま、私はそこに立っていた。

目の前には古めかしい蒸気機関車が停車していて、ホームには等間隔にベンチが並んでいて……異世界という言葉がよく似合う、そんな不思議な場所だった。
そうして『其処』で突っ立っていたら…突然、声を掛けられたのだ。女の人だった。大人の、女性。彼女は自分の名前を知っていた。戸惑いがちに「旭…?」と呼びかけられ、そして振り向いた途端に、抱きしめられていた。それからどうしたっけ。記憶を手繰り寄せる。どうしてここにいるのって聞かれて、わからなかったから首を振ったら、女の人は泣きそうな顔をして……とりあえず座って待ってて。旭がどうやったら戻れるのか聞いてくる、って言ったのだ。そうしてすぐ近くに設置されたベンチに座るように言われて、私はその言葉に従った。目の前には立派な蒸気機関車。それをただぼんやりと見ていた。気付いたら案内してくれた彼女は居なくなっていてーーそして、そのあとすぐに、小さな男の子が来て……


ーーここは世界にゼツボーした人が、来れる場所なんだって
ーー……絶望?
ーーうん、さっき、不思議なオネーサンが教えてくれた
ーーそう、なんだ
ーー旭ちゃんもゼツボーしたの?
ーー……うん、……そうだね。


私の隣に座った小さな男の子。年は五歳だって言ってた。その子の口から『ゼツボー』って言葉が出て、とても驚いたのを覚えている。だってさっきまで見ていた夢の話だ。忘れるわけない。ありありと覚えている。それに感覚が妙にリアルだった。彼は足をブラブラさせながら、私の顔を見上げて、そして言ったのだ。


ーー俺たち、一緒だね。お母さんが居なくなって、悲しくて、『ゼツボー』して…。……だから、きっとここに来たんだよ。
ーーうん
ーーでも、さっきね。オネーサンが、俺は戻れるって言ってた。だから、きっと旭ちゃんも、戻れるよ。
ーー戻っても、…お母さんは居ないのに…、それでも戻りたいって、思う…?
ーー……思う。だって、お父さんが、いるから。俺まで居なくなっちゃったら、お父さんが、きっと悲しむ。


その言葉に私はハッとしたのだ。そして気づいた。戻らなきゃいけない。私にもお父さんがいる。ひとりではなんにも出来ない空っぽの人形みたいな私を、お母さんが要らないって言った私を、選んでくれたお父さんが、いる。


ーーありがとう、一也くん


私は、愚かな私に気づきを与えてくれた五歳の小さな男の子ーー『一也くん』に、そう言って微笑んだ。一也くんは、その目をまん丸にしてから……恥ずかしそうな表情を浮かべて、そして俯く。


ーー俺が旭ちゃんの傍にいたら、ずっと守ってあげられるのになぁ


泣きそうな声が今でも耳の奥に残っていた。きっとそれは彼が、お母さんに、してあげたかったことなんだろうなって理解したから、私も泣きそうになった。悲しくて寂しくて、でも小さな一也くんと話をして近しい境遇に、少し安堵してーーそれからたくさんお話した後、心が落ち着いた私は、戻りたい、って。戻らなくちゃって、思ったその瞬間。
私はベッドの上で自室の天井を見上げて(どうしてここにいるんだろう)って思っていたのだ。意識が覚醒した途端に昨日のことを思い出して、胸を痛めて。……また、『絶望』したらあの世界に行けるんだろうか。あの小さな一也くんに会えるんだろうか。そんなことを考えているうちに、すっかり涙は引っ込んでしまっていた。

「旭」

そうしてタイミングよく、お父さんが口を開いて私の名前を呼んだものだから、それまでの思案はそこで途切れた。顔を上げたら、いつのまにかお父さんがリビングテーブルの向かいに座っていたことに気づく。

「食べなさい」
「……あ、」

お父さんの指が指したのは、私の目の前に置かれた朝食だった。トーストにいちごジャム。牛乳。考えている間に用意されていたらしい。私は、すぐにそれらに手を伸ばし、口に含み、咀嚼する。しばらく会話はなかった。お父さんは食事の時にテレビをつけない。ゆったりとした沈黙の中、お互いに食事を進める。

「夕飯は何が食べたい?」
「………」
「旭」
「……お父さんは、何が食べたい…?」
「………」

お父さんは私のその問いに、小さく溜息を吐いた。そしてテーブルを指でトントンと叩く。それは物事を考えている時のお父さんの癖。その瞬間、私の心臓は馬鹿みたいにギュッと小さく縮こまった。

「旭が食べたいものを考えなさい。これも練習だよ」
「……うん」

……ここ数日、ずっとこの繰り返しだ。朝食を食べている時に夕食で食べたいものを聞かれ、夕食を食べている時に翌日の朝食のことを聞かれる。昨日の夕食時、私はその質問に「パン」と答えたから、今こうして目の前にそれらが並んでいるんだろうけれどーーでもこうしていざ目の前にすると、和食が良かったな、と思った。勿論言わなかったけれど。

食事ぐらい、誰かの言いなりになっていたかった。それは間違いなく私の本音だ。だけどお父さんはそれを許さない。……私の将来のことを心配している。友達もいなくて、今まで生まれ育った街を離れて東京に引っ越して、そしてこれから高校生活を始める私のことを、お父さんは心から心配していた。それを理解してるからこそ、私はあの『夢』から戻りたいって思ったのにーーやっぱり現実はなかなかうまくいかない。心臓が嫌な音を立てて、身体中から冷や汗を感じ、指先が冷たくなる感覚。浅くなる呼吸を整えるように、何度か息を吐いた。お父さんはそんな私の様子に気づいているのか、いないのか。

「高校に行ったら、これからたくさんの選択を自分自身でしていかなくてはいけなくなるだろう?」
「……うん…わかってる…大丈夫…、頑張る」

そんなもっともな言葉が私の前に並べ立てられる。話を切り上げたくて、肯定して頷いて、決意を著したけれど。本当はどうでも良かった。

『選ぶ』のは、苦手だ。
だって『正解』を持ってるお母さんはもういない。

その事実が覆ることはないということを、私は知っていた。知っていたけれど認めることは出来なかった。だからこうして、いつまでもいつまでも、俯くばかりで、前を向いて歩けないのだ。

「それで、夕飯は何が食べたい?」
「……ハンバーグ」

お父さんの問いに、私は考える素振りを見せてから小さく口を開いた。どうやらそれで満足したらしい。作ってくれるのだろうか。でも仕事が忙しいからきっと出来合いだろうな。だって入学式にも来れない。心の中でだけ、いつも私は饒舌だった。きっとお父さんはそれを知らないだろう。その事実も、ハンバーグという単語の前に、お母さんの、という冠詞がつくことも。

皿の上に残るパンを平らげる為に口を懸命に動かしながら、私は結局堂々巡り。やっぱり、お母さんのこと、お父さんのこと、私たち家族のこれまでのこと。そんなことばかり考えていた。



朝食を食べ終えた後、身支度を整えて、仕事に向かうお父さんと共に家を出た。肩に掛けるのは真新しいスクールバッグ。お父さんは車で職場の病院へ。私は自宅最寄りの八王子駅まで徒歩で。
…お父さんのこういう部分は昔から変わることはない。個人主義だし、同じ方面なんだからついでに娘を送っていくという考え方がないんだろう。そういう役目をずっと追ってこなかったから仕方がない。私の自立の為に、っていう思いもあるのかもしれない。

青道高校高校の最寄り駅まで、快速に乗って五駅。朝の通勤ラッシュの時間を少し過ぎた時間だからか…超満員というわけではなかったけれど、それでも混んでいる車内。流石東京だなって、高校生活初日に洗練を受ける。混み合う電車の中で二十分、なんとかやり過ごした。西国分寺駅で降りて、改札を通る。こっちに越してくるタイミングで買ってもらった携帯電話を鞄の中から取り出して、待ち合わせ相手に連絡をとろうとしたその時だった。

「旭ちゃん!」
「…あ、百合香さん、おはようございます」

どうやら相手は既に到着していたらしい。後ろから声を掛けられて、振り返れば見知った姿。ホッと息を吐いて、安堵した。

「おはよう、いい朝ね。まさに入学式日和」
「はい」

朝、聞いたばかりの言葉と同じで、私は思わずクスッと笑みを漏らしてしまう。
立花百合香さん。
お父さんの歳の離れた妹で、私の叔母さん。
百合香さんは入学式の付き添い役らしくスーツに身を包み、真新しい制服を着た私を見てニコニコと笑っている。叔母と姪っ子いう関係性ながらこれまであまり交流のなかった百合香さんだったけれど、私がお父さんと東京に引っ越してきてからはよく会っていた。彼女は私よりもひとまわり年上で、既に結婚適齢期と呼ばれる歳だったけれど、広告代理店の仕事に邁進しーー浮いた話がひとつもないらしい。自分の家庭を持たない代わりに自分を可愛がってくれてるのかもしれない。なんとなくそんな風に分析していた。『正解』かどうかは…わからないけど。

「それにしても旭ちゃんも、もう高校生か。早いなぁ」

高校までの道を歩きながら、百合香さんはしみじみといった様子。私は改めてその事実に頬を掻く。きっと彼女の中で私はいつまでも小さな子供の姿だったに違いない。

「それにしても、どうして青道にしたの?新しい家からわりと近いし通いやすいから?」
「…それもありますけど、陸上部が強いので…」
「そっか。陸上、続けるんだね」
「はい」

頷いてから、また胸が軋む。多分百合香さんもそれをなんとなく察してくれたんだろう。それきり、その話題は彼女の口からも私の口からも出ることはなかった。

青道高校の校門前には、既にたくさんの生徒の姿があった。百合香さんみたいに寄り添う保護者の姿も。特に人だかりが多いのは、『入学式』と大きく書かれた看板の前。順番に記念撮影している。そんな周囲の様子を見て、百合香さんは私に「一緒に写真撮る?」と尋ねた。

「………」
「……あー、ごめんね。私は一緒に写真撮りたいんだけど、どうかな?」
「…はい、大丈夫です。撮ります」

百合香さんは、言葉に詰まった私の様子に、眉を下げる。それから改めて、問い直してくれた。だからさっきまで頭の中にぐるぐると巡っていた言葉は直ぐに消え去って、クリアになる。今度こそ、私は頷いた。百合香さんはお父さんみたいに無理強いしない。それが今は有難かった。

「すいません、写真撮っていただきたいんですけど、大丈夫ですか?」
「いいですよ」

そうこうしているうちに、百合香さんは近くにいた保護者の男性に声を掛ける。快く引き受けてくれたスーツ姿の彼にデジタルカメラを渡して、それから私の手を取り、入学式の看板の前に並んで立った。

「撮りますね〜、はい、チーズ!」

優しそうな風貌そのままに、穏やかな雰囲気の声。私は僅かに口角を上げた。他人からみたらきっと仏頂面だ。笑うのは苦手。そんな私に比べて、百合香さんはうんと上手に笑ってるに違いない。そうこうしているうちに「オッケーです!」という言葉と共に、私たちのチグハグな写真撮影はものの数秒で終わった。

「ありがとうございます」

百合香さんはカメラを受け取ってそれを鞄に仕舞いこむ。私はその様子をぼんやりと眺めていた。
ーーその時。私の耳に、『その名前』が飛び込んできたのは……きっと、偶然。

「一也、私たちも一緒に写真撮ろう?」
「あー…うん。いいけど」
「やった。パパ、私たちの写真も撮って!」
「わかった、わかった。じゃあふたりとも並んで」

ーー『一也』。
思わず声のした方へと振り返った。その瞬間、風が吹く。目に飛び込んで来たのは私と同じ制服姿の男女。仲睦まじげな様子。さっき私たちの写真を撮ってくれた男の人を「パパ」と呼んだ女の子は、隣に立つ男の子の腕を引いて私たちと入れ違うように入学式の看板の元へ。

…どうしてだろう。なぜか目を離せなかった。私は『この人』を知っている気がする。桜が舞い散る視線の先、女の子と一緒に並んで写真を撮る男の姿が目に付いて離れない。そうして彼もまたーー私を見ている気がした。栗色の柔らかそうな髪の毛。端整な顔立ち。榛色の瞳が眼鏡越しにカメラをジッと見つめている。その視線は確かにレンズを捉えているはずなのに……すべてを通り越して、私を見ている。そんな気になった。

(きっと、気のせい)

「旭ちゃん、行こう」
「あっ、はい」

百合香さんに声を掛けられて、その言葉に従うように私はその場から離れた。そうだ。きっと気のせいだ。薄桃色が舞う穏やかなこの青空を知っているような気がするのも、あの男の子が『夢』で会った小さな『一也くん』に似ている気がするのも、……全部、気のせい。煩悩を振り払うように、頭を振った。

そんな私の背を、『一也』と呼ばれた男の子が、ただジッと見つめていたことなんて、勿論ーー知るはずもない。