空想バスルーム

週末のレモネード

 カラン、と、汗をかいたコップの中で氷が踊る。
 薄く黄色に色付いたその中身は、君が好きだと言っていたレモネード。窓の外では、つくつくぼうしが大合唱を始めている。今日、八月八日は、彼の誕生日だった。

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 私達は、温泉街としてそれなりに全国に名を馳せる土地に生まれたが、それでも総人口が一万人ほどしかいない山奥の田舎だ。町立の小学校は三校しかないし、中学校に至っては一校しかない。必然的に、この町で育った同年代の子どもは全員顔見知りになる。昔はもう数校あったらしいが、バブルの崩壊とともに温泉地としても別荘地としても訪問客は減少の一途。それに伴い町を出る若い人も多く、人口も順調に比例して、グラフは右下に一直線だ。統廃合により、学校の数はどんどん減る。

 とにかくそんな町なので、私と彼は幼馴染のような関係だった。そんなに仲良くしていたわけではないけれど、この町特有の硫黄臭い雰囲気から逃れたくて進学した、町の外から通う人も多い私立高校でまた再会してしまったので、くされ縁として徐々に仲良くなっていった。彼――東堂くんは、昔はサッカーをやっていたイメージだったけど、入学早々自転車競技部に入部を決めたと聞いた。後から知ったが、我が箱根学園高校は、どうやら自転車競技部の名門校だったらしい。神奈川県中の自転車乗りが集まるそこは、全国トップクラスの上澄みの上澄み、常勝校として有名だというのだ。

 彼は実はそれなりに真面目に自転車をやっていたようで、三年に上がるときにはもう、インターハイ出場は確実だと言われていた。そのまま当然のようにレギュラーに選抜されて、夏休み明けには何かの表彰で名前を呼ばれていた。赤色のゼッケンを見せてもらったけど、それが何を意味するのかはイマイチ私には理解できなかった。インターハイ中のどこかの何かで、一番になったみたいだけど。でも、私が入学してから毎年優勝旗を持ち帰っていた自転車競技部は、最後の年だけは小さな楯を掲げていた。王者の経歴に泥が付いたのだ。東堂くんは、自分はどこかの何かで一番になったらしいのに、あまり嬉しそうじゃなかった。

 しかし元来東堂くんは明るいタイプで、男女問わずよく喋りかけるので、いつも周りは人で賑わっている。それなりに顔立ちが綺麗で場を盛り上げるのも得意なので、女子の中にはファンクラブもあると聞く。小田原や真鶴など、町の外から通っている女子からの人気だ。私達のような地元の者は、みんな家族ぐるみの付き合いだから、全部家族に筒抜けになるし、今さらきゃあきゃあ騒いだりはしないのだけど。それでも、彼を密かに慕う同郷の女子も何人かいたはずだ。進路面談で東堂くんが東京の大学に進学希望を出したというから、同じ明早大へ進学希望を出した女子が余りにも多すぎて、進路については自分のやりたいことを考えて決めなさいと先生から改めてお説教があったほどだから、やっぱり女子人気は高かったのだと思う。

 私は以前から興味のあった教育の分野に進みたくて茨城にある国立大学に進学したが、そうしたら東堂くんがいたから驚いたものだ。やっぱり途中で希望を変更したらしい。私立のスポーツに力を入れている大学ではなくて、地方の国立大学に進んだなんて、と驚いたが、これで少なくとも十六年は東堂くんと同じ学校の同級生で居続けることが確定してしまった。学群――所謂学部と同じ――こそ違うものの、特に一年生で履修する教養科目は授業が被ることも多く、今まで以上に急激に距離は縮まっていった。

 「付き合おうか」と彼に声をかけられたのは、大学一年生が終わる頃だった。「どうして?」と聞いたら、「お前の作るレモネードが、好きだからな」と答えられた。大学一年生の秋学期の授業、金曜日の夕方に同じ教養ゼミを取っていた。そのまま週末は一緒に、ゼミのテーマについて相談しながら過ごすことが多かった。たまたまレモンが安かったから自家製のレモネードを作ったら、彼に気に入られたから、毎週末はレモネードを用意するのが習慣になっていた。「レモネードが好きなら、仕方ないね」と、交際がスタートした。

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 テレビが映すのは、どこか知らないヨーロッパの道路だ。ロードレースのことは何もわからないけど、普通のテレビ中継はほとんどしてくれないからスポーツチャンネルを契約した。ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアを始めとする数々のロードレースに、彼は出場している。

 大学を卒業して、東堂くんはプロ入りした。家業の旅館を継ぐかどうかはずっと悩んでいたようだけど、結局それは彼の姉が引き受けることになった。それと同時に、私達の交際も終わった。彼はすべてを置き去りにして、全部の荷物を降ろして軽くして、誰よりも速く進もうとしていた。拒否権はなさそうだったので、「頑張ってね」とだけ伝えて、そのまま私達の関係は終わった。

 あれから何年も経って、私は横浜に出て、しがないOL生活をしている。それでも私は毎週末、レモネードを作る。うっかり彼がいつ訪ねてきても、すぐに飲ませてあげられるように。

「好きだったのかな」

 ぽつりと漏れたひとり言に、自分自身で驚いた。

「……好き、だったのかな」

 今日は土曜日、レモネードの日。つくつくぼうしが煩く鳴く、八月八日は彼の誕生日。何度も飲んだ甘酸っぱいその味は、じくり、じくりと胸の奥に染み渡っていった。

 その日のレース、彼は山岳賞の赤ゼッケンを獲った。白地に赤の水玉の山岳賞ジャージを着ている姿を見て、やっぱり赤より箱学のジャージみたいな青い色のほうが似合うなあ、なんて思った。

 山で生まれて山で育った私達は山が大好きで、彼は山を走るのが一番得意だと言っていた。高校生の時からクライマーのエースで、山神と書かれた大きな横断幕を掲げられて応援されていたのは知っている。当時は私はわざわざ大会を見に行ったりはしなかったけど、たまに友達に連れられて、その姿を見たことはある。青と白を基調にした箱学のレギュラージャージは、あつらえたように東堂くんに似合っていた。普段は煩いくらいやかましくて目立ちたがりな彼だが、走りはとても静かで、真っ直ぐで、ちょっとだけかっこよくて、周りの女子達が騒ぐ理由が少しわかったような気がした。その時は、まさかその後私達がそういう関係になるなんて、夢にも思っていなかった。たった三年ぽっちで終わるなんて、もっと思っていなかった。ましてや、その後何年も、ずっと心に引っ掛かり続けるなんて。

 初恋はレモンの味、と言うけれど。私の最初で最後の、もしかしたら恋かもしれない気持ちは、この週末のレモネードの味、なのかもしれない。

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 スポーツチャンネルから、聞き馴染みのある声が響いてくる。

「俺が今回山岳賞を獲れたのは、普段から支えてくれるチームのメンバーや、応援してくれている皆様のお陰です」

 少し高めの滑らかな語り口調。艶やかな黒髪の、長い前髪をカチューシャで上げるスタイルは中学の途中くらいから。身長は平均くらいだけど、体はかなり細身。無駄な肉は全くついていなくて、筋肉質に引き締まったアスリートの体つき。健康管理には誰よりも気を遣っていて、性格はまめで几帳面。典型的なA型で、割と神経質で、頑固なところがあって、それなりに喧嘩もしたな、なんて他愛ないことを思い出す。

「これからも、更に高みを目指して努力していきます。引き続き、応援よろしくお願いします」

 活躍選手へのインタビューのコーナーで殊勝なことを言う彼に、ついくすりと笑みが漏れてしまう。昔は、「天才には努力なんていらないのだよ!」なんて高笑いしていたというのに。まあ、そんなことを言いつつ彼が誰よりも努力家なのは、周知の事実だったのだけれども。

『今日は、東堂選手の誕生日だと伺いましたが、最高の誕生日プレゼントになりましたね』

 インタビュアーがそう言うと、会見会場近くに集まっているらしいファンからの、おめでとうの音頭が画面越しに飛んでくる。彼はそれに手を挙げて応えると、再びマイクを持ち、答えた。

「ありがとうございます。今日は土曜日ですし、家に帰ったらレモネードでも飲んで、ゆっくりしたいですね」
『レモネード?』
「ええ、数年前から、週末にはレモネードを飲むのが習慣になっているので。ジンクスみたいなもの、とでも言うか」

 ぽたり、と、手に持っていたコップから水滴が落ちる。氷はすっかり溶けきっていた。茫然としているうちに、東堂くんとインタビュアーは二、三会話を交わしている。

『今後の活躍も期待しています。今は欧州を舞台に研鑽されていますが、今後、日本に戻られる予定はありますか?』

 モニターの先の彼と目が合った気がした。コップの中のレモネードはもう水と変わらないくらい薄くなっていて、窓の外のつくつくぼうしの声も耳に入らなくなっていた。

「ええ。もし、待っていてくれる人がいるのなら。自分の実力に自信が持てるようになったら日本へ帰りたいと思っています」

 自分で作るレモネードは、やはりちょっと物足りないので。そう言って、整った顔をにこりと緩めた。インタビューはそれで終わって、自転車レースの番組も一区切りとなったようだ。私はテレビの電源を切って、すっかり薄まってぬるくなったコップに、新しい氷とレモンシロップを継ぎ足した。彼はまだ、昔と同じ電話番号を使っているのだろうか。久しぶりに電話でもして、レモネードはちゃんと毎週用意していることを伝えなければ。いつでも、帰ってくるのを待っていることを伝えなければ。意を決して、カランと氷を揺らしながら、レモネードを飲み干した。


 充電器に差しっぱなしにしていたスマートフォンが、小さく電話の着信ランプを光らせていることに気がつくのは、それからすぐのことだった。

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