「お前、まだそれ残ってんのか」
「へ?」
日付を跨ぎ夜も更けてきた頃、すっかり客足が途絶えたところで店を閉め、たまには二人でゆっくり風呂に入ろうと幼馴染に提案されたのは今から数分前の事。本日の売上を計算して帳簿に記入した後、先に脱衣所へと向かった背を追うように男湯の暖簾を潜り、既に半裸になっていた彼の横で自身も素早く衣服を脱ぎ捨てては籠の中へと投げ入れた。その際にたまたま目についたのか、右手首の内側、自身さえも忘れかけていた微かな痣に目線を落とした幼馴染がその手を掴んではじっと見詰めていた。
「…あぁ、よく気付いたね。俺でさえ忘れてたのに」
「お前なぁ…こっちはヒヤヒヤもんだったんだぞ。忘れるわけねぇだろが」
「そこまで、だったっけ? 正直言って、あの時の事あんまり覚えてないんだよなぁ」
一応自身の記憶に残っているあの時の事、というのはまだお互いに幼くもう一人の幼馴染、シノブと三人で養護施設に暮らしていた頃の話である。彼とシノブはどうも相性が良かったのか悪かったのか、話をする度にぶつかっては言い合いになり、酷い日には掴み合いにまで発展するものだから毎回自分が仲裁に入るものの、到底力で敵うはずもなく返り討ちに遭っては一人悶絶するところでようやく喧嘩が収まるのが日常茶飯事であった。
と言えど基本的には仲が良く、夏祭りなどの催し物には三人で出向いて楽しく遊んでいたし、施設内の広場で鬼ごっこやかけっこではしゃいでいた記憶もある。しかし、この右手首の痣が出来た日だけは二人にとって珍しい事態へと陥っており、実に印象深い出来事が起きていたのだった。
「ええと、確か…俺とヨリが珍しく大喧嘩して…何が原因かなんてもう思い出せないけど、俺がすっごい怒ってたんだよね。それで施設の外まで飛び出してさ、一人で泣きながら暗くなるまで公園でいじけてたっけ」
そう零しながら懐かしさで物思いに耽っていると、何故だか眉間に皺を寄せては気難しい表情でこちらをじとっと重く見つめてくる幼馴染に思わずびくりと体を震わせてしまった。何か気に触る事を言ってしまっただろうか、と少々不安を募らせていると小さく溜息を吐きながら風呂場へと足を運び背を向けたまま一言、ぽつりと声を暗く落としたのだった。
「…今思い返してみても、変な汗が出んだよ。あの時、お前の手を掴み損ねなくて本当に良かったって」
その言葉を耳にしたその時、大きく背中を裂くように刻まれた古傷が今だけはより一層寂しさを帯びているような気がして、辺りに漂う重い雰囲気を振り払うように堪らず早足で追いかけてはその腕を掴むと、振り返った幼馴染は想像していた通りにどこか不安げな面持ちで目を細めていた。
***
きっかけが一体何だったのか今ではもう覚えていない。既に人型になれるようになっていた十二歳の夏、義母に今日からここで暮らそうと唐突に言われ、連れて行かれた先が自身が赤ん坊の時に玄関先で捨てられていた養護施設だった。ただでさえあまりいい思い出のないこの場所で、しかも知らないインクリングばかりが住んでいる上、いくら義母の勤め先といえど一人で暮らすなど到底考えられるはずもなく、しかし自分を拾って今まで育ててくれた彼女の好意を蔑ろには出来なかった為、渋々入所した先で出会ったのがトキワとシノブだった。
初めての同年齢の友人という事もあってか、多少の衝突はあれど毎日を共に過ごしていれば少しずつではあるも自然と互いを理解し始め、いつしか友人と言うよりは家族のような親しみ深い関係を築いていた。そんな中、トキワと普段は滅多に言い合いなどする事もなかった(というよりは喧嘩をふっかけたところで彼が訳も分からないまますぐ謝るか、それどころか何を言われているのか分かっていない天然ぶりのせいでいつも喧嘩にまで発展しない)というのに、あの日だけは絶対に譲れんとばかりに意地を張り、それが頭にきてしまったものだから自身も強い言葉を彼に対して言い放った事が確かにあったのだ。
「お前なんかどっか行っちまえ!」
「言われなくてもこんなとこ、自分から出ていくよ! …ヨリの、ばかっ…ばーか!」
細められた灰色の瞳から生まれた綺麗な雫がぷっくりと浮いて、それを弾け飛ばすようにすぐさま背を向け外へと出ていったトキワをすぐ追いかける事など出来るはずもなく、相変わらずの不器用さを露呈させて一番に苛立ちを募らせたのは勿論自分自身で。すぐ側で珍しく黙って様子を見ていたシノブはちらりと視線を送ってくるも、すぐに察した彼女は一言、バカヨリ、とだけ溢しては彼の後を走って追っていった。
(…ンな事、俺が一番分かってるっての…)
あれだけ声が反響していた広い部屋は一瞬で静けさに満ち、その中に一人ぽつんと残されて次第に冷静さを取り戻した時、数十分前に突然トキワに掛けられた言葉が何度も何度も頭の中で繰り返されては大きく溜息を吐く。
「…いきなりすぎんだよ、いつもいつも。言葉の意味も分かってねぇくせに、あの、アホ…」
彼と初めて出会ってから既に一年以上が経っている。普段温厚なトキワが先程のように怒りの感情を露わにして言葉として思い切りぶつけてきたのは今回の事が初めてだったと思う。お互いに言い方が悪かったというのも、またどちらが悪いという問題でもないのは理解していた。しかし予想もしていなかった事を問い詰められ、気が動転した末に口喧嘩へと勃発してしまったのは明らかに自分のせいだった。彼はただ、純粋に自分が分からないと思っていた事を、その答えを知っていそうな存在に軽い気持ちで問いかけてみただけだったのだから。
「あぁ、もう…くそ! 仕方ねぇなぁ!」
幼少の頃から頭を使うのは得意ではない。それならば今の自分に出来る事は思いついた事から行動する事、ただそれだけだった。ごちゃごちゃになった頭を悩んでいたものごと振り払い、勢い良く廊下へと飛び出しては職員のおばさんの怒声を浴びながらも施設中を駆け回っていた最中、同様にひと足早く彼を追っていたシノブを見つけるもそこにはトキワの姿はなく、それどころか息を荒げ今にも泣きそうになりながらその場に座り込んだ彼女が声を震わせ必死に紡いだ言葉に耳を疑ってしまった。
「っ…トキ、トキが…ほんとにいなく、なっちゃった…!」
***
原因は些細な事だった。たったひとつの質問をきっかけに、自分でも驚く程に彼の態度には腹が立ち、そこからどんどん論点のずれていく言い争いの末、むしゃくしゃした気持ちのまま勢いで外へと出ていった先は一度も来たことのない、恐らく養護施設からもかなり離れた場所にあるのであろう小さな公園だった。頭がほとんど真っ白の状態で駆け抜けてきたものだから、どうやってここまで来たのかさえ覚えておらず、既に日が落ち掛け始めている時間帯であった為、このままだと今日のうちに帰れないかも知れない、という不安が過ぎったものの、戻ったら戻ったでヨリと顔を合わせなければならないと思うとなかなかその気にもなれなかった。
「…はぁ」
俯きながらとぼとぼと園内を歩き、錆だらけのブランコに腰を降ろしては再び溜息を漏らす。そうしたところで解決などしないと分かりきっていたものの、今はただこうして一人になりたい気分だったのかも知れない。爪先で地面を蹴り、キイキイと金属の擦れる音、辺りを照らしていた夕日も次第に沈んでいき、砂場で遊んでいた小さな子供達も母親と手を繋いでは共にその姿も消してゆく。砂場に残された忘れ物のスコップが山に突き刺さったまま、それをじっと眺めては振り子のように動いていたブランコは自然とその動きを止めた。
それなりに広い公園にぽつんとたった一人残され、今では懐かしいとも思えるその寂しさの中で思い浮かぶのはやはり二人の姿ばかりで。
「また、ひとりぼっちになっちゃった」
側にいなくなってようやく彼らという存在の大きさに気付く自分の愚かさに情けなささえ感じ、このままもう二度と会う事が出来なかったらと思うと視界がじわじわと滲み始め、肩を震わせながら嗚咽を上げる弱さに涙を拭う力も篭もらない。
シノブとヨリに出会うまで同年代の友人はおろか、物心ついた頃から家族もおらず、身近にいた職員のおじさんやおばさんには良くしてもらってはいたものの、それでもふとした瞬間に感じる孤独さはどうしても拭えないものだった。
今となってはそんな感情もすっかり忘れさせてくれる程に二人との日々はかけがえのないものになっていて、家族のような繋がりとも思えるぬくもりはいつだって心を潤わせてくれた。それに再び気付いた今、すぐにでも養護施設に戻ってちゃんと謝りさえすれば許してくれるかも知れない、そう思い、勢い良くブランコから飛び降りたその時だった。
「こんな時間に、一人でどうしたの?」
そっと声が聞こえてきた薄暗い公園の入り口からゆっくりと中へ入ってきたのは見覚えのない大人のボーイだった。すぐ側へと歩み寄ってきたので恐る恐る見上げると、にこにこと優しい笑顔を浮かべては視線を合わせるように腰を下ろし、心配そうな顔つきでこちらの様子を窺っている。人見知り故に緊張してなかなか声が出ず、それを察してくれたのか、おいでと声を掛けて手を差し出されたので、素直に左手を重ねるとそのまま目の前のベンチまで一緒に歩いていった。すると、ここで待っていてと一言残しては再び公園の外へと出ていった彼はしばらくして再び戻ってきて、手に持っていたものを一つこちらに手渡したのだった。
「日が落ちるとさすがに寒いよね。これ、飲んであったまろっか」
「あっ、あり…がと」
握った缶からじんわりと伝わる熱が自然と表情を和らげ、ようやく緊張が解れてきたようでコーンポタージュと印字されたそれに口付けてはぐいっと口の中へと流し込んだ。小さな甘い粒がとろけたスープと一緒に落ちてゆき、すっかり空いていたお腹が少しだけ満たされたようにも感じる。思わず夢中になって飲んでしまったものだから隣りでくすくすと笑っている声にしばらく気付かず、照れ臭さに思わず俯いているとぽんぽんと優しく頭を撫でてくれた。
「ボク、この辺じゃ見ない顔だけど。どこから来たの?」
「…あ、えと…俺、施設に住んでて。でも、さっき友達とケンカして、その…」
「…一人で飛び出してきちゃったんだ」
「う、ん…」
少しずつでも自然と事情を話す事が出来たのは、不思議にも彼から感じる自分に対しての物腰柔らかな態度や雰囲気から引き出されたもののおかげかも知れない。
まだ出会って間もない自分の悩みを何も言わずに親身になって聞いてもらっているうちに、次第に明るみを帯びた日の光は静かに沈み、辺りはすっかり暗闇が広がりつつある頃、さすがにそろそろ帰路を辿らなければならないと慌てて腰を上げると咄嗟に腕を掴んできた彼が立ち上がりながら一言、想像もしていなかった事を呟いたのだった。
「ねぇ、トキワくん」
うちに来ないかい。どこか焦燥したような表情を浮かべながらそう告げた彼が放った言葉の意味がその時の自分には理解出来なかった。そして今の今までは確かに見えなかった黒く濁った瞳が自身の動きを縛り付け、声さえ上げられないままに体が彼の胸の中へと吸い込まれてゆく。
「大丈夫。明日、ちゃんとおうちに帰してあげるから。だから、今日は…」
ずりずりと足を引きずられる程に強い力で腕を掴まれ、しかし何が起こっているのかまるで理解が追い付かないばかりに恐怖と不安で嫌だと抵抗さえ出来ず、どくどくと頭の中でうるさく響く鼓動に頭は真っ白になっていく。
(こんな時、どうしろって、言われたっけ。怖い、どうしよう…分かんない、分かんないよ…!)
ヨリ。その瞬間、ふと思い浮かんだのはつい先程喧嘩別れをしたばかりの彼の姿だった。そして、その直後にもう片方の腕が何かに引っ張られた感覚を帯び、無意識に後ろを振り向いて見ればそこには今まさに心の中で呼び続けていた存在が、必死な顔で確かに自身の手をぎゅっと握り締めていた。
「…トキワ!」
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