47
出勤前に立ち寄った浜辺にて。
飽きるほど見ているはずの海を前に、エースは新鮮に心を躍らせていた。フリスビーを投げてもらう前の犬のような、未開封のチュールを目の前に出された猫のような。そういう類のオーラを背負っている。
「おれは別にこのまま入っても構わねェんだが」
「着替えがないでしょう。いけません」
「夏なんだ、濡れてもそのうち乾く」
「いけません」
「ちぇっ……」
ハジメさんとはヤスコさんのお店で待ち合わせをしている。後ろ髪を引かれるエースの腕を引いて店に向かうと、ハジメさんは店の入り口横の壁に背中をくっつけてしゃがみ込んでいた。二人に気づくといじっていたスマホをポケットにしまって「はよー」と手を振る。
「おはようございます。ハジメさんお店の準備いいんですか?」
「店長特権で店番押し付けてきたから大丈夫」
「大丈夫…と言うんですか、それ」
「言う言う」
へらっと笑って立ち上がる。ハジメさんの膝の関節がパキンと小さく鳴った。
「よーし、とりまうちの店行くか。水着貸すから好きなの選びなよエース」
「悪ィな」
「や、全然。誘ったのおれだし」
「実はおれ昨日から楽しみで……」
「ッダハ! マジ? うれしーね!」
「ああ、よろしく頼むよ」
「任せな! んじゃナマエちゃん、エース借りてくねえ」
そう言って連れ立ってレストランを離れていく二人はもう既に仲が良く、ナマエは安心した気持ちでその背中を見送ったのだった。
「あれ、ハジメさん。どうしたんすか」
「遊びにきた」
「ウワ最悪」
「励めよー」
「労基いこっかな」
店に行くと、受付にいた青年がワンオペを押し付けられた当人らしく、ハジメさんにあからさまに嫌そうな顔をした。しかしこれは仲が良くなきゃできないことだ。
「そっちの人誰すか? ハジメさんの友達?」
「友達のエース君。かっこよくね?」
「どうも。エースって言います。よろしく」
「あ、ナガタでーす……」
受付君はひょこっと首を前に突き出すようにして会釈する。不躾にもエースの顔をガン見している。得体の知れないイケメンが現れてなんだコイツと興味津々らしい。
しかし世界中に顔写真付きのポスターが出回ってる上、普段からトンチキな悪癖で人からじろじろ見られることに慣れているエースは特に気を悪くすることもなかった。ドンと構えたその態度は、初対面の人間からもちょっとかっこよく見えた。
ハジメさんは「水着こっち」と受付カウンターの横をすり抜け店の奥へ進む。バックヤードは雑然としていて、壁沿いに並んだスチールラックには中途半端に口が開いた段ボールがあり、発注書が挟まったバインダーなんかがぶら下がっている。
「汚くてわりーね、この辺あさって」
「おー」
「タオルもあるから遊び終わったら適当に使っていいよ」
「なんでこんなに水着が置いてあるんだ?」
「え…なんでだろ、みんな遊ぶっつって水着とか私物とか持ってきてて、気づいたらみんな置いてってた……マ、あればいつでも遊べるし丁度いいやーみたいな?」
「そっか。みんな仲良いんだなァ」
「そね」
私物の適当な使い回しにはエースも覚えがあった。
あの船でもサイズさえ合えばその辺に落ちてるシャツを着たり、雑魚寝部屋の誰かのサンダルで便所に行ったり、そんなのは日常茶飯事だ。事実、いまエースが着ている白藍のシャツもマルコのものである。勝手にパクって着ていたらこちらに流れ着いてしまった。
さすがにパンツのシェアはなかったが……洗ってあるならいいやとエースは深く考えるのをやめた。理由は早く海に行きたいから。
更衣室などはない。ハジメさんがバックヤードで着替え始めたので、エースもそれに倣って選んだ水着に着替えようとシャツを脱いだ。
その途端。
「うおっ」
ハジメさんは驚いた。
視線の先はエースの背中に彫られたドクロである。
和彫りのような精緻な刺青とは違って白ひげのマークはシンプルなデザインだが、背中のまん真ん中を占めるそれは迫力がある。
エースもシャツを脱いだ格好のまま、びっくりされたことにびっくりして固まる。
ああそうか、服着てたから見えてなかったんだっけ。どうしようか、背中のドクロは"無力な民間人"の範疇を越えるのか。
「腕にあんのは見えてたけど……え、これガチ? かっけ〜……」
「……だろ。こいつはおれの誇りだよ」
「かっっ…けえ〜〜……!」
「ふっ……あはははは」
ハジメさんは緩く握った拳の側面を唇に当てて「もちょっと見ていい?」「かっけー」としきりに呟いて、勝手に顔をきらめかせている。
ドクロを自慢して素直に肯定される日が来ようとは。これは海賊たちにとって気高い誇りであるが、ならず者の証でもある。これで嫌な顔をされたり、良くも悪くも手のひらを返すような態度を取られたことは数あれど、この反応は……あまりにも意外性があって肩透かしをくらった気分である。
このドクロがなにを示し、どれほど意味のあるものなのか、少しも伝わっていないが、これは下敷きにしている常識の相違によるものだから仕方ない。マァ褒められて悪い気はしないのだし。
「背中一面は初めて見たわ。……もしかしてエースってカタギの人じゃない?」
「バレたか」
「んはは、ンなわけあるか! さすがに返事ユルすぎんだろ。実際エースって何してる人?」
「あー、世界中を旅して回ってる……?」
「バックパッカーってやつか! すげーね、ロマンだわ」
「あーもういいって、ハジメも着替えろ! おれ早く海行きてェの!」
「どんだけ楽しみにしてんだ」
バウンティ5億を超えの紛うことなき海の無法者を目の前にして、ハジメさんはこれを冗談としか受け取らなかった。結果的にうまく誤魔化せた運びとなる。
着替え終え、店内に戻る。カウンターの横を通り過ぎると、今度は先ほどの受付君が「え!」とそこそこでかい声を出した。
振り返ればさっきのハジメさんと同じ顔をしている。よろ…と立ち上がり、カウンターから出てくる。
「か…」
「……」
「かっっこよ……」
「だろォ!?」
「えヤバ、写真撮っていいすか……」
「別に構わねェが……背中の墨がそんな珍しいもんかよ」
「いやマジ、え、すご……」
「なー、ヤバいよな」
「筋肉えぐ……」
「や、それな」
語彙力壊滅で受付君はエースと写真を撮って、ぺこっと頭を下げた。ぽや…と嬉しそうな顔で写真を確認する。画像を拡大したり元のサイズに戻したりを繰り返していた。
もちろん日本でも刺青は万人にウケるものではないが、海に集まるようなヤンチャな男の子にとってはちょっと強烈な憧れがあるのでこの通りである。
そんな事情を知る由もないエースは、軽いカルチャーショックを受けつつ、いそいそと海へ向かうのだった。
快晴。風はほぼなく、日差しがキラキラと夏を主張している。浜辺で軽く準備運動をする。手足首をぷらぷらぐらぐら解しながら胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。
「な、ハジメ。おれ泳ぐの久しぶりなんだ」
「そうなん?」
「だから万が一溺れたら頼むわ」
「うはは。オッケー」
と、一応予防線も張って。
ザブ、と波に割って入っていく。冷たくて心地よい水温と、波が引いていく時の力強さ。足の裏から砂が逃げていくこそばゆい感覚。
大丈夫だ。エースの口許は隠せないくらい緩んでいた。ハジメさんが早く来いよと鳩尾あたりまでを海水につけて笑う。
逸る心に任せてエースは一息に海に飛び込んだ。
水中は分厚い膜の中にいるようだ。飛び込んだときに巻き起こった気泡がゴボゴボとくぐもった音で以て身体の表面を滑って通り過ぎてゆく。水に浸かった身体は軽い。水を掻けば簡単に前へ進む。
海の中は、どこもかしこも青くて綺麗だった。
「ぷは」
浮上して大きく空気を吸い込む。
力を抜いて仰向けに浮いてまばゆい空を眺め、しみじみ呟いた。
「泳ぐなんていつぶりだろーなァ……」
能力者になったその日から海に嫌われ続けた彼にとって、再び海に身を委ねられるのはどんなに特別なことか。
エースは元々泳ぎは上手い方だ。海賊貯金として海底に沈む宝箱から金貨や宝石を持ち帰ったこともある。カナヅチの弟を助けに何度水へ潜ったことか。釣竿や罠で魚を捕まえるサボに対し、エースは運動神経一本で魚を銛で突いて獲ってくるような子供だった。
水の中へ潜ったいま、そうした思い出も一緒に蘇ってくるようでエースは嬉しかった。
散々嫌われ続けたくせ、エースはどうしたって海が好きだった。
昔から果てしない水平線の向こうに夢を見た。
饐えた臭いのゴミ山で、希望と自由の在処はいつだってあの青海だった。
そんな海にもう一度受け入れてもらえた。
これがどんなに嬉しいことか。
「全然泳げんじゃん」
「おう、平気だったわ」
「よかったな」
「ひひ」
呑気にぷかぷか浮いていれば、言ったそばから波に呑まれてエースの身体はひっくり返った。しかし泳げさえすればそれくらいじゃ死ぬわけもない。
エースは再び海に潜って、波と戯れるように飽くことなく泳ぐのだった。
***
波がオレンジ色に焼けていた。
遊んでいる途中、「やろうぜ」と突然ハジメさんが持って来たサーフボードを左に抱えてエースはぼーっと夕焼けの水平線を眺めていた。
前髪をかきあげ、左右に頭を振って水を散らす。濡れた黒髪が夕日に煌めき、張りのある肌を水飛沫が玉になって流れた。前髪を後ろへ撫でつけているせいで、いつもよりスッキリと額が出ている。髪の先から水滴が滴り落ちている様子が妙に色っぽくサマになっていた。
「あー……遊んだァ……」
ハジメさんは店の締め作業があるとかで先に引き上げていったので今はエース一人きり。
体力的にはまだまだ遊べるけれど、水着とサーフボードを返さなければ。サーフボードは、元は店のレンタル商品だが、ボードの劣化に伴って従業員のお遊び用に格下げしたものらしい。
だから水着と一緒に返しに店へ赴く。
「ありがとうございました。すっげー楽しかったです」
「はは、また遊ぼーな」
「おう! んで、ボードと水着はどうすりゃいい?」
「あー、ボードは裏のホースで……」
説明された通りエースは店の裏に回ってサーフボードをホースの水で洗い、ついでに自分の身体も適当に洗い流した。身体を拭いて着替えて水着とタオルを洗濯機へ。
海水で冷えた身体が夏の空気で暖まっていくのを感じ、肩あたりにゆるくまとわりつく倦怠感が心地良かった。
ハジメさんと受付君に手を振って別れる。
「ナマエー」
「あ、エース。ずいぶん遊んでたね」
「サーフィンやった」
「できるの?」
「初めてやったけど案外できたぜ。ものすげー軽いストライカーって感じだな」
「それはエースが体幹おばけだからだよ」
CLOSEの札が掛かった扉を開け、エースは閉店作業をしているヤスコさんの店に当たり前のように入り込んでカウンター席に居座る。頬杖をついてのんびりナマエとヤスコさんを眺めながら、今日あったことを取り留めなく話した。楽しかったから誰かに言いたかったし、その相手はナマエが良かった。
口を開けて笑う彼は、そこら辺にいるハタチの男の子とほとんど同じに見えた。
「今日もお湯張ろうか」
「おっ、いいのか? ありがてェ」
「いいよ、それくらい」
「じゃあ一緒に入ろうぜ」
「え、」
「洗ってやる」
「ひ」
「溺れる心配はねェんだ。おれに全部任せろよ」
「い、いや…いい、せ、狭いし……」
「はは、つれねーなァ」
帰り道。
エースのからかいにまともにドギマギさせられ、ナマエは悔しそうに唇を突き出す。奇しくも同い年になったとは言え、まだまだエースの方が経験豊富な上手であった。
だがそれも仕方ないのないことだ。踏んできた場数とくぐってきた修羅場が違う。艱難辛苦汝を玉にす、という言葉の通り、幾多の困難がエースを齢二十にして豪胆で深みのあるイイ男に育てあげたのだ。
"同い年のハタチ"——……ナマエはふとその事実を気づき直し、ある事を思い出した。
「エース」
「ん?」
「私、未成年終わったの」
「みせーねん……」
「だから私もお酒が飲めます」
「お?」
「今夜……一緒に飲む?」
「飲む!!」
エースはぱっと顔を輝かせた。
未成年が終わったら一緒に飲もうとエースが言ってくれたことをナマエは覚えていた。4年という月日をあっという間と笑ってくれたことも。実際はあっという間ではなかったにしろ、4年越しにこの言葉は本当に叶うのだ。
あの夜、オヤジの酒で骨の髄まで酩酊していた彼がこの口約束を覚えていたかは分からない。それでも。
「ナマエと一緒に飲めるの、楽しみにしてたんだ!」
今宵、エースはそう言ってもう一度笑ってくれた。
それが嬉しくて、ナマエは数えるほどしか飲んだことがない酒を買いにエースとスーパーへ足を伸ばした。
これまで素通りしてきた酒類コーナーは思った以上に品揃えが豊富で悩ましい。陳列棚を前に唸る。
「ナマエは飲めるクチなのか?」
「うーん……ジュースみたいな弱いやつしか飲んだことない」
「明日の用事は?」
「特に」
「じゃあ潰れても平気だ」
「え、潰れたくないよ」
「自分の限界を知っておくのは大事だぜ」
「うっ……」
「さて、ナマエはなに上戸なんだろうなァ」
「もう……」
エースはウイスキーを瓶で、ナマエは王道の果実酒のミニボトルを。ついでにおつまみも追加して帰路に着いた。
ナマエは夕飯と風呂をちゃっちゃか済ませ、万が一寝落ちしても問題ない状態にする。そうすればあとは心ゆくまでお酒を楽しむだけだ。
酒を水のように飲めるエースは夕食時からウイスキーをちびちびやっていたが、酒盛りに向けてせっせとあれこれ準備をする彼女はなんだか楽しそうだったので好きにさせておく。
そりゃまあ、ビギナーならなおのこと、空きっ腹には酒を入れない方がいいのだし。
酒を注いだグラスを前にナマエがソワソワと居直る。
「さて」
「お、ようやくか」
「なんかドキドキするね」
「ンな大袈裟な。酒自体は初めてじゃないんだろ?」
「そうだけど……今日は己の限界を知るんだし」
「ブハッ、結構乗り気じゃねェか!」
「今日はお酒のつよーいエースがついてるからね」
「いいぜ、介抱なら慣れてる」
エースは右目の下にわずかに皺を寄せて笑い、彼女の両手に収まったグラスに自分のグラスを軽くぶつけた。
それは祝福のキスのようで、軽やかで爽やかな音がした。
ナマエは思いの外するすると飲んでいった。
いつもより陽気になってほんのり頬が赤くなるくらいで言動も危うい様子はない。強いて言うなら笑い上戸かしら、とその程度。模範的で健全な酔い姿であった。
酔わせてどうこうしようという下心はなく、楽しそうでよかったなァと素直に思いながらエースもペースを合わせて飲み進めてゆけば。
「……なくなっちゃったね」
「だな」
「……」
「……」
「限界…まだだなあー……」
グラスの結露をなぞるようにナマエがカリカリとグラスを引っ掻いてぼやく。飲み足りないらしい。その分かりやすすぎる仕草に思わずエースが笑えば、ナマエもいつもよりずっと柔らかい声音でうふうふ笑う。
「んふふ、買いに行こっか」
「大丈夫かよお前」
「平気よう」
「……じゃーんけーん、」
「え? え?」
「ほい」
「ぽ、ぽい?」
「あっち向いてホイ」
「! ……??、?」
「うん、まだ大丈夫だな」
咄嗟に右を向いたナマエは至極怪訝そうな顔を正面へ戻す。エースはヨシとひとり納得し、氷で薄くなったウイスキーの残りをぐっと飲み干して立ち上がった。
これでろくにじゃんけんが出来なかったり、ホイとさした指先をキョトンと見つめたりしたら止めようと思ったけれど。彼女はふわふわしているだけで特に問題なしとエースは判断した。試合続行である。
これは数多の酔っ払いを見てきたエースの経験則に基づく厳正なるジャッジであった。
咄嗟に反応できないまでも「え? は? ジャンケン?? なに?」とツッコミができれば上等な方(デュース)。本当にダメなやつは、耳で拾った発音のノリだけで「? ウェーイ!」とハイタッチをしようとしてくるし(ラクヨウ)、さした指をそっと握ってわけもなくエヘエヘ笑ったりする(サッチ)。
「こんな時間にまだ店なんてやってんのか?」
「大丈夫、コンビニは24時間営業だよ」
「にじゅ……一日中っ? マジかよ」
ナマエは「ふふ、マジだよーん」と機嫌よく返し、財布とスマホと鍵だけを持って靴を履いた。
夏の夜風は生ぬるく、道端の草むらからはホロホロヒリヒリ虫の声が聞こえる。
エースはコンビニとやらへの道案内は大人しく任せるかわり、うっかりすっ転んだ時に支えてやれるように彼女の手を取る。彼女は一瞬驚いたものの、1秒後にはえへへと笑って無防備にその手を握り返した。酒と夏の体温で熱くなった線の細い手を壊さないよう彼も指を絡めてやさしく握り返す。
こりゃあ甘え上戸だったかな、と頭の隅で思いつつ、エースはいつもよりもとろとろとした歩調に付き合った。
目に刺さるようなコンビニの真っ白い光が見えると、ナマエは「あそこだよ」と指差し、繋いだ手を引いた。
店に入り、その冷えた空気にエースは少し驚くが、彼女は買い物カゴを手にしてアルコールの陳列棚に向かう。
その後ろをついていきながら、エースはぐるりと店内を眺めてその品揃えに感心した。こんなもんが24時間やってるとは。しかもこんな真っ昼間みたいな明るさで。ニホンてのはすげー島だ。
「何がいいかな」
「ん? あー、ワインはどうだ?」
「ワイン……あ、じゃあサングリアとか」
「まァたお前は甘ったるい酒を……」
「いいじゃん、甘いの美味しいもん」
ナマエは気になる酒を手に取って楽しそうに品定めをする。酒の味が多少分かったので色々冒険してみたいと見える。
「エースも追加のお酒、選びなよ。あれだけじゃ絶対足りてないでしょ」
「あ?」
「一緒に飲もう」
「お前なァ」
「私だけ飲むのさみしい、エースも付き合って」
「……へいへい」
「よろしい」
可愛らしい駄々をこねられたものだ。確かに全然飲み足りなかったエースは簡単に押し負け、ありがたく次の一本を選んだ。「ごちです」と頭を下げて、ジンを買い物カゴに入れる。
ナマエはまだ決めかねているようなので、エースはぶらりと店内を見て回ることにした。食糧品ばかりかと思っていたが、案外色々ある。雑誌、コスメ、文房具、生活雑貨……パンツまであるのかよ、と小さく噴き出す。
ここに来れば一通りのものが揃うのか、と陳列棚をしげしげ眺めていると……見覚えのある商品にふと目が留まる。ラックの下段、絆創膏などの衛生用品が並ぶあたり。よくよく見てみたくなって、エースはその商品が配置されている陳列棚の前にしゃがみ込んだ。
そこにあったのはスキンだとかゴムだとかコンドームだとか呼ばれるもので、とどのつまり、避妊具である。
ほー、こういうモンのパッケージって世界がまるごと違っても案外似通ってんだなァ……。と、純粋な興味本位で眺めていたのだが。
「……?」
背後でした物音に振り返ると、そこには酒とおつまみが入った買い物カゴを持ったナマエがいた。キョトン……とした顔には喜怒哀楽もない。
エースは彼女の姿を認識した途端、ザーッと頭のてっぺんから血が抜けていく音がして、心臓の裏側にドッ! と汗をかいた。
や……やべェ。
めちゃくちゃセックスしたい奴みたいになっちまった。
コンドームを買ってくれってねだってるみたいな……さ、最悪だ、ダサいにも程がある。
それってつまり、抱かせろって暗に言ってるようなもんで……。
男の欲はいつも多かれ少なかれ暴力性を孕んでいる。
こんな明け透けにぶつけていいものじゃない。
ムードだとか空気だとか、そういうもんを読んで腹を探り合って求め合うものだ。
だから、それって…つまり……。
場合によっては、この子の心を傷つけてしまったかもしれない、ということだ。
それが一番まずい。
断固としてよろしくない。
とんでもない一大事である。
ナマエはいま何を考えてる? 弁明すべきか?
たとえ本当だとしても、ただ見てただけですなんて誰が信じる?
ああしまった、やってしまった!
おれのバカ!!
コンマ数秒、エースはこのようなことを凄まじい速さで考え、振り返ったその体勢から1ミリも動けなくなる。少しずつ身体の血を抜かれていくような、臓器にナイフを押し当てられているような心地であった。
……しかし。
ナマエは表情を変えず、何も言わず。
しゃがみ込んだエースの目の前の陳列棚からス……とひと箱を取って、カコン…と買い物カゴに入れて。
真っ直ぐレジに向かった。
「…………?」
エースはやはり体勢をろくに変えることもできずにいた。
彼女の静かな…静かすぎる背中を凝視するばかりで、状況が上手く呑み込めず、やたらと険しい顔で黙している。こめかみに銃を突きつけられているようなとんでもない緊張感で、呼吸は無意識的に浅い。
財布を取り出して会計をしている彼女は何気なく耳に髪を掛けた。
ちらりと見えた耳たぶは、遠目でも分かるほど真っ赤っかだった。
…………。
え? すんの?
……しても、いいの?
エースは帰り道のことをよく覚えていない。ただ、重たいだろうから荷物が入ったコンビニ袋はすぐに持ってやった。空いた片方の手は……ああ、そうだ、またあの華奢な手を握っていた。どちらから話しかけたのか、普通に会話をしていた、気がする。
家に帰りついて…買ってきた酒やおつまみを早速ローテーブルに広げた。それぞれのグラスに酒を注ぎ合い、乾杯をした。
「あ、これ美味しい。飲みやすいや」
「ん……こっちもなかなか美味いな」
え? は? していいの?
でも買っ……たよな、あれがなにか分かってたよな。耳、赤かったし。
……そういうことだよな? え? …………マジ?
「おつまみ、適当に買ってみた」
「お、生ハム開けていいか?」
「いいよー」
購入されたコンドームは取り出されることなく、コンビニ袋の底でいまだ沈黙している。
もはやエースにはどうツッコめばよいか分からない。ツッコんでいいのかも分からない。「スる?」とチャーミングにイタズラっぽくお伺いを立てるタイミングは、頭を真っ白にしている間にとうに逸しているのだ。
だって彼女が買うとは思わなかった。照れた、あるいは怒った彼女に「もう!」と尻のひとつも蹴られるもんだと思った。それなのに…。
おかげで美味いはずのジンの味もなんだか朧げである。
「あっつい」
「……そろそろ酔いが回ってきたか?」
「頭はわりとハッキリしてる」
「ほれ、水飲め、水」
「エースってほんとお酒強いんだね」
「これっぽっちじゃ酔わん」
「ふふ、すごいねえ」
追加の酒も尽きようという頃——……コンドームの存在もなんとか意識から薄れかけた頃でもあった。
ナマエは意外とまだまだ平気そうだが、陽気さに拍車がかかってぱたぱたと暑そうにしている。丸っこい口調は酔いが深まっている証拠だろう。
さほど度数も高くない甘い酒ばかり飲んでいるから曖昧だが、結構飲めるクチなのかもしれない。エースはグラスを傾けながらそう思って、酒盛りという一緒にできることが新たにひとつ増えたことを嬉しく思った。
「……ね、隣いっていい?」
「ん……? おう」
「えへへ」
ローテーブルを挟んで座っていたナマエが四つ這いでチョコチョコとエースの隣にやってくる。
そして、そのままゆっくりとエースの肩にしなだれ掛かる。
「あついね……」
熱っぽい声でそう呟かれれば、エースの脳天に電撃が走った。
このかわゆい乙女にぴたりと胸板に頬を寄せられ…エースは今まで生きてきた中でこの上ないほど緊張した。
触れた肌はもっちりと柔らかく、くっついていれば汗ばむほどの温度だ。柔肌からはえも言われぬいい香りがして、脳に直接麻薬を垂らされるようだった。
身体中がカッと熱くなり、足の裏にじわりと汗が滲むのを感じる。呼吸が浅くなって頭が上手く回らない。筋肉は針金のように強張るくせ、血管にテキーラを流し込まれたがごとく度数の高い酩酊感で指先が痺れた。鳩尾から下、腰のあたりまでがずしりと重たいのだ。
カラダ全部が一個の心臓になったみたいで……。
「……要らなかった?」
「え」
「ん、」
指差した先にはコンビニ袋。
何が入ってるか、一瞬すっかり忘れたエースはぱちぱちと瞬くが。
「い…要る」
となんとか返す。グラスを持つ手に力を込めないと今にも落としそうで気が気じゃなかった。
この返答に彼女は「そう」としっとり呟いて、エースの二の腕をカリ、と丸い爪でやさしく引っ掻いた。
エースの胸板に片手を添えていたナマエは、急に早くなった彼の鼓動にもちろん気づいていた。手だけじゃない、触れ合った場所すべてで彼がドキドキと脈打っているのが分かる。ぎこちなく動かなくなった四肢も、不自然に前方に定まったままの視線も。
その実、彼女もまた震えるほど緊張していた。一緒にお酒を飲んでみたいという気持ちは本物だったが、こんな艶やかな展開になるとは思っていなかったのだ。
だが、コンビニでエースが避妊具の陳列棚を眺めている姿を見て、しかもその場面を見られたことに焦っている姿を見て……あの気まずそうな顔が自分を愛してくれながらも、無理やり手籠にするような野暮ではないと証明していて、なんだか彼女はキュンとしてしまったのだ。
もちろん彼女は避妊具など買ったことがない。商品知識もほぼない。あの場の勢いで買ってしまったからサイズだとか使用感だとか、そんなことはとても相談できなかったが……エースはたった今「要る」と言ってくれた。それだけでこの先の展開に心臓が真っ赤に痺れるほどなのだ。
好いた男と肌を重ねたいと願うことを痴女と呼ぶならそれで構わない。だって散々待った。人並みにそういう欲はあれど、望む相手はエースただひとりだった。
操は貫いた。もう我慢はごめんなのだ。
……寝かしつけられた"あの夜"を、実は彼女、結構恨んでいるし。
片やエース。ただただ驚いていた。
ナマエから誘ってきたことではなく、自分自身が"こんな風に"なってしまっていることにだ。
いつかそういう時がくると思っていたし、思えば「そういう心づもりがある」と彼女に宣言すらした。
が、脳裏で思い描くストーリーではいつも彼女がいっぱいいっぱいになっており、自分はそれをリードしてやる側だった。確かに自分も夢中になるだろうが、あくまで子猫ちゃんのように可愛がってやる側である。やめてよして、と赤い頬で困り果てるこの子の手を掴んで離さないでやるような……そんな具合だと思っていたのに…
それがまさか、こんな木偶の坊になるなんて!
言い訳をするなら、当時は歳の差があったし、彼女の身体も未成熟で幼かった。感覚の上でも、視覚の上でも、"手加減をしてやるべき相手"と頭が認識できていた。ディープキスごときでへばった彼女に無理をさせず、寝かしつけまでしてやれたのはこのおかげだ。
だが今はどうだ。ナマエは極上の女へ化けた。この大輪の花のように美しい女が、いつ会えるとも分からぬ自分に操を貫いてくれていた。長く冷たい4年の冬を一人で耐え忍んでくれた。寂しかったと昨晩、涙でしとしと胸を濡らしてくれた。ここまできたら愛されているかどうかなんて疑いようもないほどだ。むしろ疑う方が失礼である。
そんな女が。そんな女に。
ここまでさせて、ここまで言わせておいて。
こんなに情けない話があるものか。据え膳食わぬは男の恥。今さら引き下がる道などない。
エースはグラスをテーブルに置いてごくりと生唾を飲み込み、腹を決めた。
「ナマエ」
ゆっくりと向き直り、白桃の頬に手を添えてキスをする。
ジュ、と唇に吸い付くそのキスは、それだけで彼女をはしたないほど熱くさせた。
吐息が唇に掛かる距離でエースはもう一度彼女の名を呼んで、目を開けさせた。とろ…とした目には薄らと涙が浮かんでいて、眼球がツヤツヤと輝いていた。
しっかりと目を合わせて、染み込ませるようにゆっくりと話す。
「大事にする」
「大切にする」
「少しでも怖かったり痛かったり、嫌なことがあったら必ず言ってくれ。ぶん殴ってもいい。余裕がなけりゃあ少し押し返すだけでも……とにかく、絶対に、すぐやめるから」
理性を手放さずに抱くというのは、止められない・手加減できないと言い訳して本能に任せて抱くより遥かに難しい。
だがエースはそれを絶対に成し遂げようと決めた。自分が頭に血がのぼりやすい性分なのは分かっているが。分かっているからこそ、尚更。
エースは決して彼女を傷つけたくないのだ。
ナマエには心の芯からやさしくしてやりたいとそう思う。
でも常に暴力と隣り合わせで生きてきた自覚があるから、"やさしさ"についてエースは自分の物差しだけでは不安なのだ。
だから間違えたらちゃんと怒ってほしい。彼女にとっての"やさしい"をきちんと理解したい。
その燃えるように真摯で美しい瞳を前に、しかしナマエは彼の肩にそっと手を添え…ふるふると首を横に振った。
「ううん……こっぴどく抱いて。ずっと…ずっと、寒かったから。あつくしてほしいの」
そう言って彼女は首に腕を回してエースの下唇を喰んだ。
エースは脳裏で早速理性が千切れていく音を自覚しつつもなんとか堪え、そのキスに応える。
エースは断らなかった。せっかくなんとか堪えようとしているのに! と頭を抱えることもない。なぜなら、彼は彼女の望みは全部叶えてやりたいから。あついのがお望みなら……理性を保ったままアツく抱いてやるだけである。NOはない。
啄むようなキスを顔が火照るまで繰り返せば、だんだんと体勢が崩れていった。
「あ…だ、だめよ、酔っちゃう」
「……あ?」
「え、エースの舌…お酒の味がするの」
「…………」
エースが舌を差し入れて、彼女の小さな舌を追いかけた時である。唾液とともに流れ込んできた強い酒の味にナマエは驚いて、彼の顎に手を添えて顔を背けたのだ。
しかし——その仕草の色っぽいこと。熱くなった頬に落とす伏せたまつ毛の影の艶やかなこと。
彼女はちょっとカチンとくるほど魅力的で、エースはテーブルに置いていたチェイサー用の水を口に含んだ。そして口内の酒を洗い流すようにして飲み下す。
強い酒にあてられた艶姿も見てみたいが、いまはキスを拒否されることがなによりつらい。
手の甲で口元をぬぐい、水で冷えた舌でまた彼女を求める。
「あっ、あ、……ん、…んぅ」
「は…、エロ……」
「!? ん"ーっ」
「いてっ」
「っ、」
「! 、??」
早速叱られ、動きを止める。
律儀に止まればなぜだか今度は胸ぐらを掴まれて噛み付くようなキスをされる。小さな舌が果敢にエースの口内に攻め入るのだ。
こうしてエースはナマエという女を知ってゆく。
恥じらって照れているだけなのか、本当に嫌がっているのか。反射的なものなのか。本能的なものなのか。どこが好きで、何が苦手で、どうしてやれば安心するのか。手を繋ぐのは? 甘噛みは? どんな触れ方が好き? 名前を呼んだら。頭を撫でたら。どんな声を出す。どんな顔をする。どんな風に縋りつく。汗の香り。ほくろの位置。しなるカラダの曲線。ペース、角度、キスのタイミング。好きな体位は。体力はどれほど持つ。水はいつ飲ませたらいい。彼女が満足する回数は。……
こんなセックスは初めてだった。
海からの帰り道で話した戯言は実現し、エースはくたくたになったナマエと一緒に風呂に入った。
やわらかいキスを頭のてっぺんに落としながら綺麗に洗ってやる。彼女は眠たげな眼でくったりとして、されるがままだった。エースに世話をしてもらうのが思いのほか気持ちよかったし、彼が安心して身を委ねられる相手であると本能にみっちりと刻まれていたからだ。
「エース」
「ん?」
「あついね」
「うん、そうだな」
風呂から上がった彼女はベッドの上でふにゃっと笑った。弱々しく眠気に抗っていた瞼はついに降り、穏やかな寝息が聞こえ始める。
エースはナマエの腹に薄手のブランケットを掛けてやるのだが、彼女は暑いと言わんばかりにそれを跳ね除ける。……そのくせ、下しか履いていないエースの剥き出しの胴にもちっと身体をくっつけて汗をかきかき眠るのだった。
エースは彼女の髪をサラサラと指で梳いていた。なるべくこの景色を目に焼き付けていたくて、彼はなかなか眠らなかった。夢なら醒めないでほしいと、柄にもなく思う。
それほどまでにエースは幸せだった。
結局、エースも瞼が降りてしまう。そうして二人は並んで足を伸ばして、夢も見ないような穏やかで深い眠りに落ちた。