今朝方から少し様子がおかしいような気はなんとなくしていた。いつもなら絶対に失敗しない朝食の目玉焼きを焦がしていたり、炊飯器のコンセントが差さっておらず釜に入れていた米が炊けていなかったり、茶葉が切れていた上に湯呑を床に落として割ってしまったり、気が抜けたようにぼうっとしていたら声を掛けられるまで客が来ていた事に気付かなかったりと何かと普段はあまり見ないミスを連発していて、当の本人も自分の抜け具合に驚いているらしく、もうボケが入って来ちゃったのかなぁと溜息をつきながら苦笑していた程だった。
「悪い。なんか体温めたいから先風呂入ってきちゃっていいか」
「ん、あぁ。別にいいけど。店は見とく」
「ありがとう。それじゃ、あとよろしく」
そう告げてスパッツとFCジャージーを胸に抱えながら脱衣所へと向かったその三十分後、慌てた様子で顔を火照らせすっかり意識の無い幼馴染を担いできてくれた、ちょうど風呂で居合わせていたらしい若いボーイの客が、涙目になりながら助けてほしいと必死の形相でこちらに訴えてきたのだった。
***
「三十八度五分、ねぇ」
「マゴにい、風邪だぁ」
「あぁ、ほんとその通り。こら風邪でございますわ」
店じまいを終えた深夜、駄々をこねるように嫌がる幼馴染を無理矢理布団に寝かせて、額には濡らした冷たいタオル、そして看板娘が用意した氷枕は頭の下へ、風呂に入ったばかりだというのにひたひたに冷えた足元には湯たんぽを置いて温めてあげた。息が苦しいからと前のチャックだけは開けたままFCジャージーを着込んで、下には黒のだぼだぼスウェットを履き、普段は滅多に箪笥から出さないグレーの靴下を勝手に履かせた。
顔色を見る限り、然程症状は酷いようには見えないが、なんせこの男、同年代のボーイと比べ著しく体力がない。運動そのものを嫌い生活上必要な行動のみで体を動かしている、という徹底ぶりである為、肌も白ければやる気も無いまるでだめなおっさんのいい例だった(あまり人の事をとやかく言える程、まともな生活は送ってはいないが)。
「うっわ…最悪。いつの間に?」
「やっぱ朝からチョーシが出なかったのは、このせいだな」
「マジか…ここ数年、風邪なんて引いた事なかったのに」
「お気楽一人暮らしが急に終わっちゃったし、きっとマゴにいも慣れない集団生活に心労を抱えて疲れちゃってたんだよ。ね、ヨリちん」
「それを俺達が言うのか、幼女…」
理由として有り得る可能性に自分達がまさしく当て嵌まっている事を知りつつ(寧ろそれ以外思い当たらない)、他人事のようにぽろりと言いのける看板娘の持つ破壊力のある言葉の強さは途轍もなく果てしない。
既に意識が朦朧とし始めている幼馴染を見下ろしながら、少しでも症状が軽くなるよう何かしてあげられないかと模索するも、そんな気が利くような事などいまいち思いつかず、ただただ苦しそうに息をする姿を見守るだけしか出来ずにいた。
(なんだか、昔を思い出すな)
小さい頃に親がいない三人だけで養護施設に住んでいた頃。一度だけ彼が重い風邪を患った時があり、移ってしまうからという理由で何日間も別の部屋に隔離され、会話どころか一目会う事さえ許されず、仕方なしにもう一人の幼馴染とせめて千羽鶴でも作ってやろうと珍しく意気投合した記憶がふと蘇った。結局、彼女があまりにも不器用なせいで、最終的には百羽も満たない小さな連なりにしかならなかったのだけれど(ほとんど自分が作ったと言っても過言ではない)。
「…ぅ、うぅっ…」
「ど、どうした! 水か…水、いるか?」
静かに横になっていたかと思いきや、突然唸りを上げるものだから慌てて声を掛けるも、そんな心配など杞憂に過ぎなかった。
「……お、…」
「お?」
「なか、すいた……」
お、なか、すいた。おなかすいた。お腹が空いた。
ぷつりぷつりに吐き出された暗号のようなセリフを解き、お陰さまで今現在彼から発せられている最も強い欲求が食欲であるのはよくよく理解する事ができた。隣りでちんまりと座り込んだ看板娘と顔を合わせ、小さく溜息を吐きながら両腕を組み意味深な視線を互いに送り合うも首を横に振られる。どうやら俗に言うお手上げ状態、という事らしい。
「…お粥とかも、無理か」
「あたし、お料理は出来ないもん。聞いても無駄かも知れないけど、ヨリちんは?」
「お察しの通りでございます」
食事要因が一人倒れてしまうとこれである。万事休す。しかし、だからと言ってこのまま腹を空かした病人を放ったらかしにしておく訳にもいかない。とりあえずチャレンジだけでもしてみるべきだろう。多少不安が胸に残るものの、まずはそもそも材料が残っているかどうかを確認する為その場に立ち上がったその時、くいっとフクの裾を掴まれる感覚を帯びてその動きを止めた。
「な、んだよ…」
「粥、じゃなくて、いい」
「じゃあ何なら食べられんだ」
「…オムライス」
「は?」
「オムライスが、いい」
一体何を馬鹿な事を言い出したのかと思った。病人の癖にまるでレストランの客のように注文をするものだから、一瞬自分の耳を疑ったもののどうやら聞き間違いをした訳でもないらしい。いかにも消化に良いものでないと胸焼けして吐き出しそうなくらいの顔色を悪くしているというのに、本当にそんなものを食べ与えて大丈夫なのだろうか、と一人悩んでいる中、看板娘がいつの間にやら意気揚揚とその注文を受諾してしまっているものだから頭が痛い。
「あのなぁ…ほんとに食えんのか? んな味が濃い食い物」
「…うん。ほんとに、ぺこぺこなんだ。お前のオムライス、久々に、食いたいな、って…むかし、教えてくれたよな…作り、方…」
段々と萎んでいく彼の訴えるような声に、胸の中でどくんと波打つように不安が押し寄せ、掴んできた彼の手を覆うようにそっと握り返しながら仕方なしに静かに頷いた。
「わぁーったよ、お望み通り作ってやる。その代わり、それまではちゃんと寝てろよ。出来たら起こしてやっから」
「うん、分かった…ありがと、ヨリ…」
余程体に堪えていたのか、ゆっくりと瞳を閉じてすうすうと胸を上下し始めた幼馴染はあっという間にその意識を夢の中へと沈めていった。悪化してしまう前に発症していた事実を気付けなかった自分がなんとも恨めしくて堪らないものの、今となっては後悔している時間などない。隣りで屈みながら彼の顔を見下ろし、しょんぼりと項垂れている彼女の名前を呼んであげると、ぱちくりと目を大きく開きながら重い腰と共に立ち上がった自分を不思議そうに見詰めていた。
「メソメソしてる暇はねぇ。やんぞ、幼女」
「お…おう!」
まるでナワバリバトル中のように、カモンとでも言いたげに手招きをすると、暗い面持ちだった彼女の表情はぱっと明るさを増し、居間と台所を繋ぐ襖をスパーンと引き開くと飛び出すように二人、戦場へと足を踏み入れたのだった。
***
料理は嫌いではない。しかし、極めたいかどうかと言われればその答えはノーだ。ただ単に手料理そのものがコンビニやスーパーで売られている惣菜と比べて自分に合う味を作る事が出来るのを知っているので、生きていく上で少しでも美味しいと感じられるものにありつけようと思ったのがきっかけではある。
今では簡単なものばかりではあるものの、毎日看板娘の為に手料理のご飯を作っている幼馴染は、養護施設で初めて会った頃から料理に興味を持っていたようだった。暇さえあれば施設内の調理場に紛れ込み、親切にもそこで働いていた調理師のおじさんやおばさんに囲まれては包丁捌きや食材の種類、料理のイロハを教わっているのを少しばかり離れた食堂の端の席で、テレビを見ながらその様子をただただ眺めていたのを覚えている。
「ヨリ。ちょっと、こっちに来てくれるかな」
「あ?」
しかし、いつものように興味もないのに付けっぱなしだったテレビに映るニュース番組をぼうっと眺めていたその日だけは、その瞬間からいつもと違う一日へと少しずつ変わっていた。
腕を掴まれ引きずるように連れていかれた先は、彼がいつも料理の練習をしている調理場の中だった。いつもは大人の誰かに必ず付き添われているのに、休憩中であるのか二人以外周りには人っ子一人見当たらない。
「いいのかよ、勝手に入って」
「大丈夫。もう少ししたら戻るねって言われてるから」
それは子供だけでここを使っていいのかどうかは判断できないのではないか、と咄嗟に疑問を持ったものの、それを説明するのは非常に面倒だったのですぐに諦める事とする。シンク台の上には卵が数個と白いご飯の入った炊飯器、そして鶏もも肉の入ったパックと玉ねぎが一つ置いてあり、その食材たちのラインナップからして浮かぶメニューは自身の中では一つしかない。
「…オムライス?」
「正解。さすがだなぁ、材料だけで分かるの?」
「寧ろオムライス以外に何があるんだよ」
「んー…それも、そっか」
真っ赤なエプロンを付けながら苦笑して首を傾げる彼は、冷蔵庫からケチャップを取り出すと同じように材料が並ぶシンク台の上へと並べた。
「…で、俺に何しろってんだ」
「そりゃ勿論、オムライスの作り方、教えてもらおうと思って」
「はぁ?」
至極当たり前のようにそう告げた幼馴染の表情にどうやら嘘偽りは含まれていないらしい。以前、彼が調理したオムライスを一度だけ口にした事があったが、まだまだ練習中の身だったせいかまずくはないがとても美味しいとも言える代物ではなかった。言ってしまえば、失敗まではいかずとも味も形もごく普通のオムライス。ただ、それだけだ。普段料理をする事などまずないが、養護施設に来る前はここの職員であるおばさんの家に二人で暮らしていた為、母代わりであった彼女の為によく夕飯を作ってはその帰りを待つ、という日々を送っていた。その中でも特に思い入れがあるのはオムライスだ。世話になっているおばさんに喜んでもらおうと、少しでも美味しいと思ってもらえるオムライスが作れるよう何度も何度も練習を重ねた。結果的に、他にも何個かメニューはあったものの、これならばと自信を持って披露する事が出来たのは結局そのオムライスだけだったのだが。
「…誰から聞いた」
「おばさんからだよ。ヨリ、作るの上手だって聞いたから」
(チッ…勝手に言いふらしやがって)
予想していた通り、噂の情報はこの調理場で今でも働いている彼女が発信元らしい。隠していた訳ではないにしろ、知らない間にどうでもいい情報が横流しされていた事実に少なからず気分はよろしくなく、陰でそっと舌打ちを打ちながら眉を顰めていると、そんな自分とは裏腹に目の前で照れ臭そうに頬を染める幼馴染は俯きながらぼそぼそと言葉を続けた。
「もっと、早く言ってくれれば良かったのに。俺、オムライス作るの下手くそでさ。どうしても卵が上手くいかないんだ…だから、その」
「……メンドクセ。自分でなんとかしろよ」
「へ…? あ、ちょ…待ってよ、ヨリ! …っと、お、あ、う、わああ」
おどおどとした態度と謎の上目遣いをしながら、どうにか自分の気を引こうとそれとなく訴えてくるも、わざわざこんなヤツの為にどうして時間を割かなければならないのか、と沸々と底から不満が生まれ、これ以上面倒事に関わるのはごめんだと、彼の言葉を無視してさっさと調理場から出てしまおうと踵を返した瞬間、古い床のタイルの亀裂に足を引っ掛け体勢を崩した彼がこちらに向かって倒れ込んできたものだから、咄嗟にその体を両腕で受け止めた。
自分よりも多少身長が低いとはいえ、一人分の体重を支えるには少々力が足りなかったようで。倒れた勢いそのままに背中から床へと落ちた体は、彼に伸し掛かられる状態になるまでにひっくり返り、その際強打した後頭部がじんじんと痛みを増していった。
「ご、ごごごごめんっ」
「ぐぐっ…クッソ、重いんだよ! さっさとど、け…う、わああっ」
両腕を胸へと突き出すように跨る彼を押し退け立ち上がるも、謝りながらも必死な形相で腰に抱き着いてきては離れない幼馴染の頭を割と強めにぽかりと叩く。言ってる事とやってる事が矛盾しすぎていて、怒りを通り越して呆れしか残らない。それでも離れる様子のない、彼の強すぎるオムライスに対しての欲求を落ち着かせるように、続けてべちんと音を立てながら額に平手打ちをかました。
「い、いだいっ! う、ぐぐっ…お、教えてくれるって言うまで諦めないからね!」
「だぁもう、っざけんな! 離せよ!」
「やだ!」
「離れろ!」
「やだったらやだ!」
「っ…あぁくそ、分かったよ! 教えりゃいいんだろ、教えりゃ!」
「や…やったー!」
負けました、完敗です。
意外にもしつこく言い寄ってきた彼の威圧感に降参し、仕方なく頷くと、ようやく解き放たれた下半身をずいずいと踏み出し、手に取った玉ねぎを未だへこたれて床に沈んでいる幼馴染に向かって投げつける。
「うわ! あ、ぶないなぁ」
「早く皮剥けよ。時間が勿体ないだろ」
「あ…う、うん。えへへ」
「何笑ってんだ、バカ」
「な、なんでもない」
頬を赤らめながら、よっこいしょと勢いをつけて立ち上がり慌てて隣りに駆け寄ってきた彼に、何故だか普段では感じられない不規則に暴れる鼓動が恨めしく、沸々と湧いて出た謎の苦しさにフクの胸元を皺が寄る程に握り締めた。
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