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誰かの声が木霊したような気がした。反響する脳内で溶けていく聞き慣れた懐かしい声。覚えのあるその持ち主の名前をそっと呟くと、優しい微笑みと自身を包む心地良さに溺れそうになった。
「マゴ」
眩しい日差しが挿し込んだかのように真っ白に視界が塗れた後、ゆっくりと瞳を開いた先に広がっていたのはいつもの古ぼけた木目の天井だった。
「あ…おは、よ」
「もうおはようの時間はとっくに終わったぞ」
「うげぇ」
珍しく大繁盛だった昨夜はとにかく忙しさが半端ではなく、捌けても捌けても訪れる客は衰えず、貸出用のタオルやシャンプーなどもこのような時に限って切れてしまい、自分は店の中で客の対応を、幼馴染の彼が慌てて買い出しへと向かうなどとにかく落ち着かないまま真夜中になってしまっていた。勿論夕飯を食べる暇も、自分達が風呂に入る事も許されず、最後の客が店を出てようやく閉店にまで漕ぎつく事が出来たのは深夜の三時を回った頃だった。
へとへとの体に鞭を打ち、しかしとにかく体を休める以外の事をする気力は互いになく、残された力を振り絞り居間に敷いた布団に二人して飛び込み現在に至る。
どうやらぐっすりと眠ってしまったのか、既に時刻は昼前で昨夜から何も食べていなかった腹の底から情けない抜けるような音が響き、これまた互いに同じタイミングで鳴らしてしまうものだから思わず苦笑を漏らしてしまった。
「メシ、出来てる」
「え?」
「俺が自分から進んで作るなんて滅多にねえぞ。感謝しろよ」
「…あはは、何それ」
皺だらけの布団を押し入れに片付けている間に、コタツ机の上にはほかほかと白い湯気を放ちながら深さのある白い皿の上に鎮座するオムライスが二つ、今時の半熟卵がとろりと流れているものではなく、昔ながらのしっかりと火を通した薄焼き卵、しかし中はふっくらとした柔らかさを残す幼馴染特製の自慢の一品が並べられていた。
おお、と思わず感嘆の声を漏らし、逸る気持ちからか慌ててコップとスプーンを用意して、未だ欠伸を漏らしながらフライパンを洗っている彼に早く早くと思わずその黒い背中を叩いた。
「いでっ! ったく、もう…そんなに腹減ってんなら先に食ってろよ」
「えー、やだ。一緒に食べる。だから早くこっち来て」
「へいへい、今行きますよー…わがままボーイの店主さん」
キュッと水道の栓を締め、振り返りざまに一瞬、爪先で立ち背伸びをしたかと思った直後に顔が影に埋もれ、小さく弾く音を立てながら何か柔らかいものが額へと触れた瞬間に熱くなっていく頬に堪らず彼の肩口へと顔を押し付けた。
「ばっ…く、くっそ! 卑怯だっ」
「油断しているお前が悪い、以上」
「何それ、むかつくー!」
フクに皺が出来る程に握り締めた手に煽る言葉のせいで余計に力が籠っていく。自然と背中へ回った幼馴染の両腕が自身の体を引き寄せ、くつくつと苦笑を落としながらそっと抱き締められたかと思えば、意外にもその体はそっと離れていき、居間へと向かう擦れ違いざまにぽんぽんと頭を撫でながらぼそりと耳元で呟いたのだった。
「…好きだ」
「へっ!?」
「愛してる、トキワ」
「う、ぐぐっ…あぁ、もう! 俺もだよ、バーカ!」
にしし、と調子づきながら耳まで赤く染まりきっているであろう汗顔の至りを尽くす自分を置いて居間の襖をがらりと開ける。まるで立場が逆転したかのように、背後から腹が減った、早く来いと催促してくる幼馴染が心底憎らしく、しかしどこか愛らしいその子供の悪戯のような気持ちの表れに溜息を吐きながらも軽く返事をしながら踵を返すのだった。
「なんだ、ハートでも描いてやった方が伝わるか? ちょっとケチャップ貸してみろよ」
「いーやーだ! お前みたいな卑怯者のオムライスなんてこうしてやるー!」
「…うわっ! 寄りにも寄ってうんこを描くなー!」
コタツ机を挟むように向かい合って腰を下ろし、浮かれていたのか幼馴染が自分の分のオムライスから目を離した直後、咄嗟に皿ごと奪い取っては冷蔵庫から取り出していたケチャップのボトルを逆さにしながらぶにゅりと潰し、見事なまでの三段に積まれた絵を、彼の制止など聞く耳も持たないままど真ん中におおきく描いていく。
「どうだ、うんこライスだ!」
「食べたくなくなるからそういう事言うのやめて!」
げんなりと肩を落とす幼馴染を他所に、げらげらと笑い声をあげてはもう一つのオムライスにもケチャップで簡単な絵を描き、冷めてしまわないうちに手を合わせてはスプーンで掬ったオレンジ色と黄色のふわふわとしたお布団ごと口の中へと放り込む。
「…へへ、おいしい」
「そりゃ、ようござんした」
口の中へと一気に広がっていく卵の甘みとチキンライスのほのかに舌で感じた酸っぱい香り、次第に緩んでいく頬に向かいの幼馴染の表情は幾分か明るさを灯し、つられるように彼もまたオムライスを勢い良く掻き込んでいく。
本日は晴天。ボロ銭湯の一輪の花がこの店に再び咲き乱れる時を心待ちにしながら、窓から覗くきらきらと輝きの絶えない大きな向日葵がまるで全てを見守っているかのようにゆらゆらと風に靡かれていた。
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