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「……今日も変わりないね」
「どうしたもんかね……」
「気長に待つ…しかないのかな……」

 ビブルカードと電伝虫を前にエースとナマエは少々落胆する。ログポースも相変わらず指針がふらついていた。
 エースは自身の右手を見つめてグッと拳を握りこんでみるが…こちらも相変わらずだった。
 日に一度は確認しているが、状況に進展はない。

「んー……能力自体が消え失せちまった気はしねェんだ」
「そうなの?」
「腹の奥の方で燻ってる感じっつーか……」
「へえ」
「まだ"此処"にあるってのは確かだな……マァよく分からんが、そのうち元通りになるだろ」

 腹にトンと拳をぶつけ、あっけらかんと笑う。ナマエもつられて笑って頷いた。
 解決策が分からない以上、無闇に心配しすぎて気に病ませてもいけない。いまはただ、彼が安心して過ごせるようナマエは彼のそばにいてやるだけだ。

「散歩いく?」
「行く」

 二人はこうしてよく出掛けた。
 家はほっと息をつける場所で、無防備に腹を出して眠れる場所だったが、暇さえあれば昼でも夜でも、散歩と称して二人は家を空けた。
 当たり前だが、屋外の方が風が抜ける。それが気持ちよかったのだ。

「なんだここ」
「……エース、ここ立ってて。もうちょい後ろ…うん、そこ」
「? なんだよ」
「まあまあ……」

 昨日とは違う道を選んで進み、少し足を伸ばした先でのこと。
 わけも分からず指定された場所に立たされたエースは数秒大人しく待つが、痺れを切らして「なに」とナマエを振り返ったその時。

「〜っ!!?」

 ゴオッ! と巨大な音と風圧で電車が遮断機の内側、エースの目の前、数メートル先を通過する。
 猛スピードで駆け抜ける巨大で得体の知れない物体にエースは驚き、ビシ…! と肩をすくめた。電車が過ぎ去り、遮断機の音が止んで黄色と黒のシマ模様のバーがすーっと持ち上がる。
 辺りが静かになって人や車の往来が再開してもエースは「……」とその場に固まっていた。

「……っふふ、あはは、ごめんね。びっくりしたね」
「お、お前……! 言えよ!!」
「あははは、ひー…ふふ、あれはね電車だよ」
「デ。デンシャ……」
「えーと、海列車の陸バージョンって言ったら分かるかな」
「……エラいもんが走ってんだな」
「今度電車で遠出しようか」
「ひとで遊ぶな……」
「ごめんごめん」

 行こ、と背を押されて再び歩き出した。



 目に映るものの大半がエースには新しかったが、彼は順応していった。
 ナマエに教えてもらったことを素直に吸収し、交通ルールも覚えた。海の真ん中でも道に迷わないでいられるくらい優れた方向感覚をもつエースは、今では歩いて行ける距離なら一人で適当にぶらつけるようになった。
 そうなると行動範囲が広がる。できる暇つぶしが増える。朝から晩までナマエにくっついて回ることは減り、時間の使い方に幅が出た。

 身体を動かし足りないと感じていたエースは、手始めに走り込みと筋トレを始めた。
 早朝……は起きられないけれど、ナマエがバイトに行く日は同じ時間に彼も家を出る。海沿いの道を走り込み、近所の公園に設置された健康遊具で懸垂などの筋トレをした。
 そうして3日も通えば、日陰のベンチで外気浴をするおじいちゃんらに顔を覚えられた。

「毎日頑張ってるねえ」
「うお。……あ、こりゃどうもすみません」

 冷たいペットボトルのお茶を差し入れされ、会話が始まる。
 アッパレな体躯の若者は、話してみると礼儀正しく明朗快活。人懐っこい彼は、若者には珍しくどうやら将棋や囲碁の類ができるという。長い船旅、航海者であれば暇つぶしの娯楽ならなんでもござれなのだ。
 ならば一局やろうじゃないか、うちへ来い、茶菓子のひとつも出してやる……という具合でエースは近所のおじいちゃんちの縁側で将棋の相手をするようになった。
 エースの腕はなかなかであった。本に書かれた正攻法とは違う独特の戦法と思い切りのいい指し方、負けても「負けたァ」とさっぱり笑う気持ちのよさでご近所の老人らは軒並みエースを気に入った。
 い草の香りが豊かに満ちた畳のお茶の間で、おすすめの任侠映画や時代劇も見せてくれた。お昼をご馳走してくれたことも。

「そろそろ行くわ。ありがとうな」
「なんだ、もう少しいりゃいいじゃねえか」
「楽しかった。また公園で」
「最後に一局、」
「じゃあなー」

 しかしいくら引き留められても、飽きれば彼はスルリとお暇する。

 本当に猫のように気ままで、ふっと遠くを見つめる横顔が見惚れるほど格好良く、絵になる男だった。
 その横顔を見ていると、ここに居着くことはないんだな、と無意識的に分かる。

 次の風が吹けばどこかへ行ってしまう。
 潮の香りが染み込んだ、そんな男なのだ。


***


 エースは一生懸命テレビを見ていた。
 金曜ロードショーである。今日はアメコミ映画シリーズのひと作品であった。最初は酒を片手に「ふーん」といった感じで見ていた彼も、話が進むにつれて前のめりになっていった。
 主人公のおじが残した名言にわかりやすく胸を打たれているのが横顔から伺えて、ナマエは映画より彼の姿の方がよほど興味深く面白かった。
 だから映画が終わったタイミングで「続編あるよ」と教えてあげると、エースは太字の赤いビックリマークをふたつ頭の上にピコン! と出して勢いよく振り返った。

「見る?」
「見る!」
「ふふ」

 ワ! と顔の周りに小さな花を散らし、エースはベッドに腰掛けたナマエのそばへニコニコやってくる。スマホで定額制の動画配信サービスのアプリを立ち上げて作品名を検索。
 エースはベッドの上にあがり、スマホを操作している彼女を後ろから抱えるようにくっついた。脚の間に彼女を挟んで、肩に顎を乗せて画面を覗き込む。

「これ、映画も見られるのか」
「見られるよー。使い方覚える? 調べ物とか便利よ。こっちのことで分からないこと、まだまだあるでしょ」
「触っていいのか? 壊れたりしねェ?」
「そうね……精密機器だから慎重に扱わないと中の基盤が壊れちゃうかも……」
「……」
「嘘です。高いとこから落としたり水没しない限りそうそう壊れないよ。安心して触ってね。ハイ」
「お、おう……」

 エースは後ろから回していた両手を慌ててお椀の形にし、渡されたスマホを見つめてしばし黙る。

「……お前、なんか意地悪になったな?」
「エースの反応が可愛くて、つい」
「可愛いなんて言われても男は嬉しくねェんだよ」
「んと、映画検索する、待ってね」
「聞けよ」
「出た出た。これ、画面タップして」
「この女、マジで話聞かねェな……」
「指で軽く触るの、そう、上手上手」

 好いた女がふわふわ笑ってるのは嬉しかったから、エースは拗ねたフリだけして放っておいた。ナマエが指差したタイトルを節くれだった指でなるべく優しくタップする。同名のタイトルの最後に2とついており、確かに見たいと思った続編だったが。
 チラ、と時計を見て、少しためらう。

「こんな時間だけど……いいのか? 見始めたらまた長いんじゃねェのか?」
「あー」
「おれはいいけど、ナマエは明日も店があるだろ」

 一作目もに二作目も大体2時間、今から見ると日付はゆうに超える。ナマエもム…と口をつぐんで、閉じた唇から「うーん…」と悩ましく声を漏らす。
 そのままうーんうーんと唸りながら、テレビを消し、背もたれにちょうどいいように枕をセッティングし、そこにエースを転がし、彼の腕をがしょんと持ち上げ、安全バーのように自分の胸の前にがしょんと降ろし、その腕の中でもぞもぞ収まりのいい場所を探し、エースの手に収まっているスマホを横向きにし。
 そして、満を持して再生ボタンをタップした。
 目の前で寝る気ゼロでもちゃもちゃと好き勝手やり始めた彼女にエースは気が抜けてしまい、「お前ねェ……」と喉の奥でくつくつ笑う。

「あーあ、明日起きられねェな」
「もう見る気分になっちゃったもん」
「知らねェぞ。遅刻なんかしたらさすがのヤスコさんも怒るぜ」
「フン。アタシ、くいは残さないの」
「ッダハハ、おれの受け売りじゃねェか!」
「いい言葉でしょ」
「ったくよォ」

 配給会社の短いムービーが終わると、ナマエは少し音量をあげて本格的に見る姿勢に入る。クモをモチーフにしたオープニング映像に釘付けになりながら、エースの分厚い身体を堂々とクッション兼チェア代わりにするのである。
 エースも自分の肩下に寄りかけられた丸い頭に頬をくっつけて画面に視線を落とした。

 ちょっと前までチョンと触っただけで真っ赤になって倒れそうな乙女だったのに。
 今ではこんなに伸び伸びと触れてくる。これはひとえに彼女が懐いてくれた証である。パーソナルスペースがぐっと縮んだのだ。エースはそれがもともと狭い方だから驚いたりはしないが、彼女にくっつかれるたびに胸がこそばゆくて、心臓にやさしい電流を流されるようだった。

 かつてエースは、助けにいける距離と状況にいながら兄弟を失った。取り返しのつかないことになった。一生ものの後悔となっている。

 だから、大事なものは手が届く場所にあってほしい。
 だから、大切なひとが抱きしめられる距離にいてくれるこの日々が堪らなく嬉しい。
 心が温かな湯でひたひたと満ちるのだ。
 エースは胸の真ん中で噛み締めるように強く思う。ずっと一緒にいられますようにと。

 ゴロゴロダラダラと何度か体勢を変え、ベッドボードにスマホを立てかけうつ伏せでの鑑賞スタイルに落ち着いた。3分の2ほど進んだところでこてんと寝落ちしたナマエを横目で確認し、エースは音量を小さくする。そのまま映画を見終えて、歯磨きなどの寝支度を整えたエースは温かな寝床に潜り込んだ。

「も…もう…、夜更かしはしない……」
「どうだか」
「しないったら……」
「ああそうかい」
「ほんとよ…」

 翌朝、彼女は眠気で顔をしわくちゃにして言った。なんとかスマホのアラームで目覚め、ノロノロベッドから這い出ながらそう決意していた。エースの言う通り、そんな決意も虚しく再び誘惑に負けて夜更かしをしてしまう夜がくるのだが。
 自業自得で辛そうな彼女をベッドの中からからかい、エースはこんなだらしのない朝を愛しく感じていた。


 朝食の席でナマエは約束通りエースにスマホの使い方を教えてみた。
 若さゆえか彼は物覚えは良かったが、なんでも簡単に調べられる魔法のようなそれを彼はありがたがったりはしなかった。まあそんじゃあテキトーに使わせてもらうわ、くらいのもので、スマホにのめり込むような現代っ子の片鱗はない。
 ナマエに頼まれて今日の天気を調べたり、ヤスコさんの店のカウンターでハジメさんとみちっと肩を並べて件の映画の三作目を視聴したり、斜めにした妙な画角で手持ち無沙汰に店内の写真を撮ったりはしていたが。
 しばらくすると飽きてしまい、スマホをカウンターに放ったらかしにして結局散歩に出てしまう。


 そんな彼が再びスマホを使用したのは、仕事終わりに夕飯の食材を買いに出かけた時であった。

 店内の通路の一角、「ポップコーンはいかが?」と通りすがりに声をかけてきた機械にエースはびくっと肩を揺らした。いまだに無機物が一人でに喋るという現象には弱いらしい。
 それはいわゆるショップロボットであった。エースは顔を顰めながらそれをまじまじ観察し、どういう商売をする機械なのかなんとなく把握する。しかし、機械の真ん中に鎮座する赤いリボンを片耳につけた白い猫にほんの少し首を傾げ、預かったナマエの鞄からスマホを取り出して調べ物を始める。
 パスコードの解除もサーチエンジンの立ち上げもたった一日で慣れたものだ。アルファベットが並ぶキーパッドを叩く指先はまだたどたどしいが、「e……l、l……tty……」と小さく復唱しながらなんとかキーワードを打ち込む。
 出てきた白猫の情報ページをタップし、「へー」という感じでスクロールしている。手元を覗くと、パステルカラーのファンシーな背景のプロフィール画面を律儀に読んでいた。

「身長りんご5個分……ネコが二本足で立ちゃァ確かにそんくらいか?」
「本気のコメントしないで、面白すぎる」

 道の真ん中で女児向けキャラクターをちまちま調べるその姿がなんだかかわゆくて、ナマエは思わずクスクス笑った。


***


「あ、そうだナマエちゃん」

 仕事の合間、ヤスコさんがナマエに声をかけた。
 エースはいない。彼は今朝もワークアウトに出かけている。おそらくいつも通り、昼頃にヤスコさんの店へふらりと現れるだろう。

「出発は予定通りなの?」
「え…ああ、その、ちょっとスケジュール変更になりまして……」
「そうなの?」
「はい。エースを放って行くわけにもいかないので、諸々の予約は一旦キャンセルしてます」
「あらあら……大変ね……」
「まだ先の予定も立っていなくて、どうしようかなぁと考えてるところです」
「そう……お店どうする? 予定が延びたなら、もう少しこのまま働く? 日割りでお給料出せるから」
「ですね……そうしてもらえると助かります」
「お安い御用よ」
「ありがとうございます」

 なんの話をしているかと言えば。

 ナマエはこの夏、日本を出るつもりだった。アメリカやヨーロッパといった諸外国をその身ひとつで巡る旅だ。
 単なる旅行とは違い、帰国の目処はない。
 彼女は古巣を出て、気の済むまで海の向こうを冒険する——つまり、旅がらすになるつもりであった。

 高校生だったあの日、彼女はこれから先のことを考えた。

この世界で生きていくなら、私はどうしたい?
どう生きたい。何がしたい。

 夢を見るのに時間は掛からなかった。

 堅実に、地に足をつけて生きていく道もあったが、無限に拓かれた未来を想像した時、どこにでも行けると高鳴った胸は誤魔化せなかった。風に揺れるウィンドチャイムのように、心がキラキラと鳴る音が潮騒と混じる。
 向かう先が決まればあとは簡単である。お金、学力、環境、その他必要な知識……それらを片っ端から調べ、現在地から逆算し、努力してきた。
 そして船出と定めたのが、彼女が二十を迎えた今年であった。

 よって彼女は今、あらかたの身辺整理を終えていた。
 祖母と暮らしていた家は土地ごと売り払い、いま住んでいるのは船出までの僅かな期間を凌ぐためのマンスリー契約の家具付き物件である。私物の断捨離も終えている。パスポートは取得済み、語学力も短大ではあったが実用的に使えるレベルでみっちり鍛えた。海外の常識やマナーを学び、煩雑な各種手続きも一通り頭に入れた。
 異国を己の脚で往こうという度胸は言わずもがな。未知の景色に馳せる思いは人一倍。
 彼女は、鞄ひとつで飛び立てるほどの準備を終えているのだ。

 しかし予定が変わった。風向きが変わった。
 彼がこちらに来た。また出会えた。
 あの海に戻れないならここで彼と生きる。もし戻れるならば日本を離れて彼と戻る——いずれにせよ、もう二度と離れる気はない。

 それだけが明確に決まっていれば、これから先がどうなるか分からない白地図だとしても不安はない。苦労があろうとそれを不幸とは思わないからだ。再び航路を定めるだけである。


 一方その頃。
 エースは街をほっつき歩いていた。いつもの散歩である。

「ふあ……」

 大きなあくびをかいてぷらぷらと歩く。眠たくなる街だと思った。
 眠たくなるほど平和で、危機がない。
 酒とドラッグに人生を破壊された男も、刃物で自衛しないと出歩けない落ち窪んだ目の女も、カリカリに痩せた路地裏の孤児もいない。鈍器やピストルなどの凶器もない。無作為に向けられる悪意も、垂れ流される殺意も。
 2メートルを超える人間もほとんどいない。185センチのエースが高身長に分類される。おかげで街すべてがコンパクトに見えた。
 そんな街並みを歩いていると、不思議なことに自分もこの景色の一部になれたように思われるのだ。
 バケモノがヒトのふりをしているようでもあったが、能力もなくなったいま、エースは確かにただの男だった。
 陽光の射す路地を気ままに進んで、エースは「……ねみィ」と一言こぼす。
 この眠気は嫌いじゃないな。とも思いながら。


 散歩の末、エースは「ちわー」とヤスコさんの店の扉を開いた。昼時を過ぎていた。

「ああ、いらっしゃい。あらやだ、ちょうどナマエちゃんにお買い物に出てもらっちゃったわ」
「そうなのか? ま、別にいいさ」
「エース君、お昼食べた? 余りものでよければ出すわよ」
「ハハ、ありがたいけど、まだ店開いてんだから余るも何もなくないか?」
「細かいことはいいじゃないの。若いんだからたくさん食べなさい」
「や、悪いねヤスコさん。あとで皿洗いとかするよ」
「そお? 助かるわ」

 ヤスコさんは袖をまくって厨房に入った。ちょうど店には客の姿はなく、エースは自由に席を選べるとあってお気に入りのテラス席を陣取った。
 海が眺められるようイスをふたつ並べる。エースはひとつに浅く腰掛け、もうひとつはオットマン代わりにして足を乗せた。頭の後ろで手を組み、長い足も足首の辺りで組む。それは行儀が悪く、しかしとてもリラックスした姿だった。
 生温い潮風にシャツの襟がはためいて、エースは青い海を眺めて眠そうに緩い瞬きを繰り返した。
 潮騒が心地よい、よく晴れた穏やかな日である。日差しは夏であるが、酷暑の夏島を知っているエースには帽子ひとつで凌げるカワイイ程度だった。
 しばらくすると、ヤスコさんは白米と甘辛ダレの肉とカット野菜とポテトサラダをモリモリ盛った男子プレートを持ってきてくれた。美味しそうな料理の匂いと彼女の気配を視界の外で感じ、エースは口を開いた。

「ヤスコさん」
「なぁに」
「おれの父親の名前さ、ゴール・D・ロジャーっていうんだ」

 視線は海に向けたまま、天気の話でもするような口調であった。
 ヤスコさんは皿をテーブルに置きながらキョトンとする。

「お父様もかっこいい名前ねえ。外人さんなの? エース君のお顔がシュッとしてるわけだわ」
「……」
「ゆっくり食べてね」
「ん、ありがと」

 ヤスコさんは店の中に戻っていった。
 彼は姿勢を変えず、海を眺めて静かに呼吸をする。

 あの男の名前を出しても何も言われない。あれを親と言っても何も思われない。
 ここではロジャーの知名度なんかゼロなのだ。名前を言ったところで、はて誰だろうという反応。鬼の血に散々悩んできたが、そもそもこの世界には"海賊"がおらず、鬼と呼ばれる"海賊王"がいない。
 つまり、エースが憎まれる理由がひとつもない。
 この事実を受け止め、エースはずり…とまた少し姿勢を崩した。


身体は炎に変わらない。
海にも入れる。
ロジャーのことを誰も知らない。
その息子だと言っても憎悪の目を向けられない。

こんな世界があるのか。
こんなにも、穏やかで、緩やかで、何でもない……ただの人間になれる場所が。
エースにとっては奇しくも自身のアイデンティティにも近いそれらが何一つないここは、全てのしがらみと呪いが解けた世界であった。

いま彼にあるのは、健康な身体と魂と、少しの知人と友人と、愛しいひとだけ。

望めば人生をやり直すことだってできるだろう。
根源的な悩みが消え失せたこの世界で、ただの男になって、愛しいひととやさしさばかりの生活を——……。
戻れなくてもやっていけるかもしれないと思わせるだけの圧倒的和平が、耳元でそう囁くようであった。


 エースは目の下にわずかに皺を寄せ、右手を太陽にかざしてみた。日差しに透けた肉が赤々と輝く。
 そして、ぐっと力を込めて握りこむ。


 その手は炎にならなかった。


***


 夕方、エースはストライカーを様子を見てくると言って一足先に店を出た。
 ハジメさんの貸しボートが何艘か並ぶ岸辺の一番端にストライカーは繋がれていた。預けたその日と変わらず帆は畳まれた状態で、船体にはありがたくも雨よけのカバーが被せられていた。エンジンで動くボートの群れの中、高くそびえた木製のマストは少し場違いで現実味がない。
 エースは船体に掛けられたカバーを外し、慣れた足取りでストライカーにヒョイと乗り移る。ザブ、と船が一度大きく揺れる。
 様子を見ると言っても、特にやることもない。足元に放置していた係船用のロープを片付けたり、船底にある狭い貨物入れを整理したり。それもすぐに済んでしまい、エースはマストを意味もなくたしたし叩いて水平線へ目を向けた。

 むせ返るような夕凪の赤。シクシスでデュースと並んで見た夕日もこんなだったっけ。
 風がなくても進めるのが売りの船は、今はただやわらかい波に弄ばれて微かに揺れるだけだった。
 不意にブーツに何かコツンと当たる感触がして足元を見やれば、どこに転がっていたのか、遭難したあの日に海で拾ったメッセージボトルが転がっていた。そういえば読み損ねていたっけ。
 そう思って拾い上げようとした時。

「エース!」

 背後から飛んできた声に振り返る。

「おおナマエ、仕事上がったか。お疲れさん」
「、エース……」
「? なんだよ、そんな慌てて。走ってきたのか?」
「船…一人で出しちゃうのかと思って……」
「ハ、炎になれねェんだから動かしようがねェよ」
「……そっか」

 エースは軽く笑って、岸に再び降り立った。
 カバーを船体に掛け直して、ナマエの手を引いてのんびりとした足取りで浜辺へ歩き出す。するりと繋がれた手を彼女はしっかりと握り返し、エースもそれに応えるように指を絡める。
 お互い夕焼けや足元を見ていて視線は交わらないが、浜辺に伸びる影はひとつに結ばれている。
 日も暮れ始めて海水浴客が失せた浜辺には潮騒ばかりだ。

「海」
「…?」
「はいろーぜ」
「え」
「入んのは脚だけにすっから」
「え、あっ…い、今?」
「ナマエは濡れたくねェ? んー、じゃあ抱えていくわ」
「きゃっ」

 エースは腰を屈めてナマエの両脚、太ももの辺りを片腕で正面から抱えた。片方の手で背を支え、そのまま軽々と持ち上げる。脇に手を差し込んでするような抱っこを想像していたナマエは、何の支えもなく突然185センチを越えた高い視界に慌ててエースの頭にしがみついた。彼女の鳩尾あたりにエースの顔が埋まるが、彼は特に嫌がらずにむしろ体勢を安定させてやるために逞しい腕で身体を引き寄せる。
 くの字に曲げた腕に腰掛けるような格好に落ち着く。そうして少し安心感が生まれれば、ナマエはおそるおそる、しかしスッキリと背筋を伸ばして改めてエースの顔を見た。急にびっくりするじゃない、と唇をツンと尖らせた不服そうな顔で。エースはその表情を可愛いなあと思ってへらりと笑って見上げる。

「お前軽いなァ。体重いくつだ?」
「お、女の子にそういうこと聞いちゃいけないのよ」
「気にすんなよ、500キロまでは軽いって言ってやれる自信あるから」
「……りんご3個分」

 ナマエはそう言ってそっぽを向いた。
 エースは一瞬ぽかんとしたが、すぐに「あ」と合点がいって噴き出す。

「ぷはは、ウン、なるほどな。確かにそんくらいだろうな」
「ふん」

 少し前なら分からなかったけど、今なら分かる。先日調べたばかりだ。日本発の赤いリボンをつけた可愛らしいメスの白猫。このニホンという島では、可愛い女の子の体重はりんご3個分と相場が決まっているらしい。
 同じものを知っているから、体重の誤魔化し方ひとつで冗談を言い合える。
 そのなんでもないひとつひとつが愛しく思えて、エースは彼女の薄い腹に側頭部を寄せ目を閉じて笑った。

 もう手離したくない。
 これから先も同じ景色を、できるだけ一緒に見て生きていきたい。

 それと同時にエースは欲張りな己を自覚して、……よし、とひとり心のうちで誓いの炎を灯すのだった。