嫌な予感は少しだけあった。現実味なんてひとつもなくて、出来る事なら夢であって欲しいと心の底から願ってはいたものの、人生そんな簡単に自分の思い通りになる程甘いものではないのは知っているし、まぁ出来る事なら気に留めておくくらいはしておくべきだったのだろうけれど、なんというかそういう面倒な事は性に合わないものだから致し方ない。

「マゴさん、マゴさん…ふふっ」
「う、うぅっ…やめてくださいっ…」

 後ろ手に両腕を縛られた上に目隠しまで施され、暗い倉庫の壁際に追い詰められた自分を見下ろしているであろう、どこか熱の籠った声を落とす若いボーイに溜息を吐きながら、心配しているであろう彼女の姿を脳裏に映してはちょちょ切れそうになった涙を引っ込めた。そんな恐怖体験を味わう事となる夜から、時は一週間前へと遡る。


***


「…おろ?」

 閉店間際で客足も次第に減ってきたある日の夜更け、先程まで番台に座っていたはずの看板娘の姿がいつの間にやら消えている事に気付いた。店内を見渡してもいつもの小さな姿は見えず、暗闇に包まれた店先の道路にも人の気配は感じられない。

「おーい、店閉めるぞー。どこ行っ…」
「ばぁ」
「うわぁあ!」

 一体何処に隠れていたのか、看板娘が背後から抱き着いてきた衝撃で一歩二歩三歩と道端へ飛びだすも、なんとかその程度で踏み止まりそれ以上倒れる事はなかった。こら、と軽く頭を小突くも反省の色なし、てへへと可愛く笑うものだからついつい怒るにも怒れなくなってしまう。

「もー、びっくりして心臓止まっちゃうかと思った」
「えへへ、ごめんなさい。あ、そうだ! これ、おてがみ入ってた」
「ん? あぁ、ありがと」

 そうにこにこと笑顔を掲げながらぴょこんと目の前に飛びだしては、持っていた数枚の封筒の束を渡すと彼女はぱたぱたと店の中へ戻りながら、お風呂に入ってくるとだけ一言残してあれよあれよというままに姿を消してしまった。やれやれと溜息を吐きながら、受け取った封筒を持ち居間へと戻ると、コタツに入りながら中身を確認してみる。
 すると、重ねられた中の一枚に含まれた、差出人のないシンプルな封筒が妙に目につき、何も考えずに軽い気持ちで端からはさみで切り開いて中に入れられたものを取り出してみると、そこには予想もしていなかった異物がシンプルな便箋と共に同封されていた。

「…なんだよ、これ」

 それを視界に入れた直後、胸の奥の心臓がどくんと音を立てて跳ねた。あまりに奇妙すぎる、便箋に書かれた一文を読んだ瞬間に体がぞっと震えた。文字だけではなく、また別に封筒から飛び出してきたその異物のせいで、ただでさえ増幅していた気持ち悪さが一気に腹から込み上げ、危なくその場で腹の底から嘔吐しそうになった。

「おい、マゴ…どうした。顔色、悪いぞ」
「えっ…あ、いや。ごめん、何でもない」

 呆然としながらも息苦しさから耐えるように胸元を握り締めていると、風呂から上がってきたばかりの幼馴染の不思議そうな表情が覗き、慌てて全てを封筒の中へと押し込むように戻しては、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱の中へと投げ捨てた。出来るだけ平然とした態度を保ちながらへらへらと笑顔を零しながら胸の内のざわめきを押し潰し、ひたすら頭の中の澱みを拭い取るかのようにぶんぶんと首を横に振った。
 きっと子供のいたずらに違いない。半分、そうであって欲しいと強く心の中で願いながら、一晩寝れば夢として終わってくれると信じ、先向こうへ気に留まらないよう必死に家計簿と再びにらめっこする事にした。


***


「ねぇ、マゴにい」
「なに?」
「お願いがね、あるんだけど…」

 差出人不明の封筒が届いてから一週間後。結局、あの日から再び気味の悪い封筒が届く事はなかったので、その存在さえ記憶から抹消され始めた頃、いつものように番台の受付カウンターを挟むように二人で向かい合いながら遅い夕飯を食べていた時、ハンバーグを頬張っていた看板娘がそわそわした態度でこちらを見上げながら、やや申し訳なさそうに看板娘は零した。目線は茶碗に落としたまま、珍しくおどおどと不安そうな表情のままの彼女の問いに、どうしたのと静かに返事をする。

「明日って、ハイカラシティでフェスやる日でしょ?」
「あぁ、うん…そうそう、フェスね。稼げないんだよな、アレ…」
「あ、あたしね! み、見に行きたい、ん、だけど…」
「フェスを?」
「う、うん…」

 口の中に広がるじゅわりとした肉汁を噛み締めながら、ほかほかのあったかいご飯を掻き込み彼女の話に耳を傾ける。
 毎日バトルに明け暮れているインクリング達にとって、恒例となっているフェスは対立する二チームのどちらかに分かれ、ランダムに決められた四人組のタッグで争い投票率と勝率によって勝敗が決められるお祭りイベントであり、普段あまりバトルに嗜まない自分達にとってはあまり関係の無いものでもある(大した儲からないし)が、そんなフェスの様子を見に行きたいというのであれば、別に連れて行ってあげても特に支障はない(フェス中は客足も遠のきっぱなしなので勝手に店閉めちゃっても問題ないもん)。と、言えど勿論バトルが未経験である彼女を参加させるという訳にはいかないのだが。

「まさか、バトルしたいって訳じゃないよね」
「うん。そういうんじゃなくって…あの、マゴにいと一緒にね、あたし…花火見たいの」
「花火?」
「イカスツリーの上のとこまで昇ってね、花火見て、わいわいして、ドキドキして…バトルは出来ないけど、あたしもみんなとフェス楽しんでみたいの」
「リン…」

 備え付けに乗せた葉っぱだけのサラダをもしゃもしゃと頬張りながら、彼女は力説するように強い思いをぶつけてきていた。
 この銭湯の看板娘である彼女は、今まで話を聞いた限りだと何かと外でしか知り得ない、感じる事のできない事に関して著しく経験や知識が乏しい。至って普通であるスーパーへの買い物や、公園での遊び方、電車の乗り方や人と人とのコミュケーション、その他多数。小さい子供なのだから知らないものが多いのは大いに結構だが、まさか初めて一緒に買い物へと行った時、スーパーって何、と聞かれる事になるとは思っても見なかった。家の中で出来る家事や遊び、文字書き等は平然と熟す割に偏るその知識量に、今では大分均衡を取れるようになってはきたが初めはよく驚かされたものだった。

(花火も、見た事ないんだろうな)

 彼女の両親が失踪する前にどんな生活を送っていたのかは自分は知らない。彼女の口から打ち明けるまでは、こちらからは絶対に問い質さないと心に決めていた。ただ一つ、彼女の過去に触れられるものと言えば、許可を得て手元に保管している彼女と彼女の両親が映った一枚の写真だけで、初めて会ったあの日から今でもずっと箪笥の奥に仕舞ったままでいる。

(…でも、なんか引っかかる…)

 何が引っかかるのかと言われればフェス開催日である明日、ごく最近何か目に見えるもので視認した記憶があるのだがどうにもこうにも思い出せない。何か大切な予定があったのか、それとも誰かの誕生日だったか。どれだけ捻り出そうと考えてもこの脳味噌はどうやら答えを出してはくれないらしく、思い出せなくても問題のない程に重要ではないのだろうと自己完結し、彼女の不安そうな表情にしっかりと了承の頷きを返しながら答えた。

「…よし、分かった。一緒に花火見に行こう。ツリーでもタワーでもなんでも付き合ってやらぁ! あ、そういえば…イカスツリーに昇るのは久しぶりだなぁ…」
「ほ、本当にいいの? お店、大丈夫?」
「いいのいいの。もしもの時は、どっかの誰かさんに店番お願いすればいいし」
「ほ、ほわぁああ…! やったー!」

 フェスの花火を見に行ける事がどれだけ嬉しかったんでしょうか。
番台から勢い良く飛び降りてぱたぱたと店中を駆け回っている看板娘は、感極まってか全く知らないボーイのお客さんにまでハイタッチをかましては回っている(普段そんな事絶対しないのに)。そんな心から喜んでいる彼女の姿を眺めては苦笑を零し、来る度に憂鬱だったフェスがまさか楽しみとなる日が来るなんて思いもせず、我ながらその単純さについ笑いが込み上げてしまった。


***


 そしてついにやって来たフェス当日。天気にも恵まれ雲一つない青空だった一日も、次第に日が暮れて花火を打ち上げるには最適な星の煌めく真っ暗夜空へと染まりつつあった。朝昼晩に関わらず、ツリー前の広場はてんやわんやと文字通りお祭り騒ぎ状態になっており、シオカラーズを乗せた特設ステージを囲んでダンスに明け暮れる者や、モニターに映されているナワバリバトルの中継を見上げて自分の所属するチームの応援に力を入れている者もいた。
 フェスで大騒ぎするような年齢でもないし、看板娘が人ごみに飲まれて迷子になる可能性も無きにして非ずだったので、なるべく人の少ない脇道を通り、それでもわんさかと押されては揉まれつつ波の中を掻き分けては、ようやく目的であるイカスツリーのエレベーターへ乗り込む事が出来た。
 意外とツリー内もバトルに夢中の人々ばかりかと思われていたインクリング達もこれ見よがしにとエレベーターに乗り込み、仕方なしに看板娘を抱っこしながらぎゅうぎゅうに詰め込まれた中でようやく展望台へと辿り着いた。もうすでに切れかけた息を整えながら空いていたベンチに座り込む。ただでさえ無い体力が一気にすり減らされた気分だった。小さく溜息を吐きながら、抱いていた小さな体を隣りの座席にそっと下ろして、ショルダーバックの中に入れていた小さなタンブラーを取り出す。

「はい、麦茶」
「マゴにい、先飲んで」
「遠慮しないで、ほら」
「…うん、分かった」

 これでも立派な大人であるので子供の前で我が儘など言えるはずもないのだが、本音を言ってしまうと、ものすごく飲みたい。一刻も早く。看板娘が両手で持ち上げたタンブラーに口を付けて、美味しそうにごくごくと喉を通していく様子に思わずつられてごくりと喉を鳴らした。交代の瞬間を待ちに待っていると、ようやく口を離した彼女が絶望の淵に陥れる一言をぽろりと落としたのだった。

「あ…飲み切っちゃった」
「ひぃっ、ひどいよリンちゃん」
「仕方あるまい。あたしのおちんぎんでマゴにいのジュースを買ってきてあげます!」
「わーい、嬉しいなー。出来ればカフェオレがいいです」

 まさか飲み干されるとは思わなんだ、戻されたタンブラーの中身を覗くと確かに一滴残らず空っぽになっている。よっぽど喉乾いてたんだなぁと気付けなかった事に後悔し少し申し訳なく思っていると、売店まで駆け出して行った看板娘がにこにこと笑顔を振り撒きながら二つの缶を抱えては戻ってきていた。

「買った!」
「何を?」
「いちごミルクとコーンポタージュ!」
「ど、どうしてそんな事に!」
「はい、いちごミルク」
「選択権さえない! 別にいいけど!」

 あまりに予想外すぎるラインナップだった上、希望を告げる間もなく渡されたピンク色の冷たい缶のプルタブに指を掛け、空いた穴から口の中へ甘いその液体をどぽどぽと注いだ。

「まぁ、でも美味いよね」
「でしょ?」
「コンポタも一口ください」
「じゃ、交換ね」

 甘いものは決して嫌いではない。言う程飲み食いをする訳ではないが、ただでさえ貧困生活を送っている為に疲れが溜まっていると妙に甘いものを摂取したくなる事が度々ある。言ってしまえば好きでもなければ嫌いでもない、要するに普通と表現するのが一番当て嵌まるような気がした。無事喉も潤ったところで、大きな窓ガラスから外の風景が一望できるところまで近付き、もうそろそろ打ち上げが始まると思われる花火を待つことにした。他のインクリング達もそれを狙ってか、展望台には既にたくさんのカップルやグループが我先にと窓越しの夜空を見上げている。

「なんか、ドキドキしてきた」

 あまりの人の多さに埋もれて何も見えなくなってしまいそうだった為、他の客の邪魔にならないよう後ろへと下がり、そこで看板娘を肩車してなんとか花火だけは見えるよう場所を確保する。

「見えそう?」
「うん!」
「あ、そろそろかな…」

 小さく欠伸をしながらぼうっと突っ立っていると、突然甲高く強い光の上がる音が響き輝いた。お、と視線で追う暇もないままにそれは空へと消え、やがて大きな花弁を咲かせては真っ暗な黒の中できらきらと星空のような粒が散っている。空に映った大きな花火はツリー内のインクリング達を賑わせ打ち上がる度に感嘆の声がそれぞれに漏れていた。

「おー、なかなかのもんだ」
「き、きれい…」
「感動して泣くなよ〜?」
「な、泣いてなんかないもん!」
「うっそだ! 泣いてっぺ!」
「泣いてないー!」
「泣き虫リンちゃん〜」
「んもう、マゴにいのいじわる!」

 頭上から驚きと感動が交え、震えた小さな声を拾っては思わず苦笑してしまった。どうやら、本当に花火を見るのは初めてだったらしい。色、形、大きさが様々に咲き続ける花火を見上げてはくりくりの瞳を負けないくらいに輝かせ、首が痛むにも関わらずずっと視線を外す事はなかった。

「花火、好きになっちゃった?」

 夜空へ真っ直ぐと伸びていた視線を戻せないままでいる彼女はこくりと見上げたまま小さく頷いた。

「また、一緒に見に行こうな」
「…今度は、三人がいい」
「あぁ…そうね。それじゃ、アイツがまた店に顔出したら誘ってみよっか」
「うん」

 打ち上げが始まり三十分が経過した頃。ようやく興奮が収まったのか、肩の上からいそいそと降りた看板娘はリュックサックに入れていたイロメガネを掛け、携帯電話を貸して欲しいとねだってきたので素直にそれを手渡すと、今度は屈めという指示を受け言われるがままにその場にしゃがんだ。画面を向こう側に片手で持ち上げ、そしてカメラのレンズを二人が座っている手前の方向へと向ける。

「はい、いい顔してくださーい」
「え? あ、はい」
「撮りまーす、ハイチーズ!」

 彼女の掛け声と共にパシャリと小さなシャッター音がなった。唐突な記念撮影だったのでとぼけた顔になってしまったような気がする。気になって写真を確認してみると、あまりの撮影の下手くそさについ笑いが込み上げてしまった。

「あはは、ちょっとリンちゃん。俺顔半分しか映ってないよ」
「あたしも上半分しか映ってなーい」
「もう一回撮る?」
「んーん。これでいい」

 見事に右側に縦半分だけの自分と左下に横半分だけの看板娘、そして後ろには知らない人ばかりが映ったなんとも奇妙な写真が出来上がり、それを嬉しそうに眺める彼女がとても不思議で仕方が無かった。

「なんで?」
「秘密! ほら、そんな事より早く帰ろ!」
「わっ、ちょ、待って! 慌てるとまた転ぶぞー!」

 その謎が解明されるのは意外にもそう遠くなく、しかし今だけは全くそれが理解出来ないままエレベーターまで一直進に飛びだしていった看板娘を追い掛けるのに必死で、深く考えている暇など一つもなかった。




‐ ‐ ‐ ‐ ‐ ‐