***


 あまりにも情けなく、あまりにも心の弱い自分に嫌気が差す。
 今思えば、無意識なままに放られた潜在的記憶だったのだと思う。長い年月を経て、もう無理だろうと当の本人達も諦めかけていた人生の転機が奇跡的に訪れ、そしてついに初めて交わろうと決めたあの日の夜は想像を超える程に散々なものだった。
 今日の銭湯はいつにも増してたくさんの常連客で賑わい、こんなにも珍しい事があるのかと店主である自分が目を丸くする程に客足は多かった。番台で受付をする看板娘も大慌てで対応を続け、自分はというとすぐに貸出用のタオルが足りなくなってしまうのでその度にすぐ洗濯をし、ドライヤーでなんとか乾かして数を間に合わせたり、酔っ払った客との長い世間話に付き合ってあげたり、あちらこちらから人に呼ばれては店中を駆け回っていたおかげで疲れ切ってしまった体を、ようやく休ませようと休憩室のソファーに腰を下ろす事が出来たのは閉店間近の深夜を迎えてからだった。看板娘はとっくに体力を使い果たして、いつの間にやら奥の居間に敷いてあった薄っぺらい布団の上で寝言を零しながら熟睡をしていた為、起こしてしまうのも躊躇われ幼馴染と仲良くコタツ布団で一夜を過ごす事にした。
 最後の客が無事に店を後にし、今日一日で汗だくになった体を風呂で清め、うつらうつらしていた意識をなんとか瞼を擦りながら覚醒させ、一日の最後の仕上げである家計簿をコタツ机の上に開いた。ぱちぱちと電卓を叩きながらそれぞれの支出の項目と、まとめて本日の売上合計を確認しながら差引の記入を行えば今日の仕事はここでようやく完了する。
 コタツ机の上に放り投げたボールペンとマルベッコーを余所に、がたついた体を横にしては腰までかかった掛け布団の温かさに段々と瞼が重くなっていく。このまま朝を迎えてしまってもいいか、と心の底で付けっぱなしになってしまった照明を惜しみながらも腕を伸ばす事さえ諦めて、次第に視界が真っ暗闇へと落とされようとしたその時。

「…?」

 瞼の裏の世界とはまた違う薄い黒のベールに体全体が包まれたのを感じて、そっと光を差し込めば目の前には少々疲れを見せた幼馴染の表情が浮かんでいて、蕩け始めた意識の中で咄嗟に名前を呼ぼうとしたその直後、乾いた唇に重ね合わせ、ゆっくりと口付けたそれからの彼は全てにおいて優しい手付きで絡めた手を引き上げていく。
 壊れ物を扱うかのように胸の中へと収め、眠気で淀み合う中で感じる体温があまりに気持ち良く、耳元で響いている、心なしかいつもよりどくどくと震えている心臓の音が安らぎを与えてはそっと笑みを漏らした。

「マゴ」

 耳元に落ちる、澄まさなければ捉えられない程の息の混じる声と撫でるように背中を弄る彼の大きな手の平が妙にこそばゆく、背に皺を作るその動作に応えるように、がっしりとした腰へと抱き締めるように自身も両腕を回した。膝を立てた彼の両足の間にすっぽりと収まるよう体を萎め、伸し掛かるように身を任せた体は、次第に床へと溶けて気付けば畳の上へ仰向けに沈み、見上げれば頬を染めた余裕のない表情が視界いっぱいに広がっていた。

「…いい、よな」
「う、ん」

 伝染したかのように熱くなった頬を撫でる彼の手はいつもよりもどくどくと奥で鼓動する波で震え、こちらにもはっきりと流れてくるその感覚に何故だか目頭がじんわりと熱さを帯びた。
 フクは着たままに、下のスパッツだけを器用に剥がし取られては室内のひんやりとした空気に晒し上げられた下半身がぶるりと一瞬震える。根元をそっと握られ上下に扱かれる度に息と、小さな声が必死に唇を噛む口元から漏れた。久し振りの自慰以外で得る快感への耐性など持ち合わせてはおらず、背についた壁に体重を掛けながらじわじわと誇張し始めたものから目線を逸らすように俯いていると、今までとは違うものに被覆された感覚に堪らず声を吐き出した。

「っ…! ん…くっ、う、あぁ…出、ちゃっ…!」
「…まだ、だめ」
「何、で…あっ、ちょ、ヨリ…!」

 不意に掴まれた腰をずるりと引き寄せられ、それと同時に古ぼけた木目の天井が視界に映り既に先端から溢れ始めた白濁を指先で掬い取られ、後孔の入口へ潜り込んだ指先が撫でるようにそれを擦り付けると、既に何度か慣らす為に少しずつ和らげていったその奥へ濡れた人差し指をゆっくりと押し広げるように差し込んでいく。

「いっ、た…! ちょ、待っ…」
「っ…悪い」
「…ん、くっ…だい、じょぶ…」

 無意識にびくりと震えた体に彼の手が止まり、自身を覆いかぶさるように跨っては目の前の不安そうな表情の影に包まれて一瞬、すっと意識を昇らせるように瞬きをしている間に慣れ親しんだ匂いが首元へと埋もれていく。思わず声を出しそうになるのを我慢する中、ぴりぴりと痺れるような感覚が何度も落ちてきてはとっくに足りていない酸素を不規則で拙い呼吸でなんとか取り入れようとするも、それさえも阻む深い口付けがからからに乾いた唇を潤すように溶けて沈んだ。

「はっ、あ、うぅっ…苦し、よっ…ん、うぅ」
「マゴッ…」

 蕩けるような吐息と、そしてそっと離れていく紅潮した小麦色の腰が落ちていくのと同時に、大きく膨らんだ彼の下半身から伝わる熱さに息が詰まり、ごくりと飲み込んだ唾が音を立てて流れるように喉を通っていった。

「きょ、は…それ…い、れるの…?」
「…やっぱり、怖いか」
「うっ…怖い、けど、平気。だから、お願いっ…」
「……嫌だと思ったら、すぐ言え。いいな」

 これから始まる事に対して不安を抱いているのは自分だけではないと勿論分かっていた。所謂同性同士の性交など今まで考えた事もなく、勿論全てにおいて初めての経験であり、ましてや受け入れる側である自分を酷く気遣ってくれている彼の優しい思いが嫌でも伝わってきては、申し訳なさでいっぱいの胸が潰れてしまいそうになった。それでも、心から好きだと言える目の前の恋人と繋がりたいという気持ちは当然のように存在して、たった一歩、されど勇気を持って踏み出さなければ前へ進むことすら出来ない、大きな一歩をどうしても彼と共に進みたいと心から願っていた。
 そのはずだったというのに、この体と気持ちが未だ伴っていなかった事にスタートラインの直前に立った今になって思い知らされるのだった。
 未だに心配そうに見下ろす彼に応えるように小さく頷き、深く瞳を閉じる。両足を肩へ担ぎ上げられ、どくどくと奮い立つその大きく膨らんだ陰茎の先が自身の後孔にひたり、と触れたその時。

「…ひっ! あ、あぁ…う、あぁあっ!」

 真っ暗闇の瞼の裏で二つを引き裂くような大きな雷のような衝撃が心臓を襲った。その輝くような光の中に映ったのは、いつの日かあの埃臭い古い油田の隅で嫌な笑みを浮かべ、影の中で差し出されたあの感覚と景色。そして気持ち悪い程の熱が、すぐ目の前に触れた時の怪しく光る濁った瞳が突き刺すように胸を貫いていく。

「はぁ、ぁ…んっ、ぐ…う、うぅう」
「おい、落ち着け…っ、マゴ…マゴ!」
「…あっ、く! い、やだっ…こないで!」

 異常なまでに暴れだす心臓と今まで自然に出来ていたはずの呼吸がさっぱり上手く行かず、いつの日かナワバリバトル中に発症した、意識を失いそうになる程の過呼吸を思い出しては冷静になろうと無我夢中で胸元を皺が出来る程に握り締めた。その上へと重ねるように、辛そうに噛み締める幼馴染の手が触れたその瞬間、拒絶をするように空いたもう片方の手で無意識にも彼のぬくもりを突っぱねてしまった。

「マ、ゴ…?」
「…っ、あ…あぁあ……」

 理解できなかった。触れるだけで安心する事のできる、拠り所でもあったはずの彼の優しさを無意識にも弾き返してしまった自分が。あまりの恐怖と、自分自身の信じられない行動に対する驚きとショックで今すぐにでも声に出して伝えなければいけない言葉が喉に詰まっては吐き出せず、ぶれた薄茶色の瞳が震えを増して揺れるさまを垣間見たような気がして、急に萎んで腹の底へと落ちていった言葉は次第に消えて無くなっていった。今すぐにでも後悔してしまうと、初めから分かっていたはずなのに。

「…悪、かった。もう…しない。今日は、忙しかったし、な。やっぱり、疲れてる時は早めに寝とかねぇと」
「ち、がっ…違う。待って、ヨリ…!」
「…ちょっと、便所行ってくる。お前は先に寝てろ。…いいな」
「っ…う、ん…」

 あまりの情けなさに涙が溢れそうになった。大丈夫だと言っておきながら結局、最後まで行為に至れなかった挙句、彼の気持ちを踏み躙るような酷い事をしてしまった悲しみと、自身への怒りが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、背を向けて一度も振り返る事なく居間を出て行った彼の寂しそうな背中が、いつまでも波打つ視界の中で色濃く映りこんでは焼き付いたまま消える事はなかった。


***


 火照った体を脱衣所の隅にある古い扇風機のぬるい風に晒し、ロッカーの中に押し込んでおいたジップアップカモと黒のスパッツを取り出しては、時間を掛ける事も無く慣れた手つきで着替えを済ませる。今日はいつも隣りを歩いている相方の姿はない。それもそのはずで、今頃彼の幼馴染と二人で女性向けのデザートバイキングの店へ行くとの事だった(そもそも約束をしていたのは二人だけだった)ので、一日中ナワバリバトルに徹していた事もあり、先に一風呂浴びに行ってしまおうといつも通っている銭湯へと一人出向く事にした。
 そんなつい数十分前の出来事を思い浮かべながら手荷物を抱え暖簾を潜ろうと一歩踏み出すと、いつの間にか店の看板娘である小さなガールがしょんぼりと俯きながら男湯の入口の側で蹲っていた。いつも元気に笑顔を振り撒いては客を喜ばせている彼女の落ち込んだ姿を見る事は珍しく、すぐ側でじっと上から小さな体を見下ろしていると、その存在に気付いたのか、ゆっくりとこちらを見上げるもその表情はやはり暗いままだった。

「おい」
「あ、あの…何か、ご用、ですか?」
「…休憩所」
「へ?」
「イチゴ牛乳が飲みたい。出してもらえるか」
「…あ、はい。じゃ、向こうで座って、待っててください、です?」
「あぁ」

 ぱたぱたと慌てて店の中を駆けていく背中に付いていき、脱衣所を出て右手の奥にある休憩所のソファーを沈ませるようにどかりと座った。手の中に握り締めた二枚の硬貨をテーブルに置き、どこからか聞こえてくるテレビの音に耳を澄ませながら大きく息を吐いて天井を見上げる。
 側のラックに置かれていた夕刊に手を伸ばし、縦に並ぶ細かい文字列を何も考えずに読み更けていると、すぐ隣りで優しく軋む音が鳴り、瓶一杯に詰め込まれたイチゴ牛乳を新聞の陰から手渡され、急いで四つ折りに畳んではテーブルの上へと置いた。
 用意していたお代を押し付けると、一枚多いと返されそうになるも、手数料だと瓶を指先でこつこつと突けば、ようやくふんわりといつもの笑顔が浮かび上がって自分の分のコーヒー牛乳を嬉しそうに持ち込んでくる。再び夕刊を手に取り、飲みながら二つ折りの状態のままに片手で掴んで続きを読み始めると、すぐ横でごくごくとこちらが気持ちいいと感じられる程にいい飲みっぷりを見せる彼女が一言ぽつりと声を落とした。

「…あ、の」
「……どうした」
「その、えっと…です、ね。うん、と…」
「言いたい事があるならハッキリ言え」
「はひっ! うっ、うぅ…あの、その…相談、したい事…あって」

 両手で瓶を抱えながら、そうぼそりと呟いた声は空へと吸い込まれるように段々と小さくなって萎み消えていく。今思えば、広いとは言えないこの空間にこの店の看板娘である彼女と二人きりになるという状況は今までにもなく、面と向かって話をする事も初めてだったかも知れない。そこはかとなく、今は不在のチビガールと姿が薄らと重なって気付いた時にはもうそのオレンジ色の頭をそっと手のひらで撫でていた。すると、不安そうだった顔が次第に解れてゆき、頬が照れ臭さでほんのりと赤く染まっていく。

「…どうせ、あの二人の事だろう」
「は、はいっ」
「俺でいいなら聞く。何があった」

 被っていたサファリハットをテーブルの上に置き、腕を組みながら未だ減っていないコーヒー牛乳を見下ろす看板娘を細めた目でじっと見つめる。長らく火が消えたように静けさを迎えていた中、やはり自分相手に相談する程に信頼は寄せられてないのかと思い、諦め気味に席を外そうと腰を上げた直後、袖を掴まれ体を引っ張られては再び視線を彼女へと戻すと、潤んだピンク色の瞳が確かにこちらを見上げて声を上げていた。

「マゴにっ、マゴにいとヨリちんが、あたし、どうしよう…」

 不安そうに小さな手で握り締めながら、胸に込めたもやつきを必死に振り絞るように吐き出した。
 ごくりと息を呑みながらその口から零れたのはやはりあの二人の名前で、彼女が二人が何かしら違和感のある妙な雰囲気を醸し出しているのに気付いたのはつい先日の事で、いつもなら冗談混じりに交わす会話もほとんどなく必要不可欠の淡白な話題しかお互いに話そうとせず、遠回しに様子を伺うもなんでもないと押し切られるばかりで、どうしていいのか分からないまま現在に至る。そして、余所余所しい状態になっている理由に思い当たる節はなく、そのせいもあってか下手に口を出す事が出来ずにいるせいか、何もできない自分の無力さを感じて責めた結果が今、という訳だった。
 実はというと、店に度々足を運んでいる自分も最近になって彼らの様子が少々おかしいという心当たりは多々あった。店主である彼に冗談混じりでちょっかいを出してもいつものように口出しする事なく、それどころか気付いてさえいない時もあれば目が合ってもすぐに逸らされる事もあり、腰に指を刺された側もどうも意気消沈している様子で、なにかと弄り甲斐も感じず、その日はすぐに用事だけ済ませては店を後にした。直接話を聞かない限り確定は出来ずとも、唯一察知する事が出来たのはどちらかが一方的に悪いという話ではなく、恐らく互いに擦れ違った何かが状況をこじらせている様にも感じた。

「…何か、変わった事はなかったか」
「え、っと…そう、だなぁ。いっこだけ、気になってる事、ある」
「何でもいい、言ってみろ」
「うんと、ね…なんか、ヨリちんがね…すごく元気ない。マゴにいよりも、ずっと」

 言われてみてそういえばそんな光景を数日前にも見た記憶がある。休憩所のソファーの真ん中にどかりと座り込み、頭を抱えては聞こえない程度の小さな声で暗い表情を落としながら何かを呟いているオクタグラスの彼を見かけるも、あまり関わると碌な目に遭わないと直感し、気付かれる前にその場から離れてしまったものの、もしかしたらその時もそれなりの理由があったのかも知れない。
 現時刻は既に夜更けを迎えており、店主は居間で家計簿とにらめっこをしていて、その恋人(正式に付き合っていると言われた覚えはないが、なんとなくその雰囲気はある)は先程風呂から上がる際に擦れ違っており、今頃はゆっくり湯船に浸かっている事だろう。

「……そう、だな」
「え?」
「少し、俺に任せて欲しい」

 その瞬間、突如として思い浮かんだ名案ににやりと口角を上げ、空っぽになった瓶をテーブルに置いてはサファリハットを深く被り直し、不思議そうにコーヒー牛乳に口をつける看板娘の頭をそっと撫でた。

「アイツが風呂から上がってきたのを見かけたら、ココへ来るように言ってくれ。出来るか?」
「あっ…うん、大丈夫。できるよ。それから、あたしはどうしたら?」
「…お前はあの人の心配だけしていればいい。後は俺がどうにかする」
「…! うん、分かった」

 力を込めて告げた言葉にようやく明るさを取り戻した彼女はいつの間にか空っぽになっていた瓶をゴミ箱へ投げ捨てると、驚く程の速さで番台へと繋がる細い廊下を走り抜けていった。

(素直に俺の話を聞くとは思えないが、まぁ…なんとかなるだろ)

 彼女の颯爽としたその背中に思わず笑みを零しそうになって、未だに気落ちしたままであろう年上のボーイの来訪を待ちながら、ジップアップカモのポケットに片手を突っ込み、ソファーの真ん中にどっかりと座り込んで残りのイチゴ牛乳を一気に飲み干した。


(2017.07.17)



‐ ‐ ‐ ‐ ‐ ‐