15
「あ゛ー……」
島デートを終え、ナマエと並んでサニー号の外壁を見上げたサンジは、船から漏れ聞こえる喧騒を聞いてゆっくりと顔をしかめた。
胸騒ぎに足を速める。素早くナマエを横抱きで抱えて甲板へひとっ跳び。
この胸騒ぎとは、宴の治安管理ができていないということ。つまり、船長を筆頭とするアホどもに食糧庫を荒らされる危機であり、レディたちへの不貞と無礼を阻止する者がいない地獄であるということである。
往々にして嫌なことほど当たるもので、宴会の真っ最中であるサニー号の甲板は、サンジの予想通りであった。
「おいクソマリモ。それ以上触ったら、殺す」
「はあッ!? どう見てもナミの方から肩組んでんだろうが!!」
「キャハハハ」
「殺す」
「それしか喋れねェのかてめェ!!」
「てめェに使う語彙なんてこれ以外必要ねェ!!」
甲板へ降り立った途端、サンジはゾロへ殺人予告をしながらナマエを腕から下ろした。ゾロの証言の通り、酒で上機嫌になったナミが無理やり肩を組んでいるだけで彼は被害者側である。が、なおも殺人鬼の目で睨んで無辜のゾロに爆ギレしつつ、サンジは厨房へ直行。
勢いそのままに、鍵付き冷蔵庫の破壊を試みる船長を絞めあげ。
生け簀の魚を片っ端から掬い上げて塩焼きにせんとするウソップをどつき回し。
何をどうすればこうなるのかまったく見当がつかぬほど汚れ散らかしたブルックをロビンから一番遠い所へ蹴り飛ばし。
チョッパーは変態メカおじさん(フランキー)のニップルライトイルミネーションにはしゃいでいるだけだったので放置。
サンジは船で起こっていた混沌へ完璧かつ迅速に対処した。そのあと、出来合いのオードブルでは到底満たされ得ぬクルーたちの胃袋を隅々までみっちりと埋めてやるべく、追加のつまみを作り始めたのだった。
デートの甘酸っぱい空気は、サンジがサニー号の前で顔をしかめた時点で崩れていたが、ナマエはそれほど落ち込んではいなかった。
彼がゾロへ殺人ビームを照射していた頃には、あのしかめっ面にスッキリ納得し、いまこの場での必要な行動を理解し始めていた。頭をキリリと切り替え、甲板に放置された汚れた皿を回収しながら彼女も厨房へ。冷蔵庫の前で死体にされた船長を踏み越え、サンジから投げ渡されたDOSKOIパンダエプロンを身にまとう。着替えすらも二の次にしてきびきびと動き出した。
こうして無事にピークを乗り越え。
「いやマジでこれすげーな。スーツなのにこんなに動きやすい! ちょっとあのクソ剣士蹴ってくる!! ナミさんの柔肌に触れやがって……天誅だ!!」
と、サンジは純然たる私怨で溌溂とゾロに喧嘩を売りにいった。そのまま宴会に混ざってスーツ自慢をしたいのだ。ソレどうしたのと聞かれたくて、実はねと話したくて仕方ないのである。
船に帰って顔を合わせて早々、「アン? ずいぶんイイの着てんじゃねーの。ドローワイズか? アイスバーグの野郎も何着か持ってたな」と乳首のライトを落としてフランキーは声をかけてくれたけど、それじゃ足りない。もっと話したい。
ナマエは彼の分かりやすい喜びぶりにじんわり嬉しくなりながらその背を見送って、汗を流しに風呂へ向かった。
「……」
洗い終えて湯に浸かったナマエは意味もなくピンと伸ばした指先を眺めていた。湯けむりに霞むそれはいつもと変わらず、なんの変哲もない。
ちゃぷ、と腕を湯に戻し、湯船のふちに背中を預けてずりずりと肩まで浸かる。
サニー号の大浴場。使用者はナマエ一人で貸切状態。もうじき日付を跨ぐ時間だが、外からは宴会の賑わいが漏れ聞こえる。もうお開きだ、しまいだ、と何度ゾロが叫んだところで止まる気配はない。
風呂場は静かで水の滴りも彼女の呼吸も、小さな鼻歌もよく響いた。
緩む口元を湯船に沈める。今度はつま先を水面に出してちゃぷちゃぷと浮かれて水紋をつくる。
『 今日のナマエは、一段と綺麗だ 』
サンジの言葉を思い出す度、気持ちは新鮮な桃色になった。
ようやく少しは美しい薔薇になれたってことかな。いや、服装のせい? 単なる褒め言葉のお返し? 社交辞令? 酔っ払いの冗談? ああもうそんなのどうでもいいったら!
浮かれ防止のネガティブな内なる声は簡単にかき消され、きゅんと上向いたハートは茹だって柔らかいままである。
「ふふ、」
大浴場の外扉には、サンジがウソップに作らせた使用中札がきちんとぶら下がっていた。
***
「ここか?」
「そうそう。こう、斜めに刃を入れると綺麗にいけるはず。結構硬いんだけどできそう?」
「よっ。……こんな感じか?」
「おーすばらしい! お見事! ゾロ上手だねえ」
「本当にこんなもんが高く売れるのかよ」
「売れるよー。ダイヤモンドくらい硬いから意外と職人さん界隈で喜ばれる。耐久性のあるパーツだとか研磨材だとか。ナミの借金を利子込みで返済するくらい余裕だよ」
「へえ……」
「あっ、でも一括返済しないでね。一応小分けにして返して。お金の出所を聞かれるとまずいから」
「ハハ。なんだお前、この金策はナミには隠してんのか?」
「言わないで。言ったらこの素材もあげないし、返済も手伝わない」
「へえへえ。黙っとく」
「まったくもう……」
晴天の甲板の片隅。まだ島陰は見えないものの、次の島の気候海域に入ったとみえて、サニー号は穏やかな航路を悠々と進んでいた。
ゾロは和道一文字を鞘に納め、エコバッグに入るサイズに切り分けたひとカケラを太陽にかざしてまじまじと眺めた。
彼が手にしているのは、イカの軟甲だ。元は胴体だけでも2メートルはあろうかという大きさの巨大イカのものである。偉大なる航路で逞しく生き抜く生命体らしく、本来は大して硬度のないはずの軟甲も頑丈に進化していた。
「んで? こんな裏稼業のブツをおれに流してくれる理由は?」
「え?」
「最近、やたらと酒のつまみも作ってくれるだろ。ありゃ一体なんなんだ」
「あんまり好みの味じゃなかった?」
「いやうめェけどよ」
理由のない親切はなんだか薄気味悪いらしい。
ナマエは口を広げたエコバッグでゾロが放った軟甲をキャッチする。カランと硬い音を立ててエコバッグに収まった。
ウロ…と目を泳がせて言い淀む彼女に構うことなく、ゾロはまっすぐ目を向けて返答を待つ。ほんの少しの容赦や手心もない男である。
「んー……ゾロにはお世話になったし…そのお礼」
「……礼?」
「あ゛? おうマリモ、てめェこいつになんの世話したんだ」
「あ゛? 知らねェよ。おいナマエ、おれがいつお前を世話したってんだ」
「や、こっちの話なんで。気にしなくて大丈夫です」
「待てコラ、ちゃんと説明していけ。厄介ごとに巻き込まれる気配がする」
「クソ緑ヘッド、てめェ夜な夜な酒と食糧減らしやがって。禁酒しろ、禁酒」
「てめェは禁煙しろ。チョッパーに禁煙するっつってただろうが。吐いた唾呑んでんじゃねェぞ」
流れるように参戦して喧嘩を始めたサンジは本日、超一流老舗スーツブランド・ドローワイズのブラックスーツを身に纏っている。
シャツはあの青シャツではないものの、洗練されたこのスーツと合わせればどんなものも一流に見えた。シャツやネクタイの組み合わせを変えて楽しみつつ、2日ぶり3回目の着用である。
本当はナマエがくれたこのスーツを毎日でも着たいのだが。サンジは、ドローワイズのスタッフがしたためてくれた“紳士服の取り扱いのいろは”を忠実に守って、この欲求を控えている。スーツも靴と同じで、毎日着るとあっという間に着潰してしまうからダメなのだ。
スーツを購入したあの日、スタッフはナマエの言いつけ通り、サニー号にサンジが来店時に来ていた衣装一式を届けてくれた。船番のウソップに託したそれらに、一通の封筒を添えて。
その封筒の中には、スーツの手入れ方法が丁寧に書き綴られていた。着用したその日に推奨される服のケア、着用頻度、保管方法、洗濯方法、干し方などなど。船舶料理人とナマエから聞いていたため、特に食べ物の汚れや匂いがついたときの対処法は詳しかった。単なる洗濯方法や洗剤の紹介に留まらず、洗剤が手に入らない場合も想定して長い海上生活や寄港した島でも比較的入手しやすい代用品まで綴られていた。
サンジはこれを見て、「さ、さすが……」とプロフェッショナルな仕事ぶりにただただ感動。痒いところに手が届く、アッパレな心配りがされた指南書であった。きっとサンジがこのスーツを一等大事にするであろうと解ったからこその気遣いである。
したがって、彼はスタッフの心意気をしかと受け止め、せっせと大事にしているのだった。
大好きな子にもらった超カッコいいスーツを、未来永劫、最高の状態で、最大限に着ていくために。
***
次の島に降り立ったウソップの感想は「おー! シロップ村みてェで懐かしいな〜!」だった。
のどかで牧歌的と言えば聞こえはいいが、要は田舎町である。一次産業がメインで保守的な層が厚い。限られた海域内での交易を通じて近隣諸島の文化や流行を知ることは一応できるが、情報が入ってくる頃には巷での熱はやや翳っていたりする。
比較的穏やかな航路だったため食糧のロスは少なかった。買出しはいつもよりあっさり終わり、サニー号での食糧整理が済んだ途端、サンジは「おれもちょっくら買い物してくる」とウキウキ船を降りた。指南書にあったスーツの手入れに必要なアイテムやその予備と代用品を揃えに行くつもりなのである。
これがウォーターセブンの女は全員抱いたと豪語するフランキーならば、第二のデートに繋げることも容易だったが。いかんせんこの男はスーツを贈られた時点で喜びの頂点を迎えており、あとはずっと浮かれているため詰めが甘い。スーツの手入れ用品探しでも一緒に街を歩く口実になると気づけていないのである。
マァ、女にとってはコスメを買いにいくようなもの。買い物に付き合わされた異性が楽しいものだとは思わないため、サンジにははなから誘う頭がなかった。
“悪いな、付き合ってくれたお礼にどっかで飯奢るよ”……そう言えれば立派なデートなのだが。彼は男子校(バラティエ)育ちの19歳なので、悲しいけれど仕方のないことだった。
サンジの背中を見送ったナマエはのどかな町の雰囲気を思い返し、さんさんと陽の注ぐ甲板でぐー……っと伸びをして。
「私も買い物行こっかな」
と、のんびり町を回ることを決めたのだった。
ナマエが買うものと言えば、レシピ用のノートやインク、食材のスケッチに使う色鉛筆だとか。それから砥石やクレンザーといった調理器具のメンテナンス用品。換金用の素材を回収・保管するアイテム、日焼け止めや化粧品などの日用雑貨……マァ緊急性の高い品はないということだ。
気ままに町を歩いた最後に、なにか面白いレシピ本か食材図鑑なんかがあるといいなという気持ちで、彼女は本屋を訪れた。
OPENの札が掛かる木の扉を開くと、頭上でカウベルがカロンカロンと鳴った。店奥のカウンターから「いらっしゃいませえ」と気の抜けた声が聞こえる。「ごゆっくりどーぞお…」という声掛け以降は無音。
客はナマエ一人で、店番も声の主である若い女だけだった。
「あ、」
店内をぷらぷら見て回っていた彼女の足は、カウンター近くのとある一角で止まる。
見つけたのは古ぼけた青い本だった。表紙には少し剥げた金の箔押しで“All Blue”の文字。
思わず手を伸ばし、本を開く。
どこかの時代に生きた航海者の冒険記であった。自身の経験や見聞からオールブルーの可能性を幾章にもわたって書き記している。ナマエは胸をドキドキさせながらページを手繰る。
“次の冒険者へ私の夢を託す”——本はそう締めくくられていた。筆者はオールブルーを見つけられなかったようだ。しかし、この言葉に込められた気持ちは絶望ではない。
「オールブルー。知ってる?」
「え?」
頬杖をついた店番の女・コメットはカウンターの内側から唐突にナマエに声をかけた。
「東西南北、すべての海の魚たちが集まる幻の海域。“奇跡の海”よ」
コメットは大きな猫目をキュッと細めて微笑んだ。彼女のグリーンの瞳は窓から差し込むわずかな光でもブリリアントカットされた宝石のようにキラキラ輝いて印象的だった。
まさか声を掛けられると思っていなかったナマエは言葉を詰まらせた。
彼女は面食らうナマエに構わず「その本、ずいぶん熱心に読んでたわね」と、頬杖の腕を組み替えてニコニコと会話を押し進めた。
「え、ええ…まあ……」
「旅の人よね。あなたコック? それとも海洋学者?」
「……コックだよ」
「ふふ、そう。なら教えてあげる」
「?」
「オールブルーはただのおとぎ話よ。北の海で有名な嘘つきノーランドや海の戦士ソラと一緒!」
コメットは甲高い声で笑った。
分かりやすい悪意と嘲りでできたグレーの笑い声である。
これにナマエは体中の血液の温度がザーッと下がっていくのを感じた。
長く旅をしていれば様々な人間に出会うが、真正面から悪意をぶつけられたのは久しぶりだった。久しぶりに、頭が真っ白になった。
「オールブルーなんて現実が直視できないボンクラが描く絵空事」
「……黙って」
「赤い土の大地ってご存知?あなたにおすすめの本があるわ。右隣の棚、茶色の背表紙。地理の本よ。勉強してみたら」
「黙ってって言ったの」
「やだ、怒ってる? あなた。本当に信じてるのね。クスクス。それはずいぶんと…おばかでかわいいこと」
「……っ、次それ言ったら、許さないから」
ナマエはコメットをキッと睨みつけ、本を元の場所に戻してカツカツと店を出ていった。
店の中には退店時のカウベルの音だけが間抜けに響いていた。
コメットはベルの余韻が失せるまで姿勢と表情を崩さず、しかし店内が完全な静寂に戻るとカウンターに突っ伏した。
「……ばっかみたい」
誰にも聞かれないその声は、取れないシミのように古いカウンターの天板に染み込んでいった。
店を出て行ったナマエは、前だけを向いてザクザクと歩いていた。
彼女はいま、震えるほど怒っている。怒りで顔を白くして、眉間に深い皺を刻み、唇をきつく引き結んでいる。
あの場で喚き散らさずに店を出たのは、なにも彼女が大人だったからではない。怒りすぎて語彙力が吹き飛んだのだ。パンチの利いた返しをしてやりたかったが、なにも出なかった。感情に任せて怒鳴ってやりたがったが、それも上手くできなかった。
ナマエは普段あまり喧嘩をしないからだ。だから咄嗟にうまく怒れなかった。
発露できなかった怒りが腹の中で暴れていた。
消化不良な激情に完全に自身の主導権を奪われてしまっていて、慣れない怒りに握り込んだ拳まで震えている。
「ぅ、」
そして、ついには涙まで出た。
もう買い物をする気分ではない。でも船に帰りたい気分でもない。というか、こんな状態じゃ帰れない。
仕方なくナマエは涙と感情が収まるまで街でじゅうぶんに時間を潰し、深呼吸をしてからサニー号に帰った。
船内で誰にも会わないと良いなと思ったけれど。ついいつもの癖でキッチンに向かってしまった。
キッチンの扉を開けると、サンジがいた。彼はひと足先に買い物から帰ってダイニングテーブルでのんびりと新聞を読んでいた。
彼女はその顔を見て。
「……」
「お。戻ったのか。ナマエもいい買い物できたか?」
悔しさがぐわっとぶり返した。引っ込んだはずの涙が溢れてくる。
まだ日が高いおかげで、サンジ以外にはまだ誰も帰って来ていないことが救いだった。
「……」
「……おい、どうした。なんかあったのか?」
「……」
ナマエの涙を見て、イスから腰を浮かせてサンジは反射的に鋭い声を出す。しかし彼女はフイッと顔を背けた。
かたく口許を結んで、斜め下に視線を逸らして床を見つめる。両目に溜まった涙がこぼれないようにするため、眉間にはクッと力が入っていた。息が震えるのを必死に抑えている呼吸の仕方だった。
イスから立ち上がった格好のまま、サンジは彼女の横顔を静かに見つめた。
「……怪我は」
首を横に振る。
「……ならいい。マ、言いたくねェこともあるわな。話したくねェならいまは聞かねェよ」
サンジは少し考えたあと、彼女から視線を外して何度か小刻みに頷いてあっさりと言う。そうしてナマエの黙秘を尊重した。
そのままコンロの前へ行って、袖をまくりながら「なんか飲むか?」と声をかける。彼が事情を聞かないでくれたから、彼女は大人しくカウンター席に座った。
すぐに出てきた温かい飲み物には、ペールブルーのハンカチが添えられていた。ナマエは小さな声でお礼を言って、ハンカチで目の端を押さえるに拭ってからちびちびと飲み始めた。サンジは「ん」と簡素な返事をして、昨日作ったいちごのパート・ド・フリュイも出してやる。
甘いものはブルーになった彼女の心に甚く沁みた。涙はじわーっとしつこく込み上げてなかなか枯れなかった。その間もサンジは何も聞かず、いつもの様子でキッチンでテキパキ動いていた。
何も聞かないことがありがたかった。二人きりのキッチンにはやさしい沈黙が流れ、料理をつくる音だけが満ちている。
しばらく経つと出来上がった料理が皿に盛られてナマエの前に置かれた。ご丁寧にナイフとフォークも置かれているので、食べてもいいぞということだ。また少しすると、また別の料理が。ひとつ、ふたつ、みっつ…と増えていく。
カウンターはそこまで広くない。
だんだんと狭くなっていくカウンターにナマエはようやく何かおかしいなと思う。
「……いくつ作るの?」
「ナマエが泣き止むまで」
「え…、」
さらりと告げられる。
並んだ料理をよくよく見れば、すべてバラティエのメニューだった。賄いメニューとして二人でアレンジを考えたものまである。
サンジにしかできない慰め方だったし、ナマエにしか分からない慰め方だった。
「……これで私が泣き止まなかったらどうするのよ」
「おれは料理を作り続け、食糧庫を空にしてナミさんに怒られる」
「それは、困るね……」
「なにを他人事みてェな言い草をしてやがる。ナマエも一緒に怒られるんだからな。軽く見積もって、甲板に正座1時間ってところか?」
「ふふ…やだなあ」
「……ふう。泣き止んでくれて助かったぜ。これで食糧庫を空にしちまったんじゃあ、今後、食糧庫漁りのクソ野郎どもに説教しづらくなるところだった」
ナマエが涙を拭ってクスクス笑い始めたので、サンジもようやく笑みを浮かべて手を止めた。
サンジは彼女のために並べた皿からお行儀悪く肉をひと切れつまみ食いして、「で?」と尋ねる。
「お前を泣かせたのはどこのどいつなんだ?」
「……」
「…………」
「も、もう。フライパンしまってよ」
「まだ必要かと思って」
「いいってば」
「あそ」
ナマエは一瞬怒りをぶり返したり言葉に迷ったりしながらも、本屋での出来事をぽつぽつと話し始めた。
彼女が落ち着いて話せるよう表情には微塵も出さなかったが、サンジは内心気が気ではなかった。あのナマエが泣いて帰ってくるなんて。怪我はないと言っていたが、では一体何があったというのか。
サンジの愛しい女を泣かせたものとは何なのか——……。
彼は固唾を飲んで彼女の話をじっくり聞き。
「…………お…終わりか?」
真剣な顔のまま、戸惑いのため一度だけ目を泳がせ、真剣な声で思わず尋ねた。
ナマエは静かに小さく頷く。涙は出ていないが、また眉間に皺が寄っていて口はひん曲がっている。
やはりいま話した“コレ”が原因で泣いているらしい。そう思い至って……やはりサンジは戸惑いで斜め下に視線を向けて、難しい顔のままパチパチと瞬きをし……。
「おれの夢を笑われて、なんでナマエが泣くんだよ」
と、首を傾げた。
彼の心の底から出たキョトン…とした声に、ナマエは勢いよく顔をあげる。
「だ、だって。むっ、ムカつくじゃん!!」
握った拳でカウンターの天板を叩き、そう真っ直ぐに声を上げた。目尻にまたじわっと涙が滲む。
勢いに押されてサンジはわずかに顎を引き、しかしやはりキョトン…と目ばかりを丸くして怒り顔のナマエと見つめ合う。
「……く。くやしいじゃない……」
先に目を逸らしたのはナマエだった。
お母さんに分かってもらえなかった子どものような不貞腐れた声で唇を尖らせる。スン、と鼻をすすって手の甲、親指の付け根のあたりで目尻を抑えるようにして水気を拭う。
ピートに食材当て勝負でズルまがいのことをされた時も怒っていたし、そもそもサンジはバラティエで彼女と散々喧嘩をしていたが。それらとは比べ物にならない怒りようだ。
語彙力は限りなく貧弱だけど、物凄く怒っている。
泣くほど、怒っている。
サンジの夢を笑われたくらいで。サンジ以上にハラワタを煮え繰り返して怒りで心を満たしている。
これにサンジは、笑ってしまった。
「なっ、なにヘラヘラ笑ってんのよぉ……!」
「ふ、はは、うん、うん……あはは」
「も、もうなに、悔しくないの!? アンタの大事な夢を笑われて、は、腹立つでしょ!?」
「うん、そらもう、悔しいさ。でも、…うん。もういいよ」
「そんなわけないでしょ! 能天気すぎ!」
「おれの代わりにナマエが怒ってくれたからもういいんだよ」
「いいわけない!」
「あはは」
笑ってしまった。
笑ってしまうくらい、嬉しくて、野望を馬鹿にされたことなんて本当にどうでも良かった。
昔から散々笑われてきた夢だ。今さら赤の他人に貶されて傷つくほどヤワでもない。オールブルーを追わない者には確かに馬鹿げた話だろう。
オールブルーを信じるということは、我々の世界でいうところのサンタさんはいると主張しているようなものだ。世界中の子供達におもちゃを用意するだの、一夜でそれらを世界中に配るだの、トナカイとソリは空を飛ぶだの。本当だったらそりゃあステキなことだけど、物理的に考えたら一目で無理と分かる話だ。
オールブルーもそれと同レベルなのである。そもそも赤い土の大陸がこの星を二分しているというのに、どうすれば四つの海がひとつになるというのか。……物理的に考えたら一目で無理と分かる話なのだ。
そんなサンジの夢をここまで大事にしてくれて嬉しい。
自分の為に怒ってくれることが、ずいぶんと嬉しかった。
自分を傷つけられたって怒らないサンジのかわりに、ナマエが本気で怒ってくれた。
扱いきれない感情に涙まで流して、こんなに贅沢な話があるだろうか。
サンジは胸を温かくしたまま、カウンター席に回ってナマエの隣に腰かけた。頬杖をついて、なおも緩んでやまない口元を手のひらの内側に押し付けて隠す。
しかし、口角と目元を見れば、やさしい顔で笑っているのは一目瞭然で、ナマエは膨れっ面でそれを横目で見ていた。
「ありがとな」
「……私、全ッ然、納得してませんけど……」
「まあ食えよ。やけ食いには良い量だ」
「フン!」
ナマエは怒りの発散方法を涙から食欲に切り替えて、懐かしのバラティエ料理に手をつけ始めた。不機嫌に任せてフォークにローストビーフをザクザク3枚ほど刺して大きく口を開ける。
「サンジも食べて! 私ひとりじゃ食べきれない!」
「はいはい」
サンジは笑い、取り分け用に添えていたフォークを手に取った。いまだ腹の虫がおさらまないナマエとは対照的に、彼は「なァこれ懐かしくね」とふわふわ言いながら好きな皿を好きに減らしていく。
そうして二人で怒りを少しずつ消化していった。
「はあ。もー無理、これ以上食べたら夕飯入らない……」
「残りは盛り付けなおして夕飯に回すさ」
「オーナーのご飯食べたくなったなあ」
「おれのメシ食ってジジイ思い出すたァ何事だ」
「あはは」
ナマエは膨れたお腹をさすって笑った。
キッチンへ入ってカトラリーや皿を下げるサンジをナマエはカウンターに頬杖をつきながら眺める。涙はすっかり乾き、大時化だった胸の内もだいぶ落ち着いていた。許したわけではないけれど。
「夕飯までまだ時間はあるな……まあウチの副料理長を泣かせたわけだし、一発くらい蹴りにいくか」
「え、無理だよ」
「? なんで。そんな屈強な書店員なのかよ、その店番ってのは」
「女の子だもん」
「おん…ッ、おんな……女か……じゃあ…………無理だな……」
「でしょ。サンジは女の子とは喧嘩できないもんねえ。なんだっけ、恐竜の時代から決まってるんだっけ」
「そう。恐竜の時代から決まってんだ。男は女を蹴っちゃならねェ」
カトラリーを洗いながらサンジはわずかに微笑んで言う。金色の前髪が頬にかかっていた。
ナマエは彼のその顔に懐かしさを覚えた。
その昔、ナマエはサンジとはなんでも対等が良かったから、自分のことだけは決して蹴りで叱らないゼフに食ってかかったことがある。蹴られたらひとたまりもないくせに、「サンジやパティたちにやるみたいに、私のことも蹴ればいいじゃん!!」とゼフの後ろをついて回ってギャンギャン吠えたのだ。
ゼフはそんな彼女には1ミリも取り合わず、「うるせェ」としか答えなかったが、通りがかったサンジはその様子を見て言うのだった。
「決まってんだもん。仕方ねーよ」
と、少しだけ自慢げに、嬉しそうに。
1時間以内に下処理をしろと命じられたジャガイモが山のように入った籠を抱える彼をよくよく問い詰めれば、そういうことだった。
“女は蹴らない”。これは遥か昔から決まりきったこと。なぜと疑問を持つことすら愚かな人としての当たり前、であるらしい。
聞いた時は「ふーん……?」という程度だったが、オーナーに全てを教わったと言ったあの横顔を知ったいま聞けば、きっとこれはサンジの女好きとは違う場所にあるゼフ由来のポリシーなのだと分かる。
血も繋がってないのに、本当にまったくよく似た親子である。
「……でも、私もう一回行ってくる。あの本、買ってやるわ」
「おお、勇ましいねえ」
「そうだよ、あの場で買ってやればよかったんだよ! 馬鹿げた幻想? 夢物語? は? だったらなに。って堂々と胸を張って目の前で購入してやればよかった!! もう、なんで大人しく帰って来ちゃったんだろう私は!!」
「よくぞ言ったナマエ!!」
「うおっ!? ウソップ!?」
「きゃっ」
ナマエが拳を握って決意を固めたその時、勢いよく開いた扉からウソップが乗り込んできた。
「悪いが話は聞かせてもらったぜ……。女相手じゃサンジは使い物にならねェ。ここはキャプテーーーン・ウソップ様が! ひと肌脱いでやろうじゃァねェか!!」
「おっ、おれも! おれも手伝うよ!」
「チョッパーまで……なに? ひと肌脱ぐって、何するの? 私、別にあの店に喧嘩しに行くわけじゃ……」
「わァってる、わーァってる。ナマエはそんな血の気の多いやつじゃないよな。でもよ」
心得顔で腕を組み、目を伏せていたウソップがちらりと足元のチョッパーに目配せをする。
チョッパーはその眼差しを受けて大きくうなずき、至極真面目な顔でサンジとナマエへ向き直る。
「男にはどうしても戦いを避けちゃいけない時がある……それは、仲間の夢を笑われた時だ!!」
ウソップと並んで腕を組んでチョッパーが言った。ドン!! という白抜きの太文字を背負って。
旅のどこかでこの勇敢なる海の男から学んだのだろう。麦わら一味の末っ子チョッパーは、先輩クルーたちの背中から様々を学んで日夜成長中なのである。
「ったく、お前らはよォ……」
眉を下げたサンジは首筋をかいて笑った。
仲間とは良いものだ。嬉しいことが、こんなにも簡単に増えていく。
「えっと、ウソップたちは具体的にどうする気なの?」
「それはぁ、ナマエお前ぇ、その…まだ決まってない」
「なんだよそれ。何しでかすか怪しいもんだな」
「とっ、とにかく大人しく黙ってるわけにはいかねェだろ!」
「そうだそうだ!」
「はいはい、まあいい。お前らの気持ちと心意気はよく分かった。ありがとよ。——ただし」
「?」
「レディに少しでも手をあげたら、おれがお前らを全力でギタギタにする」
「こえーよ!」
「なんだよおれたちサンジの味方なのに!」
「おれはレディの味方だ!!」
「最悪だ!! このポンコツ女狂いめ!!」
このように仲良く揉めながら、4人は件の本屋へ向かったのだった。