「あの、その、ほんとにすみません…」

 軋んだような引きずる音を立て、そう低いトーンで暗く落ち込みながら少量の荷物を抱えて頭を下げた彼らが店へとやって来たのはその日の夕方、まだ店が開店する前の事だった。今から三十分前に滅多に鳴らない黒電話がジリジリと廊下に響き渡り、居間で茶を飲みながらチラシのゴミ箱を織り込んでいたものだから、慌ててコタツから足を抜いて小走りで傷だらけの受話器を手に取った。すると、掛けてきたのは今目の前で目を泳がせながら立ち尽くすガチホワイトを着たボーイで、一言で言うならば、今夜いっぱいは停電で何も出来なくなってしまったのでよかったら泊めてもらえませんか、というなかなか深刻な相談であった。不幸中の幸いというべきか、古い割には意外と広い店だったので、普段は物置になりつつある奥の居間ならばいつでも空いている。ただ、幼馴染であり今では恋人でもあるボーイが時より遊びに来た時にだけ、看板娘と川の字になって夜就寝する事もあり、手前の居間よりも少しだけ広い奥でゆっくりと眠る日もあるけれど。とはいえ、いつ店に顔を出すかも分からない気まぐれな彼も、今夜は店へと出て来そうにはなかった為、空き部屋になっている奥の居間を今夜だけ貸してあげる事にしたのだった。
 当然一人だと思っていたのだが、何故だかその背後にはサファリハットを被ったジップアップカモのボーイも傍に立っており、所謂こんな不特定多数のインクリング達が出入りする店に一人置いておけないという理由で、くっつき虫のように彼の後ろを付いてきたらしい(意外と心配性なんだなぁ)。
 泊める人数が一人から二人になろうと大した影響はなかったものの、布団は自身のものを合わせて三枚しかなく、客に畳で寝かせる訳にもいかないのでその内の二つを貸し、看板娘に今夜は一枚の布団で一緒に寝ようと提案したところ、いつの間にやらサファリハットを被った彼のお姉さん(てっきり一人っ子かと思っていた)の家にユウマくん達と三人でお泊り会をするとまで話が勝手に展開していたらしく、結局のところ、今夜は一人涙で枕を濡らしながら一夜を過ごす事になると知り、あまりの寂しさに思わず大きな溜息が漏れた。

「ご覧の通り、あんまりきれいじゃないけど…大丈夫?」
「い、いえいえ! 泊めて頂けるだけで十分ですっ」
「あぁ、そう。でも、何でウチなの? マサキくんち、泊まればよかったのに」
「あぁ…それが、その…」
「完全にガスが止まった」
「ので、出来ればご一緒に、だそうです」
「……引っ越ししたら?」

 そんな身も捩れるようなひもじさは、以前本人からもそういえば何度か既に聞いていた話だった。マサキくんの住むアパートは少々建物にガタがついているらしく、きちんと公共料金を支払っているにも関わらず、度々不調の時もあって今日のように完全にガスが止まってしまう日が少なからずあるらしい。その欠陥が存在している事により、店へと顔を出してくれる回数が尚更増えているというのであればこちらとしては儲けが増える為、悪い事ではないのだが、さすがに本人を前にそんな事は言えないので心の中でのみ小さく呟いておく。
 休憩所と台所が側に並ぶ廊下を抜け、手前側の滑りの悪い居間の襖をがたがたと開けては奥へと進み、押し入れから最近購入したばかりの緑色の薄い布団を取り出して二つ並べるように居間の真ん中へ敷いた。

「あ、あの! 一枚で、一枚でなんとかしますから!」
「へ? あ、いや、俺はコタツで寝るからいいよ。最悪、リンの使えばいいし」
「いや、でも…」
「まぁまぁ、たまには甘えてくれよ。普段から世話になってるしさ、そのお礼って事で」
「寧ろ、こっちがお世話になってるんですけど…。なんだか、何から何まですみません…ほら、オマエも!」

 年相応に眉尻を下げながら慌てて頭を下げるヒナタくんとサファリハットの陰で、無表情のままに無理矢理後頭部を押されているマサキくんを見て苦笑しながら、自分の家だと思って自由に過ごしてもらって構わないとだけ告げて部屋を出た。すると、途端に襖越しに聞こえてくるヒナタくんの小さな怒号がぶつぶつと聞こえてきたので、まるでお母さんみたいだな、と有りもしない記憶のイメージがふと沸いては一人ほくそ笑む。
 よくよく考えれば普段は遊びに来るだけの友人が自分の住んでいる家に泊まっていく、という幼少時にはよくある遊びと似たものを体験するのは初めてのような気がする。幼馴染とは養護施設で共に暮らしていたので友人というよりは家族に近い感覚が強く、看板娘も本当の娘だと思いながら毎日この店で共に住んでいる為、友人という言葉にぴったりと当て嵌まる存在は彼らが初めてなのかも知れないと今更ながら気付いた。そう思うと、何故だかわくわくした気持ちが沸々と湧き出て、今までに感じた事のない胸の高鳴りが普段は絶対に有り得ないサービス精神を掻き立てたのだった。

「あ、お風呂。今日はタダでいいよ。好きな時に入って」
「え? あ、でも」
「夕飯も後で一緒に食べよう。大したものないけど、ごちそうするよ」

 がさがさと荷物を取り出している音が聞こえる最中、襖越しに飛ばした声に反応を示したヒナタくんは今頃再び頭を下げているであろう、申し訳なさそうにそう答える彼は大食感であるとマサキくんから既に話を聞いていた為、冷蔵庫の中身が空っぽになるのを覚悟に、居間を出た先の冷たい廊下を歩きながら今晩のメニューを浮ついた頭の中でいくつも並べていた。


***


 今夜は珍しく調子が良かった。
 いつもなら散々な成績で負け越ししてしまう日も多く、時間を掛けた割には大した儲けも出せずに泣き寝入りする日もあったというのに、今日は共に戦った仲間の強さもあってか、負け一つなく無事目標としていた金額を達成する事が出来、ちょっとした懐の余裕もあったので近くのケーキ屋で買った三つ、ショートケーキの入った小さな箱を下げながら幼馴染の銭湯へと向かった。
 店に泊まると連絡を入れずに顔を出すのは日常茶飯事の事で、互いにそれが当たり前だと思っている節もあり、面倒な性格が祟ってか事前に伝えておくという習慣は根付いていない。
 大分使い慣れ始めた生身のままのホクサイ・ヒューを肩に担ぎ、もう片方の手にはケーキの入った白い箱を持って、街灯のほとんどない暗い道をとぼとぼと歩いてはようやく視界に入った古い門構えに、自分でも驚くくらいに足取りは軽くなっていく(単純すぎる、だなんて野暮な事は言わないで欲しい)。
 中から漏れた灯りがやんわりと玄関を優しく照らし、がらがらと引き戸を開け放ってはブラックビーンズを脱ぎ捨て、箱が偏らないように且つ内心幼馴染と看板娘の喜ぶ顔を想像しては高鳴る胸に歪む口元を抑えつつ、すかすかの冷蔵庫にそっとその箱をしまった。一日中バトルに徹していた為、風呂で汗臭い体をすっきり清めようと思い、まずは持っているホクサイ・ヒューを片付ける為に店の奥にある倉庫へと繋がる廊下に足を踏み出した瞬間、すぐ側の居間から普段では有り得ない程の高らかな笑い声が響いた。

「な、なんだぁ?」

 襖を挟んで聞こえてきた複数の声はどうやら普段から聞き慣れているものばかりのようで、しかしどこか浮ついた軽さが妙に耳に焼き付いた。嫌な予感がして躊躇う事なく一気に襖を開け放つと、あまりこの部屋では嗅ぐ事のないはずだった、鼻を摘みたくなる程のつんとした臭いが鼻を掠った。

「あれぇ? ヨリだぁ、おかえりー」
「は?」
「あ、お、お邪魔、してますっ」
「へ?」
「先に風呂でも行ってきたらどうだ。酒は残しとく」
「え、何?」

 既に頬が赤い幼馴染に、箪笥に入っていたバスタオルと一枚部屋着用に買っておいた着替え一式を纏めて投げ付けられ、その隣りでガチホワイトを着ているボーイが青ざめながらも心配そうな目でこちらを見上げているかと思えば、すぐ目の前で背を向けちびちびと酒缶に口をつけていたジップアップカモのボーイがこちらに振り向くと一言、相変わらず腹の立つ言葉を何の戸惑いも無くぶつけてきたのだった。

「汗臭い。早く風呂に入れ」
「…うっせぇ、アホ! 行きゃいいんだろ、行きゃあ!」

 絶望的とも言えるこの光景にあれだけうなぎ上りだったご機嫌は一気に地へと落ち、それどころか坂道を駆け下りる勢いで底なし沼へと沈んでいく感覚に思わず溜息が零れた。渋々渡された着替えとタオルを小脇に抱えつつ、いつの間にか店自体は閉めていたのか(しかし玄関は開けっ放しだった。無用心すぎる。後でもう一度強く言い聞かせておこう)、人っ子一人おらず狭くもなく広くもない風呂のシャワーを手に取って適当に体中の汗を流してから、ざっぷりと湯気立つ湯船の中に体を浸からせて胸の奥から大きく息を吐き、真っ白にまみれる天井を見上げては静かに目を閉じた。そしてふと、先程の到底信じられない非現実的な状況を思い出して、一体どうしてあんな地獄絵図と化してしまったのかを冷静になって考えてみる。

(酒、入ってたよな…完璧に)

 他の二人の事はよく知らないが幼馴染だけは以前から妙に酒が強い事は知っていた。過去に何度か二人で外で飲んだ経験もあり、しかし互いに酒飲みそのものに執着もあまりなく、軽く嗜む程度でしか杯を交わした事もなかった為、その人の雰囲気に変化が現れる程長く飲み明かしたのは今までで一度もなかった。
 しかし、あの様子を見るからにどうやら泥酔と言うべきラインをゆうに超えているようで、普段以上にとろけた彼の優しい灰色の瞳が脳内に焼き付いては思い出す度に危なく変な声が出てしまうところだった。

「はぁ…、今のはやばかったなー…。ちょっとだけ」

 我ながら、幼馴染が関わると自覚がある程にちょろい。無意識に湯船の水面から底へと沈んでいった右手が下半身へと伸び、気付けば既に膨張し始めていたそれをゆっくりと扱き始めていた。

「…ハッ! んな事してる場合じゃねぇ!」

 ニ、三度上下したところで一人ぼうっとしていた事に気付き、これはさすがに駄目だろうと思い直しては慌てて風呂場から飛び出して、適当にバスタオルで体を拭きロッケンベルグTブラックとグレーのスウェットを履いては脱衣所を飛び出しては、その先の居間へと繋がる廊下を風のように走り抜けた。

(何であんな状態のアイツを放っぽって俺はのんびり風呂入ってんだよ、バカ!)

 二人きりではない上どうやらこちらと同じ意味で向こうの二人もお付き合いをしているらしい事もあり、そんなまさかという状況に陥るとは考えにくいと思いつつも、なんせ三人とも酒が入っているものだから先の展開が未知数すぎて不安で仕方がない。特に様子のおかしかった幼馴染が、何かしらのアクシデントを引き起こしかねないのは一目瞭然だった。

「おんどりゃ畜生ッー! おいマゴ、大丈夫、か…」
「アウトッ! セーフッ!」
「よよいのよい! うわ、また負けた! ヒナタくん強いなぁ」
「あはは、それ程でも…」

 野球拳、していらっしゃる。
 先程と同様スパーンと部屋に響き渡る強さで一気に襖を力いっぱいに開ければ、居間の中は数十分前よりも散々たる状況へと悪化していた。倒してあったコタツ机は早々に壁の方へと押し退け、余った酒の入った缶やビンは床にいくつも陳列され、部屋の隅には既にうとうとと船を漕いでいるジップアップカモのボーイが襖を背に座り込んでいて、目の前には何故かスパッツのみを履いて上には何も着ていない半裸状態のボーイ(寸前まではガチホワイトを着ていたと思われる)とそんな彼に対峙するように立ち尽くす幼馴染は、今まさに最後の砦、黒のスウェットのウェスト部分に手を掛け脱ぎ捨てようとしていたところだった。

「約束だもの、仕方ないよね」
「いや、あの、別に約束はしてないですけど…」
「ふっふふ…見て腰抜かすなよ〜? 俺の下半身はいつの日からか、スペシャルゲージマックスのメガトルネードと呼ばれた事もあ…」

 ずり、と数センチ程をずり下げた瞬間、堪らず足元に落ちていた座布団を彼の顔面へと向かって投げつけ、危なく年下にお披露目してしまうところだった露出行為を強制的に止めた。変な声を上げながらそのまま後ろへと倒れた幼馴染と、それを眺めながら、あぁ、と同情の念を送るガチホワイトを着ていた今や半裸のボーイ、そして最早半分寝こけているその相方を見回しては、なんとか爆発寸前の怒りを収めつつ苛立ちを振り払うように鶴の一声を全員に浴びせたのだった。

「おっ…前ら、いいからさっさと寝ろー! マゴ、お前もバカやってんじゃねぇ! 今すぐこの部屋片付けるぞ!」
「あ、ヨリだぁ。おかえり〜」
「それはもうさっき聞いた!」

 危うく知人とはいえ人前で全裸になりかけた幼馴染の両肩を掴んではがくがくと揺すり、彼程でなくともなかなかの酔っ払いと化し始めた二人を奥の居間へと引っ張っては既に準備されていた布団の上へ投げ転がした。いだい、と小さく悲鳴が聞こえた気がするがそんなものを気にしている余裕は残念ながら今はない。
 幼馴染はというと、体をふらつかせながらも落ちたゴミをビニール袋に一つ一つ集め、燃えるゴミと空き缶を仕分けるだけの頭はまだきちんと回っているらしい。粗方片付けを終えて、欠伸を連発させている彼へとりあえず歯を磨いてこいと指令を出し、それに素直に従って台所へと向かった背中を見送った後、その間に部屋の隅に畳んでおかれていた布団(幼女の布団を使用するのは忍びないが今回ばかりは許して貰いたい所存)を居間の真ん中へと敷いた。怒りのあまり危うく忘れかけていたが、枕の脇にはしっかりと事を及ぼすのに必要なもの(紙とゴム(使用するかどうかは気分による)、これだけ言って分からないのであれば分からなくて結構)を並べて置いておく。

(…一応怒ってんだからな、これでも)

 別段誰が悪いという訳ではなかった。今胸の中でもやついているこの感情は、もしかしたら自分のただの我儘なのかも知れないという自覚はある。それでも、このまま何もせずに黙ってみている事なんて到底出来る訳がなかった。
 そんな邪な気持ちで待っている事、数十分。ただの歯磨きにしてはあまりにも長い。もしかして歯磨きをしたその足でトイレまで行ってしまったのだろうかと思い、恐る恐る廊下を抜けた先にある小さな扉のドアノブを握ってそっと手前に引いてみれば、電気は付いていたものの何故かカギは掛けられておらず。

「…ぐぅ」
「は?」

 ごくりと息を呑んだその先に籠っていたのは、すっかり気持ち良さそうに便器の上に座りながら腕を組みご就寝されていた幼馴染で、そのあまりに安らかすぎる寝顔になんとか保っていたはずのセーフティラインを、ものの見事に怒りのボルテージがぶち抜いていったのだった。

「こんのッ…アホンダラァ!!」




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