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「どうだ。目、覚めたか?」
「ちょっと何を言ってるのか、よく分かりませんでしたね」
話ながら啜っていた湯呑の中身は早くも空っぽになりつつあった。驚くのも無理はない。自分の妻だった人が本当に好きだったのは、夫ではなく目の前で顔を青くしている幼馴染だったのだから。予想していた通り、あまりに唐突すぎる話に呆然としていた彼はつり目の瞳を大きくかっ開いては身を乗り出してコタツ机を両手でバンを叩き付けて叫んだ。
「いや、てか、それ本当の話? 本気で言ってんの?」
「お前なぁ、俺がアイツに何回プロポーズして何回撃沈してると思ってるんだ」
「う、うっそ…」
今までひとつも気が付きませんでした、とでも言いたそうな顔で呆然と手を付いたままがっくりと肩を落とす彼を可哀想にと思いつつも思わず苦笑した。しかし以上の事柄は立派な事実であり、嘘偽りはない。自分の妻だった幼馴染、シノブは確かに彼の事が好きだと言っていた。それを分かっていながらも、どうしても諦めきれずに結局は彼女が折れるまで、ずっと好きなままで突き通してしまったのだけれど。
「最後は同情の念を寄せられたような感じで、渋々了承してもらったしなぁ」
「…嫌だっつったらもう人の話を聞こうともしないアイツから、よくオーケー貰えたな」
「俺だって、正直信じられなかったよ。勿論、ちゃんと理由も聞いた。そしたらさ…ははは、驚くなよ?」
「な、なんだよ。まだ何かあんのかよ」
何十回目のプロポーズをした二十代半ばのまだ若かった頃を思い出しては、何度経験しても緊張で手の中は汗まみれ、体はガチガチで気の利いた言葉さえも送れずにただただ好きだと訴えるばかりだった過去の自分を振り返る度、今となっては笑い話であるのかも知れない。この時はもう、当たって砕けろ、訴えられるまで諦めないと半ばヤケクソになっていた頃だった事もあり、だからこそ、まさか了承されるなんて思ってもみなかったというのに。
「シノ、言ってたよ。ヨリにも、自分と同じように大切な人がいて、自分にとって大切な彼には幸せになってもらいたかった。だからもう、追い掛けるのはやめにする。本当に、こんなずるい女でもいいのなら、そのプロポーズ受け取ってあげてもいいわ、って」
「…シノが、んな事…」
「驚いたよ。お前も誰かを好きになる事、あったんだな。それを知って諦めたんだって、言ってた」
「俺はアイツに何か言われた覚えはひとつもないけどな!」
「普段豪快なくせに、そういうところは割と照れ屋で言葉にしないのは昔からだったろ。つまり、そういう事」
小さくため息を吐きながら約十年以上も前の淡い記憶を思い出しては、実らない努力の積み重ねばかりで今でも頭が痛くなってくる時もある。結婚した後も彼女の心は幼馴染に向いていたのか、それともようやく一緒になった日を境に自分へと向き始めていたのか、今ではもう知る事の出来ない事実にはなってしまったけれど、そんな事はもうどちらでも構わなかった。
「…それでも良かったんだ。本当に、アイツの事が好きだったから。俺が守ってやりたいって、心からそう思えた初めての人だったんだよ」
掛けていたマルベッコーを外して机の上に置き、固まった体を伸ばすように天井に向かって両腕を伸ばしながら胸を張る。すると、意外にも目の前の幼馴染は普段では見られない程の真面目な表情でこちらを見つめながら、静かに、しかしはっきりとした声でそっと零すように小さく呟いたのだった。
「…だった、じゃない。今も、好きなんだろう」
「え……」
「あの日から、十年が経った、今でも」
十年。その言葉が、流れに流れ過ぎた長い時を遡らせて、あの悪夢のような夜が一瞬、はっきりと脳内に映っては思わず衝動的に目の伏せた。それを察した幼馴染が心配そうな顔つきで、しかし何も言葉は落とさずにただただ目を細めて俯いている。それが今の自分にとってはとても有り難く、何も言わずにしても気を遣ってくれている幼馴染に心の中でそっと礼を言っておいた。
「…そう、だな。きっと、忘れられない。今も、これからも。この気持ちには良し悪しがあるって事も、ちゃんと分かってる。でも、俺は…」
「わぁーった、わぁったよ。お前のその真っ直ぐな気持ちも俺は昔から知ってる。だがな、一つだけお前には言っておかないといけねぇ事がある」
オクタグラスを放り投げ、コタツの影へと消えるように寝転びながら、呆れたようにぼそりと呟かれた幼馴染の予想もしていなかった言葉に目を丸くしてしまった。
「…シノは確かにお前の事、愛してたよ。結婚する前も、その後もな」
「で、でも…」
「お前が一番知ってんだろうが。アイツがどれだけ天邪鬼かって事」
「え…?」
天井に向かい昇っていく確信めいた力強い彼の言葉が、どくりと心臓を震わせては次第に高ぶる鼓動を前に今の自分には何一つ返す事のできる言葉はなかった。
***
三人での生活が日常となり始めていた十三歳の春。
嫌々ながらに養護施設へと入所してから約一年が経っていた。珍しく、今日は輪の中心にいるはずの彼がいない。それもそのはずだ。昨日から体調を崩していて次の日である今朝、体温計で測定をしてみれば明らかに高熱である数値を叩き出していて、意識も遠く常に魘されているような状態になっていたものだから心がざわついて落ち着く事も出来ない。心配になってずっと傍についていたいと訴えても、職員のおじさんにうつってしまっては大変だと彼の部屋から閉め出され、結局いつも三人で過ごしている部屋で不貞腐れながらもお菓子を食べて待機させられている。
一方、シノブはというとこれまた不機嫌そうに古雑誌を広げては、足を組んでかつかつと踵を突き、苛立ちを隠せないのか耳に障る程に何度も何度も床に当たり散らしている。
「…おい」
「何よ」
「カツカツカツカツうるせぇんだよ。黙って本も読んでられねぇのか」
「アンタに言われたくないわよ。その貧乏揺すりどうにかしろ、バカ」
「バカってなんだ、バカって!」
「バカにバカって言って何が悪い」
「お、前なぁ!」
相変わらずの冷たい態度が気に入らずとも、嫌でも互いに不安な気持ちが揺れているのが分かって息が苦しくなった。自分達が知っている風邪にしては症状が重いのは明らかで、汗ばむ体、真っ赤な顔、上下する胸元、堪らない程の熱さの苦しみに焦点が合わず目も合わない。心配にならない方がどうかしている。
「…クソッ」
「わたし達がギャーギャー騒いだところで、アイツの力になんてなれないのよ。お医者さんじゃ、ないんだから」
「ンなの、テメーに言われなくても分かってる」
「…あのバカ。だから、言ったのに。本ばっかり読んでないで、ちょっとは運動しなさいって」
今まさに病気と必死で闘っている彼は、元々運動が苦手で自ら外で遊ぶような事もあまりしない。その為か一般的な同世代の子供と比べて体力が著しく少なく、ちょっと階段を上り下りするくらいでも息を切らしたり、流行りの病気にも容易くかかったりして、去年も同じように風邪を引いていたような気がする。しかし、今回のように高熱によって意識が混濁する程に酷くはなかったはずだ。
「どうでもいい事に関しては流されやすいが、変なところ頑固だからな。意地でもそれだけはしないぞ、アイツ」
もしかしたら、ただの風邪ではないのかも知れない。結局、二人の必死の訴えも空しく面会謝絶を言い渡されて三日もの日数が経過した頃。
未だ会話する事も許されず、どうも彼がいないとしっくりこない日々が続く中で、珍しく静かに本を読み更けていた彼女が突然、突拍子な事を言い出すものだから驚いてうまく反応するどころか、何の言葉も出なくなってしまった。
「ねぇ。アンタって、好きな人いるの」
「…は? 何だよ…急だな、随分」
お転婆でケンカが大好きな彼女からこんなにも唐突に恋愛話を展開させられるとは思っても見なかったので、特に邪な気持ちも持っていなかったはずなのについ声がどもってしまった。
実際のところ、いるかいないかと問われれば、いる。しかし、この気持ちが相手に受け入れてもらえるはずがない事も、そしてその人は今目の前にいる彼女の事を想っている事もよくよく知っている。だからこそ本人に伝えるつもりもなければ誰かに話す事も無い。それはこの気持ちを自覚してから、すぐにそうしようと心に決めていた事だった。
「……分かんないけど、聞いてみただけ」
「そういう、お前は」
「…さぁ、分かんない」
「何だよ、それ…」
相変わらず、素直じゃないな。怒られるのは承知でそう返そうと喉に突っかかっていた文句を吐き出そうとした、その時。
「…好きよ。彼の事」
意外にも、彼女は本心としか思えない程の優しくてあたたかい声でそう、呟くように答えた。
「っ…だったら、」
「でも、ダメなのよ。わたしは誰かを好きになっちゃ」
「な、何でだよ! 誰を好きになろうが、そんなの、お前の勝手だろ…」
「…そうね。そう、よね…」
珍しく物悲しそうに俯く彼女の姿に圧倒され、真っ白になった頭では返す言葉も思い付かず、その後は言葉を発する事さえできなかった。慰めも、暴言も、謝る事も何か違うような気がして、ただただ何も言わないだけでいるしか今の自分に出来る事はないと確信した時、胸の奥からじんわりと痛みを感じてはあまりの情けなさに唇を噛んだ。
***
「やっぱり、寝ちゃったか」
意味深な言葉を残したまま仰向けに寝転がった幼馴染は、やはり随分と無理をして眠気と戦っていたのか、横になってからあっという間に見えないコタツの影で寝息を立て始めていた。
彼を驚かせる為に昔の話をしたはずなのに、最終的にはこちらが驚かされる羽目になってしまい、顔には出さないでいられたものの、心臓は未だにドクドクと波を打っては息苦しさまでもが伴い呼吸が少し乱れてしまっていた。
(信じて、いいんだよな。コイツと、キミの言葉を)
彼女がこの世から旅立って、既に十年が経過してようとしている。きらきらに輝いていた過去の記憶は思い返せば返すほどつい最近の事のようにも感じ、時々、彼女がいないという現実が夢なのではないかと思う日もある。そんな毎日が苦しくて辛くて、何の生き甲斐も感じる事が出来ないままに気付けば年ばかりが重ねられていった。
「…ふあぁあ〜マゴに、たらいま」
「あ、リンちゃん、おかえり。遅かったね、お茶、冷めちゃったよ」
「んー…ごめんね、おちゃ、飲みたいけど、今日はすっごくねむい〜」
ついに終わりを迎えた家計簿を閉じ、ちょうど風呂から上がってきた看板娘が目を擦りながらとぼとぼと居間へと帰ってきた。酔っぱらいのように千鳥足の彼女を咄嗟に抱っこし、歯磨きをさせてから寝室へと運んだ(その際、ぶにゅりとなにか柔らかい腹を踏んでは、ぐえっ、という異音が聞こえてきたような気もしたが、そこは敢えて気にしない事にする)。疲れているのだろう、ぽんやりとした意識でもそもそと布団に入っていく様は、年相応の子供らしく思わず口元が緩んでは微笑んでしまう。
今日ばかりはコタツで寝るしかないか、と心の中でそう呟いては立ち上がり寝室の照明を落とすと、小さな手が履いていたスウェットを掴み引っ張っている事に気付き、布団の横に再び腰を下ろすと静かに肘をついて横になった。
「マゴに…一緒に、寝よ…」
「…うん、いいよ」
「あのね、あたしね…昨日、ふしぎな夢、見たの」
「どんな夢だい?」
「今より、ずっとぴちぴちで、若くてかっこいい、マゴにいが…でてくる、ゆめ…」
「今でもピチピチなんですけど…」
「…それで、ね。すごく、ね、笑ってたの…幸せそうな、マゴに…」
「……もう、おやすみ。続きは明日聞いてあげる」
「ん……名前、」
「うん?」
「名前、も…間違えないでね…。あたし、リンだよ…」
シノじゃ、ない。
最後にそれだけを言い残して、看板娘は再び夢の中へと旅立っていった。上手く聞き取れていなかったのかも知れない。本当にその名前を言ったのかさえ、自分には確信がなかった。そのあまりにも突拍子な、今でも忘れる事の出来ないその名を、まさか、彼女の口から聞く事になるなんて思いもしなかったのだから。
(2016.08.18)
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