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まる月しかく日、夏も終わり秋になり始めた今日この頃のお天気は雲一つない晴天。つまり、とても晴れです。
ママと再会したあの日からいつの間にやら一ヶ月が経ち、珍しく来客の多い店の中はたくさんのインクリングに溢れとても賑やかで、番台に座って対応をする自分も夕飯を食べる間もなく大忙しだった。
本来ならばこの場所に座る事もなくなってしまうのだろうと諦めていたところもあり、ママとマゴ、そして自分が無事に三人で退院できたその日に、半ばやけくそ気味に病院前で自分の両脇に立っていた二人に向かって、これからも銭湯で働きたいという意思を必死に伝えてみると、これが意外にもいとも簡単に承諾の返事をもらう事が出来たものだから呆気に取られてしまった。
「リンがしたい事、これからも続けていけばいい」
「一生懸命働いてくれている従業員をクビにする店長はどこにもいないさ」
くすくすと笑いながらそう答えた二人の優しさに込み上げそうになったものを必死に堪え、自分でも驚く程に情けないくらいぐじゅぐじゅに崩れた涙声でお礼を零した日は今でも忘れられない。
その後、部屋を借りていたヒラメが丘団地から少々離れた場所、しかし店からは歩いて数十分の、少し古いけれどどこか温かみのある、ママと二人で一緒に住む事になったアパートへと引っ越し、店へは来られる時に来てくれればそれでいいよ、というマゴの言葉に甘え、そこから不定期ではあるけれど銭湯へと通う事をママとマゴの三人でそう決めた。
以前の生活とは違い、ママと二人で買い物へ行ったり公園へ遊びに行く機会も増え、時々ばったりと友達のナギと顔を合わせては一緒にナワバリバトルを見に行ったりアイスを食べたりもして、今までからっぽのままだったものが少しずつ満たされているように感じた。
時々、常備している携帯電話にヨリからもメッセージが送られてくる時がある。きっと自分がいなくなって寂しがっているのだろうと勝手に解釈をしながら、次の日にママの手作りクッキーを持って店へと顔を出してあげる事もしばしば増えている(本人に言うと絶対に否定されるけれど、あれはどうやら心細くなっている事に間違いない)。
「リン」
ようやく溢れていた客の対応が一通り終わり、随分と客足が落ち着きつつある夜中の十二時前。
奥の台所で遅い夕飯の準備をしていた、紺色のエプロンを身に纏ったマゴが手を拭きながら歩み寄ってきて自身の名前を呼んだ。大きな欠伸を漏らしながら、どうしたの、と答えるとちょんちょんと彼がどこかの方向へと指差し、その方向に自然と視線を向けると、どうやらまた新しいお客さんが玄関先で影を落としているようだった。
「もう今日はあたし疲れたから閉店だよぉー!」
「あはは。まぁまぁ、そう言わず。どうやら手が離せないみたいだから、代わりに扉を開けてやってくれるかい」
立っているのなら代わりに開けてくれればいいのに、と心の中でぶつぶつと呟き、重い腰を上げ番台から飛び降り、跳ね上げ式の扉を開けては裸足で三和土へと踏み入れると(こらっ!という声が後ろから聞こえたが、聞こえないフリをした)玄関の扉を勢い良く開け放った。
「やっほー、リンちゃん」
「…お、お邪魔します」
「え、えっ…あ、や、焼きイカちゃんに…それに、ママまで!?」
すると、目の前に大きな荷物を抱えて現れたのは、友人であり血の繋がった家族でもある焼きイカちゃんと、今までの経緯もあってか、なかなか店にまで足を運ぶのを躊躇していたママの姿だった。とくに驚く事も無く出迎えたマゴはどうやらこの事を既に知っていたらしく、二人が重たそうに持っている荷物を受け取ると番台のカウンターの上へと乗せた。
「どうしたの、来るなんて一言も言ってなかったのに」
「…さっき、マゴさんに誘われたのよ。一緒にお祝いしようって」
「へ? だ、誰か誕生日だったっけ?」
「全くもー! 主役がこれじゃあ、仕方あんめぇなぁ!」
わははは、と焼きイカちゃんの豪快な笑い声につられるように笑う二人を余所に何が何だか分からないまま話はどんどん前へと進んでいってしまった。マゴに背中を押され、準備をしている間に風呂に入ってくるように言われた焼きイカちゃんとママは楽しげに二人で脱衣所へと向かい、マゴは再び台所へと戻っていってしまった為、一人になった自分は致し方なく居間へと駆け戻り、恐らく事の次第を知っているであろうヨリの元へと向かった。
「ねー、ヨリちーん!」
「あんだよ、バタバタうるせぇな」
「ママきた!」
「あぁうん、知ってる」
「焼きイカちゃんもきた!」
「だから、知ってるって」
「何で知ってるんだよ、バカー!」
「うわっ、いてぇ! やめろ、殴るな!」
生意気にも座布団を枕にして横になりながら煎餅を貪るヨリの背中をぽかぽかと殴り、自分だけが状況を掴めていない事に気付いたら何故だか無性に寂しさが胸に募り、もういいよと一言零しながら、居間を出てマゴのいる台所へととぼとぼ歩きながら向かった。いつもより不思議と豪勢な料理がいくつも並べられている目の前の不可解な現実を不審に思いつつ、ジョワジョワと音を立てながら揚げ物をしている彼のエプロンの端を摘まんではちょいちょいと引っ張った。
「ん? どうしたの、リンちゃん」
「…マゴにいのいじわる」
「えっ…お、俺何かしちゃった!?」
「誰も教えてくれないの。あたしだけのけ者にするなんてひどい! 列記としたいじめ! 訴えてやる!」
「ちょ、ちょっと待って! 分かった、分かったから! ごめんよ、とっくの前から気付いてるものだとばっかり…」
意地を妬けている間にだんだんと寂しさが怒りへと姿を変えてゆき、ばしばしと引っ叩くように薄めの臀部を握った拳で叩いていると、慌ててガスコンロの火を止めて菜箸を置いたマゴがどうどうと頭を撫でながら腰を落とし、しっかりと目線を合わせながら、ごめんねと一言零しては頭を下げた。
「…仕方ないなぁ。許してあげるから、隠してる事全部吐いてください」
「え? えと…そ、それじゃあクイズ! 今日は何の日でしょう」
「へ? うん、と…えっと、何だったかなぁ」
「そんなあなたにヒントを差し上げます。デデデン! この店で、リンちゃんが初めてこの…揚げたての唐揚げを食べたのはいつでしょう」
いくら考えてもクイズの答えが思い付かない自分を察してか、既にいくつか皿に盛りつけてあった鳥の唐揚げを菜箸でひとつ挟み、ゆっくりと口元へと運ばれたそれを大きく開けた口でがぶりと勢い良く噛み付いてみる。
「んんっ〜おいじ」
その瞬間に口の中に広がっていくジューシーな鶏の油、そして柔らかな揚げたての肉と衣が、丁度沸き立ち始めていた食欲を一気に満たしていくようだった。と、同時にマゴの出した問題の答えをようやく思い出したのだった。
「…あっ! 待てよ…もぐもぐ…今日って、あたしが…もぐ。初めてこのお店に、来た日…もぐ」
「おっ、それでそれで?」
「…マゴにいに、この店の看板娘、やってみないかって…言われた、日だ…」
「……正解」
あつあつ揚げ立ての鶏の唐揚げをごくりと飲み込みながら、呆然となりつつある頭の真っ白になった自分に苦笑しつつも、拍手を贈っているマゴはよく出来ましたと言わんばかりにそっと頭を撫でながら、しかしその声は決して軽いものではなく、目を細め静かに微笑みを浮かべる彼の表情は真剣そのものだった。
「一年前の今日、俺は君と出会っていなければもう生きていなかったかも知れない。ヨリと再会する事も、過去に向き合う事もきっと出来なかったと思う。だから、俺に希望を与えてくれた君との出会いの日を、今までの感謝も込めてどうしてもお祝いしたかったんだ」
「ま、マゴにっ…!」
「…っていう、まぁ。俺の我儘なんだけど。彼女達も賛成してくれたから、こうしてちょっとしたね、パーティを…うおぉっ!」
頭の先からつま先まで身体中に熱さが帯びて、思わず目の前の細い腰へと追突するように力いっぱい抱き着いた。それでも身に沁みる程に感じられる溢れる幸せな気持ちに思わず目頭が熱くなっていく。
「うっう…マゴにっ、さっきは…訴訟しようとしちゃって、ごめんね…」
「え、あ、うん…それは別に気にしてないけど…」
「あたしも、マゴにいやヨリちんがいたから、ママにも会えて焼きイカちゃんにも会えたんだよ。一人ぼっちのままだったら、きっとずっと、立ち止まったままだった」
「うん」
「だから、その…あたし、みんなの事が大好き。これからもずっと、一緒に笑っていたい。マゴに、ありがとう…っ」
マゴに会うまでは、泣いてばかりの弱虫のままではいけないと自分自身に言い聞かせてきた。泣くぐらいなら手と足と脳を動かせと、そうすればいつか報われる時が来ると信じて。しかし、マゴとヨリと共に銭湯での生活を始めてから、泣く事が弱さではない、言葉ではあらずとも弱さを見せる勇気が強さに繋がる事を知った。だから、涙を流す事は本当の強さでもあり、心と気持ちが通じ合っている証拠なのだと思えるようにもなった。
(これからもずっと…それを教えてくれたみんなと、一緒に生きたい)
二人、狭い台所で抱き締め合っている最中、背後からぽんぽんと頭を撫でられふと後ろを振り返ると、つまらなさそうな顔でリン、と自分の名を呼んだ(初めて、呼ばれたような気がする)ヨリが何かを両手に持って目の前に立ち尽くしていて。
「ほれ、俺からの祝いだ」
「あっ…これ」
「奢りだ、持ってけ」
「ひうっ! …あ、あり、がと」
ぺちょんと頬に押し付けられた冷たいそれは、ショーケースでしっかりと冷やされていたビンのコーヒー牛乳だった。そして、彼から後を継ぐように風呂から上がってきた二人が、番台のカウンターに置いてあった、きれいな包装紙に包まれた箱を抱えながら台所へとやってきて、先程から気になっていたそれを不思議そうに見上げていると、余程物欲しそうな顔をしてしまっていたのか、ママが嬉しそうにその箱を自分にの目の前へ置いてくれた。
「こ、これ…あたしに?」
「そうだよ。これは、私と彼女から。もらって、くれるかな」
「あ…う、うん。開けてもいいかな?」
「もっちのろん! ほら、早く開けてみてよリンちゃん!」
今か今かと開封の瞬間を待ちわびていた焼きイカちゃんに急かされて仕方なく解くには勿体ない程オシャレに飾られたオレンジのリボンをゆっくりと解き放ち、丁寧にセロテープを剥がしながら包装紙を剥がしては包まれていた箱の蓋を開けると、その中には予想にもしていなかったものが中に入っていた。
「あっ…うそ、これ、本物!?」
「ま、ちょーっとお古をリメイクしたヤツだけど」
「あのなぁ、一応これでも俺が愛用してた筆なんだぞぉ…」
「え! こ、これ…マゴにいのパブロ!?」
きんきんに冷やされたコーヒー牛乳を一気飲みした後、マゴのお下がりだという分解された状態のそのパブロを恐る恐る手に取ってみた。初めて触るブキのつやつやとした感触。しかし、使い古されているもどこか温かみを感じる細かな傷の残ったパブロは確かにしっくりと小さな手の中に収まった。
「ブキチのヤローにちゃんと頼んで修理してもらったから、列記としたブキとして使えっぺ!」
「ほ、ほんと!? あたしも、みんなとバトル、していいの…?」
心臓の高鳴りが収まらないまま、お下がりのパブロを胸に抱き締める自分を横目に、その場で腰を降ろして嬉しそうに口角を上げていたマゴが優しい灰色の眼差しで静かに頷いていた。
「勿論、いいよ。ただし、まだ君は他のバトルに参加しているインクリングと比べて幼い上に体も小さい。もちろん力もないし、ギアを身に付けたところで泳ぎも遅いだろう。それでも挫けない気持ちがあるのなら、ね」
「大丈夫だって。アタシがオロシちゃんにみっちり指導してもらうよう、頼んどいてやっからよ!」
「そ、それはそれで色々と不安なんだけど…」
彼女の友人であり、自分の師匠とも言えるフデオロシちゃんの名前を出した焼きイカちゃんにげんなりと肩を落とすマゴに思わず苦笑してしまった。それでもいつの日かと夢見ていた日々がもうすぐ訪れるのかと思うと居ても立っても居られず、早々に組み立ててしまった、まだインクの出ないパブロを構えては店の玄関まで流れるように勢い良く筆を滑らせ走り抜いていく。
「あたしー! 頑張るからー!」
天井を見上げながら叫びを上げて、店の中をぐるぐると駆け回る自分の姿を後ろから眺める家族の温かい笑い声に包まれながら、まるで止まることを知らないかのように前へ前へと突き進んでいく。今まで躓いていたばかりの道を嘘のように飛び越え、いつしか広い広い青空の下、高らかにステージ中に響き渡るホイッスルを耳にして、オレンジ色のインクをぶち撒ける日を夢見ながら。
(…応援、していてね)
静かに瞼をそっと閉じたその時、極めて近く限りなく遠い何処からか覚えのある声が聞こえた気がした。
(2016.11.24)
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