新年を迎えて早数日を迎えた冬真っ盛りのこの季節。コタツに一度足を突っ込んだら暫く抜け出せなくなる程の厳しい寒さは、若かりし頃と比べ衰えの兆しが見え始めている体にとって少しばかり辛さを感じるところはある(と言えど、店を開けない訳にはいかないので、生活の為だと自身に鞭を打ち、ぶるぶると体を震わせながらもデッキブラシを握っている)。
「あ、お湯沸いた」
深夜帯であり客足が一番に途絶える今。番台の様子を伺いつつ居間のコタツに足を入れ、いつものように本日の収支分を家計簿へと記入していると、台所の方から吹き抜けるようなやかんの音が響き、よっこいしょと疲れを含めた声を落としながら再び腰を上げる。随分と茶渋が底に残っている群青色の湯呑を取り出して、既に準備しておいた急須にお湯を注いではくるくると中を回すように揺らし、ゆっくりと綺麗に染まった緑色をとぽとぽと注いだ。
「…ほい。ついで」
「あ、うん」
お手洗いから戻ってきていた幼馴染が、欠伸をしながら食器棚から取り出した深緑色の湯呑を隣りに並べてはぼそりと呟いた。それならばとついこの間購入した、クラゲの絵が散りばめられた小さい橙色の湯呑も取り出しては同じように茶を注ぎ、滅多に使う事もなかったお盆を取り出して居間へと運んだ。今風呂に入って体を温めているのであろう看板娘もそろそろ上がってくる頃のはずだ。寝巻も普段着も一緒の幼馴染が着替えを済ませて既にコタツに入っては寛いでいたので、目の前に湯気がふわふわと昇る湯呑をそっと置いてやると、小さく礼を述べた彼にどういたしましてと苦笑を漏らしながら小さく返した。自らも冷えた足を温める為に、広げられたままの家計簿の前に腰を下ろしては再びボールペンを握ると、がやついたテレビの電源を落としじっとこちらを見詰めてくる彼が、聞こえない程の溜息と共に声を掛けてきた。
「…まだ、時間掛かるのか」
「まぁね。眠かったら、先に寝ててもいいよ」
「あー…いや、いい。待ってる」
眠気眼で目を擦りながら俯いている彼に就寝を薦めるも、どうやらこちらの仕事が終わるまで耐えるつもりらしい。これは早々と仕上げないといけないな、と気合を入れ直し、天井に向けて両腕を伸ばしながら肩をぐりぐりと回してストレッチをすると、その拍子に体のどこかが軋んだのか思い当たる節々にぴりりと痛みが走った。
「あー、いっ、たたた」
「おい。ただでさえ姿勢悪いんだから、あんま無理すんな」
「分かってはいるんだけどさぁ」
「…こないだのアレだって、まだ完全に抜けてねぇんだろ」
「んー…うん、まぁ。多分?」
溜息を吐きながら彼の言ったこの間のアレというのは、自分の人生の中で一、二を争う程に情けなくも身を滅ぼしかけそうになった、今から一ヶ月程前に起きた襲撃・誘拐及び強姦未遂事件の事を指している。不審人物によって拘束されていた際に、首元から注入された催淫剤の後遺症が一ヶ月経過した今でも残っているようで、今まで味わった事の無かった重い怠さがなかなか消えず完全には拭えないままでいた。その上、すぐになくなるだろうと思っていた注射針の跡がいつまで経っても赤みを帯びたままで、しかし生活上は支障がないので最近ではもう気にしないようになってしまったけれど。
「でも、本当にもうなんともないから。平気、平気」
小さく笑いを零しながらそう答えるも、彼の表情には少なからず暗さが混じったままだった。
「…悪かった。もっと、早く助けてやれなくて」
視線を落としたまま落ち込んでいる彼の様子があまりに珍しく、そして見ているこちらが辛く感じては胸の奥がずきずきと痛みを帯び始め、自分を責めようとする彼の言葉を慌てて否定した。
「な、何言ってんだ。俺がバカやっただけで、お前が謝る必要なんてひとつもないぞ」
「でも、腹が立つんだよ」
「あの…ちょっと変わったストーカーの人が?」
「…そいつだけじゃなくて、事の重大さにすぐ気付けなかった自分に、だ」
「……ヨリ」
普段は面倒臭がりで何を言っても聞かない頑固な性格をしている癖に、変なところ律儀な面が幼馴染の彼には確かにある。昔からそうだった。共に幼少期を過ごした養護施設で、わざとではないにも関わらず自分を怪我させてしまった時、代わりに一発ぶん殴ってくれと頭を下げてその場から動かなくなるものだから困ったものだった。結局、次の日のお昼ご飯に出たタマゴプリンをひとつ譲ってもらう、という条件で解決したのだった。
事実、彼がいなければ今こうして再びいつもの日常を取り戻す事は出来なかった訳で、寧ろ感謝をしたいくらいだった。
「…俺、嬉しかったよ」
「は?」
「あの時、とにかく怖くて堪らなかった。少しでも信じたくない目の前の現実から逃げてしまいたくて、ぎゅっと目を瞑って辺りが真っ暗になってたその時に、自分でもよく分からないけど、心の中で無意識にお前の名前を呼んでた。聞こえるはずなんて、ないのに。でも、そしたら、お前は本当に助けに来てくれて」
「そ、んなの…たまたまで、」
「…ありがとう、ヨリ。お前がいなかったら、今頃どうなってたか」
「おっ…ちょ、あぁもう! い、今更礼なんか言うな! チョーシ狂うだろが!」
顔を真っ赤に染め上げながら、照れ臭そうにそっぽを向いてしまった彼の様子に堪らずそっと零すように笑ってしまった。
(ぶっきら棒に見えて、結構いいヤツなんだよなぁ)
こればかりは、長い付き合いでないと彼の本質を見抜くのはなかなか難しいのかも知れない。なんせ、初めて顔を合わせる相手にも喧嘩腰でキツく当たるものだから、どれだけ好意を持たれ交友を築こうと誘われても、その態度を恐れられすぐに離れていく者ばかりで、本人もそれを良しとしていたのか、三人の中に知らない誰がが介入してくる事を酷く避けていたようにも見えた。
彼は見掛けによらず、意外にもガールにモテる。十年以上も音信不通だった為、ごく最近の情報でしかないけれど、二人で街を歩くとかわいらしい若いガールに声を掛けられるのも珍しくはない。上記の通り、あまり興味がないのか誘いを受けるところを見た事がない上、変わらず素っ気ない素振りで淡々としている為かそこから何か進展する事もないのだが。
(…なかなか、男前だとは思うんだけど)
ちょっとコドモっぽいだけで。なんて、口が裂けても絶対に言えないけれど。
既にうとうとと瞼が閉じかけて船を漕いでいる彼の湯呑が今にも倒れそうだったので、慌てて安全な場所へとそれを移すと、意識を失いかけていた事にはっと気付いては目を擦って頬をパンパンと叩いた。
「眠いなら寝ていいのに」
「…やだ」
「天邪鬼だなぁ」
「お前のそれが終わったら寝る」
「ううん…そうだな。それじゃあ、眠気覚ましに面白い話をしてあげるよ」
「面白い話だぁ?」
いつか見たような優しい視線が不思議そうにこちらへ向いては首を傾げ、頭の上に浮かんだ複数の疑問符に思わず苦笑を零した。
自分には、幼馴染である彼にずっと、秘密にしていた事が一つだけある。いつか二人で盃を交わせる時が来た時にでも話そうと決めていたけれど、結局叶わずにここまで温めてしまった、ただの思い出話のひとつにしか過ぎないのだが。
「あーでも、せっかく眠いのに目が覚めちゃうのもあれかぁ」
「何だよ、それ。気になる言い方すんな」
「あ、やっぱり気になる?」
「そりゃ、そんな風に言われれば誰だって気になんだろ」
次第に苛立ちを覚えてきたのか、コツコツと指先でコタツ机をつつき始めたので、こちらも大人しくペンを置き湯呑を手に取りながら彼の眉間の皺の寄った顔を見詰めて、静かに記憶に残る微かな情景を思い出してゆっくりと言葉に落とした。
***
物心つく前から気付けば田舎町の小さな養護施設で一人、大人たちに囲まれながら日々を送っていたものだから親がいない寂しさなどかけらも感じる事はなかった。最低限生活するにあたって必要な知識は職員のおじさんから優しく教えてもらっていたし、一日三食きっちりご飯を食べ、敷地内の小さな公園で走り回り、それなりに大きな風呂に肩まで浸かって十秒数えながら体を温め、それなりにしっかりとした設備が整ったその施設に不満など見つける方が難しい。
ただ、当初はこの施設を利用しなければならないインクリングが自分以外に存在せず、その事実そのものは決して悪い事ではないものの、同年代の友人がいないまま、一人寂しく広い部屋の中でぽつんと取り残されたかのように、他人には分かり得ない孤独を感じながら毎日を過ごすのは辛い部分も確かにあった。
そんな感覚に麻痺さえも生じ始めていた十一歳の夏。
一人の同い年のガールが養護施設へと入所する事が決まったと職員のおじさんから話をされた時、驚きと戸惑いと照れ臭さ、そして未知なる感情が織り交じる不思議な気持ちが胸の奥でぐるぐると渦巻いては暫くその興奮は収まらなかった。どんな子なんだろう、仲良く出来るだろうか、気が合う子だといいな。前日の夜はそんな事ばかりが頭の中に巡って全く眠る事が出来ず、朝目が覚めた時はばっちり寝不足で欠伸がなかなか止まらなかった。
「また、それ見てる」
彼女との距離に慣れ始めた十一歳の冬。
クリスマスが来週に控えている今、世間がケーキとツリー、プレゼントやイルミネーションなどの煌びやかなものが街中に散らばり溢れている中で一人、養護施設の図書室にある机に向かっては棚に仕舞ってあった古い雑誌の本を読み漁っていた。ページを開く度にきらきらと光り輝いた料理の写真が大きく映し出され、視界に入れる度にその輝きに伴って瞳をゆっくりと大きく開いていく。
料理を作った事は一度もなかったが、なんでもない材料のひとつひとつが集まって全く別の作品に仕上がる様はまるで魔法のようだとも思った。
「同じものばっかり読んで、飽きないの?」
「え? うん、別に」
「漫画とか小説ならともかく、なんでレシピ本なのよ」
「いやぁ…その、綺麗だなぁと思って」
すぐ隣から覗き込むように料理の写真を見下ろす彼女はまだ知り合って間もないけれど、それなりに仲が良いつもりでいる。初めて顔を合わせた時、自分が思い描いていたお淑やかで優しい、というガールのイメージとは全くの正反対だった、お転婆娘な上に男勝りな彼女には随分と驚かされたものだ。しかし、寧ろ同性とも思える程のキャラクターが妙にウマが合ったのか、苦手と思う事はあれど嫌いにはなれず、なんだかんだで心を許し合う友人同士、という感じで落ち着いている。
「ボーイのくせに料理に興味あるんだ」
「んー…でも、作った事はないよ。見てるだけ」
「ふうん。じゃあ、ただ単に見た目が好きなだけ? 自分で作ってみたいなとか、思わないワケ?」
「自分で、作る…かぁ」
たくさんの料理の写真が並ぶ本の中の世界を、ただただ憧憬の眼差しで恋焦がれるだけで満足していた自分にとって、この手で実際に作ってみるなどという考えは彼女に言われるまで気付く事さえなかった。もしかしたら、いつかこの手で本の中の世界を作り上げる事が出来るようになれるかも知れない。そう思うだけで小さな希望という名の夢にまるで一歩近づけたような、そんな気がして、本を畳んでそれを小脇に抱えては、小さく頷き合って部屋の外へと二人で飛びだした。
「おじさんに頼んでみようよ。キッチン貸してもらえれば何か作れるかも!」
「で、でも材料も何もないし、子供は入れさせてもらえないかも…」
「大丈夫だって! わたしに任せときなさい。アンタのゴニョゴニョ声じゃあ出来るモンも出来なくなっちゃうわ」
「ちょ、ちょっと、シノ! あぁもう、ワガママばっかり言っちゃダメだからね!」
がっしりと腕を掴まれ、窓から日が射してぽかぽかと温かい空気が流れる長い長い廊下の先、施設内の端っこに佇む職員室へと体を引っ張られながらも二人でばたばたと走っていく。後ろの方から掃除のおばさんが大声でこちらに向かい何かを叫んでいるのが聞こえて、罪悪感で自分が涙目になっている間も彼女は全く気にした様子を見せずにけらけらと笑っていた。
彼女と知り合ってちょうど一年が経過した、十二歳の夏。
またこの養護施設に一人、入所する子供が増えた。今度は同性で長く世話になっている職員のおばさんが連れてきた同い年のボーイだった。初めての男友達に興奮はしたものの、元より初めての友達である彼女が男勝りだった為か、新鮮味はあまりなかったというのが我ながら驚きだ(こんな事を口にしたらまた頬にビンタを食らわされてしまうので、心の中だけで呟いておく)。少しつっけんどんで目を合わせないまま、彼は、ヨリ、とだけぼそりと独り言のように自己紹介をする。その瞬間、すぐ隣りから勢いよく、全く聞こえなかったんだがもういっぺん言ってみろカス、などと初対面にも関わらず、今ではもう聞き慣れてしまった理不尽な彼へのその暴言が、思えば三人が家族のような絆を築く事の出来た切っ掛けになっていたのかも知れない。
小さい頃の彼はとにかく一人でいる事が好きだった。一緒にサッカーをしよう、お絵かきをしよう、お風呂に入ろうと多種多様に誘ったところで、毎度決まって答えはノーだ。
(仲良くなりたいだけなんだけどな)
一人そうごちるも相手に気持ちが伝わらなくては何の意味も無い。そうは理解をしつつも、こちらもどちらかといえば積極性は無い方だったので、何かきっかけがなければ行動に移そうにも何から始めればいいのかさえ分からず、あまりの寂しさに気を落としていると二人の間に繋がりを作ってくれていたのはいつも彼女だった。
夕飯作りを手伝うようになって数ヶ月が経ち、職員のおばさんからお前の好きなものを作ってもいいと初めて献立を考える許可を貰ったので、試しにと鶏のから揚げとオムライスを作ってみた時、味見をしてやると申し出てくれたのが自分にとって初めての彼からのコンタクトだった。
何故だか不思議と緊張をしていつも通りの腕前を発揮できず、鶏のから揚げは揚げ過ぎて衣が固くなり、オムライスはフライパンから卵を降ろす際に手が震えてぐちゃぐちゃに崩れてしまった。失敗してごめんね、と小さく謝りながら皿に盛ったそれらを彼の前に出してやると、いただきますと両手を合わせた直後にあれよあれよと言うままにきれいさっぱり平らげてしまったものだから呆然としてしまった。
「…別に悪かねぇけど。まぁ、もっと精進するんだな」
「あ…ご、ごめん。ありがとう、全部、食べてくれて」
「また、食ってやってもいい」
「え?」
「……シノに言っとけ。お前の世話焼きはもういらねぇ、ってな」
背中を向け、だんだんとその姿を小さくしながらそう声を落とした彼を見ていつの間にか自分の顔がだらしなく破顔している事に気付き、思わずぱんぱんと目を覚ますように両頬を叩いた。
「良かったわね、上手くいって」
その日の夜に彼女に言われた言葉に照れ臭く感じながらも、ようやく踏み出す事の出来た第一歩が嬉しくて堪らなくて、頬を赤く染めながら感謝の言葉を述べた。きっともうこの時には既に、自分は彼女に対して特別な想いを募らせていたのだろうと後々になって理解した。そして、その気持ちはすぐさま玉砕を果たし、何度もリベンジに燃える羽目になるという事も。
「………ごめんね。わたし実は、ヨリの事が好きなの」
← →
‐ ‐ ‐ ‐ ‐ ‐
★