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頭の中も胸の奥もいっぱいいっぱいで、周りの事など考えている余裕はなかった。ここ数日間一つの事で頭を悩ませていたせいで、誰がどのようにどんな目で自分を見ていたかさえも気にする暇もなく、気付けば男湯の暖簾をくぐった直後に、目の前で自分の名を呼んだ看板娘が無理矢理に背を押して休憩所へと押し込んできた。なんだなんだ、と文句を垂らしつつ無言で尻を叩いてくる彼女を止める術などなく、突き飛ばされた先には嫌でも脳に焼きついて離れない存在となってしまった年下のサファリハットのボーイの姿があり、悠々としたその態度に精一杯な自分と思わず比べてしまったものだから尚更苛立ちが募った。
閉店間際の、しかも一人ソファーを占領しているその態度も気に食わず、目の前に立ち尽くしては一つクレームを入れてやろうと睨みを効かせて怒号を飛ばそうとした時、がっしりと腕を掴まれ引き込まれたかと思えば危なく彼の胸の中へと倒れそうになり、必死にソファーの背を掴んではその重力に抵抗する(死んでも抱き留められるなどされたくはない)。サファリハットのすぐ脇に急接近した顔、どうにか距離を置こうと一歩後ろに下がろうとしたその瞬間、ゆっくりと彼の顔が近づいてきたかと思えば、耳元に寄った口元がぼそりと低い声で囁いたのだった。
「…来い。話がある」
ぞわりと体が震える程にドスの利いた声が脳を凍らせて、掴まれた腕はそのままに返事を待たぬまま店の外へと連れ出される。何処へ行くのかと問い質したところで返事など返ってくる訳もなく、嫌々引き摺られながら連れて行かれた先は見覚えのない古いアパートだった。鉄製の錆びた階段を渋々上り、最早元の色が分からない程に日焼けした扉の鍵を開けてはぎりぎりと嫌な音を立てながらドアノブを押し回した。
「入れ」
「は? あ、はい…」
いつも以上に威圧感のある重厚な細い視線に貫かれては大人しく頷く他ない。意外にも片付いた玄関で履いていたクツを脱ぎ、細い廊下を辿るように恐る恐る一歩ずつ前へと進めば、それなりに広いリビングとその中に真っ黒なソファーベッドが佇んでいた。無言で引っ張られながら踏み入れた先でそこに座っていろと指示を受け、ここは仕方なく不服な表情を浮かべながらもその黒へと腰を下ろした。
対角線上に置かれた割と大きめのテレビ、そして仕切りを挟んだその裏のスペースの台所でヤカンが沸騰している吹き抜けた甲高い音が鳴り響き、こぽこぽと液体が注がれている柔らかい波音と香ばしい匂いがつんと流れては鼻を掠った。
「変なモン入ってねぇだろうな」
「そんな事をして何になる」
「…ま、それもそうか」
手渡された湯呑を素直に受け取り、ちょうどカラカラに乾いた喉を潤すように綺麗な抹茶色の緑茶を口に含む。目の前に立ち尽くすジップアップカモを着こなし両手をそのポケットに突っ込んだ彼は、座り込むこちらを見下ろしては本来の目的である話とやらを唐突に問い質してきたのだった。
「単刀直入に聞く。何があった」
「は? 何が、って何だ」
「…あの子が、子供ながらに心配してる。あまり、気を遣わせるな」
「……チッ。そういう事かよ」
今のたった数回の会話で彼の意図する考えを大体察し、そういえば当の本人たちよりも妙にそわそわとしていた彼女の態度をようやく思い出しては無意識に舌を打った。
小さい子供の割には周りの空気や環境、状況の変化に敏感な彼女は意外と薄っぺらい嘘ではいつも隠し通せずにいる。逆に言えば自分と幼馴染である彼が嘘をつくのが下手なだけなのかも知れないと言えど、最近の自分達の行動を顧みてみればその違いは恥ずかしながら一目瞭然とも言えた。
そんな自分だけで精一杯な自分が情けなくも、一人で解決するにはあまりにも経験が浅すぎる自体に頭を悩ませていたのは事実だった。年齢的には年下だが、恐らく同性同士の情事に関しては彼らの方が先輩である訳で、その最中に起こりうるアクシデントも既に経験済み、そしてこちらの事情を知っている数少ない知人であるという事実は相談する相手としては打って付けである事に間違いはない。
(つっても…こんな悩み、他のヤツになんか言えっかよ)
本音を言ってしまえば、誰かにぶちまけてしまいたいくらいに自分自身を追い詰めている自覚はあった。何度一人で考えたところで答えなど出るはずもなく、ああでもないこうでもないと回り回って結局始めに戻っては再び同じ事でぐるぐると複雑に絡まった悩みは消える事はない。
第一、実際の解決方法など一つしか存在しないというのに、自分はここで一体何をしているのかと自己嫌悪にさえ陥っていく。
「…引くぞ、きっと」
「店に行きにくくなるより、余程マシだ」
「あ、っそ…」
年下の、しかも十以上も離れている(個人的に少し敵対視しているつもりの)若いボーイに弱音を吐く事自体堪らないというのに、しかし、思い付く限りではここで唯一の理解者に対して全てを話すしか道はもう開けないのだと、心どこかで自身に対して訴えているのが嫌でも分かった。相反する気持ちがせめぎ合う中、断腸の思いで喉まで引っ掛けていた詰まる言葉を覚悟を決めてついにそれを彼へと吐き出した。
「……この間、初めて、だった」
「というのは、つまり」
「だから、その…あぁもう、そこは察しろよ! 全部、俺のせいなんだ。だから、あんな…」
「…やっぱり、まだ引き摺ってるのか」
「まだ、って…何で、お前…! アイツの、何を…」
人生で一二を争う程に勇気を出してぶつけた言葉に対する返事はあまりにも想像を反していて、しっかりと耳にしているはずなのに情けない面構えのままつい何度も聞き返してしまった。淡々と衝撃的な言葉を述べてのけた彼は、見開き慌てふためく自身と比べて実に落ち着いた態度を見せ、そっとその細い赤色の瞳をサファリハットの鍔で隠しながら答えた。
「…あの人に、俺が一度触れた日があっただろう。その時の拒否反応で、何かしら他人に触れられる事に関して嫌な記憶が強く残っているというのは、少なからず察した。それも、割と最近に出来た傷、なんだろう?」
「そ、それは…でも、だからって!」
「…分かるさ。いたからな、似たような経験をしているヤツが」
伏し目がちに遠いどこかへ視線を逸らしながらそう呟く彼の表情はどこか重く、何かを思い出すように瞳を濁らせては瞼を閉じ黒の中へ落ちていった。今この瞬間に彼が誰の事を思っているのかは自分には分からない。しかし、低く重厚な声に含まれた意味のある言葉に嘘が含まれているとは到底考えられず、実際にその身に起きた経験から何かしらを勘付く事の出来る彼が今の自分にとっては羨ましいとさえ思えた。
潤したばかりの喉が知らない間に再びからからに乾き始め、もうほとんど中身が残っていない湯呑みを一気に飲み干しては、やり場のない怒りをぶつけるかのように音を立ててテーブルの上に叩きつけた。
「…だったら、どうすりゃいいのか言ってみろ! 俺は、アイツの傷口に塩塗ってまでセックスなんてしたくねぇんだよ! アイツの…マゴの、あの時みてぇな今にも死にそうな顔、俺は二度と、見たくな…うおぉっ!?」
悔しさに危うく涙で視界が滲みそうになり、しかし彼の手前、そんな限りなく恥ずかしい姿を見せられるはずも無く、寸での所で引っ込めようと体全体に力を入れたその時だった。ぼやけた視界が突き飛ばされた衝撃で弾け飛び、気付けば既にソファーベッドへと自分より少しばかりガタイの良い彼が体の上に伸し掛かってきていた。体重と力の差であるのか、退けようとするもビクともせず、股の間にずいずいと差し込まれる太い足が自然と両足を外側へと広げていった。
「え、あ、う、ちょ…な、何して」
次第に薄い影と共に近寄ってくる細い赤い瞳とぶつかっては押さえ付けられた体がより一層硬直していく。何のつもりだ、と喉に詰まった文句を無理矢理引っ張り出すように吐き出せば、暗くなった視界の中で鼻の先にサファリハットの鍔が触れた瞬間、そっと優しく触れるように大きな手のひらで頭を撫でられた。
「テメェ、この…どういうつもり…」
「まずは、優しく頭を撫でてやれ」
「は…?」
あまりに予想だにしていなかった彼のその行動に何も言葉が出ない。身動き一つも取れず、その間にも体勢を崩さないようにソファーベッドの足を掴んでいた手さえ重ねるように握り締められ、がっしりと固定されてしまい本格的に逃げ場のない状態に陥ってしまった。動揺を隠せないままでいる一方で、眉間に皺一つ寄せずに体重をかけてくる威圧感に堪らず、微かに震えた声をなんとか絞り出しては必死にその不満を訴えた。
「っ、き、もちわりぃな! 離れろよ!」
「…適度な力で手を握って、しっかりと耳元で名前を呼ぶ事。安心すればする程、向こうから次第に握り返してくる。時間は掛かるだろうし、根気も必要かも知れないが…きっと、上手くいく」
「お、お前…」
「…大事な人、なんだろう。アンタが支えないで、誰があの人を支えるんだ」
威勢がいいだけの言葉である事くらいとっくにばれていた。
顔を合わせる度に喧嘩腰になり、まともに話した事さえない相手に対してどうしてここまで考え背中を押してくれるのかは分からない。しかし、射すように自身を貫く赤の奥に潜む、決して冗談ではない強い思いが告げられた言葉の中に含まれているのだけは確かだった。
「…ったく、知ったような口利きやがって。それと、いちいち近いんだよ! 教えるなら口で言え、口で!」
「言葉が足りてないのは、お互い様だろ」
「うっわ、むっかつく…もう二度と相談なんかしねぇ…」
いつものように、人を小馬鹿にしているかのようなにやりと怪しく笑うその表情が、今日だけは不思議と苛立ちを生み出さず、小さく溜息を吐きながらがっしりとしたその胸板をフク越しに殴っては、いつまでも覆い被さってくる体を押し退けたのだった。
「礼なんて、言わねぇからな」
「俺が勝手にした事だ。そんなものが欲しかった訳じゃない」
「あ、っそ…。なんつーか、ほんと…生意気な老け顔ボーイだよ、お前は」
***
こんなにも胸の内がスカスカのまま、毎日を怠惰に過ごしているのはいつ以来の事だろう。幼馴染でもある彼と一月程前に恋仲へと発展してからは、少なからず一度も無かっただろうと確かに記憶している。しかし、たった一度、過ちを犯したあの夜を境にこんなにも心が離れてしまっている状態が続くとは思ってもみなかった。原因など一つしかない。そんな事は前々から分かりきっているというのに、どうすれば彼に許してもらえるのか、という事だけは何度頭の中で考えたところで結局一つも見当がつかなかった。
それでも、以前と違って突然店から姿を消すという事態に陥らなかった事に関しては心から安心したものの、普段以上に会話は弾まず、仕事中にも目を合わせたと思えば逸らされ、夜も気付けば自分よりも先に就寝している為、まともに会話をする事さえできていない。そんな余所余所しい雰囲気を感じ取ったのか、自覚がある程に暗くなっていく自身のせいで変わってしまった場の空気に敏感に反応をした看板娘が、溜息をつきながら家計簿と向き合う自分の頭をよしよしと撫でてくれて、危うく涙が溢れそうになっては寸での所で止めた。
夜中だというのに廊下の先で何やら揉めている声を居間でペンを握りながら聞き耳を立てていると、しばらくしてそのがやついた声も無くなり、恐らく常連客であるサファリハットの彼とどこかへ外出していったようだった。真夜中に店を飛び出していった彼を呼び止める勇気などなく、顔を合わせる度にぶつかり合っていた二人が珍しく一緒に出掛けたという事実に胸が温かくなるも、どこかちくりと刺すような痛みが帯びて無意識に手のひらでそっと撫でた。
「…マゴにい」
客足も少なくなり、そろそろ店を閉めてしまおうと思った矢先。風呂に入ってほかほかの体で帰って来た看板娘が、そっと襖を開けて足音も立てずに部屋へと入り、ぴったりと体をくっつけるようにすぐ側へと腰を下ろした。じんわりとフク越しに伝わってくる体温が軋んだ心を潤してくれているようで思わず笑みを零すと、ずっと下を向いたままだった彼女の顔が少しばかり輝き、寄り添うようにこちらへ体重をかければそっと瞳を閉じた。
「隣りにお布団、敷いてあるよ」
「やだ。ここがいい」
「一人じゃ、寂しいのかい」
「…そんな事、ない」
「だったら、」
「…マゴにいが! 元気に、なるまで…一緒にいる」
「……リンちゃん」
頑なに首を横に振り萎みゆく言葉を零しながら、小さな手で必死に腕を握り締める彼女の優しさが身に沁みた。その体をそっと抱き上げ、胡坐を掻いていた体を一歩分後ろに下げては、組んだ足の上にそっと座らせてやる。温まった掛け布団へ一緒に入るように掛けてやり、胸の中に納まった彼女の腰に腕を回してはぎゅっと惜しむように力強く抱き締めた。
「うえっ、苦しい〜」
「あ、ごめん。つい…」
「それ、セクハラって言うんですよ」
「…なんだか、そんな台詞前にも聞いたなぁ」
くすぐったそうに体を捩らす看板娘の懐かしい冗談で、いつの間にやら随分と流れていた時間の経過の速さに酷く驚いた。彼女と初めて会った日の事、まだ警戒心が取れずに触れる事さえ出来なかった間もない日、大ケガをしながら店へと突然転がり込んだ、十年以上も音信不通だった幼馴染との再会と、その日から始まった三人での新しい毎日。期間で言えばたった数ヶ月かも知れない。しかし、今まで生きてきた中で断トツに時間を忘れるくらいに楽しく充実した、そして、百八十度人生が一転する程に衝撃的な事件と奥底に沈んでいた本心の成就を経て今がある。
人生の中で起こり得る全てのイベントを一気に体験してしまったような、それくらいにどたばたと巻き起こった数奇な出来事を思い出しては、よくもまぁ今日という日までこの命が保たれているものだと感心してしまった。
そんな感慨深く思い出に浸っていると、胸元に背を預け寄り掛かりながら見上げた看板娘が、じっと瞳を見詰めながら突然ぽろりと言葉を零した。
「…あたしね。マゴにいと出会えて、ほんとに幸せなの」
「俺もこうしてリンちゃんと毎日いられて幸せですよ」
「でもね、あたしは、いつかいなくなっちゃうから…」
「何、言って…」
「だからね、マゴにいとヨリちんにはね、ずっと…仲良しで、いて欲しいのっ…」
大きなピンク色からじんわりと溢れそうになっている涙を、部屋着のFCジャージーの袖で優しく拭き取ってあげる。じんわりと染みた黒い臙脂の後を握り締めて、もう片方の手でそっと丸出しになった額を包むように撫でた。
「…ごめんね。もういい年した大人なのに、リンちゃんには心配掛けてばっかりだ」
「っ…ううん、いいの。だって、二人がいるからあたし、毎日がとっても楽しいだもん。たまには、恩返し、したいよっ…!」
「…全く、もう。相変わらずおませさんだなぁ、君は」
彼女にずっと気に掛けられていたのは実は知っていた。一夜を境に空気がどよめき始めた二人の間で、訳も分からず右往左往している彼女を見るのはとても辛く、その上事情が事情であった為、碌に本当の事を言えるはずも無く、何の解決策も見つかっていないにも関わらず、ただただ大丈夫だと答える事しか出来ない自分が嫌だった。
それを察していた彼女も深入りはしようとせず、遠くで見守ってくれてはいたものの、さすがに今の状態が何日も続いているものだから不安にしていたのかも知れない。迷惑を掛けるまいとした事が、返って気を遣わせてしまう事態がまた彼女の涙を溢れさせてしまって自然と胸の奥がずきずきと痛んだ。
(もう、悲しませないって、決めたのに)
もしかしたら、彼女をこんなにも涙もろくしてしまったのは自分たちのせいなのかも知れない。そう罪悪感で身に染みる反面、腹の底から生まれてくる嬉しさには抗えず、つられて込み上げてくるものに目頭が熱くなった。
(…逃げたら、ここで終わりなんだ)
彼女の為にもこのまま何もしないままでいる事など到底出来なかった。一度立ち止まってしまった場所から背中を押してもらったかのような、搾り出すように情けないくらい震えながらもどうしても声に出す事さえ出来なかった覚悟を振り絞るように零した。
「…ヨリと、もう一度向き合ってみる」
「ほんと?」
「うん。でも、自信はちょっとない。けど、やれるだけの事はしたいから」
「うへへ…マゴにいは心配性だなー。大丈夫…絶対、大丈夫だよ」
あのヨリちんがマゴにいの事嫌いになる訳ないもん、と自信たっぷりに続けた彼女の言葉の力が動けずにいた体をようやく解してくれている気がした。
彼が店を出て一時間が経過した今、台所の勝手口が鈍く開いた音が襖越しに聞こえて思わずびくりと体が一瞬震え、しかし手を握っていてくれた彼女の手の温かさに大きく息を吐き静かい心を落ち着かせていると、途端に立ち上がっては奥の居間へと向かう背中に慌てて声を掛けた。
「リン、ちゃ…」
「あたし、眠いからもう寝るの。朝まで起こさないでね。おやすみ、マゴにい」
「えっ、あ、はい…おやすみなさい」
大きなあくびを垂れ流しながらそっと襖を開けてその隙間から暗がりへと消えていった彼女は、数分もしないうちにその中からすうすうと抜けるような寝息を零していた。眠かったにも関わらず話に付き合わせてしまった事を心の中で謝りつつ、もうそろそろ居間へと帰ってくるであろう、トイレへと向かったらしい彼を待ちながら、人気のなくなった台所でひとり、水の入ったヤカンに火を掛けた。
(…ありがとう)
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