16
ロビンはナマエが本屋を出るところをちょうど見ていた。
その足取りは不穏で、楽しい買い物ができた様子ではないことは明らかである。
怖いもの知らずのロビンは、どうしたのかしらと好奇心だけでその本屋へ足を踏み入れた。
のどかなカウベルがロビンの来店を知らせるが、店内は無言だった。
「こんにちは。さっき店を出て行ったお嬢さん、どうしたの?」
ロビンはカウンターに突っ伏して不機嫌と無視を決め込んでいたコメットに尋ねる。
彼女は伏せていた顔をおもむろに上げ、ロビンの顔を不遜に一瞥した。
また知らない人。
旅人だ。航海者だ。海の外から来た異世界人。
「……別に。現実を、教えただけよ」
「そう……」
ロビンが大人しくて物静かな女性に見えたのだろう。
コメットは不機嫌を隠さず、突き飛ばすように冷たく返してもとの体勢に戻った。話をする気はないらしい。
ロビンはマイペースに店内の蔵書を見て回った。静かな店内にロビンのヒールの音だけがしばらく響いていたが、ある場所で止まった。
コメットは再び顔を上げ、最後に靴音が聞こえた方へ目を向ける。
その先で、ナマエと同じようにサンジの夢と同じタイトルの本の前に佇むロビンを見つけ、コメットはキュッとわずかに顔を顰めた。
「……今日はその本、人気なのね」
「オールブルー」
「4つの海の魚が住む幻の海。……赤い土の大陸があるのに、そんな場所が実在するわけないじゃない」
「あら。どうして言い切れて?」
「…は、」
「この海はまだ未知のことが多いの。海だけじゃない。島も気候も生態系も文化も歴史も……明らかになっていることなんて、ほんのひとつまみよ」
ロビンはニコリと美しく笑って、コメットのいるカウンターへ迷いなく足を進めた。その途中で適当な本を一冊とり、「たとえば……」とページを手繰りながらコメットの目の前にやってくる。
カウンターに軽く腰かけて、ブラックのスキニーパンツに包まれた長い脚を組む。コメットは「な、なに」と警戒心をむき出しにしてロビンを凝視するが、彼女は「ほら見て」とコメットにも見えるように本を傾けてページを指差す。
そして、ロビン博士の講義がゆるやかに始まる。
コメットが頭ごなしにありえないと棄却する事象について、博士は豊かな知識と論理的な仮説で紐解いていった。じゃあ、とコメットがムキになってケチをつけても、冷静に、鮮やかに、そのほとんどを打ち返してしまうのだ。
打ち返されるたびに彼女は唇をムッと突き出し、怒りとも期待とも区別がつかない昂ぶりに包まれる。しかし、「そうね、確かにそう考えると説明がつかないわ」とコメットの意見に賛同して考え込む横顔にドキドキする。こんな博識な人でも知り得ないことがあるのかと思わず俯いて目を逸らしてしまう。
「そ……空島、空島はどう? さすがにこれはありえない。空に、雲の上に島があるなんてそんなまさか、」
「空島。あったわよ」
「え、……え?」
「行ってきたわ。素敵なところだったわね、空島」
「う、嘘よ!」
「いいえ。これは推論や仮説ではなく、実体験。……聞きたい?」
「…………き、聞きたい……!」
「うふふ」
ロビンは本を閉じた。脚を組んだ膝の上に頬杖をついて楽しげにコメットを見つめる。そして、店の外壁に腕を咲かせて、たまたま店の前を通りかかったルフィの首根っこをつかまえる。腕に引かれるがまま、ルフィも入店。
「なんだ、なんだァ? あっ、ロビン! こんなとこで何してんだ?」
「ルフィ。この子、空島の冒険の話を聞きたいんですって」
「だ、誰このひと、」
「ウチの船長」
「おー、空島かァ。空島はすごかったぞー! メリーが空を飛んだんだ!」
「メリー?」
「おれたちの船だ! だいぶ無理させちまったけど、あっ、空島にはすンげーかてェかぼちゃがあって、」
「ちゃんと質問していかないと、置いていかれるわよ」
「! あ、ま、待ってよ、一体どうやって空へ行くのよ、そこから説明して」
「それは不思議海流があってだな」
「質問してもダメじゃない!!」
「ふふ。あなた、“突き上げる海流”って聞いたことあるかしら」
ルフィの自由な演説、コメットの質問の嵐、ロビンの解説や補足。議論は大輪の花を咲かせて、カウベルの音などまるで耳に入らない。
「……思ってたのと、ちげェんだけど?」
「違う…よなァ……?」
「違う気がする……」
「うーん、私も思ってたのと違う……」
カウンターから死角になる本棚の影から縦に並んだ4つの頭が口々にぼやく。店の外から中をうかがって、こっそり入店してきたサンジ・ウソップ・チョッパー・ナマエは、裏側に引っ込んで顔を見合わせ。「……?」と揃って首をかしげた。この店に我が船の船長と考古学者がいて、大層打ち解けた様子であることも意味のわからん状況だ。
同じ店員よね? とナマエがもう一度覗き見ると、ロビンがニコリと笑った。
その隣で頬を赤くしてルフィの話に聞き入る女は、やはり先ほどサンジの夢を冷たく笑った女だった。しかし、ナマエに対応した時のようなニヒルな影は少しもない。ルフィの話を聞いて思い出したように店の本を取ってきて広げては、「これのこと!?」と興奮気味に続きを催促してさえいる。
それはまるで、未知の冒険を渇望するただの女の子の姿だった。
しばらく観察してみたが、結局そのようにしか見えない。
「……ウソップ、混ざってきたら? チョッパーも」
「え!?」
「いいのか!?」
「うん、行きな行きな」
ナマエがそう声をかけてやると、ウソップとチョッパーはワッと飛び出して行った。
さっきから「それじゃあメリーの偉大さが伝わらねェ!」だの「でっけーヘビもいた! 話したい……!」だのと落ち着きがなかったのだ。しかし仲間の夢を笑ったという女へそう気安くしてよいものか。悔し涙まで流した仲間をよそに、そんなの不義理じゃないかと二の足を踏んで本棚の裏に身を潜めてくれていた。でも、その我慢もそろそろ限界のようだったので。
「二足歩行のたぬきが喋ってる!?」と一層賑やかになった声を背後に聞きながら、ナマエは本棚に背をつけて三角座りで天井をぼんやりと見上げる。サンジはその隣に腰を下ろした。懐からタバコを取り出して口にくわえたが、ここが本屋であることを思い出して大人しく箱に戻す。
「いいのか」
「うーん……あの様子に水差すのも、なんか、ねえ……?」
「まんまと調子を狂わされたってわけか」
「うるっさいな……」
「ひひ」
肘で小突かれたサンジは大げさに避けて肩をすくめて笑った。
二人はお気に入りのラジオでも聞くように、大人しく黙って座っていた。
しばらくすると、サンジを顎を上げてつむじを本棚にコツンと当ててフム…と息をついた。
それからのっそりと動いて、本棚の影から再びわずかに顔を出してカウンターを覗き見る。視線に気づいたロビンがサンジに向かってひらひらと小さく手を振る。
彼もひらひらと手を振り返してから、自分の耳と本棚を交互に指差し、指差した本棚にヒソヒソ話をするようなジェスチャーをした。
「ロビンちゃん。オールブルーを信じるか、その子に聞いてみてくれないか?」
ポンと本棚の木枠に咲いた“ロビンの耳”に、サンジはコショコショとお願いした。
話を聞く間、伏せられていたロビンの瞼が開く。黒くて長いまつ毛がパチと上を向く。
「ね。お嬢さん。オールブルーはあると思う?」
「え、」
「さっきは無いって言い切ってたけど、ほかの見解や議論の余地はないのかしらと思って」
「うっ」
コメットは言葉を詰まらせた。下唇をはんで視線を下げ、手にしていた本を触る指先に一瞬力をこめる。
何かを思考する目をうろつかせ、脳裏で何かを逡巡しながら、彼女はモゴモゴと話し始めた。
「い、言ったじゃない。赤い土の大陸が世界を二分してるんだから、普通に考えたらありえない…………けど、その赤い土の大陸には一箇所だけ海底に巨大な穴があるっていうし、そういう穴が他にもないとは言い切れない、と思う! 海底に流れる海流は複雑で世界中をめぐってるって説もあって、」
コメットはえっとえっと、と興奮で震える指先でカウンター裏の引き出しからノートを取り出す。ずいぶん使い込まれた上、新聞の記事などをスクラップして厚ぼったくなったそれには彼女の字がたくさん並んでいた。その密度は、カウンターに広げられたノートを覗き込んだルフィが「おぉ」と声を出すほどだ。
ノートの中身までは見えないものの、声や話し方だけでも分かるその熱量にサンジは「やっぱり同じ穴のムジナだったな」と吐息に混ぜて笑って元の位置へ戻っていった。
その間、ナマエはといえば。
ぎこちなく肩を上げて口を「お」の形にしたまま、固まっていた。サンジの体が急に目の前の至近距離に来たからだ。彼はナマエの体を跨ぐように手をついて本棚の影から身を乗り出していた。本棚の端側にいたのが彼女だったから、最低限の動きで顔を出そうと思うと仕方ない体勢だった。
目の前に彼の首筋があって、衣擦れの音がクッキリと聞こえるほど近かった。いつもの煙草の匂いの隙間に男物のシャンプーの香りを感じて、ナマエは驚いて固まってしまい、それきりだ。
ここはキッチンじゃないから、ナマエは簡単に揺れてタジタジになっていた。
び、びっくりした……!! と心臓をドクドク鳴らして「みたいだね」となんとか平静を装って答えるのも一苦労である。
「なんだ、そんなに冒険が好きなら自分も冒険すりゃいいじゃねェか」
ルフィがあっけらかんと放ったこの一言が、コメットの饒舌を急停止させた。
不自然なほど長い沈黙。自ずと集まる視線の中、深く俯いていったコメットは震える声で「……、ばか、言わないでよ」と呟いた。
「私みたいなのが海に出たら、すぐに死んじゃうわよ。この海の危険は何度も読んだし、嫌ってほどこの島にきた航海者たちから聞いた。過酷な世界よそんなの分かってる!!」
「……」
「私にだって夢はある……でも、だから何なのよ。どうしようもないじゃない。特別な力もない村娘が夢見て外海に飛び出したところで、みすみす死ににいくようなものだわ、無理に決まってる」
「……」
「……行きたくても、行けない。現実は甘くない、夢なんて見れない、私はこの田舎街で一生を終える運命なの!」
思いの丈を吐ききり、コメットは肩を上下させて深く俯いていた。
ルフィはその姿を眺めて「ふーん」と真顔で鼻をほじっていた。
「おまえは弱虫だな」
「なっ、」
「死にたくないから夢を諦めるんだろ? 自分の夢を叶えずに死ぬなんて、おれは死んでもヤダね!」
ルフィはベッと舌を出して笑った。彼はコメットの不安の一切に取り合わなかった。
そんなことを言われると思っていなかったコメットは困惑と不快に一瞬顔を歪める。
すぐに罵詈雑言まがいの言い返しが始まり、カウンター周りは騒がしくなった。止めに入った方がよいかと焦り出すナマエを横目に、サンジは「行こうぜ」と立ち上がった。
「えっ、あっ…待ってよサンジ!」
「彼女は本心じゃオールブルーをバカにしちゃいない。それはナマエも分かっただろ? あ。それともなんだ、やっぱりあの本買うか?」
「違くて……! いや、あれ放っておいて大丈夫なの?」
「大丈夫さ。しがみついてきた常識だの、こびりついた価値観だの……そういうモンをひっくり返すなんざ、アイツの十八番だよ」
サンジは言った。
少しだけ自慢げに、嬉しそうに。
この横顔や船長の無法ぶりを思うと、ナマエも妙に納得できてしまった。ナマエは「……そっか」と答え、自分でも驚くほどすんなりと店を後にできたのだった。
***
サニー号へ帰る道の途中、前方からビキニパンツ姿の不審者が現れたと思ったらそれはフランキーであった。
下まつ毛がキュートな丸い目をわずかに大きくして「よォ」と気さくに片手を上げる。
フランキーは、サンジを見て「本当にそのスーツ気に入りだなァ」と笑う。返事の代わりに、サンジはネクタイの結び目を親指と人差し指で軽くつまんで得意げに口角をあげてみせた。
すれ違いざま、フランキーはサンジの肩をつかむように手を置いて耳打ちする。
「でも、今日のおめェはもっとイイ男だ」
「へ?」
「薔薇、連れてんだからよ」
「は、」
ニィと笑って2回肩をバシバシ叩いたフランキーは歩き去っていった。
……ナマエにスーツを贈ってもらったその晩。改めてゾロに喧嘩を吹っかけに行った後、サンジはもう一度フランキーにスーツを見せに行った。
一目でドローワイズと言い当てた目利きの彼に構ってもらいたかったから。そういう気持ちが半分。ではもう半分が何かといえば。
「スーツの着こなしだァ?」
「そ。アイスバーグはどんな着こなしをしてたんだ?」
「野郎のコーディネートなんて、そんなもんイチイチ覚えちゃいねェよ」
「えーっ」
「うるせーな……あー、要はあれだろ、男を上げる方法を知りたいんだろ」
サンジがコクコクと頷く。フランキーはハンと鼻で笑った。
「じゃあアイスバーグは参考になんねェよ。だが、ウォーターセブンの女は全員抱いたスーパーなおれ様に聞いたのは正解だ」
「……」
「ギャハハ中指立ててんじゃねェよ」
「ケッ」
フランキーは景気良くコーラを飲み干し。
「薔薇、だな」
と、コーラ瓶を持つ手の人差し指でピッとサンジを指差し、キメ顔で口角をあげた。
ばら…花の? 胸ポケットに一輪挿しってことか?
ラペルピンだとか腕時計だとかカフスだとかポケットチーフだとか。そういったスーツに似合う小物の類に関する返答がくると思っていたサンジは、いまいち呑み込めていない顔をする。
「アイスバーグの野郎は昔っから色気がねーのよ。バカ真面目でお行儀のいい仕事ばっかする野郎だったからな。あちこち毛ェ生えてからもパパラッチ対策だかなんだかんだ言ってよォ……薔薇のひとつもねェんじゃ、男が廃るぜ」
「薔薇……」
「おう。男を上げたきゃ薔薇一択だ」
「……うーん、ばら…薔薇かぁ。なるほどな。少しキザっぽいが、ナシじゃないな。わかった、参考にする」
「…………お前ってほんと青チャンだなァ……」
「?」
バカ真面目にメモを取る青二歳に呆れた目を向け、フランキーは新しいコーラに手を伸ばした。
フランキーとのそんな会話を思い出したサンジは無意識に足を止めた。そして彼に投げかけられた先ほどの言葉を反芻する。
「薔薇……」
“連れてる”?
「薔薇? なに、花屋にでも行くの?」
「え、いや……」
「?」
「……いや、あー。せっかくだ、ダイニングテーブルにでも飾るか。生花なんてそれこそ陸でしか手に入らねェし」
「確かに。じゃあ女部屋にも飾ろっかなー」
「おん」
もう少し連れ立っていたくて、サンジは不要不急の用事をひとつ足し、薔薇? ともう一度頭の中で考える。
行き先をサニー号から花屋へ変更し、隣を歩くナマエをチラと見下ろす。
彼女に“薔薇”という言葉を並べてみて、……なにだかしっくりくるのを感じ。
「…………」
肩を叩いてきたフランキーの意味深な笑みを思い出す。
サンジはソワソワする胸に無理やり目を瞑って、村の花屋へ向かった。
こじんまりとした可愛らしい花屋だった。
オレンジ色の煉瓦屋根と焦茶の太い木柱はいかにもカントリー風といった素朴な風体で、店の表には色とりどりの花が鉢いっぱいに咲いている。高い位置に吊るされたプランターから垂れる豊かな緑が作る日陰が目にやさしい。
店内には花束用の切り花を活けた木製の水桶が所狭しと並んでいる。足を踏み入れたサンジは、芳しい花の香りの中で「ほぁ…」と無防備に口をあけて自分を囲む花々を眺めた。
「あら、いらっしゃい」
「こんにちは、マダム。ダイニングテーブルに飾る花がほしくて。見繕っちゃくれないか?」
「素敵。どんな色がいいかしら。イメージはある?」
「ええと、メシの時に目に入るから……青? じゃない方がいいのか? この手のこたァ全然わかんねェや……」
「テーブルクロスか壁の色を聞いても?」
小柄でよく笑うマダムだった。
サンジの話を聞きながら切り花を何種類かスルスルと選んで組み合わせて見せ、素敵なブーケを提案してくれた。
マダムが花を包んでくれている間、サンジははたとナマエは? と思い出して振り返った。
店内に彼女の姿はない。
姿を探して店の外を見やると、大柄な男が店先にしゃがみこんでいた。よくよく見るとその隣にナマエもしゃがみこんで、男と何やら話している。腕が丸太のように太く、いかつい眼光とゴワゴワの顎髭が立派な男と、店の表に並んだ植木鉢の前で。
絡まれてるのかと一瞬勘違いしかけたが、男はマダムと揃いのアップリケがついた可愛らしいエプロンをつけていた。亭主か店員かボディガードの類でおそらく無害だろう。
「すべて有機肥料だけで…つまりこの子たちも無農薬で育ててるんですね……」と極めて真面目で本気な様子で呟くその横顔には既視感があった。
ピンときてしまったサンジは下唇を突き出し、目をぐるりと回して鼻から小さなため息をつく。彼はそのまま店の奥へと踵を返し、ブーケのリボンの形を整えるマダムに「もうひとつブーケをお願いしても?」と声をかけた。
「ええ。今度はどんなのが良い?」
「うーん……なんか可愛くて、気の利いたやつ」
サンジは眉を下げ、肩をすくめてキュートに口角を上げた。
ティーンの男の子らしい大雑把なオーダーにマダムはころころ笑い、完成したひとつ目のブーケを作業台の横に寄せた。
サンジは再び切り花を選んで歩くマダムのあとをヒョコヒョコついていき、「これは?」と思いつくまま提案をして「大ぶりすぎでバランスが悪くなるわ」と断られたりしていた。
おばあちゃんに懐く孫みたいで、マダムも悪い気はしなかった。
「……あ。これ入れたい」
サンジがそう言って指さしたのは、赤い薔薇だった。
いま作っているブーケはガーベラとカスミソウなどを合わせたものだ。薔薇ならガーベラにも合うだろうが……はたして色味はどうだろう。と、少し止まって思考したマダムを見て、サンジは一度視線をチラと逸らして「い、一本。…一本だけ」とちいちゃな声で駄目押しをする。
マダムはその視線の先をたどった。
視線の先は店の外で、自分の亭主の隣にいる女の子である。
それだけでマダムはハハンと理解して「サービスよ」と赤い薔薇の水桶を手のひらで示した。好きな一本を選びなさい、という意味だ。
サンジはパッと目を大きくして、水桶に駆け寄った。
そして、散々悩んだ末にツボミの薔薇を選んだ。どうか長く眺めてほしいから。これから花弁を綻ばせるであろう可憐なツボミの薔薇にした。美しく花ひらいた暁には、どうか笑顔で薔薇を見せにきてほしいから。
期待に胸を膨らませたサンジはマダムに「ありがとう」と薔薇を託してすぐに、う、と思う。
やっぱりブーケのバランスを崩してしまったかも。淡い色調のブーケに赤いツボミは鮮やかすぎる気がする。そもそも一本だけ薔薇があるなんて変じゃないか?
でも……入れたくなったのだから仕方ない。
ナマエに薔薇をあげたくなったのだ。
……別に、いいじゃねーか。
おれ、アイツのこと好きなんだし。
サンジはそう自分の心を雑に言い負かして、これでブーケを完成させてもらうことにした。
マダムにブーケの包装をお願いし、ラペルを軽く引っ張って背筋を伸ばす。フン、と気持ちを入れ替えて、ようやく店の表へ踏み出した。
近づいてきたサンジの影に、ムキムキのエプロン亭主は「ごゆっくり」と腰を上げて店の奥へ引きあげ、彼女の連れに場所を譲った。
「ナマエ。女部屋に花壇でも作る気か?」
「サンジ……」
「たぶんおれはいま、お前が考えてることを当てられるぜ。当ててやろうか」
「う……わ、私にも言い分がありまして……」
「気持ちはわかるが、“育てる側”に回ったら果てしないぜ? こだわり出したら終わりなんかないって分かるだろ?」
「わっ…分かってる……分かってるけどさ〜……!」
「ひょっとしてご存知かもしれないが、ヒトってのは体はひとつで腕は2本きりだし、1日はわずか24時間だ」
「でもやっぱり皿の上にも彩りって大事じゃん? 盛りつけひとつで食欲は変わるし、あ、あ、クッキー焼きたい。可愛いよね、可愛いよ絶対。じゃあ砂糖漬けにして紅茶に浮かべるのはどう? え、駄目? 素敵じゃない? 違う? むしろ何が駄目?」
「観賞用の花を買いに来たのに食おうとすんなっつってんだよ」
「ううう」
二人の間で暗に語られているものは、エディブルフラワーである。
店の入り口横には「食用花あります」の札があった。
観賞用に育てられた花と食用に育てられた花は別物として考えるのが一般的だが、この店は観賞用・食用のどちらも同じ栽培方法らしい。
エディブルフラワーが欲しければ素直にそちらを買えばよろしいところを、花屋の亭主を来店早々つかまえてあれこれ聞き出して長考していたことから察するに、ナマエは鉢売りされてるものを持ち帰って旅路の中で育てる計画を目論んでいるのだ。
「ったく……豆苗じゃねェんだから……」
「……」
ナマエはムイ…と唇を突き出した。
サンジの賛同を得ることに失敗した彼女は、なおも諦めきれずにプランターに収まる花々を見つめている。
隣にしゃがみこんだサンジは折り曲げた膝に頬杖をついて、料理バカめ、とひとつ思う。
チクショウ、おれはこの横顔が無性に好きなんだよな、とも。
「……で、どれ」
「え?」
「だァから。どれすんだ? パンジー? ビオラ? 砂糖漬けなら王道のスミレか?」
「え、え? 買ってもいいの?」
「おれのためにずいぶん草臥れてくれたみてェだし……礼だ、礼」
「! えっと、うーん! そうだなあ」
幸せいっぱいで悩みに悩んだ結果、ナマエは紫と黄色のツートンカラーのビオラをチョイス。理由は2色入っててお得だから。
サンジはナマエが選んだビオラの鉢を持って、マダムと亭主がいるカウンターへ向かった。すでに綺麗に包装された2つのブーケに気づいてナマエは「女部屋の…いつの間に……」とマヌケにこぼしていたが、サンジは無視を決め込んだ。女部屋用と思っているなら勝手に思い込んでいろ、と。
サンジは支払いを済ませて、一輪の薔薇が入ったブーケをナマエに差し出す。
「おらよ」
「わあ、可愛いね。あ、薔薇だ。ね、ここ、切り花も有機肥料だけで育ててるんだって」
「…………食うなよ?」
「………」
「食、う、な、よ」
「はーい……」
「料理バカめ……」
「は? その言葉、そっくりそのままお返しするけど」
「ハン、勝手に言ってろ」
「料理バカ!」
「はいはいはいお前にゃ負けるよブワァーカ」
「キイ!」
低レベルな喧嘩をマダムにクスクス笑われ、二人はハッと口をつぐんで頭を下げてそそくさと店を出る。
サンジはダイニングテーブル用のブーケとビオラの鉢を持って、ナマエは一輪の薔薇が鮮やかなブーケを持って帰船した。
***
早速ナマエは女部屋に花を飾った。
女部屋のテーブルの真ん中、花瓶に活けられた花を見てロビンとナミは喜んだ。やっぱり花があると部屋の雰囲気が明るくなると好評である。
「今日サンジと一緒にお花屋さん行ってね、私のはこっち」
「あら、ビオラね。それも可愛いわね」
「ふふん。無農薬で育てられてるらしいから、エディブルフラワーにするんだ。押花にしてー、乾燥させてー……ふふふ、クッキー作ったらおやつに出すね!」
「食べる花を買ってくるなんてアンタらしいわね」
「おやつだったらバタークッキーもいいけど、ステンドグラスも捨てがたい。ゼリーに入れたら綺麗だろうなー。シフォンケーキかマフィンにトッピングしてもいいかも」
ナマエは使い込まれたレシピノートをベッドの上に広げて寝そべり、足をパタパタさせてご機嫌である。ビオラの鉢はヘッドボードの上にちょこんと置かれている。
はあ。とナミがため息をついた。
「サンジ君ですら花の第一義は愛でることって知ってるわよ……」
「あ、ちなみにブーケのお礼はサンジに言ってね。このブーケを選んでくれたのはサンジだから」
「そうなの?」
「私も女部屋に飾るつもりで買いに行ったんだけど、つい鉢に夢中になっちゃってさー……そしたら、いつの間にかサンジが買ってくれてた」
「あらあらあら〜……ふーーーーん」
「?」
ナミは大きな目をパチッと大きくしてフムフム頷き、お宝を溜め込んでいる宝箱型の収納ボックスをあける。
そして。
「じゃ、これはナマエに」
「え?」
件の薔薇を活けなおした一輪挿しをナマエの目の前に差し出す。細長いシルエットの白磁に赤が凛と映えていた。
しかしナマエは中途半端に起き上がった格好のまま、キョトンと瞬いたきり。なので、ナミは勝手にヘッドボードに一輪挿しを置く。
「え、え?」
「お礼ならいいわ。サンジ君に言ってもらうから」
「え、いや、薔薇いいの? 一本しかないのに」
「くれぐれも食べるんじゃないわよ」
「食べたらサンジに言いつけるわ」
「なによロビンまで……! たっ、食べないよ!」
ナミは踵を返して爽やかに女部屋を出た。
「サンジくーーん! 私にお礼を言いなさーい!!」
「え? え? いつも可愛くてありがとうナミすわぁーーーーん!」
部屋を出るなり、そんな会話が扉の向こうから響き渡る。
バカ満開である。いつも通り元気そうでなによりだ。
「本屋のお嬢さん、すっかり誑かされてしまったわよ」
「え?」
「悪い海賊に。近いうちに家族を説得して、海に出るんですって」
「……へえ。そう、…そうなんだ」
ナマエは気のない返事をしながらレシピノートに再び目を落とす。
しかし、その口もとは緩く弧を描いていた。
***
「……なに、よ」
コメットは店のカウンターの正面に堂々と現れたナマエにたじろいだ。
本屋での一件があってから1日半後のことだ。
「島を出るって聞いたから」
「え、…あっ、あ。アンタの船って、あいつらの……! 〜っ、あーもう! そうよね、なんで気づかなかったのかしら、同時期に何隻も船なんか来るわけないのに……!」
コメットは苦い顔で気まずそうに目を逸らした。素直なごめんなさいよりも先に見栄と悪態が出てしまう。しかし、今日のナマエはこんな態度にも眉ひとつ動かさず。
「まあ、そんなことどうでもよくて。はい」
「……? なに……?」
「トラブル回避マニュアル」
「は?」
「戦闘能力もないただの女が渡るには確かにつらい海よ。だから対策を頭に叩き込んだ方がいいよ」
「なっ…おっ、大きなお世話よ! 船も仲間もいるアンタに何が分かるのよ!」
「は? なに言ってんの。今でこそルフィの船に乗せてもらってるけど、私だってそれまでは東の海からあちこちの船や街を渡り歩いて一人旅よ」
「は。は、あ? え? そうなの?」
「でもただの女コックが死なずにここまで来た。私にできてアンタにできない理由ってなに? 素直さの違い? 捻くれ方の芸術性?」
「喧嘩売ってんの!?」
「売られたから売り返しただけよ。これでチャラ! はいじゃあいい? そのいち! 上手い話には裏がある!」
「ちょっと!」
先日のロビンに代わり、本日は完全自立型乙女・ナマエの講義が始まる。
ナマエが強引に話を始めれば、意外にもコメットは困りながらも真面目にノートを取り始めた。つっけんどんな口調で「こういう時はどうすんのよ」と積極的に質問をし、立ちっぱなしだったナマエにカウンターの内側に重ねて隅に寄せていたスツールを出してやってから当たり前のように講義に戻った。
コメットちゃん、根は真面目なのである。大量の活字に囲まれて蕁麻疹を出さないだけのことはある。
幼い頃から文字の海の中で夢想に耽り、たまに島を訪れる自由な冒険者に話をねだり、たまらなく胸を膨らませて、絶望する。それの繰り返しだった。
大きくなると自分の背丈が分かってしまう。
理解者のいない田舎町。夢見る気持ちは人一倍できっとそれは素敵なことのはずなのに、純粋な憧れは羨望と妬みに形を変えて彼女を嫌なヤツにした。
「あとはー、んー……なんだろう。あ。結局は素直が一番よ。一人で何でもやるなんて無理なんだから、分からない時や困った時は素直に助けてって言ってみると案外助けてもらえるもんよ」
「……なにそれ嫌味?」
「なんで?」
「……芸術的な捻くれ方とか言ってきたくせに」
「あ、言ったわ。……でもアンタなら大丈夫じゃない? 夢を追いかけてる時は、けっこう、素直みたいだし?」
「な、」
「海底の海流の話、もっと聞きたかったわ」
「……! アンタも大概捻くれてるわね!」
「ふふ! ありがとう!」
ナマエは口を開けてカラッと笑い、拳を突き出す。
コメットは突き出された拳をムムム…と睨んで、少し迷ってから、自分の拳をそれにコツッ…とぶつけた。
「きっと良い旅になるよ」
ナマエのこの言葉に、コメットは思わず涙が出そうになった。
家族の理解は得られていない。むしろ、まったく馬鹿げていると聞く耳すら持ってもらえない。夢を笑われ、相手にもされず。心配からくる拒絶と頭では分かっていても、辛いものは辛かった。
折れそうなコメットの心に、ナマエの拳の温度がいたく沁みた。
「さ。大体こんなもんかな」
「あっ、」
ナマエは満足してスツールから立ち上がった。椅子ありがとね、とスツールをレジカウンター側へ軽くよけてすっかり帰る様子である。
コメットは中途半端に口を開けて焦る。
どうしよう。もう行ってしまう。帰っちゃう。どうしよう。
「あっ。ありがとう!」
「!」
「……あと…この間は、ごめんね……」
勢いで立ち上がったものの、声は尻すぼみになる。
俯いてしまった。目が泳いでしまった。ちゃんと謝りたかったのに。どうして私はいつもこうなのよ。ばか。
胸の内側が端っこからチリチリ焦げていくようだ。
しかし。
「オッケー! 伝えとく!」
ナマエはまったく気にせず、帰ろうと出口に向かっていた足をコメットへ向けて言った。
そして、忘れるところだった、と言いながらリュックをあさる。
「手作り平気?」
「え……うん……」
ご近所さんが鍋ごと夕飯を分けてくることなどしょっちゅうだ。コメットは呆気に取られてナマエの手元を眺めていると、小さな紙袋が差し出された。バターの香りがふわりと香る。
「あげる。じゃね」
ナマエはそう言って、今度こそ店を出て行った。
カウベルがカロンカロン鳴る。コメットは彼女が軽やかな足取りで去っていく姿を窓からぼんやりと目で追う。ベルが鳴りやんで、店内が再び静かになるまで、コメットはもらった紙袋を持って立ち尽くしていた。
「……クッキー」
紙袋の中身はクッキーだった。
円形のアイシングの真ん中にビオラの花弁が添えられている。シンプルでありながら、乙女なら誰でもキュンとくるような素朴な可愛らしさであった。
コメットも例に漏れず。わ…と小さく息をついて一枚手に取り、さっそく一口かじる。
もちろん味はお店で売られているようなレベルだ。コメットは目を丸くして一瞬止まり、お、美味しい…! と感動しながらクッキーをまじまじ見つめて咀嚼を再開する。
「な、なにもの……?」
その答えは、いずれオールブルーを見つける海の一流料理人が太鼓判を押す一流料理人である。
かわいそうなことに、コメットはこの時食べた以上のクッキーに海へ出て旅を始めてからも一度も出会うことはないのだった。