18

 
 次の島影が見えたのは昼前だった。
 ウソップは灯台が崖上に立っているのを見て「町があるぞ〜!」と自慢のゴーグルをずらして喜々と叫んだ。
 その声をキッチンの中から聞いたサンジは、冷蔵庫をバカッと観音開きにして顎に手を添える。

「じゃあ、昼は冷蔵庫の中の食材を片付けられるメニューにすっか」
「古い野菜から使い切ろ。海鮮塩やきそばとか?」
「お、いいな。了解」
「島に着くのは昼過ぎかな。ログ次第だけど、買出しは明日に回す?」
「だな。今晩のメニューも在庫整理系で」
「分かったー」

 サンジとナマエはいま、ウソップとブルックが撃ち落とした4m級の怪鳥の肉で鶏ハムを作っている。とにかく可食部が多いため、互いにテキパキ作業をしながら、献立やこの後の予定などを話す。
 サンジが思い出したように「あ!! そうだ、聞けよナマエ!」と声をあげて彼女を振り返った。なにやら聞いてほしい愚痴があるらしい。

「ルフィのやつ、また生簀にサメ突っ込みやがってよ!」
「えっ、まさか生簀……全滅?」
「そうだよ、っとにあのクソ船長は……島に着いたらてめェで尻ぬぐいさせるんだ。食われた魚を補充できるまで釣りコースだよ」
「初上陸の島を前にして、ルフィが大人しく釣りをするとは思えないけど……」
「おうよ、もちろん縄で括って見張るとも」
「仮にも船長なのにこの扱いはどうなの」
「船長が食糧庫を一番危機に晒してんだ。自業自得! 因果応報!」
「本当に飽きないわね、この船」

 朝食後にアクアリウムが騒がしかった理由はこれだ。
 サンジは愚痴を言い終えるとスッキリしたようで、鶏肉にハーブソルトを擦り込む作業に戻った。
 ナマエも急いで出かける用事は特にない。今日は予定を詰め込まず、副料理長として料理長の行き過ぎを止めてやる役につくのが健全かもしれない。ルフィが釣った魚に未知のものがあれば、彼女にとっては儲けもんである。
 そんなことを考えて昼食後。
 一度はクルーたちが散っていった食堂の扉が再び開いた。
 顔だけを覗かせて室内をキョロキョロ見やったゾロは、ナマエとサンジしかいないことを確認して中に入った。そして、ダイニングテーブルを拭きあげていたサンジをまるっと無視して、キッチン内で皿の片付けをするナマエのもとへ一直線に歩いていく。

「もうじき島に着く。ナマエ、今日時間あるか」
「え?」
「暇ならちょっと付き合え」
「え、なに? 珍しいね、どうしたのゾロ?」
「……ン」

 険しい顔のゾロは片手に持っていたエコバッグをドシャッとカウンターに置いた。置いた時に袋の中から硬いものがぶつかり合うような無機質な音がした。

「……? あれ? この間あげたやつじゃん。まだ換金してなかったの? ナミの利息ってトイチでしょ? 大丈夫なの?」
「だっ…い、じょうぶ…じゃねェよ、あの魔女め……」
「ふーん、借金かさんでるんだ。大変だねェ、ゾロ君」
「ほっとけ!」
「ふたつも島を通ってきたのに。なに、お店に行くの忘れてたの?」
「お、おれも色々と忙しかったんだよ」
「…………あ。なるほどね、あーハイハイハイわかりましたわかりました……君なりに頑張ったんだね……」
「なんだよ!!」

 すべてを察したナマエは嘘の涙をほろりと拭ってゾロの肩をポンポン叩いた。彼はグッ…と片目の下に皺を寄せ、物凄く不服そうで嫌そうな顔をする。

「ち、ちげェぞ。おれはこの手のモンの相場が分からねェし」
「うんうん…ンフッ…」
「交渉の仕方っつーのも一度は手本を見ておこうって話でだな、」
「ク、そうだね、尤もな意見だね」
「〜っ! おれはぼったくられたら癪だってだけだ!!」
「ッアハハ!! 分かったよお、一緒に行くって〜……うふふ、ゾロおもろ…」
「笑ってんじゃねェぞコラ!!」

 そう、このミラクル迷子剣士。
 ふたつも島を通ってきたのについぞ換金所に辿り着けなかったのである。彼は大真面目に換金できる場所を求めて島内を巡ったのだが、歩けば歩くほど人里から離れてゆき、気づけば茜空に物悲しくカラスが鳴いていた。一銭にも変えられなかったエコバッグを仕方なくそのまま持ち帰り、ナミの法外な利息ばかりを着実に積み上げていたのだった。
 借金の総額もあやしくなってきたので、この度、案内人をつける英断に至った。
 ゾロの肩や背中を散々バシバシ叩いて笑ったナマエは、なんとか呼吸を整え、「私も換金したいやつが溜まってきたんだ。荷物持ちにちょうどいいや。一緒いこ」とサッパリ笑って手早く片付けを終わらせる。
 食糧庫の片隅にストックしていた品物を取りに向かう彼女の後ろを、ゾロはムスッとした顔で、しかし大人しくついていく。依頼している側である手前、荷物持ちくらいの仕事を請け負ってやろうという腹づもりなのだ。
 パタン、と二人の姿が食糧庫の扉の向こうに消える。

「…………は?」

 この一連の流れに、サンジは台拭きを片手に両目をカッ開いて固まっていた。

 は? は? え、なんだ今の。……は?
 マリモとナマエが、二人で、…………は?

「はああァ!? ちょっ……! 待てコラ!!」
「わっ、びっ…くりした〜……なによサンジ」
「お前っ、なんっ……クソマリモと…!!!??」
「うるせェぞアホコック」
「お前はだァッてろッ!!」
「はあ。ここにいると耳がアホになる。ナマエ、あとで甲板に集合だ」
「はいはい」
「てめっ、クソ剣士!! 話は終わってねェぞ!!」
「知るかボケ。興味ねェよ」

 ゾロはナマエの品物が入った木箱を持って、船尾側のもうひとつの出口からさっさと出ていった。付き合ってられん、と背中が語っていた。巻き込まれるのはごめんなのである。
 取り残されたサンジとナマエの間に沈黙が流れる。

 マリモと何しに行くんだよ。アイツとずいぶん仲良く話すじゃねェか。あの袋はなんだよ。あれはお前がヤツにあげたのか? それっていつの話? ふたつ前の島ってことは、だいぶ前なんじゃねェの? おれにはわかんねー話ばっかりしやがって、……チクショウ。
 ……本当にアイツと二人で出掛けるのか?
 ……。

 サンジの頭の中は、嫉妬と独占欲に染色された思考で濁流となっていた。
 しかし彼はこのドブ色の激情を喉の奥のそのもっと奥に隠して、固く唇を結ぶ。
 こんなモンを見せたら嫌われるに決まってるから。こんなの全然大人じゃないし、ちっともカッコよくないから。……
 ナマエはなぜサンジがここまで怒って乱入してきたのかわけが分からないし、サンジは今ここで彼女を責めて叱りつけるのは明らかにおかしいと自覚している。
 なので、二人は何を言うべきか分からず、互いをジッと見て場の空気を探っていた。
 せっかく真正面から見つめあっているのに微塵もロマンチックじゃなくて最悪である。
 しかし、いつまでもこうしているワケにもいかない。

「ゆ……夕飯までには、帰ってこいよ……」

 サンジは母ちゃんみたいなことを言って、心底苦々しい顔でこの場を終わらせるしかなかった。


***


「夕飯の仕込みがあるから、チャチャッと終わらせよー」
「応」

 ゾロとナマエは街へ繰り出していた。
 サンジは留守番である。なんとか着いていけないものかとギリギリまで水面下で画策していたが、ナマエに「ルフィの釣りの見張り、よろしく」と言い渡されて唇を噛む結果と相成った。今はサニー号の船縁にて、縄でぐるぐる巻きにしたルフィに細かく裂いたスルメイカをまぶし、海面スレスレに船長を吊るして釣りをしているところだ。隣でウソップが怯えている。
 換金はつつがなく進んだ。
 素材を欲しがりそうな工務店や専門店におもむき、店主に直接交渉をおこなうのだ。今日は交渉の手本を見たいという建前なので、やりとりは主にナマエがおこなう。ゾロは彼女の斜め後ろに真顔で突っ立っていた。
 おそらく行く先々で彼女の用心棒と思われていたことだろう。いつもよりスムーズかつ高値で交渉が通ったことをナマエは不思議に思いつつ、今日はラッキーだったなと語尾に音符を滲ませて各所をあとにしたのだった。
 悲しい事実だが、男が、それも強面の男が一人いるだけでこの手の交渉はうまくいく。ゾロはナマエの背後でそんな空気を肌で感じて静かに気分を悪くしていた。
 ゾロは女だからという理由で相手を見下したり侮ったりしない。実力のあるやつはそれだけで評価されて然るべきだ。そういうシンプルで実直な実力主義のサムライなのだ。だからこそ、女というだけで態度をコロッと変えたり特別待遇にしたりするサンジの態度は、ゾロには到底相容れないのである。相容れないが、一応実力は認めているため辛うじて同じ船で生活し、殺し合わないでいる。

「思ったより早く終わったね。次はひとりで行けそう?」
「ああ」
「そう、良かった。……ゾロ、そっち港の方向じゃないよ」
「ついてこい。一杯奢る。礼だ」
「え! ええ〜……? えへへ、ん〜そお? いや悪いねゾロ君」
「ハッ、よく言うぜ。途端にニコニコしやがって」

 少し迷ったが、夕飯の仕込みの時間にはまだ早い。明るい時間から飲む酒の美味さをナマエは知っている。奢りという響きも大変よろしい。
 ナマエは、ニヒルな笑みを浮かべて振り返ったゾロの背中を小走りで追いかけた。
 適当な酒場に入り、カウンター席で酒と軽いつまみを注文する。ゾロには樽ジョッキが、ナマエにはカクテルグラスがやってくる。まったく大きさの違う二つがぶつかってゴチンと重たい音を立てた。

「あーー…昼間から他人の金で呑む酒が一番おいしい……ねぇねぇ、なんか今日、ずっとナンパされてなかった?」
「あ?」
「ちょっと目を離すたびに綺麗なお姉さんたちに囲まれてたでしょ。ゾロも隅におけないね〜。マ、少しも靡いてなかったけど……好みの子はいなかった?」
「あー……ありゃ違ェよ、そういうのじゃねェ」
「?」
「なんつーんだっけな……鼻の下伸ばして手ェ出した途端にガラの悪い連中が金を毟り取りにくる……」
「……美人局?」
「お。それだ、それ」

 ゾロは「アホらしい」と冷めた顔で樽ジョッキをぐいっと傾ける。
 ナマエは悪質な詐欺と彼がすぐ隣り合わせでいたことに目を丸くして言葉を無くしていた。
 なお、この男は健全なナンパにも常にこのリアクションである。

「ここにも何人かいる」
「えっ」
「だがマァ、同業者同士では客は取り合わないみてェだな。店を回ってる時も、お前がきたら女たちはどっか行っただろ」
「そうだっけ……? …………ん? …えっ!? 待って、私いま、ゾロを引っ掛けてる美人局だと周りから思われてるの!?」
「このエイヒレうめェな」
「あっ……わかった、私を誘ったのは静かにお酒を飲むためでしょ。そうなんでしょ!?」
「ンハハ、礼だって言ったじゃねェか」
「今さら言ったって嘘くさい!」

 ナマエはなるべく体を小さくして、店内をそっとうかがう。
 少し離れた斜め後ろの席、タバコのくわえたお姉様が艶かしい生脚を組んで、チラとゾロを見た。が、すぐに煙を払うように手をパタパタと振って他の席の男へ女豹の目を向ける。

「……私、これ飲んだら帰る」
「おう。気ィつけてな」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ!」
「おれはどこぞアホ眉毛とは違うんでな。こんなバレバレの罠にはかかんねェよ」
「…………」

 見事に身ぐるみを剥がれてパンイチで甲板に正座する男の姿が脳裏に浮かんだ。しかしその顔には一切の後悔は見受けられない。
 ……なんか、そういう男の図がクッキリと思い描ける。
 明日は買出しの予定だが、大丈夫だろうか。頭が痛い。明日はなるべくの対策を取って動くしかあるまい。完全自立型乙女のナマエは、サンジを船に残す案も視野に入れつつ、とりあえず街を偵察することにした。比較的安全と思われる大通り沿いの市場や食糧品店の場所と品揃えの下見をし、ついでにすれ違う人々の様子も観察する。
 ゾロの言う通り、そういう目で見てみれば、街の中は被害者と加害者で溢れていた。
 食い物にされている男たちの傾向をまとめると3点である。
 若い男であること。身なりが小綺麗であること。一人であること。要は、人生経験が浅くて女への興味が旺盛で、多少の金があると見込みがあって、もしもの時に仲間を呼べない男ということである。
 ……ますますサンジの未来絵図が確固たるものになる。
 というわけで。

「サンジ、明日の服装はボタンのないシャツにジーパンにして。なるべくラフなやつ。財布は私が持つから、街に入ったら絶対に私から離れないで」
「…………はい?」
「釣りの方はどう? 減った分くらいは補充できた?」
「あ……ああ、まあ……」
「よかった。目新しい魚はいるかなー」

 サニー号に帰り着くなりナマエはサンジにそう言いつけ、生簀を見にアクアリウムバーへ向かう。サンジはパチパチまたたいて一瞬呆けてから、「えっ?」と彼女のあとを慌てて追いかけた。
 彼女から服の指定を受けるなんて初めてだし、“絶対に私から離れないで”というちょっとドキッとする命令も気になる。彼は尽くす男だから、たとえ大した理由がなくても好きな子に言われたことは忠実に守るが、なにか理由があるなら聞いてみたい。
 たまにはサンジのラフな格好が見てみたくて♡、とか。
 デート中に隣にいてくれないと寂しいから♡、とか。
 ……そんなことを言ってもらえる間柄じゃないのは分かっちゃいるが、男ってのはバカなので夢見てしまう。ゾロとお出かけされてサンジはちょっと心に傷を負っているし、無意識に都合のいい妄想で慰められようとしているのだ。
 そうゾロと……。

「あ? そういえばあのクソマリモは?」
「ゾロ? 用事が済んだから街で別れてきた」
「はあっ? あいつ、てめェから誘っておいて女一人で帰したのかよ! 本当にクソ野郎だな!」
「ま、まだ明るい時間だし、別に平気だよ」
「藻だから脳みそがねェんだあいつは」
「大袈裟な……」

 ちょっとした女扱いで浮かれそうになる自分を諫め、ナマエはアクアリウムバーの生簀を見上げた。水槽から差し込んだ揺らめく光が彼女の肌を青白く照らす。
 ゾロに対してぶちぶちと文句を垂れていたサンジが不意に「……ん?」と顔を顰めたかと思うと、ナマエのこめかみあたりに顔を寄せてスン、と匂いを嗅いだ。
 グッと近づいた気配に驚いて、ナマエは嗅がれた側頭部を押さえて勢いよくサンジを振り返る。

「……しかも一杯ひっかけてきてるな?」
「ゾ、ゾロがお礼に奢ってくれると言うもので……」
「ッカーーー! 酒飲んだ状態でほったらかすなんざ、あいつマジで信じらんねえ!!」
「一杯くらいじゃ酔わないから!」
「グリーンデビルの度数はいくつだ! 言ってみろ!」
「なっ、なんでひと嗅ぎしただけで飲んだもの当ててくるのよ……!」
「嗅ぎゃァ分かる!」
「普通分かんないよ!!」

 ナマエはムム…! とサンジを睨む。生簀の魚が左右に割れて騒音の発信源である二人を避ける。ゾロの緑髪に釣られてグリーンデビルを注文したのがいけなかったか。もっとジュースみたいなカクテルで我慢すればよかった、と彼女は脳裏で意味のない反省をした。
 一方サンジは、ゾロへの苛立ちはいまだ納まらないが、いつまでと頭の中を占有されているのも辛抱ならない。マリモを3枚おろしにすることを心に決め、頭を最初の議題に戻す。

「はあ……んで。どうしておれはいつものような格好じゃだめなんだ? 街中でナマエから離れちゃまずい理由は?」
「美人局だらけの街だから。サンジ、物凄く良いカモにされると思う」
「……ツツ、モタセ……だと……?」

 サンジがピタ…と動きを止める。
 知らぬ単語でもなかろう。むしろ普段の彼を見ていれば、最も危機感を感じて注意を払うべき犯罪手口である。バラティエでも流石に口が酸っぱくなるほど注意喚起をしていたはずだし、実際していた。
 ジッ…と押し黙ったサンジの目がじわじわと、輝く。

「つまり……美女が必ずおれに声をかけてくる街ってことか……!?」

 見事天晴れ。アホである。

「えっと、こわいお兄さんも後からセットで来るよ」
「大丈夫だ。どう考えてもおれの方が強くてこわい。おれの首には7700万ベリーが懸かってんだぞ」
「そういえばそうだった」
「ひとたび街へ足を踏み入れれば、美女たちがあの手この手でおれを陥れようと……!? かっ…考えるだけで恐ろしい……♡」

 アホは口元を覆って、ムフフとあられもない想像をする。頭の中が可視化されない世界でよかった。千里眼を持つ乙女が彼の頭の中を覗いたらきっと倒れてしまうに違いない。
 すけべ心をむき出しにしたサンジを、ナマエは完全に冷めた目で見ていた。チベットスナギツネの目の再来である。

「…………買出し、一人でいけば?」
「えっ!? いやっ、それは……! ナマエだって市場とか見てェだろ!?」
「今回は別にいいよ。さっき軽く下見してきたけど、珍しいものはなさそうだったし。サンジ、適当に買ってきて」
「そ、そんな……!!」
「だめだ!」

 鋭い矢尻のごとく割り込んできたのは船長の声だった。
 アクアリウムの分厚いガラスの向こう側。水槽にビタッと張り付いて珍しく怒ったように声を上げた彼が「だめだぞ!!」と繰り返してバタバタ通路を回り込んでバーの扉を開く。

「明日はサンジたちの買出しが終わったら出航だってナミが言ってた! サンジは女についていったらいつまで経っても帰ってこねェだろ! だからだめだ!!」
「ルフィ……街には行ったの?」
「おう、行った! けど、知らない女がやたらくっついてきて邪魔でよ、美味そうな肉屋もなかったから帰ってきた」
「んな…ッ!? てめェだけなんてイイ思いを……!!」
「ルフィはいい子だね〜……」
「? おう」

 歯軋りをするアホを横目に「一人で行かせよう。付き合ってられない」とナマエは決意を固くする。
 アクアリウムバーの騒音を聞きつけたナミがみかん畑から降りてくる。

「あー悪いけど、今回ばかりはルフィの言う通りにして。明日は天気が下り坂になりそうだから、用を済ませたらさっさと出航したいのよ。ナマエ、ちゃんとサンジ君を連れて帰ってきなさい」
「えー……じゃあ私一人で行くよ。サンジは留守番。荷物持ちには…フランキーかゾロを……」
「はあ!? だめだ! マリモと2日連続なんて一番だめだ!! 体が緑になるぞ!」
「なんないよ」
「あーもう、うるっさいからいつも通り一緒に行ってきてよ。犬の散歩だと思って」
「やよ。こんな万年発情期の犬……」

 だがしかし、抵抗虚しく。
 ルフィはナマエ一人では制御不能だし、ブルックはサンジと同じ匂いがするからだめだし、フランキーは「巻き込まれたくねェ」と取り合ってくれず。チョッパーは「あの街、化粧品と香水の匂いがきつくておれだめなんだ…」と耳を垂らし。ナミは「出航までに海図を仕上げるからまた今度ね〜」と一蹴。ウソップは「サンジとルフィがぶっ壊した釣り竿を直さなくちゃいけねェから」と忙しそう。ロビンは「デートの邪魔はできないわ」と話にならない。日が暮れてようやく帰ってきたゾロは芝生で眠り始めてしまい、起こそうとしたがちっとも起きてくれず。
 結局、ナマエはサンジを連れて買出しに行くことになった。

「服はこれでいいか?」
「…………はい」
「ンだよ、暗い顔して! だァいじょうぶ、買出しして帰ってくるだけ! いつも通りだ! んねっ、ナミすわんっ!!」
「はいはいはいはい。そうね、11時までには帰って来られる?」
「かしこまりましたアッ!!」

 翌朝。サンジはナマエの言いつけ通り、Tシャツにジーパンというラフな装いだった。
 ジーンズに強調された脚はモデル並みに長く、半袖から覗く二の腕は意外とがっしりしている。大きな鉄鍋を軽々振るったり、逆立ちでとんでもない脚技を繰り出したりするのだから納得の筋肉ではあるが、いつもはシャツを捲った肘あたりまでしか見えないので少しドキドキする。長年の海上暮らしにしては白いその肌は、彼が想い人であればこそ、ナマエの目には毒だった。
 マしかし。いつにも増してウキウキなアホっぷりで見事に台無しである。

「ナマエ、天候棒貸そうか? 技は出せなくても鈍器としてなら十分役に立つから……」
「ありがとう。でも、殴ったあと引きずって帰るの大変だし、気持ちだけ受け取っておくね」
「そう……私があとで殴ってもいい?」
「やめときな。喜ぶだけだよ」
「チッ……」

 ナマエは鼻からゆっくりとため息をついた。仕方ねェ、行くか。の顔である。
 彼女は嫌味のつもりで「カム」と犬用のコマンドで呼んだが、アホは見えない尻尾をわふわふ振って呑気に・素直に・元気いっぱいに彼女のうしろをついていくのであった。



 サンジにとって、この街はお菓子でできた街だった。
 どこもかしこも甘い匂いがして、ワクワクと好奇心をそそられるホットなレディばかり。一秒たりとも落ち着いていられない。つまみ食いがしたくて仕方ない。おかげで鼻息は荒く、視力は8.0まで急上昇。
 これがサンジ一人ならとっくに駆け出しているところだが。好きな子からの“絶対に離れるな”という言いつけの方が彼には強力であるため、今日は大人しくナマエの後ろを歩いており、すれ違う美女たちを血眼になって網膜に焼き付けるに留まってる。
 フラフラとどこかに行くことはないが、彼女の機嫌を損ねるには十分な態度である。

 ナマエは心を無にして買出しに徹した。いつもは山ほど喋りながら買い物を進めるのだが、今日はナマエの独断で食材を選定していく。
 買い物リストは頭の中にあるし、別に難しいことではない。一人でも当たり前にできることを、いつもはわざわざ二人でやっているだけだ。その時間が嬉しくて楽しかったから、互いに一人でこなせる仕事を尤もらしい顔で分け合っていただけ。
 ……やっぱり浮気な男って良くないのかも。ナマエは自分の心がささくれ立つのを感じながら店のおやじからお釣りを受け取った。
 そうして淡々と仕事をこなせば買出しは予定よりもずっと早く終わった。そもそもナミが設定した帰船時間は、いつもの会話たっぷりな買出しが基準なのだ。だからありえないほど会話がない、仮にあっても尋常ではないほど会話が弾まない今日は必然的に時間が余った。
 葬式の帰り道みたいなモノクロの冷えた空気に、さすがのサンジもこれはまずいと思ったらしい。

「あ、あー……ナマエ……? 今日は早く済んだし、どっかカフェでも寄っていくか……?」
「……どーぞお好きに」
「あはは……」

 近場のカフェに入り、オーダーを通す。
 サンジは紅茶をちびちび飲みながら、高速回転の脳みそで買出し中の己の振る舞いを採点する。……堂々の0点である。マイナスをつけてもいいくらいだ。
 市場巡りはナマエが上陸のたびに楽しみにしている時間なのに。
 夢を叶えるための大切な時間であり、船上ではなかなかできない装いを楽しめる時間であると、サンジは理解しているのに。
 それが今日はどうだ。黙々と仕事だけに集中させてしまった。エスコートは上の空だったし、服装もサンジに合わせてラフなものだ。こんな取ってつけたような寄り道では、彼女の好奇心は到底満たせないことも分かっている。

「(ク、クソテンション低い……)」

 丸テーブルを挟んで座っているナマエは、アイスコーヒーを飲んでいる。頬杖をついて窓の外を眺めており、感情が沈澱したその横顔はシン…としている。
 怒っている、とは少し違う。でもご機嫌とは程遠いことは痛いほど分かる。楽しくはない…のだろう。
 ここまで分かっていれば大人しくしていればよいものを、しかしサンジはうっかり目があったお姉様に手を振られれば「えへへ…」と控えめに振り返してしまう。
 視界の端にそのやりとりを捉え、ナマエはポツと口を開いた。

「つまんない」
「え?」
「サンジがよその子ばっかり見てるから」
「……へ?」
「お手洗いに行ってくる」
「あ……おお……」

 どうせ今のアホには何を言っても届かないと思った。どうせ右から左へ抜けてしまうなら、面倒臭い不貞腐れた本音でも言ってやれと思ったのだ。
 ナマエはブスッとした素っ気ない口調で言い捨てて席を立つ。
 残されたサンジはマヌケ面でキョトン…と彼女の背中を見つめて、言われた言葉を一生懸命反芻していた。


 女の連れがいなくなったから、いよいよサンジは格好の餌食だろう。彼も餌食になりたがっていたし、これで需要と供給が満たされる。サンジはお姉様たちのバックについてる男たちより確かに恐ろしい男だし、みすみす金品を毟られることはなかろう。ゾロと違って帰り道も分かる。ナミやロビンを超える美女など早々いないのだから、満足した暁には結局サニー号にルンルン帰ってくるはずだ。サンジが本当に美人局に遭ったとて、それはちょっと怖い思いをするが籠いっぱいの甘いお菓子をもらって家に帰ってくるハロウィンイベントのようなもの。……
 陰鬱な思考でそこまで考えて、ナマエはお手洗いの化粧直しスペースで大きなため息をつく。
 ふと、隣の鏡の前で赤いリップを塗り直すグラマーなお姉様と目があった。女でもドキッとするような、甘い微笑みを投げかけられる。

「……儲かりますか?」
「ふふ、ぼちぼちよ」
「怖い街ですね。男じゃなくてよかった」
「怖くなんかないわ。だってここは“純愛の街”よ」
「え?」
「浮気な男は私たちがみーんな食べちゃうから、残るのは奥さんやパートナー以外に靡かない純愛持ちの男だけ」
「……」
「あなたの金髪のパートナーはどうかしらね」
「……アハハ。膝の上に女の子でも乗せてんじゃない?」

 最悪の想像図に我ながら乾いた笑いが出る。
 しかし、結果は違った。
 確かにサンジの周りには女の子たちが群がっていた。着席するサンジの両脇と背後はたわわな乳で埋められ、ナマエが座っていた席にもとびきりキュートな女の子がいて、あの手この手で彼を甘い地獄に落とそうとしているのだが。
 サンジはその真ん中で両手で顔を覆い、両足をぴたりと揃えて背中を丸めて俯き、極限まで縮こまっていた。

「ち、近い、胸あたってっから……! 少し、はな、離れてくださいお願いします……!」
「んふふ、柔らかくてきもちーでしょ? ね、二人になれるとこ行く……?」
「ぁ、う。おっ、おれゲイだから! 男にしか興味ないから!」
「ウソだあ。さっき目があった時、嬉しそうにしてたもん」
「彼氏、カレシいるっ、デッキブラシみたいなヒゲの生えた丸太並みの太腕の100キロ越えのオッサン…ゥヴォエッ」
「キャハハ。大嘘すぎてえずくくらい拒否反応出てるじゃん」
「ッほん、ほんとに。おれちょっと、困ってるから、勘弁してくれよレディたち……」
「え〜? 聞こえなぁい」

 全ての語尾に紫色のハートマークがつくような、とろっとした練乳の声を四方八方から浴びながら、サンジはありえない嘘までついて抵抗していた。死にかけの虫の呼吸だ。柔らかい肌がもっちりと触れるたびにギクッと体を硬くして、これ以上縮まらない体をどうにか縮めようとしている。
 正直、かっこ悪い。
 バカみたいな量の鼻血が流れているし、手で顔を覆っているから己の鼻血で溺れかけている。口では拒否しているが、体は立派に反応してしまっている証である。
 それでも決して顔から手を剥がそうとせず、美女たちの誘惑を必死にメソメソ断っているのだ。その声は本当に困りきっていて弱々しい。7700万ベリーの首とは到底思えない情けなさである。米5キロも持てなさそうなかわゆい女の子たちに彼は敗北寸前で、白旗を15本くらい大きく振りながら命乞いをしている。

「とっ、とにかく、おれはもうよそ見しねェって決めたんだ! だから、君たちには指一本触らない!」
「やだあ、さみしい〜……」
「ッ、だめだ、誘惑しないでくれっ」
「どうしよう、いじめたいよね?」
「ね」
「〜〜ッ、ッッ!」

 サンジは老婆と幼女を除く女にはどんな相手にも靡きまくるどうしようもない男だが。

「——……」

 ナマエは彼のこの姿に、純愛を見た。

「サンジ」
「ッ、ナマエ! 助けてくれ!」
「まったく……」
「ぅぶっ、」

 ナマエは果敢にお姉様たちの壁に割って入り、血まみれのサンジの顔や手をおしぼりで拭ってやる。飲食店で流血なんて衛生的に最悪で店には申し訳ないが、テーブルや床の後始末は店に任せることにする。
 サンジはようやくナマエが戻ってきたことに安堵の涙を浮かべて慌てて立ち上がった。彼がそそくさと荷物を持ち上げて退店の準備をするその横で。

「お姉さんたちごめんね。このバカ、うちのだから」

 ナマエはすぐそばにいたお姉様の谷間に多めのチップを差し込んでそう言った。そして、サンジの手を取って颯爽と店を出た。
 サンジは手を引かれるがまま無抵抗によたよた歩いて彼女の後ろをついていく。彼はナマエに手を繋がれていることにドギマギして、「???」とひたすらに頭の中をクラッシュさせていた。
 また鼻血が垂れそうな感覚がして、慌ててTシャツの肩口で鼻を拭う。

「お、おい、ナマエ、」
「この街ね」
「ん? お、お?」
「純愛の街って言うんだって」
「?? なんでだ?」
「知らない」

 ナマエは前を向いたまま、サンジを振り返らずに言った。
 握った彼の手は、完全には拭いきれなかった鼻血で多少ぬるついているが、まあ見逃してやろう。今は機嫌がいいから、ナマエはこの大きくて素敵な手を離さないでいることにした。


***


「とりあえず、よく洗って。食材を片付けたら、着替え持ってくるから」
「ぁ、あい……」

 サニー号に帰り着くと、ナマエはサンジを大浴場の洗面所へ放り込んだ。彼のTシャツが鼻血まみれでどうしようもなかったからだ。
 サンジはバツが悪そうに視線をうろつかせて口篭った。

「? なに? お風呂の使用中札、使う?」
「い、いらねェ……」
「あっそ」

 ナマエは購入した生鮮食品の心配をしてさっさとハシゴを降りていった。軽い足音がパタパタと遠ざかり、サンジは一人になる。
 彼はひとまず顔や手をざぶざぶ洗ってから、血濡れたTシャツを脱ぎ、上半身裸の背中を丸めて洗面台でちまちまをシャツを洗い始めた。
 水の音だけが響く洗面所。サンジは顔をくちゃくちゃに歪め、脳内で猛反省会して落ち込んでいた。
 おれはずっと浮ついてたし、買出しの空気は冷え切ってたし、見知らぬ女たちに誘惑されて鼻血まみれになるし、挙句、彼女に縋って助け出してもらうなんて……。

「な、情けねェ〜……!!」

 ついに洗面台に肘をついてしおしおと項垂れる。
 自己嫌悪で涙が出そう。
 何やってんの、おれのばか。マジで。
 下唇を突き出してスン、と鼻をすすってヨロヨロ体を起こす。尻ポケットに捩じ込んでいたタバコを取り出して一本火をつけて煙を吐いた。タバコの煙がいやに沁みて、サンジは洗面台のふちに腕を引っ掛けたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込んでカクンと首を垂れる。
 深いため息をついてから、いやしかし、と気になる場所に記憶を巻き戻して薄く目を開く。


『つまんない』

『サンジがよその子ばっかり見てるから』


 サンジはのそ…と首をもたげ、斜め格子柄の壁にぼんやりと目を向けた。
 散々粗相をしておいて、なんて都合のいい解釈だと思うが、しかし。あのタイミングの、あの言い草。
 あんなのまるで、ヤキモチ…みたいじゃないか。

「……期待すンぞ…………」

 煙を細く吐き出し、ゴチ…と洗面台に側頭部を押し付ける。期待で茹った頭に洗面台の陶器の冷たさが心地よかった。
 右手の指に挟んだタバコの先から細い煙がくゆる。

 あの時、サンジの脳天には稲妻が落ちたのだ。
 ナマエの言葉は彼の脳みそを鋭く桃色に貫いた。傷口から花が咲きこぼれるようで、これまで味わったことのない酩酊するような多幸感に、思わず鼻血が垂れた。
 すぐに美女に取り囲まれて揉みくちゃにされたが、サンジの頭の中は彼女一色だった。
 そう、彼の鼻血の第一の要因は紛れもなくナマエなのである。そのあと、頬にくっつけられたおっぱいの柔らかさや、顎下を撫でる妖艶な指先は、あくまで第二第三の要因だ。……マ、絶対信じてもらえないし、証明のしようもない話なのでよもや言えるわけもないが。
 そのあとはナマエが目撃した通りである。
 サンジは死に物狂いで美女の誘惑を断り、健気に彼女の帰りを待った。やはりこの男は女には手も足も出ず、コテンパンに鼻血を搾られていたが、膝には誰も乗せなかった。ダンゴムシみたいにちっちゃくなって、女の子たちにいじめられっぱなしだった。

 ——ナマエにはその姿が、情けなくて、いじらしくて、なにだか無性にかわゆかったのである。

「あっ、コラ! 水出しっぱなしにしないの!」
「ぅおっ……!!」

 サンジはビクッと肩を跳ね上げて振り返った。
 梯子を登って戻ってきたナマエと目が合う。水を流しっぱなしにしていたので普通に怒られた。怒られたのにボケ…とナマエを見つめたままサンジが水を止めようとしないため、仕方なく彼女が水を止める。
 なおもサンジはそばに来たナマエを目で追いかけるだけで、立ちあがれないでいる。反芻した幸せの余燼に脳幹が痺れて、場違いに胸がドキドキするのだ。
 ナマエの顔を見上げ、熱に浮かされるみたいに、つい口が動く。

「……つまんなかったか?」
「え?」
「おれが、よそ見ばっかしてたから」
「……それ、は……」
「でも帰るときは機嫌良さそうに見えた。あれはなんで」
「…………」
「ナマエ」

 尋ねるサンジの顔はちょっとにやけている。勘違いを起こしそうな材料がたくさん揃っていて、浮かれてしまっている。決して問い詰めるような声音ではないけれど、うやむやにもしてくれなさそうな雰囲気である。恋人に甘い意地悪をするような温度の声だ。
 ナマエは返答に窮した。なぜって、届かないと思っていた言葉がきちんと届いていて、見ていないと思っていた顔を見られていたことにいま気付いたから。
 羞恥の火に炙られて、ナマエは自分の顔がカッと熱くなっていくのが分かった。
 サンジからは彼女の顔がカッと赤くなっていくのがよく見えた。
 ナマエは何か言おうと一度大きく空気を吸い込んだが、唇がむにむに動くばかりで言葉にならない。
 彼女の眉間に寄る皺が可愛らしいと思った。自分のことで困っているナマエが、意地は悪いがサンジにはどうにも愛おしい。何を言ってくれるだろう、と無意識にワクワクしてしまう。
 この甘ったるい眼差しに追い詰められたナマエは。

「……ロ、」
「ロ?」
「ロッカーに大量のエロ本を保管するのは、やめた方がいいよ」
「ブッ……!!」

 母ちゃんみたいな小言を言い、持ってきた着替えのシャツをサンジの顔面に投げつけてこの場を強制終了させたのだった。