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「わたし達にはちょっと、勿体無いくらいね」

 小さな田舎町の駅近くに建てられていた、築十年にしては想像していたよりも小奇麗なアパートの一室、いつにもましてご機嫌だった彼女は軽い足取りでリビングを駆け回り、嬉しそうに微笑みながらそう言った。今日から二人で住む事になるこの部屋は身寄りのない自分達に理解のあった、バイト先であるカンブリアームズの店長に紹介をしてもらい、結婚祝いにと直々に用意までしてくれていた部屋だった。入籍は先に済ませていたものの、あまりのおカネのなさに式どころか住む場所さえ見つからず、独身の頃とそう変わらない、言ってしまえば新婚であるのに互いに一人暮らし生活が続いてしまっていたので、店長には申し訳ないと思いながらも大変家賃の安いところを紹介してもらった為、今回ばかりは存分にそのご厚意に甘えさせてもらっていた。

「リビングにはこたつを置いて〜、夜食とビールをすぐ取り出せるように小さな冷蔵庫はここに常備〜、キッチンには絶対ワッフルメーカー置いて…」
「へぇ、シノが料理かぁ」
「…あのねぇ、わたしにだってそれくらいは出来るわよ」

 腕を胸元で組みながらぷりぷりと頬を膨らませ不機嫌そうにそう零す彼女もまた可愛らしい、なんて本人に言ってしまうとまたがみがみと(照れ臭さ交じりに)怒られてしまいそうな気がして、心の奥底でそっと静かに呟いておくだけで留めておく事にする。

「ねぇ、トキ」
「ん、何?」
「…本当に、わたしで良かったの」

 ふと、急に吊り上がっていた眉がゆっくりと下がっていったかと思えば、時より彼女は自信のなさそうに、いつの日かも聞いた同じ問いかけの答えを何度も求めてくる。だから決まって、自然と口角を上げながらこちらもいつもと同じお決まりの答えを、彼女がその言葉に込めた意味を気付かぬままに無意識のまま素直に思っている事を伝えた。

「シノじゃないと、ダメだ」
「…そう」
「ふむ…これは、信じてもらえるまで言い続けるしかないのかな?」
「え、あ、いや。別にいいわよ、恥ずかしいし。なにより、そのとぼけた顔でンな甘ったるいセリフ言われても嬉しかねぇ」
「あはは、ひどいなぁ。まぁ、いつもの事だけど」

 そうは言いつつも、真っ赤な顔をしてそっぽを向いている時点でその言葉の裏に隠されている本当の気持ちが嬉しくて仕方がなく、いつの間にやら身長と体つきに差がついてしまった、その小さな体に背中から腰に腕を回してはそっと包み込むように堪らず抱き締めた。

「ト、トキ…!」
「…愛してる。ずっと、君だけを」
「ばかっ…わたしだって、あなたの事…」

 重ね合った手の左薬指にぴったりと嵌るセピア色がきらりと二つ光る。
 今この瞬間が現実なのか、それとも夢の中なのか。幸せの微睡みに溶けてしまいそうな自分に苦笑しながら目を瞑ると、気付けば部屋の中は暗闇に侵され温かさだけが広がっていたはずの空間はただただ生臭いだけの場所へと変わっていた。目の前には横たわる血だらけの彼女と、その血で塗れた自分の両手が視界の全てに映り、次第に意識が遠のくように全てが真っ黒に塗れ消えていく。

(あなたのせいよ、あなたの、せいで、わたしは)
(あぁ、そうだ…全部、俺の、せいだ)

 一人闇の中へ残されたあの日からずっと、何度悔やんでも悔やみきれない現実が心臓を押し潰すように自身へと襲いかかってくる。彼女を死へと追い詰めたのはお前だ、お前がもっと早く気付いていれば、お前がいなければこんな事にはならなかったのに。そんなドン底に浸る凶器のような囁きに死さえもおこがましく感じて、この世界から塵一つ残さず消えてなくなってしまえばいいのにと自身の存在を呪った。

(ごめん、ごめんよ。シノブ…)

 ぷかぷかと浮くような黒い海の中、何処からか聞き覚えのあるか細い声が聞こえる。薄い背中を小さく折り曲げて、自身を抱くように丸くなった体はこちこちに固まって身動きさえとれない。それでも耳に入っては脳にふわふわと響くその声は次第に大きさを増し、そこでようやく自分の渾名を呼ばれているのだと気付いた。

(うるさい…誰だ…。もう二度と、あんな気持ち、味わいたくないのに…)

 そんな意思に反して遥か遠くに小さく灯った、暗闇の中の小さな灯へ自分を引っ張りあげようとする声に何故だか涙が出そうになって、されるがままに浮上していったその先で待っていたのは、ひくつき体を震わせながらぎゅっと自分の手を握り締めながら傍で蹲る小さな看板娘の姿だった。


***


 どたばたと台所をぐるぐると駆け回っている忙しない彼女に、とりあえず一回落ち着けと一発拳骨をお見舞いさせながら、冷たい水の入ったコップと医者からもらった粉薬、そして作ったばかりの小皿に盛った小さなオムライスをお盆に乗せ、今か今かと足踏みをしながら待っている彼女を連れて居間へと足を運ぶ。
 あの最悪のナワバリバトルの日以来、三日間意識を取り戻さなかった幼馴染はつい先程になってようやく目を覚まし、二人安堵していたところ、起きて一発目に出た発言がまさかのお腹が空いたとの事だったので仕方なしにいつものオムライスを即席で作ってあげた。
 バトルが終わった後に慌てて病院へと連れて行った先で彼を医者に見せた時に、勿論一度入院する事を勧められたのだが、特に治療する訳でもなくただの経過観察になると告げられた為、それならば家でゆっくりと過ごさせて欲しいと申し出たところ、その病院も混雑していてベッドが空いていないという理由もあったせいか医者からは快く承諾された。
 この三日間、あのナワバリバトルに携わった人々が入れ替わりに何度もお見舞いに来てくれたものの、やはりどの面も心配そうな顔ばかりをさげていて、特にサファリハットを被ったガールとボンボンニットのこんがりガールは、何度も謝っては色々と手が届かないところの手伝いもしてもらったものの、彼女達のせいだと思っている者は誰もあの場にはいなかったはずだ。なんせナワバリバトルの最中だったのだから、いくら意図せぬ不意打ちとなってしまったとは言え、こればかりは寧ろぼうっとステージ内で突っ立っていた方が勿論悪い。

「マゴのおっちゃん、元気になったら絶対教えてな。絶対ね!」
「へいへい、分かったから風呂掃除だけ頼むわ。そっちばかりは手に負えねぇからよ」
「ラッジャー! 張り切ってお掃除しよ、ハットちゃん!」
「…あぁ」

 内心、落ち込んでいるにも関わらず明るさを保とうとする彼女達の姿に胸を痛めるも、店主不在の今、銭湯経営の手伝いを申し出てくれた事は何よりも大きな救いだった。意識のない幼馴染の看病をしつつ、看板娘の面倒も見ながら(元々手がかからないどころか力になってくれる頼もしい存在であった為、寧ろこちらが助けてもらっているのだが)、それに併せて慣れない銭湯を稼働させるにはさすがに一人で工面するのは不可能だった。最悪、彼の目が覚めるまで店を閉めるしかないだろうかと当初は諦めていたのだが、彼女達のお陰でなんとか今のところは休み一つなく無事営業をする事が出来ている。時より、常連客である二人やイロメガネのガール、イカパッチンをつけたボーイも様子を見に来ては手を貸してくれていたので、少々貸しを作りすぎてしまったかと心配もしたが、こればかりは彼らの厚意に甘え目を瞑る事にした。

「マゴ…?」

 足先でこじ開けた襖の先には、上半身だけを起こして途方にくれたように何もない壁を見つめている幼馴染がいた。三日間彷徨っていた意識がまだ完全には戻っていないようにも見え、ふとまた目を離した隙に消えてしまうのではないかと、突然に恐怖の感覚に囚われ心臓が嫌にどくんと唸る。背後で幼馴染が無事である事を確認し番台で店番をしてくると廊下の先へ駆けていった看板娘の言葉を生返事で返した後、気付かないうちに震えを帯びていた声で慌てて彼の渾名をもう一度呼んだ。
 それでも、ぴくりとも彼は動かない。

「っ……トキ!」
「!」

 幼馴染を本当の名前で呼んだのは、実に何年振りの事だろう。
 互いに人生が一転したあの日に本人が自ら捨て去ったのだと言い張っていた、長い事呼ばれる事を拒んでいたその名前にようやく反応を見せた彼は、ゆっくりとこちらに真っ白な顔のまま振り向いた。いつものとぼけた表情とはまるで違う、たっぷりと目に涙を浮かべ頬を伝っては、悲しそうにその輝きを布団の上へと落としていた彼が真っ直ぐにこちらを見上げ、そのどことなく感じさせる儚さに危うく言葉を失うところだった。

「ヨ、リ…俺、一体、何…」
「…あとで全部、話してやる。ゆっくりでいい、落ち着くまで待ってっからよ」
「う、あぁ…あっ…」

 ぽろぽろと大きな雫を落とし続ける彼の頭を撫で、小刻みに震える体に床の上に放り投げてあったジップアップカモを背中から掛けてやる。揺れる肩と真っ赤に染まりゆく瞳と頬に小さく息を吐きながら、不安定な嗚咽が止まるまで優しく背中を撫で続けた。
 今日は店に誰も来ていない。それでも、気にせず開けたままでいる。一人切り盛りしてくれている看板娘に心の中で感謝しつつ、冷めてしまったであろうコタツ机の上に置いておいたオムライスを横目に、空いたもう一方の手で冷えた彼の左手をぎゅっと、しかし力は入れず包み込むように優しく握り締めた。
 そのままの体勢で十分程が経過した頃。ようやく呼吸が安定してきた彼の表情があまりにも酷い有様だったので、電子レンジで再度温めてきたオムライスを食べさせた後に無理矢理薬を飲ませてもう一度寝かせようとしたものの、三日間も寝ていたのだからと睡眠よりもこれまでの経緯の説明を先に求められたので、仕方なく小さく溜め息を吐きながら、淡々とこの地獄のような三日間の話を始める事にする。
 騒動によりナワバリバトル大会そのものが中止となり、結局スイーツ食べ放題の招待チケットは手に入らなかった事。即座に病院へと運ばれたが医者に見てもらった後はずっとこの場所で看病をしていた事。あの時バトルで一緒だった友人達が店の手伝いをしてくれた事。そして何より、看板娘がずっと不安げに泣きじゃくりながら側で看病をしてくれていた事。極力簡潔に、しかし説明そのものが苦手だったせいか、なんだかんだ長い時間を掛けてしまったにも関わらず、最後まで彼は何も言わず自分の話に耳を傾けてくれた。

「…まぁ、つまり、そういう事だ」
「そっか。…ありがとう、本当に」
「礼は俺じゃなくて、世話んなったアイツらに言っとけ」
「…うん、そうだね。なんだか、色んな人にたくさんお世話になっちゃったな」

 あはは、と乾いた笑みを零す彼の表情には未だ暗い影が残っている。そして自分もまた、ずっと喉につっかえていたものをようやく吐き出す覚悟を決め、いざそれを発しようとしたその時、それよりも先に彼が俯きごめんと顔が見えないままに小さく零していた。

「な、何だよ…いきなり」
「いや、だから、その…」
「今更だ。はっきり言ってみろ」

 そう言われて少しだけ迷った後に暫くして意を決したのか、彼は目を逸らしながらも長年蓄積されていたのであろう、ひとつひとつの思いが籠った言葉をぶつ切りに声にしてはぽろぽろと落としていったのだった。

「…自分でも、まだこんなに引き摺っていたなんて、思ってもみなかった。あの日から、もう十年も経っているっていうのに。血だってもう、慣れたはずだったんだ。明らかに街の裏危ないような事をしている客が体中怪我だらけで来店するのも少なくなかったし、更衣室で暴力沙汰になって巻き添え食らいそうになりながらもなんとか追いだした事だってあった。当然無傷じゃ済まなくてさ、顔面殴られて血だらけになって痛い目に遭った事だって勿論あったけど、それでも平気だったんだ。なのに…」
「…なのに?」
「三日前、お前が目の前で赤いインクを撒き散らしながら姿を消した時。突然、頭が真っ白になって、あの日と同じ、このまま死んじまうんじゃないかってくらい胸の奥がぎりぎり痛くなって、何が起きているのか分からないうちにどんどん意識が朦朧としていった。その後に何があったのか、ヨリに話をしてもらうまで全く知らなかったし、記憶も勿論、ない」
「…なぁ、マゴ」
「何…?」
「あの日っていうのは…シノブが、死んだ日の事か」

 静かにこくりと頷いた彼と、ふと握ったままだった事を思い出した左手のぬくもりが妙に小恥ずかしくなって、腕を組む振りをしながらそっとその手を離した。

「…俺も、悪かった」
「えっ…?」
「お前が、血が苦手だって事は勿論知ってた。勝手に庇うような事して、お前にとっちゃその方が嫌な思いをするって分かってたはずなのに、俺は」
「っ…ち、違う! ヨリのせいじゃない。ヨリの、せいなんかじゃ…ごめん。本当に、ごめん」

 目を伏せながら俯く彼につられるように、自然と視線は彼方へと外れていく。
 ずっと、幼馴染である彼の力になっていたつもりでいた。この思いを伝える日が永遠に来ないとしても、大切な友人であり家族である彼を自分なりに支えられたらと心の底で思っていた。でも、今回の事故でよくよく確信した事が一つだけある。

(やっぱり、間違いなんかじゃなかった)

 自分が傍にいる事で、彼が行く先不幸になっていく事。
 街の裏で生きている者にとって、怪我や殴り合い、ましてや命に関わる事象など日常茶飯事であり、たかだか赤のインクに塗れただけで気絶してしまう心の繊細な彼と自分は元々不釣り合いな関係だった。看板娘がいて、常連客がいて、たくさんの友人がいて、その中で平和な日々を過ごす事を第一に思っている彼に自分の存在など必要ない。彼を幸せにするのは、自分ではない他の誰か、もしくは、もうこの世にはいない彼女しか有り得ないのだと。

(分かっていたはずなのに、どうして)

 諦めきれなかった心が彼のトラウマを掘り起こしてしまったとしか思えない。所詮、自分が彼を思ってやってきた事など建前にすぎず、結局は自分の都合を押し付けてばかりの酷い甘えだった事に今更気付き、そんな情けない自身に対して沸々と苛立ちが募っていった。

「…ヨリ? どう、したんだ」
「っ…なんでもない」

 彼の事が好きだった。友達としてでも、幼馴染としてだけでもなく、一人のヒトとして心から愛していた。でも、どうしても言えなかった。彼のシノブへの消えない気持ちも、互いが同性である事も、彼が自分の事を幼馴染としか思っていない事も全て知っていたから。何より、彼を不幸に陥れてしまう自分に愛する資格も無ければ、側にいる事さえ本来ならば許されない。
 溢れる愛しさに危うく抱き締めようと浮いた両腕が途中で動きを止め、そっと自身の膝の上へと震えたまま後ろへ下がってゆく。

(もう、十分だ。十分すぎる程に、幸せだった)

 騒動が落ち着いてまたいつもの日常へと戻ったその時は、すぐにでもここを出よう。そう決心をした直後、背後の襖ががたがたと音を立てて開いたと思えば、小さな体が飛び出すように傍を駆け抜け、幼馴染の胸の中へと勢い良く飛び込んでいった。
 泣きじゃくりながら腰に腕を回す彼女と、その大切な存在を愛くるしく思いながら抱き締め返す彼に涙が溢れそうになって、その中で首から下がった小さく光るセピア色の指輪に目を落としては、必死に歯を食いしばりながら奥で唸る苦しみにただただ耐えていた。


(2016.09.14)


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