「はぁ…」
ここ最近は割と賑わっていた銭湯も、本日は客も疎ら。そんな静かな店内で一人、番台で溜息を一つ吐いているこの頃。
「何なんだよ、畜生…」
体は確かに疲労しているはずだというのに、ただただ夜も眠れずに過ごす日々を繰り返してはいつの間にやら一週間が経過していた。それもそのはず、幼馴染の知人である情報屋のダビデさんから新たに仕入れた情報はあまりにもショックが大きく、大抵信じられない内容であった上、あの日から落ち込んだままの看板娘にどう伝えればいいものか悩みに悩んでは重い溜息を吐いている訳である。
単刀直入に言ってしまうと、彼女の父親はもうこの世にはいないという事。その事実が今、ぐるぐると溶けるように脳内で回る驚きと悲しみ、そして疑問の渦に思考が付いていけていないという混乱状態にずっぽりと陥っている。
それを初めて知ったのは、珍しく一人早起きをして普段はほとんど見ていなかったテレビの電源を気まぐれに付けたその直後だった。速報、と赤字ででかでかと画面に表示されたニュースが流れたと同時に、何処かで見覚えのあるボーイの顔写真に堪らずじわりじわりと顔が青くなっていくのが嫌でも分かった。
死因は狭いアパートの部屋の中で無理心中を図った自殺であろう、と手元に重ねられた書類の束に次々と目を通し羅列されていくキャスターの声などまるで耳を通らない。声を上げられなくなる程に頭が真っ白になったせいもあってか、すぐにはその現状を理解する事も出来ず、到底信じがたいその情報が真実であるかどうかを確認するべく、幼馴染の制止の声も聞かずに外へ飛び出してはダビデさんの元へと走り、早急なる調査をお願いしてみたもののその事実に間違いは無いようだった。
「…どうやら、人違いでもないみたいだね。間違いない、今テレビで注目されてるボーイはあの子の父親だ」
「そ、そんな…」
一週間みっちりと調べてもらった調査により判明した事実はやはりニュースで見た内容とほぼ変わらず、ただ一つ、それだけでは得る事の出来なかった情報というと、初めて彼女の母親と自分が顔を合わせていた時点で父親は既に亡くなっていたという事実だけだった。
(…あの子に、何て言えばいいんだ)
微かな希望ではありながら、今でも両親はどこかで生きていると信じてきた彼女にとってあまりにも残酷すぎる現実に、本当の事を伝えるか伝えないべきかさえ悩んでしまうその事実に一晩頭を抱えて、しかし、自身を信じていてくれている彼女にはもう嘘は付かないと心に決めた。ただ、分からないのはどのタイミングでそれを告げるべきかという事だけで。しかし、今自分にとって優先すべきであるのはやはり、生存が確かである彼女の母親ともう一度話をする事だった。
「パッと見る限り、亡くなる数ヶ月前に奥さんと離婚している事が原因、じゃなかろうか…とみてるんだけど。こればかりはなんとも言えないね」
「で、でも…リンの母親と何度か会ってはいますが、そんな事一つも言ってませんでしたよ」
「ま、別れた旦那の行く先なんて、別れちまった本人も結構知らねぇもんだよ。その人だって、ニュース見て初めて知ったのかもしれないし」
そんな馬鹿な、と心の中で呟いた言葉が危なく声として漏れそうになるもなんとか喉元で引き止めてはそのまま飲み込んだ。事実、亡くなっているのは確かなのだからそれ以上の真実はない。がっくりと肩を落とし小さく溜息を吐けば、どうやらその落ち込み具合を察してくれたのか、今回のお代はサービスしてあげる、と背中を押されては特に支払いを要求される事なく店を追い出された。
その日から一週間が経過した現在へと戻る。結局何一つ看板娘に言い出す事が出来ないでいる上に、どうも自分自身の元気もなかなか湧いてこないせいか、彼女の母親とも連絡を取る力さえないままに無気力状態へと陥ってしまっていた頃。風呂を済ませてきた彼女がいつの間にかすぐ隣りに立っており、コーヒー牛乳を胸に抱えながら不思議そうな表情でこちらを見上げていた。
「マゴにい、どうしたの?」
「あ、いや…その、別に」
「…最近、元気ないでしょ」
「え? そ、そんな事ない、けど…」
「ふむ…あやしい」
しかめっ面で立ったまま瓶に口をつけ、ごくりと一口分コーヒーを流し込むと、片手にそれを盛ったまま器用にも抱っこを要求してきた彼女を、番台に胡坐を掻いて座っていた自身の膝の上へ渋々持ち上げ座らせてあげた。
「溜息吐くのは癖になってるだけだって、前にも言ったでしょ?」
「それは、知ってる…けど」
「いつも事さ、気にしないで」
天井を見上げるように長い前髪を顔の脇に垂らしては、俯く視線にがっちりと合わせた彼女の表情はどうやらまだ固いままだった。危うくその目の前で再び溜息を吐きそうになったところで息を止め、慌ててカウンターに置いていた湯呑に手を伸ばすと、玄関の引戸ががらがらと音を立て全開し、飛び入るように中へと乗り込んできた見慣れた常連客の姿に軽く手を振り声を掛けた。
「おや、いらっしゃい」
「やっほー、マゴのおっちゃん。それに、リンちゃんも」
「あっ! 焼きイカちゃん、やっほー!」
ライトグリーンのボンボンニット、ぶかぶかのジップアップグリーンに焼けた肌に良く似合うヌバックブーツレッドを履いて颯爽と登場したのは、自分よりも遥かに年下の友人であり、店の常連客であるガールの焼きイカちゃんだった。
看板娘と彼女はまるで姉妹のように非常に仲が良く(少し妬ましい)、店に来ると彼女の遊び相手になってもらうのがいつものパターンで、時より一緒に買い物へ行ったりハイカラシティへ出向いてはバトルの見学へ付き添いとして傍にいてくれたりもしている為、正直なところ店をあまり離れられない身としては彼女の優しさに甘えてしまっているところもあり内心とても感謝している。
「風呂ってくっから、その後また一緒に遊ぼうなー!」
「やったー!」
「良かったなぁ、リン。いつもありがとね、焼きイカちゃん」
「いいのいいの。今夜もフルーツ牛乳、サービスしてくれるんっしょ? むふふ…期待、し、て、る! したっけ!」
「は? あ、ちょっと!」
手渡そうと棚から出した下足札を奪うように取り上げられ、あれよあれよと文句の一つも言えぬままに女湯の暖簾をくぐっていった焼きイカちゃんを背を追うように、膝の上から飛び降りた看板娘はその跡を追って脱衣所の中へと走り去っていく。
仕方ないなぁ、と一人誰もいない番台の中でごちりながら、空っぽになっていた冷蔵ショーケースにフルーツ牛乳とコーヒー牛乳、そしてついでに最近新しく追加したメロン牛乳を奥の方へそっと詰めておいた。
***
風呂から上がり軽い足取りで休憩所へと向かうと、事前に注文をしていた通りのビンがショーケースの中に並んでいて思わず笑みが零れた。どうやら銭湯の店主は買い出しの為に外出をしているらしく、番台には「外出中。ご用の時は呼び鈴をどうぞ」と書かれた札が掛けられ、恐らくその代役を務めるのであろう彼の友人は、今頃店の奥にある居間でごろごろとのんびり過ごしているのだろう。
火照ったままの体をソファーに腰掛け、看板娘がきんきんに冷えたフルーツ牛乳を持ってきてくれるのをのんびり待ちながら、ジップアップグリーンのポケットに入れたままだった、普段は首から下げているロケットペンダントをこっそりと取り出した。手の平で転がる銀色の楕円に蓋の付いたそれをかちりと音を立て閉ざされていた蓋を開くと、もうだいぶ色褪せてしまった古い写真が視界の中に映る。
(お母さん…元気かな)
まだヒトの姿にさえなれなかった小さい頃の自分を挟むように笑顔で映る両親の笑顔。その片方は物心つく前にはもう既に存在はなく、記憶にも薄らとしか残っていなかった為、今となってはこの写真でしか父の顔を見ることは出来ない。故郷に一人暮らす母からは病気で亡くなってしまった、とだけ話は聞いていて、そんな父の話題を出した途端に眉を顰める母の悲しそうな表情を度々覗いては次第に自分から話を聞く事も無くなってしまっていた。
(優しいお父さん、だったと、思うんだけど)
あまりに記憶が朧気すぎる故に、どんな印象だったかと聞かれたところではっきりとした言葉で表す事はもう出来ない。それでも、いつか触れた事がある父のぬくもりの微かな記憶だけはどこか沈んだ底の中に残っている事は確かだった。それも、今となっては数ヵ月前までの話ではあるのだが。
「焼きイカちゃーん! お待たせー!」
「おっ! 今晩のメインディッシュ来たァー!」
しっとりとした気持ちで一人思いに更けていると、両腕で二本のビンを抱えた看板娘がぱたぱたとかわいい足音を立てながら目の前まで駆け寄り、はい、とにっこりとした笑顔を掲げながら手渡された冷たいビンを一つ受け取った。
「んっふっふ。炭酸もいいけど、やっぱり風呂上がりはコレだよねー!」
「だよねー!」
二人並んでソファーに座り、天井を見上げながら口に当てたビンを持ち上げると、ごきゅごきゅとこれまた気持ちの良い程に喉を鳴らし、一気に中身を飲み干す自分と同じく負けじと苦しそうな表情を浮かべながらも必死に飲み干そうと奮闘する彼女を見て思わず苦笑した。
「さすが銭湯の看板娘ちゃん。慣れておりますな?」
「ん、ぐぐっ…うえっぷ。こ、こんなの何回やっても慣れないよぉ」
「ぬわっはっはっは! 修行が足りぬ証拠じゃ!」
小さなお腹をぽんぽんに膨らませながらげんなりと肩を落とす傍らで今日もいい飲みっぷりを見せてやれたと満足し、最早体が慣れ始めてしまった早飲み大会はあっという間に終わってしまった。
「…おろ? なあにそれ」
気楽にもけらけらと笑い合いながら顔を見合わせていた時、見覚えのないロケットペンダントを彼女が首から下げているのを見つけて、特に深くも考える事も無くその存在に目を遣った。その視線に気付いた看板娘が嬉しそうに笑顔を掲げると、わざわざチェーンを外し手に取ってはどうぞという一言と共にそれを見せてくれた。
「へぇ…ハート型でかわいい!」
「お誕生日にマゴにいがくれたの」
「あのおっちゃん、なかなかおなごの好み分かってんだなぁ…」
細いチェーンに通された金具にぶら下がるセピア色のロケットペンダントは小さくもその可愛らしさが彼女に良く似合っているような気がして、普段こういったものに興味の無さそうな、今は不在である店主の意外なセンスに少なからず驚いた。
「…お守り」
「え?」
「ママとパパに、また会えますようにって。だから、あたしの宝物なの」
「…そっか」
落としてでもして傷を付けてしまう前に早々と彼女へ返すと、そう小さく呟きながら俯く看板娘の表情は年下とは思えない程に大人びていて、きっと自分と同じように首から下げた小さな存在が心の支えにもなっているのだろうと少なからずそう思えた。それでもどうしても気になっている事があり、再び嬉しそうに身に付けている彼女にふと、当たり障りのないような話をさり気なく声を掛ける形でそっと振ってみる。
「リンちゃんのお母さん、どこにいるの?」
「えと、その…分かんない。ずっと、探してる」
「…お父さんは?」
恐る恐る掛けた言葉に、少し間を置いてからゆっくりと彼女は首を振った。
「そ、っか」
「焼きイカちゃんのパパは?」
「アタシの?」
「うん。もしかして、パパもくろこげ?」
「あはは! 違う違うっ。多分、ね」
不思議そうに首を傾げる彼女の問いに答えられる日はおそらくきっと、これからも二度と来ないだろう。たった十五年しか生きていないけれど、その中で父と共に暮らした記憶は非常に短く、そしてあまりにも不鮮明だった。それでも女手一つで自分を育ててくれて、散々我儘も言った上にしてみたい事も好き勝手してきたけれど、いつも優しく頭を撫でてくれる母の愛情は確かに全身で感じていた。きっと、ぼやけた濃霧の中で溶けては見えないままの父に対しても。
「…もう、遠いどこかにいっちゃった」
「え…?」
「アタシもまだ小さい頃だったから。よくは、覚えてないの。でも、病気で死んじゃったんだって、お母さんから聞いてる」
いつの日か、母に理不尽な怒りを突きつけた事もあった。
どうしてあの子にはお母さんもお父さんもいて、アタシにはお母さんしかいないの、と。今思えば、とても酷い事を言い放ってしまったと思う。それでも母はただただ泣きじゃくる自分の頭を撫でながら、何度も何度もごめんねと申し訳なさそうに声を落としては腰に腕を回し、震える体が落ち着きを見せるまで優しく抱き寄せてくれていた。
そんな昔の記憶を巡らせながら、どうやら無神経な事を聞いてしまったと落ち込んでいるらしい看板娘のオレンジ色の頭を、無意識のまま髪を解くようにそっと撫でていた。
「どう、したの…?」
「…あ。え、と…ご、ごめん!」
「ううん。その…」
「えへへ、気にせんといてな。先に変な事聞いちゃったのはアタシだし」
眉尻を下げボンボンニットの上からぽりぽりと頭を掻いては苦笑していると、つられるように看板娘もくすくすと笑顔を漏らしてそっと胸を撫で下ろす。すると、首元でハート型のロケットペンダントを握り締めた彼女は、ぱちりと何かを弾くような金属音を立てると目の前にはその中に閉じ込められた三人のインクリングの写真をみせてくれた。
「…こ、これ」
「マゴにいにしか、見せた事ないの。でも、焼きイカちゃんなら見せてもいいやって、思って」
「リンちゃんの、パパと、ママ…?」
「うん、そうだよ」
お詫び、にもならないかも知れないけれど。そう照れ臭そうに頬を染めて呟く彼女の声は、今まさに自分へと降りかかったあまりにも強すぎる衝撃のせいでなかなか耳に入れる事が出来なかった。
「焼きイカちゃん…?」
あまりに唐突で、予想などひとつもしていなかった現実を目の当たりにしてしまい、それを今すぐに信じる事など到底出来なかった。しかし、不思議そうにこちらを窺う彼女が嘘をついているとはどうしても思えず、自身の記憶違いかも知れないという疑いさえ持てない真実味に頭を抱えてしまった。
(どうして、こんな…一体、どういう事なの…?)
小さな写真の中に並ぶ彼女自身と、隣りに立っている父と母。きらきらに輝いた笑顔で溢れる三人の表情を今ばかりは素直に受け止める事が出来ず、しかしどうしても視線を外せぬまま動けない体はいつまでも冷えたままでいた。
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