17

 
 
「……違う! 全然違う!」
「ダァックソッ!! 爺さん! 違うなら違うでいいから、もっと具体的に言え!」
「違うもんは違うんじゃい!」
「チッ! おいルフィ追加だ食っていいぞ!! ナマエ! 調味料はまだあるか!?」
「えーーーと! うん、まだじゅうぶん作れる!」
「〜〜っおし、次!!」

 サンジはアチアチの土鍋の中身を皿に出しながら声を張った。
 ルフィは爺さんの目の前から茶碗を奪い、大きく開けた口の上でそれをひっくり返して文字通り一口で平らげる。片方の空いた手はすでに土鍋ご飯が盛られた皿へ伸びている。
 何度“作り直し”を命じられても、ルフィがいる限りフードロスの概念はない。
 爺さんは険しい表情で腕を組み、9回目の作り直しに応じてキッチンで忙しくしているサンジとナマエをジッと睨んでいる。
 年老いて体はすっかり細いが、眼光はするどい。頭は禿げ上がっているが、太い眉と顎髭は立派なグレイヘアで貫禄があった。日に焼けた肌と深く刻まれた皺が彼の人生の年輪が分厚いことを物語る。
 見るからに偏屈そうな爺さんで、実際にとんでもなく偏屈な爺さんだ。
 少しも気安くならない爺さんをチラと見て、ナミはしょぼくれた顔で深い青色のため息をつく。彼女の手元には深い焦茶の鬼皮に包まれた栗が大量に入った竹籠が。
 どれも大粒でツヤツヤの栗である。

「はあ……サンジ君、ナマエ…頼んだわよ〜……」




 何があったかと言えば。
 麦わらの一味は、とある秋島に到着した。冷えた風は心地良く、陽射しは穏やかでやさしい。山の麓には村がひとつ。それ以外は山と原っぱでできていた。
 紅葉した山の木々は美しい。実り豊かな島と一目で分かる場所だった。
 山が豊かということは、食材も豊かな証である。
 よって、サンジとナマエは山の幸を求めて。チョッパーは薬草を求めて。ルフィは熊かイノシシを求めて。フランキーは修繕用の材木を求めて。ナミは測量に適した見晴らしの良い場所を求めて。ウソップはなんだかみんな行くから楽しそうだなと思って。
 つまり。船番のブルックとロビンを除いたクルーのほとんどがそれぞれの目的で島で一番立派な山へ向かったのだ。
 なお、ゾロは「シモツキ村に似てるな」と村の景色を眺めて微笑み、換金所を目指して偉大なる迷子の一歩を踏み出していたので山には居ない。彼は前回のシロップ村似の島でも換金所にたどり着けていないため、ナマエから分けてもらった“裏稼業”のブツもいまだに現物のままなのである。

 そうして立ち入った山には、栗の木がたくさんあった。
 瑞々しいイガに守られた立派な栗だ。山につどった麦わら一行は表情を明るくし、山の幸だイガ爆弾だなんだとキャッキャ言いながら栗拾いを始めた。最年長のフランキーも、栗の木は硬い上に腐りにくく耐久性に優れ船旅には相性の良い材木なのだと図太い幹をたしたし叩きながら目を輝かせた。
 イガグリだけと言わず丸ごと2、3本いただいていくかと口々に話し。
 早速一本目の栗の木に仕留めんとしたところ。

「クォルァアアッ!!!!」

 突如現れた爺さんにめちゃくちゃ怒られた。
 爺さんは山の所有者であり、栗の木の管理者であった。
 見知らぬ若造たちが勝手に私有地に入り込んで堂々、和気藹々と密猟しているとあって、さすがに見過ごせなかったのだ。当たり前の怒りである。
 しかしタイミングは一歩遅く、ビクッと肩をすくめたり目を丸くしたりした麦わら一味の目の前で。栗の木の持ち主である爺さんの目の前で。一本の巨大な栗の木が重たい音を立てて倒れた。
 サンジが自慢の蹴りで倒してしまった。
 現行犯である。
 言い逃れのしようもない。

「…………す。すんません…………」

 サンジは巨木を蹴り倒した格好のままポツ…と言った。その素晴らしいバランス感覚と体幹でもって長い片脚を持ち上げたまま。
 しばしの沈黙。取り返しのつかない気まずい空気がどろっ…と立ち込める。

「こ、こン餓鬼ども……!!」

 爺さんの怒りは烈火のごとく。
 麦わら一味の言い分・弁解の一切は通用せず、のちにウソップが「殺されるかと思った」と語るほど。

「この山は、栗の木はなァ! 先祖代々守って受け継いできたモンなんじゃ!! どうしてくれるんだこのバカども!!」
「アゥ! そりゃ爺さん悪いことしたな。すまねえ! でも幸い一本じゃねェか、似たようなデカさの木はここら一帯にたくさん生えてるしよ……」
「ウチで採れる栗をそこらの栗と一緒にするな! 海軍御用達の最高級品質の栗じゃぞ!」
「げっ、そんなにすげェもんなのかコレ?」
「へえー。ここの栗はうめェってことか?」

 これを聞いてナミはぐわっと即座にコック二人の腕を掴み、爺さんに背を向ける。そして、声を潜めて顔を寄せる。

「ちょっ…、ちょ、……あのおじいちゃんが言ってること本当……!?」
「……、…これだけ立派な大きさと艶だしね……」
「ンン……実の詰まり方だけ取っても最高級品質っていうのも納得だな……」
「あ、年輪もすごいや。樹齢どれくらいだろ……」
「う…うそでしょ…………」

 ナミは額に手を当て、深いため息をつく。
 2回深呼吸をしてから、俯いた顔をパッと上げてニッコリと爺さんに向き直る。

「わーー! おじいちゃんごめんねえ!! 悪気はなかったのよお!」
「嘘つけ。悪気しかなかったじゃろうが」
「あー、えっとその、あ! なにか力仕事とか雑用とか熊の駆逐とかお願い事はない!? こいつらが誠心誠意、肉体労働で償うわ! ねっ!? この山全部の草むしりでもなんでも良いわよ!」
「ケッ」
「な、何でもよ〜? ほら、このでっかいのは大工だからおうちの修繕とかできるわ。こっちの長っ鼻も手先が器用だし、小間使いにはちょうど良いサイズ感〜!」
「ゥおいっ!」
「この麦わら帽子はすっごく強いから熊イノシシ牛トラなんでも退治できる! わ〜! 害獣駆除にピッタリ〜!!」
「ふん」

 爺さんが釣れる気配はない。
 ナミはぐぬぬと苦い顔をするが交渉を諦めない。爺さんからの金銭的解決策の提示を何としてでも回避したいのである。もちろん海軍を呼ばれても困る。村の治安維持隊に引き渡される面倒も御免だ。
 これらの厄介を回避するためならば、仲間の労働力・生産性をセールスしていくらでも生贄にする所存なのだ。

「あっ! おじいちゃん、お腹! お腹空いてないっ?こっちの二人はコックなの!」
「コック……? 料理人か」

 爺さんの荘厳な太眉がぴくりと動く。

「! そうよ! 二人とも超一流! ありふれた食材だろうと二人の手にかかればフルコースに化けるわ! どう!?」
「……“何でも”作れるんだな?」
「もォッちろん!! ねっ、二人とも? お願いできるわよね?」

 「ね。」と疑問符のつかない声音でもう一度念押しされた料理人たちに拒否権なぞない。
 しかしマァ拒否権がなくとも二人はお互いの顔も特に見ず。「キッチンと食材があれば、いくらでも」とか「ナミさんの御用命なら何なりと」とか話しており、難色を示す気配はない。とびきり美味い飯を作れと言われてプレッシャーを感じるようではバラティエの厨房には5秒もいられないからだ。

「いやあ爺さん、悪かったな。どこかに料理ができそうな場所はあるか?」
「こっちじゃ。わしの家の台所を貸してやる」
「栗の木、倒してしまってすみませんでした。腕によりをかけて、精いっぱい頑張りますね」
「当然だ。だが、その前に」
「?」
「倒れた木の栗を拾っていけ。このまま捨てるのは勿体ない」

 ナミは即座にパンパンと手を叩いて「はいアンタたち! キビキビ動く!!」と野郎どもに号令を掛けた。ピンとこずに突っ立っていたり自分の顔を指さして「おれ?」とやっている奴の尻を蹴っ飛ばし、迅速に栗を拾わせる。


 爺さんのオーダーは、“栗ご飯”。
 ただの栗ご飯ではない。彼の古女房がいつも作ってくれた“栗ご飯”である。山の栗を使ったそれは、たいそう美味くて唯一無二の逸品なのだという。

「婆さんは半年前に死んだ。うちの栗が旬を迎える前だった。今頃美味い栗だけあっても、仕方ない」

 爺さんの家へ向かう道中で教えてくれた。その声は悲痛なものではなかった。事実を受け入れた冬枯れの静かな声である。
 だからこそ、それを聞く者は胸を締めつけられ、ツンとさみしくなった。
 家に着くとサンジは使い込まれた、しかしよく手入れされた、だけどしばらく使われた形跡のない調理台や水回りを軽く確認した。立派な土鍋がひとつあった。
 爺さんが案内してくれた厨房はどこもかしこもそんな様子だった。爺さん自身は料理はしないタチらしい。男やもめ、よくある話である。

「思い出の料理とあっちゃ、責任重大だな」
「そっくり同じとはいかないだろうけど、なるべく近しい味になるよう頑張ってみるね」
「ふん」
「爺さん。味の特徴とか栗以外の具材だとか、覚えている範囲で教えてくれ」
「美味かった」
「……? うん、どう美味かったんだ?」
「とにかく美味い栗ご飯だった」
「……えっと。おじいちゃん、こう、具体的に……?」
「わし好みの味じゃった」

 爺さんは言い切る。サンジは下唇をやわく噛んで、目玉をぐるりと回し。前を向いたまま、隣にいるナマエを軽く肘でつついた。

「……まずいぞ、ナマエ」
「はい?」
「ルフィのメシの感想に似てる」
「えー。おれもっとちゃんと言うぞ? ジュージューでうめーとか、エビのやつがうめーとか」
「ほくほくで山菜も入ってて美味かった」
「あ、ちょっと情報でてきたよ」
「ド定番食材の山菜だけじゃねェか。しかも山菜じゃあまだ範囲が広すぎる。山に生えてる食える草、全部山菜だぞ」
「あーあー、じゃあ、なにかメモみたいなものはないの?」
「婆さんはそんなもんなくともスイスイ作っとったわ」
「あ゛ーー」

 つまり。
 レシピを再現しようにも手がかりがない。情報は唯一、この山の栗と山菜を使用していること。
 難易度は格段にあがった。
 サンジとナマエは唸りながらも調理に取り掛かり、その結果は、冒頭の通りである。

「ッスーーー……ちょっ…と、休憩しようぜ、ナマエ……」
「はーーー………うん……しよ〜…………」

 11回目の敗北を喫した二人はさすがに作戦会議の時間が必要だった。
 少しでも近い味を引き出せたらそこから掘り下げようと様々な“栗ご飯”を作ってみたが。いい加減ネタ切れである。

「はあ……本当に何も手掛かりはないのか? 調味料配分の走り書きだとか、ノートだとか……あー、よく見てたレシピ本なんかは?」
「うちの婆さんは料理家で本を出しとった。読むか?」
「先に言え!!!」

 爺さんがしれっと居間の本棚から差し出してきた件のレシピ本を借り、サンジのタバコ休憩のために勝手口から家の裏庭に出た。薪割り用の切り株の上に本を開いて目を通す。
 この島の小さな出版社から刊行された一冊らしい。数種のレシピが載っていたが、残念ながら“栗ご飯”の文字はない。
 しかし、読めばおのずと分かる。何を大事にして美学としてきた料理家なのか。
 レシピから読み取れる彼女は、とても基本を大切にするひとだった。素材の味を最大限に活かして磨くことをモットーにした、洗練された料理。
 きっとうるさい味つけはしない。
 腹に落とした時、ほっと心まで温まるようなやさしい味であるはずだ。
 ようやく彼女の料理の方向性が見えてきた。

「だとすると……」
「調味料はやっぱりこの辺だよね。栗や山菜の味を際立たせるとなると」
「丁寧なひとだ。ここにひと手間あってもおかしくねェ」
「うん、調和を取るならこれをいれてても……」
「あぁ確かに。それっぽいな」

 コック二人は真剣に額を寄せてウンウン唸って彼女の軌跡を紐解いた。メモ紙も広げてあれやこれやと書き込んでいく。肩が触れ合うほどの距離だったが二人は夢中だった。
 そうして綿密にレシピを見直して、再構築のすえ出来上がった栗ご飯。これを一口食べた爺さんは。

「味が薄い。違う。やり直し」
「ギイイイ」

 全然だめだった。
 サンジは背中を怒りで硬く丸めてわなわなと震えて髪を掻きむしり、その後ろでナマエも悩ましく息をついた。
 ルフィがまたもや作り直しをくらった土鍋にいきいきと腕を伸ばす。ナミが落胆の濁った声をあげて天を仰ぐ。フランキーとウソップと人獣体型のチョッパーは「あーあ……」という顔をチラリと向けて戸棚や雨漏りの修繕作業に戻る。

「なんだ!? 何が違うってんだ! 言ってみろオラ!!」
「味が薄い!!」
「アンタの奥さんは素朴だが洗練された繊細な味の料理をつくる料理家だった! 違うか!?」
「アイツのメシは確かにいつも薄味じゃったが、栗ご飯だけはわし好みで美味かったんじゃい!!」
「薄味いうな! 素材の味だ! 栄養がたっぷりつまった大地の恵みの味だ!!」
「うーーんおじいちゃんの好みの味って? まずそれを教えてよ」
「辛くて濃い味じゃ」
「はあ!? っ、待て。待て。……おれたちは“栗ご飯”の話をしているはずだ」
「ずっとその話をしておるじゃろう」
「辛くて、濃い」
「そうじゃ」
「「……」」

 サンジとナマエはソロ…と厨房を振り返って、調味棚を見やった。
 なぜって、心当たりがあるからだ。
 繊細で淡い味を究めた料理家のテリトリーで唯一上空500mに届かんばかりに浮きちらかしていた調味料があった。
 変だな、とは思いつつも、でも故人の厨房を尊重して黙って見逃していた。

 名を、デスビビッドソース。
 バカみたいな量のチーズとペパロニが乗ったバカピザにバカほど合うと巷で有名なバカ辛くてバカ味の濃いエキセントリックなトッピングソースである。
 栗ご飯に、まさかコレを?

「…………ものは、試しだ」
「うん……」

 まったく釈然としていないが。
 サンジは調味棚奥のタレ壺を手に取って、えいやと爺さんの食べかけの栗ご飯にほんの少しだけ盛った。強烈なので少量で十分なのだ。
 一歩下がって「ン」と。食ってみろ、と顎で指す。
 全然、釈然としていないけれど。
 「なになに」と首を伸ばして様子をうかがうクルーたちの視線の中、しかし米の湯気に乗って立ち昇ったソースの香りに爺さんの眉はピクッと動いた。
 そして、大きく開けた口でこれを食べ。

「! これだ! この味だ!!」

 喜びと感動に打ち震えて声を上げた。
 美味い、これだ、と繰り返してお椀に残った栗ご飯を物凄いスピードで掻き込んでいく。
 その顔は柔和に綻んでいて、誰の目にも彼が心からこの味を求めていたと分かる顔だった。
 このソースはすべての味を上塗りしてしまうような代物なのだが……マァ、ここまで洗練された栗ご飯だからこそ織り成せる味のハーモニーがあるの、かも…しれない……。サンジとナマエは各々の脳内で無理やり結論づけようと苦戦し、しかし結局は爺さんの様子に諦めたように納得してフ、と微笑んだ。

「今は後乗せしただけだからさ、炊き込めばもっと味が染みるよ。きっとおじいちゃんの馴染みある味はそっちじゃない?」
「むぐ、そうかのう」
「たぶんね。もう一度作るから、感想聞かせて」
「おう!」
「うまそーだな〜! ナマエ、おれにもくれ!」
「確かに美味そうに食うもんなァ。おれも食ってみたい!」
「私も私も」
「だめじゃ! わしのじゃ!」
「えーっ」
「爺さん、アンタちはまだ試食してもらわにゃなんねーんだ。腹、あけておけよ」
「……そうだったな」

 爺さんの見違えるような食べっぷりにウソップやナミ、ほかクルーたちもこの栗ご飯に興味を示して寄ってきた。が、一口食べると、ルフィを除くみなは徐々に顔を曇らせ神妙な面持ちで咀嚼し、最後は水で流し込む。
 サンジとナマエは控えめに寄せられる視線に目を逸らしたり意味もなく首筋を掻くなどしてやんわりとコメントを避けていた。
 言わんとすることは分かる。こうして喜んでいる爺さんが異物なのであり、「なかなか美味いぞ」とほくほくお代わりをよそっているルフィがふたつ目の異物というだけ。
 茶碗と箸を手にしたナミがススス…とナマエの隣にやってきて、前を向いたままトンと軽く肩をぶつける。

「ナマエ…………」
「まぁまぁまぁ……味の好みって人それぞれだから……」
「この世には城壁も鉛玉も食っちまうブリキのカバだっていたわけだし。アレに比べりゃだいぶ“美食家”だろ」
「うっわ、あんなのを引き合いに出さないでよ。はー……どうしておばあちゃんはこれを作ろうと思ったのかしら。私もレシピ本を見せてもらったけど、これはかなり特殊、よね?」

 サンジとナマエは、茶碗を見つめて心底不思議そうに呟いたナミを横目でチラと見て。

「おじいちゃんが美味しいって笑ったからでしょ」
「そう。食いたいって言ってくれたから。料理人なんてそんなもんだよ、ナミさん」
「は……? それだけ? 本当に?」
「じゅうぶんさ」

 あっけらかんと笑った。
 料理を食べてくれた相手が、しかも生涯を誓った人が、美味しいと言って幸せそうに笑ってくれる。
 これに何が敵うというのか。
 これ以上に、何があるというのか。

「時に爺さん。一応聞くが、アンタ自炊するのか?」
「せん」
「だよなァ」
「いつもご飯はどうしてるの?」
「わしは料理などできんし、自分一人のために作るのも億劫だからな。村まで降りて店で食っとる」
「毎日外食ってことか?」
「金ならあるからな。海軍は金払いだけは良い」
「でもそれだけじゃあ膨れねェ腹もあっただろ」
「……うるさいわい」

 爺さんはフイと顔を背ける。
 意地っ張りだが、確かに愛妻家な爺さんを眺めて、一同は各々フムと息をついてなんだか場はほっこりとした空気になる。
 そんな中でチョッパーだけが纏う空気を変えて「爺さん、毎日外食?」「毎食?」「まさかこういう“好みの味”ばっかり頼んでないよな?」「飲酒と喫煙は?」「いま飲んでる薬とかあるか?」と問診……というか、尋問をにわかに始める。
 無表情で真剣などんぐり眼の獣にジッ…と見つめられて問いただされるのは結構なプレッシャーだったようで、さすがの爺さんも堪えかねて素直に回答していた。あと数分でドクターによる臨時健康診断が始まることだろう。
 そのすぐ横でサンジとナマエはこちらも真剣な顔つきで、レシピの微修正や分量の確認などをおこない、方針が決まれば再び調理に取りかかった。ルフィは泣く泣くギブアップしたクルーの手からお椀を奪っては栗ご飯を平らげていた。
 しばらくののち、完成版の栗ご飯が出来上がる。土鍋の穴から立ちのぼる蒸気のスパイシーさはとても栗ご飯とは思えないが、爺さんはこの待ち望んだ恋しい香りにやはり嬉しそうにソワソワしていたから正解なのだろう。
 爺さんはチョッパーの栄養指導も上の空。彼のこの様子にチョッパーも仕方なく指導内容を軌道修正することに決め、鉛筆の尻でコメカミをコチコチ突いて考える。
 ルフィが食事制限できないように、ゾロが禁酒できないように、サンジが禁煙できないように、きっと爺さんも味の嗜好を変えられない。節制は必須だが、摂取ありきで健康維持できるようにプランを組み替えてやるしかないのだ。

「これじゃ。この味じゃ」

 爺さんはほくほくと満足げに栗ご飯にがっついた。
 笑えば驚くほど柔和になる作りの顔なのだなと初めて知った。

「よし、これでレシピの復元は完了だな」
「分量も書きとめたから、この通りに作れば同じ味が再現できるはずだよ」
「ありがとう!!」
「おう。じゃあ、爺さん、手洗え」
「んっ?」
「洗え。石鹸で。調理開始前には必ず清潔にしろ」
「ちょ……調理?」
「つくるんだ、アンタが」
「わしが?」
「そう!」

 完成版・栗ご飯を完食した爺さんに、サンジはそう言いつけた。ナマエもレシピを記した紙を爺さんに示し、「がんばろね」とウンウン頷いて言う。
 爺さんは目をまん丸にして「わ…わしがか!?」と慌てて聞き返す。コック二人が同じ反応なので、爺さんは縋るようにナミたちを振り返るが、彼らは「そうなの?」という顔でキョトンとしているだけだった。
 サンジはすでに背を向けて流しで土鍋を洗い始めている。

「わしは料理なんかしたことない。何も分からんぞ、できるわけない!」
「白紙のキャンバスだ。覚えがいがあるねー」
「違う!」
「あのねおじいちゃん。私たちはずっとここにいるわけじゃない。おじいちゃんが作り方を覚えないと、あの栗ご飯はまた食べられなくなっちゃうんだよ」
「うっ……で、でも…でもだな、」
「つべこべ言わずに手ェ洗え!」

 否応なしにバラティエ式お料理教室が始まる。
 レクチャーは生栗の下準備と、山に自生する山菜のとり方と見極め方から始まった。
 包丁の扱いは危なっかしいし、分量を量るという概念を持ち合わせていないし、初心者がやる間違いを片っ端からやって、初心者でもやらなそうな間違いもたくさんやらかしつつ。

「よし、あとは炊き上がるのを待つ」

 ようやく小休止。
 ゼェゼェ息をして爺さんがドサッと椅子に腰をおろす。途端にサンジに「今のうちに洗い物やっちまえ」と小言を言われ、分かりやすく嫌そうな顔をした。しかしバラティエ副料理長は厳しいので、慈悲もなく顎で流しを指されてしまう。
 カチャカチャと皿を洗い始めた爺さんがポチンと呟いた。

「婆さんの栗ご飯がまた食えるのは嬉しいが、お前らは、またいなくなるじゃろ。……一人で食うためのメシを自分でこさえるのも、なんだかな」

 場が静かになる。
 彼の言葉にはあまりにも身に覚えがのある寂寥感が乗っていたからだ。ナミもウソップもチョッパーも、ひとりで食べる食事の侘しさを知っている。フランキーもハードな人生だ。ルフィですら、一人になるのは痛いよりつらいと言う。
 明日にはこの島を去る彼らは、爺さんにかける言葉が見つからなかった。
 腕を組んで調理台にもたれて立っていたサンジが天井を眺めて口を開く。

「自分のために作れないって言うなら、婆さんのために作れ。そんで一緒に食え」
「婆さんは死んだと言ったじゃろうが」
「知ってるよ。でも、この世にいないからって作っちゃいけねェこたァねェだろ。アンタ、婆さんの食器だって残してる」
「……」
「この世にいようといなかろうと、大事なひとのために作ったのなら、おれはそれを無駄なもんだとは思わねェんだが……爺さんは違うか?」
「……」

 土鍋がコトコトと音を立てている。

「料理を作る時間ってのは、食べてくれる相手を想う時間だとおれは思う。どんな味が好きかなとか、美味いって言ってくれるかなとか、こうしたらもっと良いんじゃねェかなとか。頭ン中いっぱいにして作るから、その皿には愛情がこもるんだ」
「……そういうもんか」
「ああ。爺さんが食ってた栗ご飯は、愛情がこもってただろ」
「……フン」
「婆さんはアンタの好物を散々作ってくれたんだ。栗ご飯をマスターしたら、今度は爺さんが婆さんの好きなもんを作ってやれよ」
「…………。婆さんの好きなもの……」

 爺さんの瞳が揺れた。
 妻は何が好きだったか、改めて聞かれると途端に自信がなくなったのだ。皿を洗っていた手が止まる。泡が無音で手からゆっくりと垂れ落ちる。
 彼女はいつも当たり前に食事をこさえてくれた。
 湯気の立つあたたかい皿は多彩で、ひとつは必ず自分の好物がはいっていた。薄味だと文句を垂れても、「そこがいいんじゃない」とほろほろ笑ってともに食卓を囲んでくれた。
 彼女は何が好きだった。おれは彼女の何を見ていたのだろう。
 やり残したことがまた見つかる。
 墓の前で想う悔いがまたひとつ増える。

「はい」
「……?」
「本にして残したいと思うほど、好きだったんじゃない?」
「あっ……」

 ナマエが差し出したレシピ本を見て、爺さんはついに泣いた。
 決して声は上げず、時折ズビ…と鼻を啜るだけの小規模な泣き方だった。しかし涙は大粒で、両手が泡だらけなので重力に任せてポロポロ流れる。

「サンジ、サンジ。ハンカチ」
「あ? おれのハンカチはレディの涙を拭くためにあるんだ。野郎には貸さねェ」
「ああもううるっさいな。せっかく良いこと言ってたのに台無しだよ…ほら、ハンカチ早く」
「チッ……」

 サンジは渋々ハンカチをナマエに渡し、それが使われる様子を口をひん曲げて見ていた。が、爺さんの丸まった背中に手を添える彼女を見て、最終的には「……ちゃんと洗って返せよな」と見逃してやることにした。
 使用許諾が出た直後、爺さんはハンカチで豪快に鼻をかんで天下無双の女尊男卑オトコ(サンジ)と一悶着を起こしていた。

 その後、栗ご飯は無事に炊き上がった。
 半年ぶりに食器棚から取り出された婆さんの茶碗にもビビッドな栗ご飯は盛られていた。自作の栗ご飯を食べて爺さんはまた少し泣いていた。これを笑う者はいなかった。
 サンジたちともう一度レシピをおさらいし、明日の出航前にまた立ち寄ってレクチャーをする約束をした。栗の下処理と山菜集めは爺さんの宿題である。
 帰り際、礼として大量の栗をもらった。折ってしまった木もどうしようもないので資材としてもらい受ける。ナミは測量とスケッチのための入山許可をもぎ取っていた。

「また明日な、爺さん」
「おう」
「おれも! 明日また来るからな! 降圧剤! 持ってくるからちゃんと飲めよ!」
「ゲェ」
「村の医者に出せるように紹介状も!」
「いらんいらん」
「コラッ」

 サンジたちが帰れば爺さんの家はまた静かになった。
 しかし暇ではない。食器の片付けがあるし、余った栗ご飯も握り飯かなにかにしないと土鍋をあけられない。明日のために栗や山菜の準備もある。鼻水まみれのハンカチの洗濯も忘れていない。
 加えて爺さんは、女房の残したレシピ本から難易度の低そうな料理を見つけておかないといけない。明日、サンジとナマエにこれの作り方を教えろとねだるためだ。
 食事は日に三度。生きていれば腹が減る。食べて、明日も、その先も生きるのだ。
 久方ぶりに腹も心も満たされて、その晩爺さんはいい夢を見た。
 夢というか、昔の記憶である。

 村の大衆食堂で働いていた婆さんは村のマドンナだった。
 食堂を訪れる男たちはいつも花束を差し出して彼女に跪いていた。彼女はそんな数多の男たちの腕を引いて立たせて「やだもう、いいから早く食べてしまってちょうだいな」と困っているのが常の乙女だった。
 山の食材を食堂に卸しにきていた爺さんも密かに彼女に熱をあげていたが、気の利いた甘いセリフも小粋な手土産も持ち合わせていない。足元の男たちに困る彼女に「注文していいか」と遠くの席から声をかけるのが精いっぱいだった。その度、彼女はホ、とした顔をして、注文を取るという名目でその場を脱して彼のもとへ小走りでやってくるのだ。
 景色が雪化粧をする頃、他愛のない雑談をするようになった。
 つくしが頭を出す頃、手を繋ぐようになった。
 空の青と入道雲の白が眩い頃、肩を寄せ合うようになった。
 山が豊かに実る頃、爺さんは先祖代々の山を背にして一世一代の告白をした。

「おれと夫婦(めおと)になってくれ」

 大緊張の真剣な面持ちで、震える声でそう言った。
 可憐な花などではなく、巨木がわんさか詰まった秋嶺ひとつを贈ってきたこの男に、婆さんは嬉し涙を浮かべて頷いたのだった。


***


 作りたい栗レシピを指折り数えて帰り着いたサニー号、女部屋。
 ナマエはアッ、と声を上げ、すぐにバタバタ部屋を飛び出した。キッチンに直行、金色の丸い後頭部をカウンターの向こう側にとらえて「ねえ!」と元気に声をかける。
 呼ばれてサンジが振り返れば。

「咲いたよ」

 彼の目線の高さにズイと差し出されたのは、一輪の赤い薔薇だった。サンジがひとつ前の島で彼女に贈ったあの薔薇だ。
 薔薇が活けられた一輪挿しの影からナマエが顔を出す。
 ご機嫌満点の晴れ晴れとしたいい笑顔だった。

「最近ずっと寒い海域だったでしょ。気温のせいか、なかなか花びらが開かなかったんだけど……さっき見たらこの通り! 今朝は咲いてなかったのにね、昼間のうちに咲いたみたい」

 一輪挿しを胸の高さに戻し、指先で深紅の花弁をやさしくついて彼女はニコニコ話した。
 彼が贈った薔薇と、彼にとっての薔薇が並んで微笑んでいる。
 咲いたら本当に見せに来てくれた。口ぶりからしておそらく毎日見つめてもらっていたのだろう。
 起こったらいいなと思ったことが起こって、見れたらいいなと思ったものが目の前にある。
 サンジはこの光景を夢心地で見つめていた。

「……かわいい」
「ね、綺麗に咲いたよね」
「うん、かわいい」

 胸がきゅー…っとする。
 猛烈に抱きしめたい衝動に駆られたサンジは、ナマエに向かって一歩あゆみ寄り、体を屈めた。彼女の目の前でサンジの長い前髪が重力に従ってサラ、と流れる。

「良い香りだ」

 一輪挿しの薔薇に顔を寄せて一言感想を言うと、サンジは背筋を戻した。二人の間にはまた一般的な距離があく。
 本当は抱きしめたかったけど、悪さをしようとした両手をなんとかポケットに押し留めた。サンジは「あッッ…ぶねーー!!」と心の中で汗を垂らし、熱っぽい脳みそをクールダウンさせるために視線をダイニングテーブルへ逸らす。
 テーブル上のダイニング用の花瓶に目が留まった。そして、少し考えてから。

「……食っちまうか」
「え?」
「コイツ。なんか…このまま枯らすのは惜しくなってきた。一緒に買ったあっちの花はもうそろそろ終わりなんだ」
「……!」
「フ、わっかりやす」

 キラキラした目で無言でこぶしを突き上げて喜びを表現したナマエは、さっそく頭の中のレシピ帳を広げる。

「こんなに良い栗が手に入ったんだから使わない手はないよね。モンブラン……タルトもいいな。んーー迷う! サンジどっちがいい?」
「どちらでも。好きに使えよ」
「んーーー、…じゃあモンブランにする! タルト系はこの間のりんごでたくさん作ったからね、そうしよう。砂糖漬けもつくろっと。紅茶に浮かべるの。きっと素敵よ」
「砂糖漬けはビオラで作るんじゃなかったのか?」
「いいでしょ、この子でも作る。となると、茶葉を見に行きたいな。栗が旬なんだからきっとこの島、いま秋よね? 秋摘みのいいのが仕入れられるといいなぁ」

 ナマエは一輪挿しをカウンターの上に置き、キッチンペーパーを即席の裏紙にして、頭の中で膨らんだモンブランのデザイン画を鼻歌混じりに書きつける。あれがいいな、こうしたらどうかしら、と浮かんだアイデアがルンルンと書き加えられていく。
 本当に楽しそうだ。
 その姿にサンジの口元も思わず緩む。

「花びらは足りるのか? 一輪しかないだろ」
「うん、だから内緒だよ」
「は?」
「薔薇は秘密で食べちゃおう」

 顔を上げたナマエは、立てた人差し指を唇に当てて、ね、とイタズラっぽく笑った。

「みんなの分はビオラで作るよ」
「へー……」
「ビオラの方は順調に育ってるから量も確保できるし、ルフィのお代わりにも対応可」
「あいつは花が乗ってるかなんて気にしねェだろ」
「あはは、かもね」

 おれとナマエの分だけ、内緒の特製・薔薇添えモンブラン。……
 頭の中で呟いてみる。
 その響きだけで、秘密を共有しているという事実だけで、サンジは酔っ払えそうだった。
 再び物を書く姿勢に戻ったナマエの斜め後ろ。サンジはゆっくりと後退して、ゆっくりと調理台のふちに寄りかかる。タバコを取り出して火をつけ、ひと呼吸分の煙を吐く。
 本当は今夜のメニューである栗コロッケの準備に取り掛からないといけないのだが、サンジはちょっといま動けそうにない。
 ほんのりと赤い耳とにやける顔がどうにも収まりそうにないから。

「ん? ……なに、どうしたの?」

 しかし、赤みとにやけが収まる前にあっけなく見つかってしまった。
 タバコを挟んだ手で不自然に口元を隠していたら怪訝そうな顔をされてしまった。後頭部をポリポリ掻いて「あー……」と言葉を探す。

「いや、なんだその。ちょっと驚いてただけだ」
「? なにに?」
「……まさか花を食いたくなる日がくるとはな、と」
「エディブルフラワーなんてそんなに珍しいものでもなくない? バラティエでも使ってたでしょ」
「そりゃそうだけどよ。綺麗な花を見て、食いてェと思ったのは初めてだっつー話だ」
「あー……なるほどね?」
「そんな感想が自然に湧いたのが驚きだったワケだよ。おれはお前ほど食い意地はってねェんでな」
「なっ……!わっ、私だって別にそこら辺の花見て全部食べたいと思うわけじゃないからね!? これは、あのお花屋さんでそういう栽培方法をしてるって聞いたからで……!」
「どーだかなァ?」
「本当に違うから!」
「はいはい。2度目がなかったら信じるよ」

 花は愛でるのが第一義。見て楽しんで、美を賞賛して、その華やかさに一時の心酔を得る。そのように心得ている。
 でも、見ているだけでは満足できなかった。
 触れて手折って食べてしまいたい。そう思った。

 そんな薔薇は、後にも先にもこの一本きりだ。


***


 栗ご飯、栗コロッケ、栗とタラの白ワイン煮込み、栗と海獣肉のグラタン、栗と海鳥のロースト……島を発ってからのサニー号は栗三昧だった。もらった栗の半分以上は数日ほど低温熟成させて甘みをブースト。並行して作っていた花弁の砂糖漬けも良い具合に仕上がってきた頃だ。
 秋摘み紅茶は、出航前に村の食料品店で入手できた。棚の前でナマエは茶葉を吟味し、サンジは彼女が口惜しそうに棚に戻したものを「どうせおれが飲む」と言って買い物かごに突っ込んでいた。

 材料が揃ったのでナマエはさっそくモンブランを作った。
 ビオラで彩ったモンブランを夕食後のデザートとして振る舞った。ナミ・ロビン・ブルックあたりは品のある感性で感想を述べてくれたが、ほかの野郎どもは予想通り花より団子である。

「お? サンジ、ナマエ、お前らは食わないのか?」
「おう、散々つまみ食いした」
「味見はコックの特権だからね〜」

 二人は皿洗いや紅茶を出したりしながら笑うばかりで席につかなった。
 冷蔵庫の奥の方にあとは花弁を添えるだけのモンブランを隠しておいてある。
 乗せるのはビオラじゃない。赤い薔薇。一輪だけの内緒の薔薇だ。砂糖漬けの秘密。二人しか知らない特別なもの。
 できるだけみんなに美味いものを食わせたいと思うのが料理人の性だが、こればかりは譲る気にならない。
 鉄壁のポーカーフェイスを決め込みながらも、サンジの心は確実に浮足立っていた。

 夕食後のデザートも食べ終わって、みながはけた夜更けのキッチン。
 片付けと明日の仕込みを完璧に終わらせたサンジは「おっしゃ、おれたちも食おうぜ」と尻尾を振ってナマエに声をかけた。

「どうぞお掛けになってお待ちくださいませ」
「へへ、んじゃお言葉に甘えて」

 サンジは大人しくダイニングテーブルへ移動し、座って彼女を待つ。
 ナマエが相手なら、サンジはサーブされる側に回ることにすっかり慣れた。おやつを待つ子供みたいに、幸せで無防備な心でぼーっと時間を浪費する贅沢を知った。
 紅茶を淹れる彼女の姿を健気に目で追い、腕を組んで両肘をテーブルにつく。体を前のめりにして、わずかに前後に揺れるサンジの顔の周りには小さな花が散っている。

「お待たせしましたー」
「お!」

 念願のモンブランが姿を現した。
 なんと、特別仕様は薔薇だけじゃなかった。
 モンブランのてっぺんに乗った薔薇には粉砂糖が軽く振りかけられ、皿の余白に引かれたひと筋のカシスソースにも薔薇が散らされていた。ビオラのものより一段華やかで手間が入っている。
 これらはサンジも自分だったらやるような簡単なアレンジだが、今はそれすら嬉しい。
 可視化された特別は、サンジを幸福にする一方だ。
 紅茶はダージリンのストレート。砂糖漬けを入れれば、薔薇の香りが豊かに広がる。
 ナマエも連日ニコニコと準備をしてきたし、実食は彼女もさぞ楽しみなことだろう。

「あれ……?」

 でも、事実は期待と異なっていた。
 薔薇を添えたモンブランと紅茶のセットは、一人分だったのだ。
 ナマエが自分用に持ってきたモンブランには、ディナー後の8皿分と同じくビオラが添えられていた。
 さ、食べよー。と向かいの席についてフォークを手に取るナマエを慌てて止め、サンジは自分の皿と彼女の皿を見比べる。

「ま、待て。なんでナマエのはビオラなんだ」
「……? え、薔薇は一輪分しかないもん」
「は? まさか薔薇はおれの皿に乗ってる分で終わりか?」
「いや、紅茶に入れる用のはそっちに……え? なに? サンジ、食べたかったんじゃないの?」
「ナマエこそ! 食う気満々だったじゃねェか」
「いや、それはその、珍しくサンジが食べたいって言うから、それなら…みたいな……?」

 ……。じゃあなにか、ナマエ。お前は、“おれに”食わせるためにあれこれ準備してたってのか。
 ならばこれは、まぎれもなく特別だ。
 正真正銘、サンジのための一皿である。
 嬉しい。途轍もなく嬉しい反面、一緒に食べたかったな、……とも思う。ふたりでお揃いの秘密を食す背徳を味わってみたかった、と。
 サンジはムム……と難しい顔で沈黙したのち。
 フォークで薔薇の花弁を乗せたモンブランを一口分すくって、ナマエの口元にズイと突き出した。

「口開けろ。共犯だ」
「えっ」
「おれだけ食うなんて、そいつはちょっと、違うだろ」
「違うってなによ」
「咲いたばかりの薔薇がなくなって、その行方がおれ一人の腹ン中っつーのは、なんか、イヤだ」
「あー……」
「ン!」
「……わかった。食べてもいいけど、サンジが先に食べて」
「あ? っあ、オイ、」

 ナマエはサンジが持っていたフォークをスルリと奪い、逆に彼の口元にズイと突き出す。

「口、開けて」
「……」
「開けなさい」
「…………ぁ」
「よろしい。……それで? ご感想は?」
「……天才的に美味い」
「ふふん。紅茶も冷めないうちにどうぞ?」
「…………革命的に美味い」
「あはは!」

 ナマエはフォークをサンジに返し、自分のフォークで彼のプレートからひとひらの薔薇とともにモンブランを約束通り一口食べた。「本当だ、天才的で革命的」と冗談めいた口調で笑う。
 サンジはここ数日の彼女の熱心な色々を思い出しながら、目の前のモンブランを見つめてゆっくり噛み締めていた。

 “頭ン中いっぱいにして作るから、その皿には愛情がこもるんだ”

 ——先日口にした持論が見事にサンジに跳ね返ってきて、彼のハートを揉みくちゃにしている。
 この美味さの理由を、そういう風に解釈していいだろうか。
 やけに紅茶に合うように風味や甘さが丁寧に調整されたこれを、そのように受けとめても、許されるだろうか。

「……〜っ、マジでうめェ……」

 サンジはキュンキュンと鳴り止まない心臓を抱えて、薔薇で彩られたモンブランと紅茶をちょびっとずつ、大切に大切に食べるのだった。