空想バスルーム

流れるはミルク色

 東堂くんとの交際が始まって、三ヶ月。六月初頭だが、まだまだ晴天が続く。あと一週間もしたら梅雨前線が列島を覆い、お日さまが拝めなくなることだろう。どんなに雨が降っても自転車競技はオールウェザースポーツなので、どうせ彼は毎日いつものように練習に勤しむだけなのだけれど。

 春休みに、東堂くんと恋人同士になったことは、まだ周りに内緒にしている。東堂くんのファンの女の子に刺されそうなのも嫌だし、友達に根掘り葉掘り質問責めに合うのも嫌だし、お互い、人前でいちゃつきたい質でもなかったし。なんとなく、なまえのバイトがない日の夕方だったり、東堂くんの練習が終わった後の時間だったり、そういうタイミングでどちらかの家に集合するのが常だった。だいたいは、なまえの家に、だったのだけれど。

 東堂くんの家はそんなに汚いわけではない、というか、この年代の一人暮らし男子の中ではかなり整頓されていて綺麗な方だと思うけれど。部活の友達もたまに来たりするから気になる、なんて言って、あまりなまえを上げたがらなかった。まあ、なまえが家にいるときに、他の友人が突撃してきたら、ちょっと厄介だから。気持ちはわかる。なまえには、事前連絡もなく突然押し掛けてくるような友人は、いないし。

 そういうわけだから、あまり二人で外出することもなかった。いわゆるおうちデートみたいなことしかしなかったし、それも、料理を作って食べるくらいだったし。そんなにゲームも好きじゃないし、持ってないし、適当なテレビを見たり、たまに映画のDVDを借りて観たり。淡白だなあ、とは思うけれど、それくらいの距離感が心地よかった。

 だから、本当に、何かの気の迷いだったのだろう。

「東堂くん、私、どこかに一緒に出掛けたいな」

 いつものように、家でごはんを作って、適当なテレビを見ていて。ぽろりと口から零れ出た言葉に、自分自身が一番驚いた。

「……じゃあ、デート、行くか?」

 彼も、ちょっとだけ驚いたような顔で、そう返してくれた。そうして、私達の初デートの日取りが決まった。

🚲️


 そうは言っても私達は山っ子だから、あまり繁華街に出掛けるのもなんだかなぁ、という感じで、結局行先は筑波山になった。
交通手段としての自転車には乗ってきたけれど、いわゆるスポーツ用の自転車は初めてで、だけど山を登るのにさすがにママチャリはきついということで、私はレンタルのクロスバイクを借りた。普段乗っている自転車よりだいぶ座高が高く、バランスを取るのが難しい。よたよたと走り出したのろまな私に、普段の半分のスピードも出せてないだろう東堂くんは、笑いながら一緒に走ってくれた。

「背筋をまっすぐ伸ばすんだ、体の傾く方に曲がってしまうから」
「む、む、無理だよぉ……こわいよぉ……」
「足を止めねば倒れんよ、それが自転車だ」

 東堂くんはカラカラと笑うけれど、私は生まれたての子鹿の足で必死にバランスを保つのに精一杯だ。東堂くんは中学生のとき、初めて乗ったロードバイクで大会で1位を取ったというから驚きだ。無理無理、こんなの絶対乗りこなせない。運動神経が良い人は違うな、なんて思って。すごい人なんだな、と改めて実感して、小さくきゅんと胸が鳴いた。
 私の彼氏、すごい人じゃん。そんなの昔からずっとわかっていたのに、「彼氏」なんて名前がついた途端、自分の所有物みたいに誇らしくなる。その彼氏サマに、自分はとてもみっともない姿を晒しているのに。

「わ、わ、わっ」
「なまえ、大丈夫か?」

 うっとり見とれていたわけじゃあないけど、ぼーっとしていたら案の定バランスを崩れて横に倒れてしまった。
 がしゃん、と思いの外大きな音を立ててしまったが、自転車そのものが軽いのでそんなに痛くはなかった。ごめんごめん、気ぃ抜いてた。そう一言告げて、再びサドルに跨がる。整備された道とはいえ、所々コンディションの悪い部分があるのだから、注意を散漫にしてはいけない。せっかく握ってきたおにぎり、今ので崩れてないといいけど。とにもかくにも山頂を目指す。よたよたとまたペダルを漕ぎ始めた。

「なまえ、お前怪我してないか?」
「え?」

 しばらく走った頃、東堂くんに声をかけられて足元を見てみると、確かに膝から少し血が流れていた。さっきの落車の際に、擦りむいていたようだ。

「平気、あんまり痛くないし」

 言われるまで気付かないほどだ。足に負担がかかるわけでもないし、このままで大丈夫だよ、と伝えた。

「ほっとけばそのうち、かさぶたになるでしょ」
「……はぁ。お前はいつもその調子だな」

 東堂くんが大きくため息をついた。いつも?と首をかしげていると、小学生の頃から、かさぶただらけだっただろう、と重ねてきた。へえ、一応私のこと、そんな昔から認知しててくれたんだ。まあ、田舎の狭い社会だから当然か。

「絆創膏くらい貼っておけ。傷痕が残るぞ。子供の頃ほど、代謝がいいわけでもないし」
「お母さんみたいなこと言うね」
「誰がお母さんだ、周りに子供みたいなやつが多すぎるだけだ」
「ハコガクの自転車部のみんなとかね」
「あいつらもお前よりはマシだけどな」
「えー、ひどいこと言うね」

 東堂くんが小さな赤い紙片を差し出してくる。よく見たら絆創膏だ。自分はレース中に怪我してもゴールまでそのままほったらかしなくせに、人にはどうも口うるさい。路肩に一度停車して、手当てすることになった。

「わ、お水もったいないよ?」
「一応、洗い流しておいたほうがいいからな」

 まだ開けていない水のペットボトルがあったようで、慣れた手つきで傷を洗ってくれた。さすがにこれくらいの怪我は慣れているようで、スムーズに手当てを終わらせてくれた。え、かっこいいじゃん。内心そう思ったけど、直接言葉にすると調子に乗って面倒くさいから、黙っておく。

「いやー、イケメンが足元にかしずいてくれると、なんだか気分がいいね」
「ハッハッハ、そうだろうそうだろう、この美形にここまでさせるとはいいご身分だななまえ!」
「うーん、相変わらず自己肯定感の鬼!」

 ケラケラ笑い合いながら、頂を目指す。そこまで高い山じゃないから、もうじきゴールだ。東堂くんが本気を出したら、この時間に二往復くらいできてるんじゃないかな?と思うくらいちんたら登っているけれど、本人も楽しそうにしてくれているから、良しとしよう。
 薄い筋のような雲がゆったり流れていく。うっすらミルク色のそれは、青空を余計に強調していて、初夏の日差しの強さを思い知らせてくれる。じっとり汗ばんだ体が心地好い。
 頂上についたら、まずはおにぎりを食べて。それから少しおしゃべりでもして。少し休んだらまた下山しなくちゃなあ。山って、登ったら降りなきゃいけないから大変だ。その頃には今よりちょっとだけ、このクロスバイクに乗るのもうまくなっているかな。明日には筋肉痛で体がガチガチになっているかも。そうしたら、明日はやっぱりいつも通り、おうちデートかな。うん、私たちらしいね。

 ちらっと膝の絆創膏を見た。特に可愛げもない、一番オーソドックスなメーカーの普通の絆創膏。一見冷たそうな彼の優しさ。今日一日はこれと一緒だと思うと、少し嬉しくなった。
 誰よりも早く山を登れる人が、私のためにペースを合わせてゆっくり進んでくれる。こんなに優越感を得られることってあるだろうか。雲が進むよりゆっくりと、ペダルを回していく。こんなに贅沢な日があるだろうか。
 もうだいぶ足は疲れているはずだけど、自然と踏む足に力が入った。

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