雨足の激しい夜だった。至るところでぽたぽたと雫を落としては床に置かれたバケツの中で弾け飛び、暗がりの中一定のリズムで流れる奏は少しずつ眠気を増幅させてゆく。数時間前に店は既に閉めていてもうそろそろ朝方近くになろうとしている今、居間の隣りの部屋の真ん中で二人、一つの布団で看板娘とその彼女を抱き締めるように眠る幼馴染の呆けた顔を上から眺めては思わず苦笑した。
(…ははっ、どっちもだらしねぇ顔)
熟睡している看板娘の頭をそっと撫でた際に小さく寝言を零した彼女の額を軽く指で弾き、むむっと眉間に皺が寄っていくのがなんだか面白くて危なく変な声が出そうになった。しかし、それでも次第に増幅していく胸の奥のもやつきと募る寂しさによる痛みに堪えながら、寝返りで偶然にもこちらへ顔を向けてぐっすりと眠っている彼の顔をじっと見つめては尚更涙が出そうになってそっと拳を握り締めた。
「…悪い」
これで最後にするから。
そう心の中で呟いて、後々後悔するであろうと理解しながらも素直な気持ちに歯止めは利かなかった。体勢を低くしながら少しずつ顔を近付け、唸る心臓を震わせながらその乾いた唇へとそっと重ねた。たった数秒間、自分でも触れたか触れていないか分からないくらいの優しい柔らかさに罪悪感が沸々と生まれ、それでも次第に満たされていく心に嫌気が差した。
幼馴染が倒れたあのナワバリバトルから、数日が経過しようとしている今。彼が目を覚ましたあの日から、二人の間に何かしら違和感のある距離が作られ始めていたのはお互いに理解していた。周りから見れば何も変わった事などないかも知れないが、当の本人達からすれば何故だか妙に近寄りがたくなり、無意識ではあれど昔の話をするのを今まで以上に避けるようになった。そんな微妙な空気の変化を感じ取っていた勘の良い看板娘もどうすればいいのか分からずにいたらしく、しかし下手に行動を取るのも避けていたようで、今考えれば小さな子供に大人である自分達が大分気を遣わせてしまった気がして頭が上がらなかった。しかし、それももう今夜で最後になる。
(もう、ここには戻らない)
彼が目の前で涙を落としたあの日からその覚悟は固く決めていた。本来ならばもっと前からそうするつもりだったというのに、未練がましい意志の弱さが今回の事故を招いてしまったという自覚もあって、ある意味では全てを断ち切る切っ掛けになってくれたと言えるのかも知れない。ようやく、心の整理と踏ん切りがついた。もう、思い残す事などない。
頬に触れていた手のひらをそっと引っ込めて、ぬくもりの残ったその手を強く握り締めた。
足音を立てないようにそっと居間を抜け、軋む床に怯えながらも台所へと出る。店の中からでも分かる程に未だ外は荒れていた。傘なんて高級なものは何一つ持っていない。小さな勝手口の鍵を開け、ドアノブを捻って嵐の舞う闇夜へと足を踏み出していく。ふと、勝手に作って使用していた合鍵の存在を思い出してはそっと郵便受けの中へと放り込んでおく。
体中が雨粒に叩きつけられる中、立派とも言えないその店構えを見上げては滲む雫に目を細めて、次第に冷えていく体を無視しながらぼそりと零すように呟いた。
「…じゃあな、トキ」
幸せになって欲しい。ただただ、そう思わずにはいられなかった。
***
「帰るぞー、マゴっち! いっつもごっそさん」
「いーえ、こちらこそ。ちゃんと真っ直ぐ家に帰って下さいよ。奥さんの怒りの電話、出るのもう嫌ですからねっ」
深夜二時。少し酔いの回った最後の客の背を見送った後、番台のカウンターに数時間置いたままだった、コップに半分くらい残されていた麦茶をぐいっと飲み干した。すっかり飲み忘れていた頂きものの酒で先程の客と杯を交わしていれば、久しぶりのアルコール摂取のせいか、たった数杯で完全に酔いが回ってしまい、最早味もくそもあったものではない腐った味覚のままに飲み干した麦茶は酷く美味かった。
酒に弱い訳ではないが、好きで飲む事はほとんどない。普段は常連客に一杯飲まないかと誘われた時に少々嗜む程度一口味わうだけだったのだが、今日は何故だか客にさえ驚かれる程のハイペースでぐいぐいと飲み干していってしまった。
(……静かに、なっちゃった)
つい先程までどんちゃん騒ぎだった店の中は一気に静寂を迎え、その後すぐに店そのものも閉めてしまった為、明日まで誰かがここを訪れる事はない。ある一人の人物が顔を出す可能性を除いては。
「一体、どこ行っちまったんだよ。あの、ばか…」
ぼやくようにそう零しては壁に掛けられた古い長方形の鏡を恐る恐る覗き、毎日のように地へ落ちていく重い溜息にうんざりする。日に日に濃くなりつつ目の隈は、看板娘に指摘をされて昨日初めて気が付いた。そんな情けない顔では客が減っても文句は言えないと無理矢理寝かし付けられ、自分の体だというのに疲労が溜まっていた事さえ気付いていなかったらしく、反論をする間もないままぐっすりと眠った挙句スッキリしとした目覚めで朝を迎えるという、まさしく彼女の言う通りだったと言わんばかりの結果に悲しくも納得せざるを得なかった。
それでも、もしかしたら、という微かな可能性を信じていたかった。いつ何時ふらりと姿を現すかも分からない彼が、寝ている間に訪れてはまた消えてしまう事が怖くて堪らない。いつの間にか、こんなにも弱くなり果てた自分に頭を痛めながらも、その正直な気持ちに嘘などつけるはずはなかった。
「ただいま」
「…あぁ、リン。おかえり」
番台の跳ね上げ式の扉を開けて、定位置である座布団の上に胡坐を掻いて座った自身の上に風呂上がりの彼女を抱き上げては膝の上へ乗せた。ほかほかに体を温めたばかりの小さな体は、程よく酔いが覚め冷えてきていた体にはちょうど良い湯たんぽ代わりとなり、自然と行き渡る火照りに段々と瞼が重くなってゆく。
「またマゴにい、無理してる」
「んー、してないよ」
「…今日も、待ってるの?」
「うん」
「そ、っか」
「…一人で寝られる?」
「……ん」
そんな会話をしながらも、真上を見上げながら心配そうにこちらの顔色を伺う彼女の眉尻は下がったままだった。引き下がるつもりのない姿勢を理解したのか、そっと膝の上から降りた看板娘は空になったコップを持って台所へ向かったかと思うと、暫くしてあつあつのお茶が入った湯呑をお盆に乗せて、番台の前から押し付けるように手渡されたそれを慌てて受け取った。
「あっちっ、ちちちち」
突然どうしたんだ、と彼女に問いかけようとした時、ようやくそのピンク色の瞳がゆらゆらと波を立て、今にも零れ落ちそうな涙を浮かべている事に気付いて胸の奥の心臓がどくりとどよめいた。不安になっていく心のままに、咄嗟に彼女の名を呼ぼうとした瞬間、その小さな口元から驚く程の声量のある叫びが自身へと向かって飛び出してきたのだった。
「…あたし、寂しくなんかないから!」
「へ?」
「ヨリちんなんかいなくたって、マゴにっ、さえ、いれば、寂しくなんて、ない…! だから、無理っ、しないで…も、一人は、やだもん…!」
小刻みに震える彼女の一つ一つの声が今の自分には堪らなく苦しかった。呆然とその様子に耳を傾けている間に、大きなお盆を胸に抱えつつ衝動的に背を向け物凄い勢いで居間の方へと止める間もなく走り去っていく彼女の背に堪らず焦燥した声でその名前を呼んだ。
「ちょ、待っ…リン!」
その一瞬に目元からきらりとひかる雫を見た気がして、慌てて番台を飛び出してはその小さな背中を追った先、電気もついていない真っ暗の居間に敷かれた布団の中に包まってはふるふると体を震わせて蹲っていた。鼻を啜る音と嗚咽のような苦しい声がぶつりぶつりと漏れ、今にも埋もれてなくなってしまいそうな彼女の傍へゆっくりと歩み寄る。
「…リンちゃん」
「………」
「ねぇ、リンちゃんってば」
「今、寝ておりますから、話しかけないでください」
「ふむ…困ったなぁ」
こんもりと膨らんだ布団の隣りへ腰を下ろして、ぴくりとも動かないその小山を背にしながらじんわりと伝わってくるそのぬくもりに、空っぽになりつつあった胸の奥が久しく満たされていくように感じた。今の状態では何を言っても怒られてしまいそうな気がして、じっとその体温を感じるままに寄り添っていると、しばらくして布団の中からぼそりぼそりと声が溢れてきた事に気付いてそっと耳を澄ました。
「…マゴに、いる?」
「はい、ここにいますよ」
「…ごめん、なさい」
「リンちゃん?」
「あたし、また、ワガママ言った」
ついにもぞもぞと頭だけを外へ出し、胡座を掻いていた自分の膝の上を枕代わりに頭を乗せて寝そべると、見上げた彼女の視線とがっちりぶつかっては揺れるピンク色の悲しげな瞳に思わず目を細めた。
「ワガママって、一体何の事だい」
「あたしじゃ、マゴにい、元気に出来ないから。マゴにいにはヨリちんが必要でっ、あたしじゃ、ダメなのっ、だから、あたし、早くヨリちんを…」
「…リン」
小刻みに震える体が悲しくとも愛おしく、そんな彼女にこの一週間どれだけ気を遣わせてしまったのだろうと考えるだけで罪悪感が胸の奥から沸々と湧き始めた。自分の事ばかりを考えて彼女に負担ばかりを掛けていた短いようで長い一週間を思い返せば返す程、情けない自分の姿ばかりが脳内に映っては頭が痛くなった。
「ごめ、んなさっ…マゴに、ごめんなさっ…」
何一つ、彼女が謝らなければならない要素などない。それどころか感謝の言葉ばかりが頭の中に浮かんでは消え、寧ろ謝るのは自分の方だというのに、周りばかりを気にしては場の空気を察し、自身の都合など後回しにする子供らしくない看板娘を見ているだけで心が辛かった。膝のスパッツを無意識に強く握り締めるその手を重ね、そっとオレンジ色の頭を優しく撫でてあげると、不思議そうな表情で見上げたようやく子供らしい甘えんぼの姿につい嬉しくなって、そのまま布団から引きずり出すように体を持ち上げては締まる程に力を込めて抱き締めた。
「んぐぐぅ…苦じいよっ」
「ごめんね、でも、もう少し…このままで、いさせて」
「……マゴにい?」
愛おしくて堪らなかった。酷い事を言っているのは自分でも勿論理解している。申し訳ないと心から思いつつも、こんなにも自分に対して健気にもあたたかな想いを寄せてくれる彼女が、奥底で埋もれる暗く沈んだ世界に光を射してくれていたのは明白だった。一生手放したくないと、いつか決意した覚悟を捨ててしまいたいと思ってしまう程に。
それなのに当の本人は力になれない事が悔しくて、悲しくて、どうしようもないぐるぐると唸る苦しみに嘆いては涙を流して自己嫌悪をしている。
(君がいるだけで俺は、こんなにも満たされているのに)
今の自分にとって、彼女の笑顔は生きる希望だった。まるで太陽のように自身を照らしてくれる、胸の中の大切な存在を出来る事なら癒してあげたくて堪らなかった。
そっと胸に押し付けていた彼女を解放するように腕の力を抜いて、ぷは、と計らずとも止めてしまっていた息が勢い良く飛び出すと、未だ落ち込み暗い表情のままの顔の額をそっと撫でながら大きな瞳へと視線を落とした。
「…心配、かけてごめん」
「え…?」
「自分の事ばかり考えて、リンの優しさを危うく踏み躙るところだった」
「ち、違うの。あたし、そんなんじゃ…」
「…俺は、リンがいるから今を生きてる。その事に、嘘偽りなんてない。でも、俺にとってアイツもかけがえのない存在で、どちらか一人が欠けてしまっても絶対ダメなんだ」
十五年。シノブと結婚した直後、バイト先のカンブリアームズに時々顔を出してくれていた幼馴染は、まるでこの世界からいなくなってしまったかのようにその存在を消してしまった。電話も繋がらない、住んでいたアパートも気付けば引き払われ、誰に聞いても何処で何をやっているか分からずに時だけがあっという間に流れては去っていた。
初めは恨まれているのかとも思った。シノブの初恋の相手でもあった彼が、彼女に対してどう思っていたのかは今となってはもう分からない。それでももし、二人が相思相愛だったのだとしたら、無理矢理にプロポーズを押し付けて受け入れてもらった自分が恨まれても仕方がなかった。しかし、彼女が突然に短い生涯を終え、世話になっていた施設の人々とこじんまりと弔った日も彼はついに自分の前には姿を現さなかった。
どうしても許す事など出来なかった。幼馴染でもあり、家族でもある彼女の最期を見届ける事さえしようとしない彼に、行き場の無い憤りだけが沸々と腹の底で湧き出てきて、彼女を失った深い悲しみと混じり合った複雑な感情が希望に満ちていたはずの心をゆっくりと死なせていった。
「…そのまま消えてくれたって、もう二度と会えなくたって構わないって、今までは確かにそう思ってた。でも、本当は違ったんだ」
ふと壁に掛けられたカレンダーを見上げる。三日後の日曜日の日付が大きな赤丸で囲まれており、その下には、リンの誕生日と黒いボールペンで殴り書きされていて、次の行に貼られた向日葵の絵柄のシールを細めた瞳で見つめては大きく息を吸って喉元に詰まった何かを無理矢理に飲み込んだ。
「…向日葵」
「ひま、わり?」
「俺と、シノの…思い出の花。彼女が亡くなって一年経った日に、束になったその花が墓の上に置いてあった」
数十年前に彼女と出会い、その短い生涯の大半を共に過ごしたあの養護施設のある田舎町、青空が一望できる丘の上に建てられた、お世辞にもあまり立派とは言えない小さな墓に自分よりも先に飾られた向日葵の美しさが、自然と涙を誘っては柔らかな風と共に流れて散った。
一昔前のその景色が今でも鮮明に思い出す事が出来る程に、その雲一つない青空の下で揺れる向日葵が今日という日までずっと、そしてこれからも記憶の中で生き続けていく。
「…乱雑だったけれど、本当に綺麗で、まるで彼女のきらきらした笑顔のようだった。ひと目で分かったよ、ヨリが置いて行ったんだって。向日葵そのものが三人だけの秘密で、俺達にとっては合言葉にもなっていたから。だから、その時になってやっと、アイツも俺と同じ気持ちだったんだって分かった」
思ってもみなかったタイミングで彼と久々に再会する事になったあの日は、つい突っぱねた態度を取ってしまったけれど、本当は心の底から生きていてくれた事が泣きそうになる程に嬉しかった。運命なんて言葉を信じられるくらいの純粋な心は持ち合わせてはいなかったとしても、彼ともう一度あの頃のような日々を過ごせる毎日に感謝せざるを得なかった。
「…ねぇ、マゴにい」
「っ、何…?」
「待ってるだけじゃ、やっぱりダメ」
「へ…?」
いつの間にか気付かないうちに強く射し込んだ彼女の折れない視線に驚き固まってその場を動かずにいると、腕を掴まれた体は突然の引力に体勢を崩し、状況を掴めないままに布団の中へと引きずり込まれていった。
「ちょちょちょちょ、リンちゃん待って!」
「早く寝て早く起きる! そんでもって、二人でヨリちん探すの! いいですね!?」
「え? あ、はい! 了解です!」
目を丸くしたまま体を横に倒され、布団に沈む自身のすぐ傍にぴったりとくっつくように体を折り曲げ目を閉じた看板娘は、余程泣き疲れたのか数分もしないうちに夢の中へと旅立ってしまった。その寝顔がいつも以上に優しく、ほっとした柔らかな顔つきであるのが嬉しくて次第に広がってゆく安堵と共に積み重なった疲労を伴って、すっと沈むように瞼が落ちては意識を沈めていった。
***
次の日。二人してこれでもかという程に昼まで熟睡を果たした後、お腹が空いて冷蔵庫を覗いたところ文字通り何も食材が入っていなかった為、店を開ける時間までまだ余裕もあったので、腹は減っては戦は出来ぬとでも言うように近くのスーパーへと食料を調達へ行く事にした。長すぎた睡眠のせいか多少頭痛を催したものの、目覚めと共にもやついた気持ちも併せてすっきりと晴れていたので、特に気にするほどのものでもなかった。スーパーは銭湯から徒歩十数分の距離に位置していて、普段は看板娘が一人おつかいへ出向く日もあるが、今日は買い貯めをしたいという事もあり、二人で仲良く手を繋ぎながら車通りの少ない閑散とした住宅街の中の細い道路を歩いた。珍しい事に今月は財布の中身に少し余裕がある。目的の店に着くと運のいい事にタイムセールが始まったばかりのようで、ここぞとばかり欲しい食材をたんまりと買い物かごへと突っ込んだ。卵とケチャップと鶏肉とグリーンピースだけは忘れずに、その他は適当に必要と思ったものを手に取っていく。
「あ」
リストにしておいた買い物メモを大体チェックし終えて、レジの列に並ぼうとしたその時になってようやく、財布を家に忘れてきた事に気付いた。
「ごめん、リン。ちょっと、財布取ってくる」
「わかったー」
「好きなお菓子、選んでていいからさ」
「やったー!」
てんこ盛りになった買い物かごを隅の方へ置き、お菓子コーナーへ向かった看板娘を見送ってから早足で外へと出る。体力のない体を酷使して駆け足で歩いてきた道を戻ろうとした時、あまり人通りが少なく日の光の入らない暗い路地裏にある近道の存在をふと思い出した。時より窃盗や喧嘩が絶えず起きているというよろしくない噂が時々流れているので、看板娘が安易に使わないようその存在を彼女には教えていなかったのだが、今は一人でもあり昼間で辺りが思ったより明るかった事もあったので、特に問題はないだろうと判断し軽い気持ちで細い横道へと足を踏み入れた。
「…やっぱ、ちょっと怖いかも」
あれだけぽかぽかと明るい陽気に包まれていた大通りからひんやりと空気が沈む裏道に入ってすぐに心が挫けそうになるものの、今更引き返してしまってはせっかく裏道を使っての時短をする為にした行動の意味がなくなってしまう。これは目を瞑りながらでもさっさと通り抜けてしまおう、そう思ったその時、何処からか聞き慣れたボーイの声を耳にしたような気がして即座に積み上げられたダンボールの影へと咄嗟にしゃがみ込んではその身を隠した。
(今の、もしかして)
数メートル先に見える大通りへの出口の側、そこに確かに同年代と思われるボーイが二人立ったままぼそぼそと会話を交わしていた。一人は自分より年下の明らかにまともな生活をしていなさそうな顔立ちをしていて、そしてもう片方の小麦色の肌をしたボーイはまさしく、数日前から探し続けていた人物で。
(ヨ、ヨリ…!)
額にオクタグラスを掛け、ボロボロのロッケンベルグTブラックを着ている彼は間違いなく自分の知る幼馴染だった。少し距離が遠すぎる為、二人が何を話しているのかは分からない。しかし、何か深く考え込みながら俯いたかと思えば、苛立ちを隠せない様子で怒号を放つ彼の表情はいつにもまして険しく、ぎらりと光る強い瞳は確かに相手のボーイの心臓を真っ直ぐに貫いていた。
「……ンな条件、飲めるワケねぇだろ。他当たれ」
「そう言うなよ。今回はご指名なんだ、是非是非お前に来て欲しいって。報酬は弾むって言ってたぜ」
「そんなこた関係ねぇ。二度とそっちの仕事は受けねぇって決めてんだ。さっさと諦めるんだな」
意味深な会話が続く中、視線がぶつかるのが怖くて声を掛けるどころか陰から覗くのもままならず、ただただその場で聞き耳を立てる事しか出来なかった。
幼馴染の噂は再会する前まで全くなかったという訳ではない。裏で取引されている違法なギアを盗んでは売りつけてカネにしたり、あわよくばカネそのものを盗んで生活をしていたり、最悪、どこの誰とも分からない者にその身を売っているらしいとも聞いた。ただその噂が彼のものかどうかは確かではなく、そんな黒い話が客から流れてきたとしても自分にその真相を知る力などなかった。しかし、その噂を裏付けるような話がまさしく、ある意味では聞きたくなかったそれが唐突にぽろりとすぐ側に落ちてきてしまったのだった。
「あれだけ、善がって悦んでた癖に。最近、相手をしてもらえなくて寂しいって言ってたぞ。そもそも姿さえ見せなくなったもんなぁ、お前」
「…だったら、何だ」
「一回穴捧げるだけで、びっくりする程カネがたんまりもらえんだぜ? お前にとっても悪い話じゃないだろ」
頭の中でうるさく響く鼓動の音に何かが壊れて意識が薄くなっていくのが分かった。ぶんぶんと頭を横に振って、いつの間にか震えた両手を抑えるように握り締める。
何が恐ろしくてこんなにも自制が効かなくなっているのか自分でも分からない。ただただ、幼馴染の彼が、所謂身売りという形でカネを稼いでいたという噂が事実であるという事が受け止められないのかも知れない。そうかも知れなかった今までと、確実にそうだと言い切れる今との差がこんなにも悲しくて辛いものだとは微塵にも思っていなかった。
(でも、なんで、こんなに、胸が苦しいんだ)
自分の知らないところで、知らないインクリングと、ましてや同性であるボーイと性行為をしている。
身売りという事は本人の意思を無視した性交が及ばれた訳ではないのは分かっていた。彼自身が望んで受けた仕事であり、それなりに妥当の報酬を貰っているのは間違いない。それなのに、頭をがつんと殴られたかのような強い衝撃は、伏せた瞼の隙間からぽろぽろと涙を溢れさせては止まる事を知らずに頬を伝い乾いた地面を濡らしていく。
気付けば二人の姿は既に消えていて、名前を呼ぶ事さえも出来なかった自分の弱さにまた挫けそうになった。
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