埃臭い店内の真ん中にぶらりと一本の紐で吊り下げられた電球に淡く照らされている下で、人っ子一人いない木製のひび割れた古い小さなカウンターの上に肘をつき、もうすぐ姿を現すであろう客の予約席を眺めながら大きなあくびを漏らし、その来訪を静かに待っていた。
 大まかな場所は伝えてはあるものの、看板もなく入口も小さい上に地下へと続く細く急な階段を降りなければ目に映る事のない、中へと続く扉を見つけられたとしても店近辺をよく知らない者以外は店そのものが存在している事実さえ知らないだろう。もしかしたら今日中には会えないかも知れないと、そんな一抹の不安が胸に過ぎったその時、錆だらけのドアベルがカランカランと狭い空間に小さく鳴り響いた。

「お、きたきた」
「…あ、えと、その…お邪魔します」

 数メートル先でゆっくりと音を立て開いた扉の先には、知人の幼馴染であるエゾッコメッシュを被った年上のボーイが恐る恐る中を覗いては弱々しい視線とそっとぶつかった。にこりと掲げた笑顔に気付いたのか、沈んでいた表情が少しばかり明るさを取り戻すと、一歩一歩砂まみれの床を踏みしめながら手招いたすぐ目の前まで歩み寄り鍔を上げて軽く頭を下げた。

「よく迷子になんなかったね」
「いやぁ…大分説明が雑だったし、まさかこんな隠れ家的なところだとは思っていなかったので、正直自信なかったんですけど…まぁ、結果オーライですね」

 ハハハと乾いた微笑みを小さく零しながら、カウンターを飛び出して用意しておいた椅子へと腰を下ろすように促しては向かい合うようにいつもの特等席へと早足で戻り、ぎしりと軋むレザーチェアのスプリングをしならせた。
 自身の経営している、まるで地下バーのような薄暗くレトロチックな雰囲気を醸し出しているこの店は、表面上ブキ修理屋として昼間は営み、閉店後の深夜帯は本業である仕事の仲介をする交流場として客同士が自由に利用できるようになっている。依頼人が求めている仕事をこなす事のできる存在を仲介屋である自分が探し出し、見つけ次第すぐに依頼人へと紹介して、そのまま承諾が出れば手数料としておこぼれの収入が入ってくるという仕組みだった。その後の事は客と客との交渉のみである為、面倒事に巻き込まれる心配もなく、元々子供の頃から治安の悪い街の裏方で生きてきた分、人脈の広さには自信がある事もあって非常に性に合った仕事だと思っている。
 日付が変更される直前である真夜中、日が昇る前には銭湯が自宅である彼を帰さなければならない為(どこかの誰かさんにバレたら大変な事になる)、前置きはなしに単刀直入ですぐさま本題へと入る事にする。

「で、だ。早速で悪いけど、例の件」
「あ、はい。色々とすいません、専門外なのに」
「いやぁ、この間もお世話になったしね。これくらい、どうって事ないッスよ。ただ、ちょっと今回のはね、俺の力不足ってのもあるんだけど…大した情報は見つけられなかったかな」
「…そう、ですか」

 明らかに気を落として俯く彼の様子を眺めているだけで自身の力量不足にこちらとしても少々悔しさが残るものの、決して何も収穫が無かったという訳ではない。一息つきながら、腰に巻きつけた黒のウェストポーチのファスナーを開けて奥にしまっておいた一枚の写真を取り出し、彼の目の前へとカウンター上に滑らせるように差し出す。
 それに気付いたのか、顔を上げてゆっくりと視線を伸ばしたその先で写真を視界に捉えた瞬間、澱んでいた灰色の瞳に強く光が灯され、今までの柔らかい雰囲気が嘘のように素早い動きでその写真を手に取り、突き刺すように目に焼き付けるその様子に思わず指を鳴らした。

「あ、ビンゴかぁ? ソイツにはちょっと自信があったんだ」
「こ、こ、これ、この、この写真、ど、どこで!」
「…んー。悪いけど、ここから先はビジネスの話になるぜ。俺だってボランティアでやってる訳じゃないからさぁ」

 慌てた様子で真っ直ぐに訴えてくるその視線ににやりと口角を上げ、すぐさま取り上げた写真を再びウェストポーチの中へ突っ込むと、ごくりと喉を鳴らした彼を前に自身の濁った調子の良い声が狭い部屋の中でするすると滑るように流れていった。

「カネがねぇってんなら、他に方法はあるぜ。どうする?」
「うっ…うーん。その、他の方法っていうのは…? …ええと」
「ダビデでいいよ。ボーダービーニーをもじって、ダビデ。みんな、俺の事はそう呼んでる」
「……それじゃあ、ダビデさん。ちなみに、なんですけど…あなたが持ってるその情報っていうのは、彼女が今現在どこにいるのか、というところまで、はっきりと分かるようなものなんですか」

 垂れた灰色の瞳をぎらつかせて不満げに問い質すその姿勢に小さく溜息を吐いては、今にも細い指先の爪を肉に食い込むまでに拳を握り締めそうになっている彼を宥めるように頷けば、ようやく喉元に詰まっていたものが溶けてなくなったように上がっていた両肩がすっと降りた。
 仲介屋兼ブキ修理屋であるこの真っ暗な店へと、彼自身が営んでいる銭湯で既に寝こけているであろう知人とあの小さな看板娘を置いて、彼がわざわざ真夜中に、しかも一人でこんな辺鄙なところへと訪れている事には勿論ちゃんとした理由が存在する。
 ボロ銭湯の一輪の花として客から親しまれているという看板娘のリンという少女と出会った日から、彼は突然姿を消してしまったらしい彼女の両親を探すべく、日々彼らに関する情報を少しでも掴もうと数少ない人脈を辿り調査を進めてきたものの、今までに大きな進展はなく、ちょうど当てがなくなってしまったつい先日の頃。知人であるヨリが命の危険に晒されたあの日に、彼と自分は初めて顔を合わせ(と、彼は思っているだろう。彼が祖父から銭湯を受け継いだ頃に一度だけ顔を出した事があった為、ただ単に忘れているだけで実際はその時が初めて言葉を交わした日と言える)、そして、知人から自分が情報屋兼仲介屋をしているという話を聞きつけたらしい彼から一週間前に依頼されていたのが、看板娘であるリンの両親の所在を知っている人を探し出して欲しい、というものだった。本来ならばその依頼を全うできる者を探し出し、代わりに調査を頼むまでが自分の仕事であるのだが、資料として見せてもらったロケットペンダントの中に収まっている若い夫婦の写真が目に映った瞬間、どこか見覚えのあるその二人の姿に何故だか今回ばかりは自分が探し捉えなければならない使命感に駆られ、それならばと了承してくれた彼の言葉に甘えさせてもらった。
 そして後日、溢れる人ごみの中でようやく探していた姿を捉える事が出来たのは、依頼されてから数日が経っていたある日にアロワナモールへと出向いた時だった。一瞬擦れ違って、確かに記憶の中の顔と一致したのを確信し、一人喫茶店の中へと入っていくその姿を手に持っていた携帯電話のカメラを向け、こっそりと一枚だけ収める。それが先程彼に見せた看板娘の母親が映った写真だった。

「大体の行動パターンは掴んでるよ。まぁ、必ず会える保証はねぇけど、張ってりゃいつか姿を現すさ」
「あの、それでも構いません。お願いします、教えてもらえますか」
「…じゃ、とりあえずカネの代わりのお手伝い、頼まれてくれるよな?」
「は、はぁ…あの、あまり、精神的に辛いものでなければ是非…」
「あっはっは! 勿論、そんな大層なもんじゃないよ。ま、ちょっと…慣れるまで大変かも知れないけど」
「うっ…い、嫌な予感がする…」
「とにかく、詳しい事は後日説明するよ。今夜はもう遅いし、そろそろ店に戻った方がいい」

 それじゃあ、と無理矢理に会話を押し切り、困惑した表情のままの彼の背中を叩いては、体勢を崩さぬよう必死に足場を確保しながら歩く彼を後押ししながら店の外へと追い出した。扉が閉まる瞬間、微かに開いていた隙間を通して投げつけてきた言葉に、隔たりの奥で嘆く彼へ仕方なしに返事をしてやると、安心したような温かい声で小さくお礼を言ったかと思えば、あっという間にその気配は地上へと出る階段を颯爽と駆け上っていった。

「…こいつは、久し振りに儲けもんになりそうだ」

 ぼんやりと照らされた暗い店内で一息、扉を背にして溜息をつきながらすぐ側のテーブル席に腰を掛け、ハーフパンツのポケットから小さな箱を取り出しては中の煙草を一本取り出し口に咥えた。傷だらけの銀のオイルライターのフリントホイールを指先で弾き、少々湿気た葉に火をつければあっという間に狭い空間は白で埋もれていく。
 次の日の昼、染み込んだこの渋く焼けた香りに一つ文句を言われるだろうと苦笑を落としながら、散りゆく細やかな灰をただただ呆然と見つめてはひび割れた天井を見上げていた。


***


「ねぇ、ヨリちん」

 雲一つない晴天のある昼前の日。まだ開店前である銭湯には居候である二人だけが佇み、店主である幼馴染から外出をする前に言いつけられていた風呂場を掃除する為、更衣室前で古いデッキブラシを握り締めた時だった。その命令を二人に下した彼は買出しに出掛けると言ってまだ戻ってはおらず、仕方なしに本日もまた言われた通りに風呂場の隅々まで力を入れて曲がる腰に手を当てながら、帰ってくる前には汚れを落としておかなければならない(怒られたくないので)。寧ろ、今となっては日常的に受け持つ事になっていたその仕事を熟さなければ今日一日が始まった気がしない、という認識にさえなってしまった程にしっかりと身に染みており、さっさと済ませて居間でゆっくりしながら彼の帰りを待つ事にしようと気合を入れていると、隣りに立っていた看板娘にそっと名前を呼ばれその小さな姿へ視線を落としては、特に何も深く考える事もなく軽い気持ちで言葉を返した。

「何だよ、幼女」
「あの、ね…ちょっと、気になってる事があるんだけど…」

 両手で握り締めていたデッキブラシを床に置き、壁に背を預けてずるずると床に沈んだ彼女を不思議に思い、順じてすぐ目の前に腰を下ろしては胡座を掻き、話し続けても大丈夫だと認識した彼女に対して静かに耳を澄ませた。

「あたしのね、勘違いかも知れないんだけど」
「別にいい、言ってみろ」
「あ、うん…えっと、その…マゴにい、最近、変だなって」

 眉尻を下げながら不思議そうに首を傾げてそう零す彼女の言いたい事は、自分もよくよく理解していたつもりではあった。
 幼馴染である彼の生活習慣は本来、寝溜めでもしているかのように開店ギリギリの昼過ぎまで寝ている事が多く、毎度看板娘の彼女に体の上へと乗られてはようやく目を覚ますような彼が、ここ数日は午前中には活動を開始し、何故だか毎日のように特に行き先を告げる事なく一人で外出をするようになっていた。どこか彼らしくないその行動に違和感を持ったのは自分だけではなく、彼女もどうやら同じような事を考えていたらしい。きっちり同じ時間には帰ってくるものだから、特に心配はないかとも思いはしたものの、こう連日続く状況となると、今彼がどこで何をしているのかくらいはさすがにそろそろ気になり始めてしまう。

「…お前はどう思うよ、幼女」
「うぅん…気にしすぎのような気もするけど、なんというか不思議で仕方なくて」
「まぁ、そうだよなぁ…」

 基本的に夜型の幼馴染が普段とは真逆の、寧ろ規則正しい生活を毎日のように送っている時点で何かしら異常をきたしているのは間違いないのだが、言ってしまえばこのまま体たらくに過ごしていた日々を改善しようとしているだけなのかも知れないと考えると、このまま本人の意思を砕かぬよう放っておいた方がいいのではないか、とも思い、下手に手を出せないままに数日が経過してしまった。
 どういう意図で生活改善のような素振りを見せているのかは、彼自身が話さない限りは分かったものではないが、行き先が不明なままでは少々不安が残るのもまた事実で。

「つっても…どこ行ってんだか分かんねぇし、探しようがねぇよな…」
「そう、なんだけど…」
「なんだ、心当たりでもあんのか?」
「んー…実はね、お客さんからちょっと、変な噂を聞いた事があって…」
「噂、ねぇ…」

 首を傾げながら唸りを上げる自分に乗じて小さく溜息を漏らす看板娘が、戸惑いながらも呟くように零したその噂とやらの詳しい話を聞いてみれば、それこそ怪しさ増し増しの耳を疑ってしまいそうななんとも信用性のない噂だった。毎日昼過ぎ、銭湯から数キロ離れたハイカラシティの近く、ほとんどの若者が集まり毎日賑わいが絶えない商店街の中にある人気店の一つ、スイーツがメインのイカした喫茶店の中でそれらしき人影を見たという事だった。ついこの間までスイーツという言葉そのものもよく分かっていなかった彼が、しかも一人でそんな場所へと出かけるなんて到底信じらない話であり、出来れば噂のままで潰えて欲しいと心の底から思う(本人の為にも)。

「見間違いじゃねぇのか、それ…」
「うーん…いつもの帽子は被ってなかったけど、はっきり顔は見たから間違いないっておじさん言ってた。でも、エプロン着てたっていうから、それってつまり、店員さんの事を指してるんだろうけど…そしたら、尚更有り得ないよね?」

 いつもの帽子とは、幼馴染の彼が若い頃から愛用しているエゾッコメッシュの事で今朝もそれを頭に被りながらスクーターに跨いではどこかへと出掛けていったので実物は今店にはない。
 しかし、顔をはっきりと見たという証言は常連客ならではの有力な情報である事に間違いはなく、そっくりさんという可能性も無い事も無いが、その信用性の高さに今回に限っては酷く重みを増した頭を両手で抱えては項垂れる。

「…仕方ねぇ。おい、幼女」
「なぁに?」
「ちょっくら、様子見に行くぞ」
「お店はどうするの? あたし、残ってた方がいい?」
「開ける前に帰る。つーか、お前も行くに決まってんだろ! あんなきゃぴきゃぴした店に俺一人で行けっつーのか!」
「やったー! ヨリちんの奢りだ、イエー!」
「誰も奢るなんて言ってねぇ!」

 二人同時にその場に立ち上がっては互いに頷き合い、全ての店の戸締りを済ませて看板娘が首から下げているクラゲ型のがま口に鍵をぶん投げては、店の裏にある以前乗り捨てられていたのを念の為にと拾っておいたバイクに跨り、その後ろにしがみついて乗り込んだ彼女にしっかり掴まっているよう言い聞かせると、何故だか意気揚々、さぞ楽しそうにふにゃりと綻んでいるその表情に思わず溜息がもれた。

「ヨリちん、早く早くー!」
「へいへい…手、離すんじゃねぇぞ」
「はーい! 出発シコシコー!」
「このバカ! ご近所さんに変に思われんだろが! シンコーだ、シンコー!」

 上半身だけを振り向かせて拳を空へと突き上げる看板娘の額をぺちんと平手打ちし、右手首を捻ってはエンジンを唸らせて、目的のスイーツ食べ放題の店へとがたついたバイクを勢い良く走らせたのだった。


***


 教えられた通りに渡されていた鍵で裏口から店の中へと入り、ロッカーのハンガーにかけてある茶色のシンプルなエプロンを手に取っては、一つに結んだ髪に引っかからないよう注意しながら頭を通し、だらりと両脇に垂れていた腰ひもを背中に回した両手でしっかりと結んだ。厨房には幼馴染の知人であるダビデさんが既にいて、今日の仕事内容を簡単に説明してもらってから商売道具のボールペンと伝票をポケットへ突っ込むと、開店時間を迎えたのか、ぞろぞろとガールの高らかな声が奥からぞくぞくと押し寄せ始めた。

「それじゃあ、頼むね。このお店、マゴさんの腕にかかってるんだからさ」
「は、はぁ」

 ぽん、とダビデさんに背中を押され、厨房からそっと顔を出してみれば、狭くも無く広くも無いそれなりの空間をもつ店内は既にもう若いガール達がテーブルを埋め尽くしていて、今時のデザインなのであろうセンスが飛び抜けているフクやアクセサリーを身につけ、けらけらと友達と楽しげに笑いながらメニュー表を見渡していた。
 そっと一歩後ろへ下がり、不思議そうに見遣るダビデさんを前に自分でも情けないと思えてしまうくらいの小さな声で、常日頃抱いていた疑問を半ばやけくそ気味にそっとぶつけてみた。

「あのぉ…」
「ん、何?」
「ほんとに、俺…役に立ってます?」
「わっはっは。何言ってるんですか、マゴさんがこの店の収入源なんですよ。今日で終わりなんですから、もうひと踏ん張りよろしくお願いしますね」

 分かったらさっさと行った行った、とでも言うように軽くあしらわれ、ちょうど呼出のベルがピンポンと鳴り始めてしまったので、仕方なく見上げた先の受信表示機の数字を慌てて確認しながら目的のテーブルへと早足で向かった。
 何が不思議で仕方がないのかと言われれば、まず一つとして、何故こんなにも若いガールが集まる店の注文取りを、自身でも自覚がある程にぱっとしない見た目の中年一人に任せようとするのか、という事(絶対にもっとイケメンで若いボーイに任せた方が余程客が多く入ると思うのだが)。そしてもう一つ、何故だか客からのボディタッチが妙に多い事に対しても日々頭を悩ませていた。自分の店に来るような顔見知りのボーイやガールは殆どいないはずなのだが、いつの間にやら自分の名前と顔を覚えている常連客が多く、注文を取りに行く度に性別問わず横っ腹を突つかれたり、馴れ馴れしくもマゴちゃん、なんてピチピチのギャルっ子に呼ばれたりして最早収拾がつかない。それよりも酷いのは通りすがりで尻を触ってくる客もいるので、その度にぶるぶると体を震わせながら働く羽目になり、正直なところ半端ではないレベルで怖い(このままだと若い子恐怖症になってしまいそうなレベル)。

(まぁ、でも…今日で終わりだし…。あと数時間くらい、なんとかなるか)

 ダビデさんが経営するこの店の手伝いを始めて三週間程が経過しているが、それももう今日限りで契約した期間が終了するので、そんな引きこもりならではの恐怖ともおさらばできる。そう考えるだけでも、沈んだ気持ちは多少なりとも軽くはなっていった。
 そもそも何故こんなにも自分には縁のなさそうな店で働いているのかといえば、ダビデさんがちょうどこの店の店長から依頼されていた、緊急的に一人接客の手伝いが出来るボーイを紹介して欲しい、という仕事の一つであり、割と力仕事もあるところからなかなかいい人材が見つかっていなかったところで、良かったらやってみないか、という火の粉が自分へと飛んできてしまったという訳である(正直なところ、嫌でした)。しかし、何かと生活する事でさえ苦しい今、ようやく見つけだした有力な情報を逃す訳にはいかないと渋々了承し現在に至る。

「あ、やっとマゴっちきた! もー、早く早く! アタシ、アイスティーとこのおっきなイチゴパフェね!」
「私はホットコーヒーとホットケーキバニラアイス添えで」
「うちはねー、イチゴのフラペチーノとチーズケーキにするー」
「はいはい、ご注文承りました…っと」

 まだ十代と思われる三人のガールが丸テーブルを囲みながらきゃっきゃと騒ぎ立てながら告げた注文を乱雑に伝票へと書き留めると、これ以上関わらないように颯爽と厨房へと下がっていく。戻ってみると先程まで姿を見せていなかった自分より年上の調理師のボーイが既に準備を始めていて、注文の旨をを伝えると無言のまま頷いては慣れた手つきで器具を取り出し次々と材料を混ぜ合わせていった。料理が完成するまではただただ注文を取り続けるのが自分の仕事のメインである為、同じ場所を行ったり来たりするのは至極当然の事であり、その役目を果たせるのがこの店には自分一人しかいないものだから、尚更店中を延々とぐるぐる回り続けるのは最早日常茶飯事だった。

「…おらよっ」
「う、わぁ! ちょ、っと」
「へへ、今日もいいケツしてるね〜」
「や、やめてくださいっ」

 そんな忙しい中で警戒などする暇もなく、今日もにやにやと嫌な笑みを浮かべたボーイ二人組に通りすがりの際に尻を触られるわ、揉まれるわ、調子に乗っている時は少しデリケートな部分でさえ手を伸ばしてくるものだからそれだけは勘弁とそそくさとすぐさま逃げる。面子はいつも同じで、触れてくるのはその中でもいつもオーロラヘッドホンを首に掛けている若いボーイだった。にやついた視線がどうもむずむずと体を痺れさせ、出来るだけ関わりを持ちたくないので極力彼らが座っているテーブルには近付かまいと心がけていたものの、今回ばかりはどうもいつもより雰囲気が違うような気がして、背を向け厨房まで戻る間もぞわぞわと背筋が凍った。

(もう少し…もう少し我慢さえ、すればっ)

 無事粗方の注文を取り終わり、調理師のボーイが仕上げた料理を次々と運んでは各テーブルへと並べ客が席を立ったら片付けの繰り返しで、ようやく一息入れられたのは繁盛期である昼が過ぎ日が少しずつ傾きかけた頃だった。その間はお手洗いにさえ行く暇もなく、その事実を思い出した今のうちにさっさと済ませてしまおうと、店長とダビデさんにその事を告げてから店の外へ出ようとした直後、突然背後から腕を掴まれ、そのまま店の裏へずりずりと強い力で引っ張られていく。

「痛っ…!」
「…捕まえた」

 人気のない雑草だらけの裏には店唯一の屋外トイレがあり、それなりに綺麗な手洗いブースとその隣りには洋式の便座がどっしりと佇んでいる。不意に背中を押されて突き飛ばされ、危なく転びそうだったところをなんとかかろうじて便座の上で留まらせると、見上げた先には数時間前に見かけたばかりの二人のボーイが、自分と洋式便器を囲むようににやにやと口角を上げながら見下ろしていたのだった。

「聞いたよ。今日でバイト、終わりなんだって?」
「店長に聞いといて良かった〜。危うく寂しい別れになっちゃうところだったじゃん」
「っ…あ、の…これ、は、一体…」

 こんな雑草だらけの中にぽつりと佇む屋外トイレの周りに人の気配はひとつもなく、頭の中で既に警報がガンガンと鳴り続けているもそれを伝える唯一の術である声も恐怖で碌に絞り出す事は出来なかった。そうしている間にも、ただただじりじりと迫りくる二人から少しでも距離を置こうと後ずさろうとするも、洋式便器の上に縮こまり自身を抱き締めるように座っている以上、残念ながら逃げ場などもうどこにも存在していなかった。

(ど、どどどっ、どう、どうしようっ…!)

 焦燥するばかりの心をどうにか落ち着かせようとエプロンの上から胸元を握り締めるも、その間にオーロラヘッドホンのボーイの手がするすると首元に触れては、親指でぐにぐにと頬や耳、手のひらで項を撫でるように滑らせていく。その度に無意識にもびくびくと小刻みに震える体が面白いのか、次第にそのボディタッチをエスカレートさせながら、ゆっくりと顔を寄せぼそりと一言、耳元で言葉を零したのだった。

「…やっぱり、マゴさんかわいい…」
「いっ! あ、おぉっ、うう…や、やだっ! やめて、くださ…」

 これはもしかしなくても少しヤバイ状況なのではないか。今更になってそう心の奥底から感じ始め、どうにか打開策はないかと周りをきょろきょろと見回していたその時。

「…あ、のさ。俺、その…アンタにずっと、言えなかった事があって…えと…聞いて、くんねぇか」
「が、頑張れ…! 頑張れ…!」

 突然に弱弱しく言葉を濁らせながら話し出す彼に思わず逸らしていた視線を恐る恐る合わせた。一歩身を引いて今までの悪そうな顔は何処へやら、一転妙に真面目そうな表情へと変貌し、決まりが悪そうにじんわりと頬を染めながら、何かを言いたそうにもじもじと体を捩らせる姿に思わず呆然とその様子を眺めてしまった。そんな彼を隣りで応援している友人らしきランニングバンドを被ったボーイにちょいちょいと手招きをしてみる。

「あの…これは、どういう…?」
「い、いいから! おっさんはアッちゃんの話、ちゃんと聞いてあげてっ! 彼、真剣なんです!」
「は、ははぁ」

 未だに頭を抱えて俯きながら唸りをあげている彼はどうやら、アッちゃん、というらしい(至極どうでもいい)。ようやく呼吸を落ち着かせたアッちゃんはもう一度大きく深呼吸をして、数回咳を吐いた後、両腕を脇に揃えて畏まるように姿勢を整え、かくれパイレーツの袖口をくしゃりと握り締めながら真っ赤に頬を染めた顔のまま、長く閉じられていた彼の口がようやく開いたかと思えば、脈絡のない怒涛の叫びを一斉に浴びせられたのだった。

「あ、ああああ、あの、その!」
「は、はいっ」

 あまりの勢いにこちらまで身を縮こませていると、突然両肩をがっしりと掴まれ、ほぼ目と鼻の先に迫った緊迫した顔がずっと喉で詰まらせていたと思われる言葉をぶつけられそうになった、その時だった。

「お、俺、ずっと前から…マ、マママ、マゴさんの、事が…」
「…マゴの事が、あんだって?」

 三人の体がぬるりと外から侵入してきた黒い影にすっぽりと包まれ、なんだなんだと不思議に思いながら全員が視線を外へと向ければ、すぐ目の前にはぎろりと睨みを効かせ今となっては見慣れつつあるボーイが仁王立ちになって立ち尽くしており、その威圧感にごくりと息を呑んだアッちゃんは吐き出しかけたその言葉の続きを再び腹の底へと沈ませてしまった。

「あれ…ヨリ?」
「お、お前っ…何なんだよ! 部外者は引っ込んで…」
「…ふざけてんじゃねぇぞ、テメーら…。知らねぇボーイがなぁ、自分の恋人に手出そうとしてんのをそのまま俺が放っておくと思ってんのか、このクソボケェ!」
「あ、だだっ! う、お、うえぇえっ…く、首、締まっ…死」
「ア、アッちゃーん!」

 それなりに筋肉が付いた片腕で首を締め上げられているアッちゃんと、その傍で心配そうに、しかし巻き込まれたくないのか距離を置いて名前を呼び続ける彼の友人、そして一切力を緩めるつもりはないらしい少々不機嫌な幼馴染が狭い屋外トイレの中でてんやわんやし始めたものだから、一番奥に押し込まれていた自分はその様子をただただ呆然と眺める事しか出来なかった。




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