***


「マゴさん、だっけ。お前の友達の」

 自分の積み上げてきた甘さがここまで物事の裏目に出てしまうとは思いもしなかった。
 特に当てもなく数か月前まで住処にしていた暗い路地裏をうろついていた中、久々に声を掛けてきた知人に紹介された金儲けの話は明らかに裏があり、以前とはまた別の目的が存在する商売をしているのだろうと咄嗟に理解した。元々薬開発に関しての噂はうようよと流れていた事もあり、もう二度とそんなものを体に混入される羽目になるのは嫌だった。何より、陰ながら支えたいと心に決めた存在の為にも自暴自棄になるのはもうやめた。そう簡単に身を滅ぼすような事に投じるつもりはない。そう思っていたというのに、彼の口からあまりに想像していなかった人物の名前が出された瞬間、嫌な汗が全身から噴き出たかのように血の気がなくなっていった。

「お前、今、何て言った」
「俺もさぁ、一回行った事あるんだよね。あそこの銭湯。風呂場狭そうに見えるけど結構広いし、何より居心地が良いというか」
「…何が言いたい」

 マゴ。
 幼馴染である彼の渾名が、知る由もなかった目の前の人物の口から飛び出てはびくりと体を震わせた。

「…気を付けた方がいい。お前、目付けられてるぞ。反抗すれば、アイツらがどんな手を使ってくるかも分からん」
「ふざけんじゃねぇ。俺はともかく、アイツは何の関係もな…」
「忠告はした。引き受けるならいつでも連絡しろ。これからどうするかはお前次第だ」

 意外にもあっさりと切り落としてきた知人の言葉が耳について離れず、背を向け軽く手を振りながらその場を去ろうとする彼の腕を思わず咄嗟に掴んでいた。

「お? どうした。気が変わったか」
「…会わせろ」
「は?」
「とにかくソイツの所に連れていけ。話はそれからだ」

 驚いた表情の彼の瞳へ射殺すような真っ直ぐ伸びた視線を突き刺した。小さく溜息を吐きながら、そっと手招きをして再び先を歩き出した背中を無言で追っていく。運命が変わったとも言えるあの日の夜の景色がデジャヴして、これから起こり得る出来事に頭を痛めながら、相変わらず不器用な方法でしか解決できない自身に苦笑した。

「話が通じる相手とは思えないぞ。本当に、いいんだな」

 普段は仕事の請け合いだけで、その後は微塵も気にせず放ってくる知人の珍しく心配する弱気な声に鼻で笑っては言葉で返さずに貶した。みすみす大人しく、ひとり潰されるつもりは勿論ない。しかし自分の身に何かあったとしても、幼馴染とあの店に住む小さな看板娘、そしてその二人の幸せだけはどんな手を使ってでも守ると心で決めていた。

(もうこれ以上、アイツを巻き込まない。絶対に)

 俯いたまま無言を貫く姿勢に諦めがついたのか、溜息を吐きながら止めていた足をゆっくりとフ再び前へ踏み出し始めた知人に心の中で感謝をし、固く決意した思いを胸に宿しながら迷いなく一歩一歩前へと進んでいく。

「…無理は、すんなよ」
「テメーに心配される筋合いはねぇ。さっさと消えろ」

 数十分歩いて辿り着いた先は、数ヶ月前に長い長い最悪の一夜を過ごしたあの古い倉庫だった。入口付近で渋い顔のままの彼と別れ、重い鉄の扉をあの日と同じように力いっぱいに引いては暗がりに光が射し込んだ。
 あの日と変わらず人気のない冷たい空気が流れては体を包み込み、踏み入れて十数歩奥へと進んだその先に、見覚えのある彼はまるで待ち侘びたとでも言うようににこやかな笑顔を提げてそこに立ち尽くしていた。

「…やぁ」

 数ヶ月ぶりに拝む、相変わらずのにやついた口元に反吐を吐きそうになりながら、ねっとりと絡み付くように見つめる視線を無視しては睨むように目を細めた。

「お久しぶり。会いたかったよ、ずっと」
(俺は、二度と会いたくなかったけどな)

 鼻につんと来る、今ではもう懐かしい鉄の臭いと腐ったようなどろりとした低い声。数メートル先から倉庫内で反響するその声と共に、一歩また一歩と近付いてくるその存在に思わず手に汗を握った。斜光の影に遮られた見えない表情に心臓を震わせながらも、がっちりと瞳の色までがぶつかり合う程に縮まった距離にたじろぐ事なく強い眼差しは消えないままでいた。

「お仕事、受けてくれるのかな」
「…ンな訳あるかよ。忠告しに来ただけだ」
「へぇ…それは、どういった?」

 マルベッコーの透き通ったレンズ越しに見えた黒の淀みと、昼間だというのに辺り全体を包み込む冷たさがじんわりと身に染みる。顎を掴まれ、持ち上げられた視界に彼の顔がしっかりと映っては微かに香る煙草の臭いに思わず眉を顰めた。

「分かってんだろ、俺が何を言いたいのか」
「…さぁ。ただ、君が最近この辺をうろつかなくなった理由は知ってる。まぁでも、逆に好都合だろ? 君のオトモダチ、提供してくれれば今度は自分の身を差し出さずに儲けられるんだから。いつもの彼、みたいにね」
「…テメーらが作ってるクソみてぇな薬をアイツの体で試すってのか」
「まぁ、うん。そういう事。なんだ、分かってるじゃない。足りてないんだよねぇ、治験に協力してくれる人。すぐみんなトんじゃってさ。使い物にならないよ。それに引き替え、彼なら一度経験があるからきっと慣れてるでしょ? 一石二鳥だよね」
「は…? 何で、お前がそれを…」

 まるで世間話を話しているかのように軽い溜息を吐きながら爆弾を落としていく彼の言葉に初めて声が震えた。
 数ヶ月前、幼馴染に降りかかった悪質なストーカーによる強姦未遂事件において、無理矢理に体内へ注入されたのは催淫効果のある注射剤だった。自分自身、目の前の彼に使用された経験があった為、即効性はあっても依存するものではないと理解していた事もあり、命の危険や、後遺症という程のものもなく、個人差はあるものの体の怠さ以外はほとんど残らないというのも熟知していたので自然と体から抜けていくだろうと知ってはいたものの、今まさに気付いてしまった事実に驚きを隠せない。

「ま、まさか…」
「いや、何。あの子がどうしても彼の事、諦められないっていうから。ちょっとお高いけど試薬、売ってあげたの。そりゃ嬉しそうに大ガネ叩いて持ってってくれたよ。治験結果、聞く前に捕まっちゃうもんだからさぁ、残念ながら結果のデータは残ってないんだけど」

 まさか、あの事件に裏で糸を引いてた存在がいたなんて思いもしなかった。幼馴染の彼を間接的にとはいえ知らない間に面倒事に巻き込んでしまっていた事に戸惑い、沸々と腹の底から生まれてきた怒りで握り締めた両手がわなわなと震えていた。

「このっ…! テメェのせいで、アイツがどれだけ辛い目に遭ったと思う…!」
「さぁ。僕はただ、ストーカーの彼に薬を売っただけだから。そこから先は自己責任ってヤツだよ」
「クソッ、ふざけやがって!」
「…だから、正直気になってはいるんだよね。二回目の投与で、どんな反応を示すのか」
「…このクソ野郎…ッ、バカ言ってんじゃねぇぞ! ンな事、絶対にさせるもん、かっ…」

 その瞬間、彼の中に潜む本当の目的が垣間見えた気がして、思わずぎりぎりと歯を食いしばっては胸元を掴み上げて殴りかかりそうになる。しかし、そろりと背後から忍び寄ってきたもうひとりの体格のいいボーイに羽交い締めにされては、地面に突っ伏させられ、そのまま腕を押さえつけられたまま睨みつけるように彼を見上げて叫んだ。

「いっつ…!」
「暴れるなよ、命が惜しけりゃな」
「…やるんだったら俺でやれ! アイツに少しでも手ェ出してみろ…ぶっ殺してやるからな!」
「あーこわ。ま、君でもいいよ。あの時はまだ試作段階だったけど、一応経験はあるものね。まずは今から一本、あとは日を置いてもう一本打ってみようか。死んじゃっても困るし。あ、勿論おカネはたんまり払うよ。まぁ、生きて帰れたら、の話だけど」

 影の重なったマルベッコーのレンズが怪しくぎらりと光り輝いて、背中にのし掛かり頭を掴んでは顔を地面へ押し付けてきた、もう一人のボーイが高らかな笑い声を重ねてる間にも、必死に瞳の奥に募らせた熱が沈下しないまま沸々と奥底で生まれる悔しさに、鉄の混じった砂を手のひらに爪が食い込む程力を込めながらぎゅっと握り潰した。


***


 リンの誕生日である日の前日。金銭的に余裕はなかったが少しでも彼女を祝ってあげたいという思いで、それなりの食材と小さな誕生日ケーキ、そして先日ナワバリバトルの大会で手にする事の出来なかったスイーツ店のチケットの代わりである、ちょっとしたプレゼントをこっそりと用意しては押入れの中へと仕舞った。
 恐らく察しのいい彼女はなんとなくいつもの日常とは違う空気を既に感じられているかも知れないが、これでも一応サプライズという事で準備を進めていたかったので、夕方まで一緒に買い物へ連れて行ってもらう形で一人の時間を作る為、急な話ではあったが焼きイカちゃんに協力してもらうよう頼んでおいた。本人も快く承諾してくれて、今頃はアロワナモールでガール同士仲良くお洒落なフクやクツを売っている店を見て回っているだろう。
 そんな焼きイカちゃんが店に訪れたのは昨日の事だった。開店して直後、日が落ち辺りも暗くなり始めていた頃、珍しく深刻な面持ちで訪れたものだから、何があったのかさえなんとなく声を掛ける事も出来ず、無言のまま休憩室までの短い道のりを辿る彼女の背を静かに追った。自然と向かい合うようにソファーへ座り、不思議そうな顔で持ってきてくれた看板娘の熱々のお茶を謎の緊張感と共に一口啜った。

「ええと、その…それで、話って何かな」
「…う、ん。なんというか、その…アタシが口を突っ込んでいい事かどうかは、正直分からないんだけど…それでも、いい?」
「いいよ、言ってごらん」

 普段の明るさは一体何処へ行ってしまったのか、ぼそぼそと小さな声でしどろもどろに話し始めた彼女は、まるで何かに元気を吸い取られたかのように眉尻を下げたまま俯いていた。

「…あの、ね。チャラいおっちゃんの事で、ちょっと」
「もしかして、ヨリの事?」
「うん。実はね…アタシ、昨日お店の裏で変な噂聞いちゃったの」
「変な、噂?」
「ほんとかどうかは分かんない…でも、もしかしたらおっちゃん、知らないところで命に関わるような事、してるんじゃないかって」

 大きなピンク色の瞳をゆらゆらと不安げに震わせながら話す彼女の手はジップアップグリーンの余った袖を力いっぱいに握り締めていて、揺れる視線がぶつかり合う感覚にごくりと息を呑んだ。
 昼前に自身も耳にした彼の黒い噂。それは最早噂では留まらず、本人の口から確信の持てる声を既に聞いてしまっていた為、恐らく彼女が聞いてしまったというその話も同等の内容のものなのだろう。しかし一点だけ、自分が知っている情報と明らかに相違している点に気付き、思わず身を乗り出しては声を上げた。

「命に関わるような事、って…一体、どういう事なんだい」
「……あの、ね。アタシ、知ってるんだ。今、ヤバイ薬を作って売ろうとしてるチンピラ組織がどこかにいて、その試薬の実験台になってくれるヤツを陰で何人も探してるって」
「な、なんだって…!」

 薬、という言葉から半端ではない程のきな臭さと嫌な記憶が一瞬で頭の中を過ぎった。
 意外にもそういった方面の裏事情に詳しい彼女の危なっかしさには少々心配になるものの、普段からその情報量の豊富さに世話になっているのは事実で、ざわめいた嫌な予感が次第に胸をきつく締め付けていく。

「有名なんだ、アイツら。前々から人身売買とかもしてるみたいだし、そのついでに薬の実験もしてるって噂が流れてから周りの知ってる人達がどんどんいなくなってるの…! アタシ、心配で…最近ここで見ないから。もしおっちゃんに何かあったらどうしよう!」

 ばんばんと両手でテーブルを叩きながら(壊れそうだったのでどうにかやめて頂くようお願いした)、どうすればいいのか分からずにただただ地団駄を踏む彼女の気持ちが痛い程分かって、何も言えないまま両腕を組んでは頭を悩ませた。話を聞く限り、何か危険な事に手を突っ込もうとしているかも知れない幼馴染を、なんとかして探し出さなければならない。しかし、彼自身それを望んでいるのかどうかは定かではなく、そして何より、耐えがたい一番の問題を自分自身が今この胸の奥に抱え込んでいる為に、これから先どう行動を取ればいいのか未だ判断は出来ずにいた。

「…ありがとう、焼きイカちゃん」
「え…?」
「こっちでも、少し考えてみる。何かあったその時は、君の力も出来れば借りたい。それで、いいかい」
「……うん、分かった。でも、無理はせんといてな。おっちゃん、ただでさえヒンジャクなんだからよぉ」
「は、はぁ…お気遣い感謝します…」

 半分以上も年下のガールにヒンジャク呼ばわりされている時点で情けなさに拍車をかけているような気もするが、そこは彼女らしい親しみのある愛称なのだろうと前向きに捉える事にする。
 結局、店を出る最後の最後まで本当に平気か、傍にいてやろうかと心配の声を投げつけられ、その度に頭を撫でながら大丈夫だと答え続けた自分の声が、本当に嘘の混じらない声だったかどうか今はもう覚えていない。
 そしてその次の日である今日。まだ天高く日が昇りきっている今、店はまだ開けていない。
 看板娘も幼馴染の彼もいない銭湯の静かな空気があまりに久しく、彼女と出会ってからまだ数ヶ月しか経っていないというのに、一人になるという事そのものがいつの間にか遠い昔のように感じる。ただただ騒がしく、しかし煌めいた毎日を送るうちに気付けば忘れかけていた笑顔を自然と零せるようになっていた事に驚くと共に、懐かしい温かさと優しさで胸がいっぱいになっていた。それ故に、これまで平気だった孤独の冷たさから己を守る力などとうの昔に失われていて、今まさにその寂しさに心が押し潰れそうになる。気晴らしになっていた家事も全て終えてしまい、無意識のままふらふらと踏み入れた奥の居間に朝から敷きっ放しだった布団へ沈むように横になった。古い天井を見上げ、あちこちに散らばる茶色いシミをじっと眺めていると、ふとあの日の夜の事がゆっくりと頭に浮かんでくる。

「…夢じゃ、ないよな」

 幼馴染の彼が姿を消した前の日の晩。大雨でばらばらと大きな雨粒が地面に叩きつけられる音で塗れたあの暗がりの中での事は、一瞬たりとも忘れた時はない。

(あれは確かに、口付けだった)

 ふわりと鼻を掠った落ち着く匂いで沈んでいた意識を浮上させたあの時、かさついた唇に柔らかい彼の優しいぬくもりが重なった瞬間、動揺して危なく変な声を上げそうになったのを無理矢理飲み込んでは息を殺し潜め続けた。初めは看板娘と間違えたのかと思い(そうだったとしても少し腹立たしいが)、一つ文句を言ってやろうと奥底で沸々と苛立ちを生み出したものの、目の前へ顔が近付いてきても躊躇なく触れたその唇に戸惑いは一つも含まれてなどおらず、決して間違った事をしたとは思えない程に落ちた視線は真っすぐと自身へと伸びていた。

(どうして、あんな事、したんだよ…)

 あの時、目を合わせてしまった瞬間に何かが崩れてしまうような気がして、心臓の高鳴りで目を覚ましている事がばれてしまうのが怖かった。しかし、その時点で既にもう自身の中の何かがぽろぽろと崩れ始めていて、次第に熱くなる頬と併せて昂ぶる気持ちの良さ、そして、何より驚いたのが。

(嫌じゃ、なかった。それどころか、俺は…)

 もう一度、キスをして欲しかった。
 足音さえ立てずに静かに離れていくぬくもりが恋しくて仕方がなかった。もっと、自分を求めてくれればいいのにと身勝手で我儘な言葉さえ知らずに零してしまう程に、ただただ遠くへ行ってしまう彼の背を本当は這い蹲ってでも追い掛けたかった。真っ白になった頭と泣きそうになるくらいに伝わってきた優しさに胸が痛くなるばかりで、結局その夜は一睡もできないままに朝を迎えてしまった。寝返りを打ち、隣りで未だぐっすりと眠っていた看板娘の安心しきった寝顔をじっと見下ろし、暫くして視線を感じたのか薄らと瞼を開いてふにゃりと笑顔を零した彼女を、思わず力いっぱいに胸に抱き締めた途端にそれまで我慢していた何かがぷっつりと切れ、情けなくとも引き攣るような声を上げては瞼をそっと眠るように下ろした。

「……っ、…」

 ゆっくりと下半身へと伸びた右手が、脳の制止を聞かずに指先からスパッツの中へと忍び込み、握り締めた自身のそれをごくりと唾を飲み込んではゆっくりと上下に扱いていく。自分でも何故、今に限ってこんな事をしているのか分からない。それでも、思い出す度に底から熱が生まれては沸々と滾る興奮とその痺れに慰めずにはいられず、同時にせめぎ合う罪悪感が生理的な涙を誘った。瞼の裏に浮かんだ彼の姿が滲む水の中でゆらゆらと震えては落ちていく。つい最近まで毎日のように感じていた彼の体温、声、きらきらとした彼女に良く似た笑顔、そして、気が付けばいつも傍にいて自分を支えてくれていた彼という存在が自分の中でこんなにも大きくなっていた事に、いなくなった今更になって苦しい程に痛感しては止められない衝動に身を任せた。

「んっ…、…ふ、うぅっ…」

 今日という日に、一人になるべきではなかった。ずっと、知らないままでいたかった。気付かないでいられる日々から抜け出すのが怖かった。いつまでも、今の幸せを噛み締められればそれでいいと確かに思っていたはずだった。
 熱が篭る下半身の熱さに耐え切れず、空いた右手でスパッツを取り払っては背中を丸め横になったまま左手を上下に動かし続ける。後悔するのは分かっていた、それでも止められなかった。ずっと知らないままだったはずの、奥底に埋もれては姿さえ見えていなかった本当の自分の気持ちが浮き出てははっきり脳へと刻まれていく。

「あっ…い、やだっ…ん、うぅっ…あ、あぁあっ…!」

 膨れ上がった欲望が一気に外へと流れ出て、朦朧とした意識の中で蕩けだした熱は手の中で溢れ出し、べたべたに散った白が下肢へ広がってだらりと布団の上へ垂れていく。ひくつくように震えた体を落ち着かせるように自身を抱き締め、直後にどっと降りかかってきた罪の重さからただただ耐えるだけで精一杯だった。

「はぁ、はぁ‥なんで、こんな…くそっ…! ちくしょう、ちくしょ…」

 ヨリが、好きだ。
 それは紛れもない事実で、気付いてしまったその瞬間にそれが自分の本当の気持ちなのだろうとしっくり合致したと同時に、深い呵責に苛まれては悶え苦しむ程の痛みが全身へと広がっていく。
 たった数ヶ月、一緒に過ごした中で得た居心地の良さと自分を想ってくれる彼の気持ちがひしひしと伝わってきていたのは分かっていた。そしてそれが自身の気持ちを少しずつ変化させていたのも、信じる事が出来なかっただけで心の奥底では理解していた。同性であり、幼馴染でもある彼を、友人として、家族としてでもなく、ひとりのヒトとして愛している事実が受け入れられないまま気付かない振りをしていた。
 その気持ちを知ってしまった今はもう止める事も、忘れようとする事も、それどころか後戻りなど出来ない程に大きい存在となってしまった彼が愛おしくて堪らない。汚れた布団の上でただ一人蹲り、枕に顔を押し付けては声にならない唸りを上げた。ひくつく嗚咽と溢れる涙を力ない腕で乱暴に拭っては、痛い程に頭に響く痛みに耐えながら血が出るくらいに唇を噛み締めた。

「っ……ごめん、なさい…!」

 ひとり謝ったところで許されない事であり、最早今となってはどちらにも二度と届かない言葉なのだと分かっていたにも関わらず、どうしても疼く苦しみを声に出さずにはいられなかった。


***


「どうだった」
「んー、まぁ…やっぱ、元気ねがったなぁ」
「…そうか」

 数多くの帽子やヘッドホン等が並ぶおかしら堂の中で、新作のニット帽を試着しながらつい数時間前に馴染みの銭湯へと顔を出していた彼女は瞼を下げながらそうぼやいた。
 一週間前にナワバリバトルで対峙した銭湯の店主が、ある事情により意識を失って数日が過ぎた後。その原因の一つとして責任を感じた自分と彼女はここ最近まで人手不足だった店の手伝いを自らさせてもらっていた。店主の友人である年上のボーイと、看板娘である小さなガールには気にしないで欲しいと気を遣われたものの、やはり何かしら力になりたいと強く感じていた気持ちは嘘ではなく、半ば強制的に店へ乗り込んでは風呂場の掃除や番台の仕事のサポートをさせてもらっていた。そんな中でタダ風呂に入れてもらったり(勿論、私はご遠慮させて頂いた)、コーヒー牛乳をサービスして頂いてしまったので、結局のところどっちが世話になったのか分からないような状況になってしまったものの、気付かない間に普段では垣間見えない彼らの温かさを知る事が出来たような気がして、こういった時間を過ごすのもたまには悪くはないのかも知れないと思えた。

「全くもう…ちゃんちゃらニーチャン、どこ行っちゃったんだよぉ…」
「…あの人がいなくなっちまったの、おっさんが目を覚ましてすぐだったか」
「うん。リンちゃんがそう言ってた」

 ここのところ、銭湯にて共に過ごしていた店主の友人が姿を消して数日が経とうとしていた。今までも毎日顔を出していた訳ではなかったらしいとはいえ、まるでその存在が消えてしまったかのようにほとんどの荷物が無くなってしまい、誰に何も告げずに何日もいなくなってしまった事は初めてだと看板娘はぼやいていた。そんな中で、焼きイカが暗い街の裏で見てしまったという、彼の最後の姿に不安を感じずにいられる訳もなく。

「……悪い予感、当たってなきゃいいけど」
「頭は悪いが、そういう野性的な勘は当たるもんな、お前は」
「あぁもう、ハットちゃんは一言多いんじゃ!」

 頬を膨らませてぽかぽかと胸元を叩いてくる彼女を落ち着かせようと、ぽんぽんと頭を撫でながらつられるように口角を上げるも、実際のところは少々笑っている場合ではない事態なのかも知れない。なんせ彼女が一人ハイカラシティの裏の奥、普段は暗がりで都会と思えない程の寂れた街の中で偶然にも彼女は物陰から目撃してしまったのだから。

「…確かに、入っていったんだよね。悪いうわさしかない、あの古い倉庫の中に」
「そんなもんがある付近に何でお前が彷徨いていたのか、の方が私は気になるが」
「あぁ、いやぁ…その。えっへへへ、ちーっとお散歩がてら…」
「…どうせ、あのカモメッシュのヤツを弄りにふらふらしてたんだろ。…ったく、ただでさえ何考えてるか分からないようなヤツなんだ。あんまり危ない事はするなよ、いいな?」
「はーい分かりましたー、もうしませーん」

 げらげらと笑いながら懲りている様子は全くない彼女に苦笑しながらも、知人が危険な目に遭っているかも知れないという現状で心配にならないはずがなかった。ましてや、その人物とはつい最近まで会話も交わしていたというのに。

「…焼きイカ」
「何? ハットちゃん」
「もしもの時の為に、準備だけはしておくべきかも知れないな」
「……なるほど。それはそうかも知れないね」

 にやりと怪しい微笑みを互いに零し合い、ポケットにしまってあった携帯電話を瞬時に取り出すとそれぞれ違う相手の電話番号を選んでは発信ボタンを押した。

(…備えあれば憂いなし、ってな)

 普段よりも独特な訛りに深みを帯びたその会話の相手が誰なのかは大体察しがついた。心強い仲間であれば多ければ多いに越した事はない。もしかしたら久し振りの再会になるのだろうか、と内心ではこっそりと期待を膨らませつつ、出来る事なら出番が無いまま終わればいいと心の底で願っていた。




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