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 予想だにもしていなかった話が舞い降りてきたのは、あまりにも突然の事だった。

「へ…? い、今…何て言いました?」

 次の日の昼。いつもの通り二人に簡単な昼飯を作っては店の準備をしていた矢先、珍しく看板娘の母親から今から話したい事があると電話が掛かってきた為、店番とその他諸々を幼馴染に押し付けて、唐突にこれから顔を合わせる事になった彼女が既にいるらしいカフェへと一人出向いた。彼女からのコンタクトは今までで一度も無かったので、もしかしたら何かあったのではないかと焦燥した気持ちのまま会ってみれば、途端にすぐさま告げられた言葉は思わず耳を疑ってしまうようなものだった。

「リンを引き取る、と言ったんです」
「あっ…えと、でも、その」
「…今まで、散々押し付けて申し訳ありませんでした。これからは、ちゃんとあの子の傍にいますから」
「は、はぁ…」

 これまで散々、まるでもう看板娘と縁は切っているとでも言うように聞く耳を持たなかった彼女が、打って変わって彼女の存在を受け入れるような態度を取るものだから空いた口が塞がらないとはこの事だった。エゾッコパーカーアズキのフードを深々の被り、一つに束ね肩から垂らしていたオレンジ色の髪と、相変わらず表情をその陰に隠す彼女が何を考え突拍子もない事を口にしているのかは全く分からず、しかし自身と看板娘が望んでいた事を受け入れてくれるのは心の底から喜ばしい事に間違いはなかった。

(…何なのだろう。この、胸が苦しい感じは)

 喜ばしい、そのはずなのに胸の奥でもやついた不安が威圧するように中で籠もり、彼女の言葉に素直に頷けない自分が何故だ酷く恐ろしかった。

「…この間、」
「は、はい?」
「別れた夫が亡くなったのを、テレビで知りました」
「あっ…」
「急に、不安になったんです。自分の知らないところでまた、もしかしたら、あの子までいなくなってしまったらと考えただけで」

 暗い影の中で目を伏せ震える声を絞り出した彼女を見遣り、端から見ればその言葉は今まで看板娘を見守ってきた自分に対して失礼ではないだろうか、と一瞬怒りが生まれるも、よくよく考えてみれば、それは本当の親にとって抱いて当たり前である感情なのかも知れない、と煮え立ちそうになった頭をぶんぶんと振ってはすぐさま冷静さを取り戻した。
 自分と幼馴染であるヨリ、そして随分と昔に亡くなったシノブは小さい頃から家族がいなかった。正確に言えば、ヨリの両親だけはこの世のどこかで存命はしているのかも知れないが、彼本人から見ればもう存在しないものと思い込んでいるだろう。
 そんな過去もあってか、三人は親の愛情というものを知らずにここまで生きてきてしまった為、施設の職員であるおじさんやおばさん達に優しく育てられてはきたものの、それとはまた違う愛情が本来ならば存在しているのだろう、という理解は自身の中にもあった。
 ただ、経験が全く無いが為にそれがどういったもので、どんな言葉で表現する事が出来るのかというのが分からないだけで。

(…他人である自分が、どれだけあの子を大切に思ったところで本当の親からの愛情には敵わない。そんな事、前々から分かっていた、はずなのに)

 気付かない間に、自分が彼女の成長を見守る唯一の存在なのだと錯覚していた。これからもずっと、あの古ぼけた銭湯で看板娘と名乗り番台と風呂の掃除をこなしては、三人で炬燵に足を入れて笑顔を掲げながら毎日一緒にご飯を食べ、わいわいと騒がしいばかりの毎日を過ごせるものなのだと思い込んでいた。心の何処かで、そんな日々はいつか終わりを迎えるのだと、自分だけでなく二人もきっと分かっていたというのに。

「…分かり、ました」
「!」
「明日、うちの店まで迎えに来て頂けますか」
「…よろしいのですか」
「えぇ、あの子もそれを望んでいます。話は、俺からしておきますから」

 何食わぬ顔を保っていたつもりだったが、もしかしたら感情的な何かが滲み出てしまっていたのかも知れない。ここに来て初めて不安げな顔を浮かべながら窺う彼女は喫茶店を出るまでその表情が変わる事はなく、別れ際に明日の昼過ぎには銭湯へと顔を出すと約束を交わし二人はそれぞれにその場を後にした。
 その帰り道、一人頭の中を真っ白にさせながら呆然と歩いているうちに、ふと看板娘と初めて出会った日を思い出しては危うく目元に涙が浮かびそうになって、慌ててフクの袖で拭い取っては弾き飛ばすように駆け足で帰路を辿った。
 ひとり意気消沈のままに、途中スーパーで買った食材の入ったビニール袋を提げながら店へと帰り、ただいま、と小さな呟きに返された声はなく、そっと居間を覗いてみると幼馴染と看板娘が二人仲良く横に並びながらぐっすりと眠っていて、その様子を見下ろした時、ずっしりと伸し掛かっていた肩の荷をようやく下ろす事の出来たような気がした。

「…リン」
「なあに?」
「大事な、話がある。聞いて、くれるか」

 寝ている二人に薄い布団を掛けてあげた後、一人店の準備を黙々と始めていつもの通り夕方頃に店を開ける。そこでようやく目を覚ました看板娘がばたばたと駆け回りながらごめんねと一言謝り、素知らぬ顔で大丈夫だと返してあげれば、俯いていた顔にぱっと光が灯り、腰に回された細くて小さな腕から伝わるぬくもりに思わずその体を抱き上げた。
 合間に三人で夕飯を取りながら番台を交代で務め、ある程度客足が落ち着き始めた日付の変わる前の深夜。幼馴染が先に風呂へ入ると着替えを持ちながら暖簾の先へ姿を消した後、番台で熱いお茶を啜っていた看板娘のピンク色の瞳を見詰めては、迷いはしたもののずっと喉元で詰まらせていたままだった言葉を、意を決して絞り出した。
 首を傾げながらもゆっくりと頷いた彼女に少しだけ居間で待っていて欲しいとだけ告げ、台所へと足を運び食器棚から自身の群青色の湯呑と最近購入したばかりのピンクのマグカップを取り出してはお盆の上へ乗せた。
 抜けるような空気の細く揺れる音を聞きながら、急須に安物の茶葉と、マグカップにココアの粉をスプーンで三杯分だけ振り掛けるように入れる。沸々と煮え始めたヤカンを横目にコンロの火を止めて、渦巻くように内側からゆっくりとお湯を注ぎ込んだ。苦味と甘みを含む香りが二つ交差するように辺りを流れ、マグカップの中で漂う茶色の海を掻き混ぜては持っていたスプーンを流しへと放った。

「お待たせ」

 居間の真ん中で(夏だというのに)コタツ布団に足を入れながら、テレビのお笑い番組を見てはきゃっきゃと声を上げて笑う彼女のいつもの横顔が妙に視界に入り不思議と目を離せないまま自身もその隣りへ腰を下ろす。手渡した熱々のマグカップを受け取り、お礼を言いながら口をつけると、きらきらと瞳を輝かせたままににっこりと笑顔のまま見上げる彼女に尚更愛おしさを感じて、どくりと唸る心臓を抑え付けながら震える唇を余所に恐る恐るその口をゆっくりと開いた。

「マゴにい、どうしたの? なんだか、苦しそう」
「…あのね、リンちゃん。俺、一個だけ、リンちゃんに謝らなくちゃいけない事、あるんだ」

 畳んだ膝の上に握り締めた拳を乗せながら、未だこれから話す事を分かっていない彼女は、そんな自分を見上げながらもどうやら今から真面目な話をするのだろうと理解したらしく、コタツ机の上に置かれたリモコンに手を伸ばしては電源ボタンを押した。

「君はいつも察しがいいから、分かっていたかも知れないね」
「…う、ん」
「隠し事、していてごめん。でもやっと、ちゃんと話が出来るところまで来たから」

 音も無く、ただただ震えが止まらない心臓の音だけが頭の中を響き渡り、そんな挙動不審な様子に不安が募ったのか、気付けば両手の拳は小さな手のひらに包まれていて、その温かさがじわりじわりと伝っては体中に広まっていくような感覚に、不思議と暴れていた振動は落ち着きを見せていった。

「…わかった。あたし、マゴにいのお話聞く」
「リン…」
「なんとなく、分かってるの。だから、平気」
「えっ…?」
「だってマゴにい、ずっと探してくれていたんでしょう? あたしの、パパとママの事」

 そう俯いて呟く彼女がそこまでの覚悟を既にしていた事は全く知らず、これでも陰ながら情報収集をしていたつもりだったのだが、もしかしたら少々隠しきれていなかった部分があったのかも知れない、と過去を思い返して不甲斐ない自分に頭を抱えた。それでも、彼女が冗談のつもりで言っている訳ではない事は確かで、これ以上隠す必要もないと理解し、ずっとなあなあに誤魔化してきた全てを吐き出そうと一度深く息を吸い、そして流れるようにすっと息と共に籠る言葉を吐き出した。

「…落ち着いて、聞いてくれるかい」
「は、い…」
「…息、いーっぱい吸って」
「へ? あ、うっ…すぅー…」
「吐いて〜」
「はぁ〜…ぶべべっ」
「はい、よく出来ました」

 緊張していたのか、がちがちに固まった表情を揉み下すように両手で柔らかな頬をむにむにと挟むように撫で回せば、自然と浮かび上がった口角にお互いに自然と心が落ち着いていった。

「もう、大丈夫?」
「えへへ…ありがと。あ、でも…」
「ん?」
「手、だけ、握っててくれますか?」
「…もちろん、いいよ」

 一度解いた手のひらを重ねるように包み、自分よりも遥かにしっかりとした言葉でそう続けた看板娘の手が小刻みに震えている事に気付いてそっと絡めるようにその手を組み直した。もしかしたら、緊張しているのは彼女よりも遥かに自分自身の方なのかも知れない。そして、覚悟を決める事が出来ていなかった事も全て。ぶつかる視線はそのままに、静かに深く息を落としながらも、腹の底にずっと沈めていたものを声に変えては意を決し静かに呟いた。

「きっと、急な話で驚くと思う」
「うん」
「…今日、君のママと会ってきた」
「えっ…マ、ママと!?」
「そうだよ。そしたら、明日の昼過ぎにここへ直接、迎えに来てくれるそうだ。すぐにでも会いたいって、言ってた」
「マ、ママが…あたしの事、覚えててくれたんだ…!」

 目の前で煌めく看板娘のその笑顔が、自身の心に諦めろと訴えているような気がした。この店で共に生活を送るのは彼女の母親と父親が見つかるまでだと初めから決めていたはずなのに、月日が経つにつれて自分の中でリンという存在が大きくなりつつある自覚は確かにあって、心の何処かでいつかラインを引かなければならないと分かっていたつもりだった。

(…あまりに、情けない。そんな、自分が嫌になる)

 彼女の隣りで生きる時間が当たり前になって、そんな二人ぼっちの中にもう再会する事は望めないと思い込んでいた幼馴染も加わって、こんなにも毎日が楽しくて仕方がない日々が今までにあっただろうかと疑うくらいに光り輝いていたようにも見えた。この命は、二人の為にあるとも心の底から思える程に。

「…ど、したの?」
「……っ、あ、ごめん…!」

 無意識に頬を伝っていた涙が、いつの間にかハラシロラグランに染みを作っていた事に気付いて、慌てて乱暴に袖で拭い取ると心配そうに見上げていた彼女の頭を力なくも口角を上げては優しく撫でてあげた。

「…なぁ、リン」
「な、に?」
「たとえ離れていても…俺達は、家族だ。それだけは、ずっと覚えていてくれ」
「っ…う、ん。そんなのっ、当たり、前だよぉ…! う、あぁあん…」

 いつか来ると知っていた別れの日が明日になった。ただ、それだけだというのに。二人にとってその日がどれだけ重大な意味を持っているのかなんて、そんなものは本人にしか分からない事なのかも知れない。今日という日までは確かにここに存在した、彼女と共有するあたたかい時間は何をしなくても明日には止まって動かなくなってしまう。
 それを理解した看板娘のくしゃくしゃになっていく真っ赤な泣き顔で再び押し込んでいた感情をぶり返しそうになり、堪らずその体を引き寄せ力一杯に小さな体を抱き締めては声にならない声を上げていた。

(これが夢だったら、なんて一度でも考えてしまった俺を許してくれ。リン…)

 まるで今までの全てを捨ててしまうような、そんな我儘な願いを吐き出す勇気など一つもなく、いつの間にか自分の幸せばかりを優先してしまっていた自身の弱さに目頭が熱くなっては唇を噛み締めた。


***


 幼馴染である彼が看板娘の母親とどんな心苦しい話をしては、重い気持ちでとぼとぼと帰路を辿ってきたかくらいはどことなく察していた。看板娘が昼寝をしていた分働くと言って普段以上に気合を入れて風呂掃除をしていた頃、どうやら様子のおかしい彼を居間に誘っては、つい先程彼女の母親と交わした不可思議な会話の内容をこっそりと聞いてみた。

「…何で今になって、突然そんな話になるんだよ」
「そんなの、俺にだって分からないよ。でも、あんなに頑なに断っていた彼女が迎えに行くと言ってくれたんだ。断る理由なんて、どこにもないだろ?」

 乾いた笑みを浮かべながらそう零す彼の声は少なからず消沈していて、その気持ちは彼程でなくても痛いくらいに分かっているつもりだった。まるで本当の親子のように看板娘に愛情を注いでいた幼馴染を毎日のように見ていた身としては尚更の事で、当然訪れてしまった三人で過ごす最後の日の銭湯はどこか寂しさに浸っているようで、その異様な冷たさに思わず溜息をつきそうになる。

(本当は、行っちまって欲しくないクセに。一丁前に強がりやがって)

 口には出さないものの、看板娘がいなくなって一番悲しんでいるのは最早彼女の存在そのものが生きがいとなっている幼馴染に間違いはなかった。これから先、一生会えないという訳ではないという事は二人共分かっている。しかし、シノブを失って、祖父を失って、自分に距離を置かれていた彼の過ごした一人の時間は途轍もなく長く、今だからこそ言える事ではあるものの、もっと早く店に顔を出すべきだったと今更ながら酷く後悔している(当時はそれなりに理由があって会わないと決めていた為、仕方のない事ではあるが)。

「…ヨリ」

 気付けば時刻は深夜を回り、寂しさから泣き疲れてしまったのか看板娘はいつもより早い時間に夢の世界へと旅立ってしまったらしく、奥の居間からそっと足音を立てずに戻ってきた幼馴染が自分のすぐ傍へと腰を下ろし、華奢な足腰をコタツ布団の中へと沈めては小さく溜息を吐いた。

「寝たのか」
「うん…たくさん、泣かせてしまったから。きっと疲れちゃったんだと思う」
「そうか」
「…ごめん。心配、掛けて」
「気にすんなよ。お前の気持ちは、十二分に分かってるつもりだし」

 冬でもないのにコタツ布団に包まれ熱くなった下半身を抜き出し、彼に背を向けるように足を延ばしては、ずっと同じ体勢でいたせいか、固くなった背中を伸ばすように両腕を天井へと伸ばした。ついでにグレーのスウェットの裾を捲り、汗疹になりそうだった両足を露出させそのままごろりと背を向ける形で肘をつきその手で頭を支えながら横になると、後ろに並ぶように同じく寝ころんだ彼が突然腰の辺りをロッケンベルグTブラックの上から握り締め、引っ張られているその感覚になんだなんだと振り向いてみれば、そこには背中に額を埋め小刻みに体を震わせている幼馴染がいた。
「お、い…マゴ…?」
「っ…、ごめ…」

 嗚咽の声を漏らしながら俯く細い体が背中に密着し、慌てるように唸った心臓を落ち着かせるようにぎゅっと胸元を握り締める。

「どうした。調子、悪いのか」
「違っ…そ、じゃない…」
「……ったく、お前ってヤツはよ」

 フクの背中を皺が出来る程に握り締めてはぴったりと肌を寄せ、濁声と共に押し付けられた涙がじんわりと浸透してくる感覚にぶり返した熱がすっと体から抜けていく。彼自身に押し寄せている見えない重い何かが底へと仕舞い込んでいた気持ちを決壊させたのか、再会してからは一度も見た事のない精神的に弱り切った姿を見て自分が動揺しているのは間違いない。相変わらず暴れる心臓もお構いなしに、じんわりと汗の掻いたしっとりした手を腰に回した彼の手に恐る恐る重ねた。

「いつかこんな日が来るって事くらい、分かってただろ」
「そりゃ、そ…だけ、どっ…ちょ! な、なにっ」

 重ね絡めた指を両手共に一瞬だけ手放して、ぐるりと後ろへ振り向いては上半身を起き上げる。慌てて顔を上げた彼の腕を掴んで体を引っ張り上げては、両足でその細い体を挟むように体勢を変えた目と鼻の先には、ぱちぱちと瞬いて浮かべた涙をぽろりと落としながら呆然としている幼馴染がいた。
 衝動的に脇の下へと腕を回し、自身の胸元へと体を引き寄せ、頭を抑えてくしゃくしゃになった彼の顔を肩口へと押し付けると、それに応えるように背中へと伸ばされた彼の手に力が込められたのが分かった。

「…今日は、甘えていい」
「えっ…?」
「それでお前が明日、笑ってアイツを送ってやれるなら、いくらでも我儘聞いてやる。だから、頼む。我慢だけはすんな、アホ…」
「…う、うぅっ…!」

 彼にしてあげられる事など、今の自分にはほとんどない。何かしたところで、結局のところは彼自身が前へ進もうと気持ちを切り替えない限り、明日という人生の転機を乗り越える事など出来やしないのだから。それでも、少しでも彼の支えになりたいと常日頃思っている自身にとってむず痒い状況であるには変わりなく、ただただ、自分と比べ遥かに細い体を優しく抱き締めながら、見て見ぬ振りをしながらも込み上げては溢れていく止め処ないぬくもりを受け止める事しか出来なかった。
 ひくつく体がようやく落ち着きを見せたのはそれから数十分経った後で、真っ赤になった瞳に苦笑しながらも、重みのあった表情がそれなりに晴れやかになっている事に気付いてひとりほっと胸を撫で下ろした。
 熱いお茶を淹れた群青色の湯呑を手渡せば珍しく素直に礼をされ、一口喉に流し込むとふわりと浮かんだ微笑みに思わず髪を下ろした青緑の頭をそっと撫でてやる。照れ臭そうに頬を染めながらやめてくれと押し退けた彼を見下ろして、ようやく調子を取り戻してきたようにも見え、ざわついた心がようやく落ち着きを見せた気がした。

「あーあ…フクべっしょべしょなんですけど」
「洗濯したら?」
「他人事みたいに言うな!」

 そんなくだらないやり取りをして笑い合えるくらいには、互いに明るさが見え始めた頃。宥める事に精いっぱいですっかり失念していたが、つい先程まで疑問に思っていた事をふと思い出し、既に冷めつつあるお茶をぐいっと飲み干しては未だ赤くなった目を擦る彼に向けて問い掛けた。

「…ところで。明日の事、なんだけどよ」
「あ、うん…」
「やっぱり、おかしいと思わねぇか。アイツの母親」
「おかしいって…何が?」

 周りから見れば誰もが口を揃えて彼はど天然である、という認識があれど当の本人には自覚がなく、どうやら今回の看板娘の母親の話に関して微塵も疑問を持っていないようだったが、彼からその詳細を聞く限りはどうもきな臭さの残る話としか思えない内容だった。

「…今まで散々、顔は合わせないだ会う気はないだ親だと名乗るつもりはないだとか言ってきたヤツが、だ。夫が死んで寂しくなったから娘と一緒にいたいだなんて、急な話あるか?」
「で、でも、彼女がリンの傍にいてくれるのは俺達も望んでいた事だし…」
「そりゃそうだけどよ…。それにしても、なんかクセェんだよなぁ」

 情報と引き換えに知人であるダビデから仕事を請けた幼馴染が秘密裏にアルバイトし、その最中セクハラ被害に遭っていたあの事件の後、偶然にも看板娘の母親の所在を掴む事が出来たまでは良かったものの、幾度と会えど頑なに自分の娘を引き取ろうとしなかった彼女が、まるで手のひらを返したように突然迎えに行くと言ってきた事にはさすがに自身の耳を疑った。こうなれば意を決して、全員で押し寄せて説得してみようかとまで考えていたというのに拍子抜けにも程がある。

(もしかして、俺らには言えない理由が何かあるんじゃねぇのか…?)

 今まで看板娘の成長を見守ってきた自分と幼馴染にでさえ言えない裏の事情が、もしかしたら看板娘の母親にはあるのかも知れない。確信はないとはいえ、それが絶対にないとも言えない今の状況に一人静かに頷くと、最終的な考えへ辿り着くまでの間、ぼうっとこちらを見詰めては不思議そうに首を傾げる幼馴染に小さく息を吐き、その抜けた表情をしめ直すようにぺちんと指先で額を弾いた。

「いっだい!」
「おい、マゴ。俺にいい考えがある」
「な、なんだよ。急に…」
「まぁまぁ、耳貸せって」

 あまり力を入れたつもりはなかったが、ほんのり赤みが広がった額を涙目で擦る幼馴染の耳元へ顔を寄せ、今し方思い付いた策を澄まさなければ聞こえないような声量でぼそりと耳元に零した。その内容を理解した途端、苦虫を噛み潰した時のように眉間の皺を寄せた彼であったが、今回ばかりは我儘を言っている場合ではない。

「大丈夫だって。失敗しても、協力してくれそうなアテが二人いる」
「へ? お前にそんな友達いたっけ」
「うるせぇな…俺を勝手に一匹狼扱いするな、このアホ」

 苦笑を零しながら冗談を交わしつつも、明日訪れるかも知れない取り返しがつかなくなるもしもの事態を回避する為、今のうちに準備をしておくというのは少々申し訳ない気持ちは残るも悪い事ではない。小さな寝息と共に今も静かに胸を上下させているであろう、看板娘の目を覚まさないよう、朝日を迎えるまでの長いようで短い時間の中、そっと囁くように勢い任せの計画を二人きりで立てたのだった。




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