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あと数分、トキワの姿を捉えられなかったらと考えただけで全身に嫌な汗が吹き出した。
施設内にもう彼はいないと分かった時点で、シノブの制止を無視しては自身も無意識のままに外の世界へと飛び出していた。この養護施設に入所する前は義母が帰ってくるまで家の近くをうろうろしていた事もあり、何処に何があるのかなどは分かっていた為トキワが行き着いていそうな場所は大体絞り込めるだろうと思っていたものの、意外にもその姿を見つけるまでには時間がかかってしまい、いつの間にか辺りは暗闇に包まれつつあった。
そして一か八か、養護施設からかなり距離の離れた公園へと走って向かってみれば、知らない大人のボーイに腕を掴まれて引き摺られそうになっている幼馴染がそこにいて。
「あっ…う、ヨリぃ…!」
自分でも気が付かないうちに彼の側へと駆け寄り、その細い腕をしっかりと掴んではその身を胸の中へと顔を押し付けるように抱き締めた。子供の力といえど、突然反対方向へと引っ張られていった体に驚いたのか、大人のボーイがフクの袖に皺が刻まれる程に強く掴んでいた手はいとも容易く離れていった。
「このバカ! さっさと帰るぞ!」
「う、うんっ」
呆然とこちらを見遣る大人のボーイを、自分よりも少し背の低いトキワの頭上からぎろりと睨み上げ、肩を震わせながら身を寄せる胸の中の存在を守るよう腕に力を込める。すると、小さく溜息を吐きながら見下ろしてくる目の前の彼は奪い返すような仕草をする事もなく、それどころかにやりと口角を上げてはゆっくりと声を落としたのだった。
「おや、もしかして君が?」
「…何がだよ」
「俺は別に二人でも構わないよ。もう夜も遅いし、今日は…」
「うっせぇな! 二度と声掛けんな、バーカ!」
吐き捨てた暴言に躊躇う事なく再びこちらへと伸ばしてきた手を力いっぱいに振り払い、咄嗟に泣きじゃくるトキワの腕を掴んでは逃げるように公園を後にした。不安と恐怖で真っ白になっていく頭をぶんぶんと横に振り、暗い闇に沈んだ帰り道を二人で必死に駆け抜けてゆく。道は間違っていない。このまま真っ直ぐ、見覚えのある住宅街を抜ければその先に、今も不安を抱きながら二人の帰りを待っているであろうシノブの待つ自分たちの住む家が建っているはずだった。
背後に誰もいない事を確認しつつ、完全に息の切れたトキワを背負いながらちらほらと空に伸びる電灯の明かりを頼りに一歩一歩前へと進む。小さな頃から運動も好きで体力もある方だった為、義母と二人で小さなアパートに暮らしていた時は家事と遊びを上手く両立していたつもりであったし、その生活に不満を持った事もあまりなかった。しかし、年相応の友人が全くいなかった自分を心配した義母が、何を思ってか仕事場である養護施設への入所を勧めてきた時はさすがに驚いた。勿論、今となってはそのおかげで二人と出会え、その上で大切な存在が増えた事は素直に嬉しいと思えた事であったし、彼らがかけがえのない友人且つ家族である故にこれから先も三人で日々を過ごしたいと思っていた。
「…ね、ヨリ」
そんな事を考えていた最中、泣きやんだ後はしばらく無言を貫いていたトキワがそっと耳元で声を落とし、素っ気なく返事をしてみれば弱々しくもそのまま言葉をゆっくりと連ね始めた。
「あの、ね。その…ありがと」
「何がだよ」
「た、助けて、くれて」
「別に。たまたま通りかかっただけだっての」
擁護施設から遠く離れたあの公園に通りかかったなどという嘘はすぐにバレてしまうだろうと分かってはいたものの、今になってそういえば喧嘩をしていたのだと気付いてしまったものだから、自分の気持ちに素直になれず変にツンケンとした態度を取ってしまうのは自覚をしている程の悪い部分でもあり。それを知ってか知らないか、そのまま肩を落とし口を萎ませてしまったトキワの方へちらりと振り向いては小さく溜息を溢した。
「…お前さ、何であんな事聞いたんだよ」
「へ?」
「昼間お前がふっかけてきた話!」
「あ、えっと…それは、その…ごめん」
「謝んな。そんなつもりで言ったんじゃねぇし」
喧嘩の発端とも言える、自分に対し彼が持ちかけた話というのはあまりにも突拍子な内容で。それを耳にした瞬間にどくりと胸の奥の心臓が強く唸り、一瞬頭の中が真っ白になってしまいしどろもどろな態度を取ってしまったけれど、今であれば冷静に答えられるような気がした。
「…俺ら、元々みんな一人だったろ。どう思ってるかなんて聞かれても、正直なんて言えばいいか分かんねぇ…けど」
「けど…?」
「俺はお前らの事、血は繋がってねぇけど大切な家族だって思ってる」
本当はそれ以上の思いがある、とはさすがに言い切れず、しかし静かに俯いて頬を染めたトキワにそっと笑みを零すと、今度は自分の番だと言わんばかりに咄嗟に顔を上げた彼は少し照れくさそうにぼそりと呟いたのだった。
「あ、のね…俺、俺も、ヨリと同じだよ。でも最近ね、変なんだ。ヨリといるとすごく…安心して、だけど少しだけドキドキして、すごく不思議な感じ。だから、何でだろって思って…それで…」
「っ、あぁもう…分かった! もういいよ、よく分かったから!」
「分かったって何が?」
「うっせ! お前はもう俺に質問すんの禁止!」
「な、何でよぉ! ヨリのケチんぼ!」
彼の言葉で更にばくばくと暴れ回る心臓がうるさくて堪らない。そのあまりの激しさに密着した体へと伝わってしまいそうで思わず止めていた足を急激に踏み出しては、夜の街を一気に駆け抜けてゆく。荒くなる息遣い、風に乗る二つの体、耳元で楽しそうに笑うトキワの声と、いつの間にやらお互いに喧嘩をしていた事など遥か彼方へと忘れ去り、ようやく見慣れた養護施設へと帰ってきたのは普段であれば既に寝静まっている頃だった。
当然の如く、養護施設の職員や義母には二人揃ってこっ酷くお叱りを受け、一人帰りを待っていてくれたシノブには殴られるわ蹴られるわの酷い有様で、しかしその後にあの気の強い彼女が目を真っ赤にして抱き着いてきたものだから、今回だけは自分よりも華奢なその体をそっと受け止めてあげた。
「…今日の事、誰にも言うなよな。どうせ心配掛けるだけだし」
「あ、うん…そうだね。二人だけのヒミツ」
「おう」
二人揃って大きなたんこぶを頭上に作りながら、トキワの部屋のベッドに腰を下ろし、パジャマの袖の影に見えた仄かな青痣を見つけては静かに手を重ねる。不思議そうにこちらを見つめる灰色の瞳を他所に目を細め指先で撫でると、照れ臭そうな表情で目線を反らし、一瞬引っ込めた腕を優しく握ってはその細い体ごと肩がぶつかる程に引き寄せた。
「…ヨリ?」
「……心配、かけた罰。おら、寝んぞ」
「え? ちょ、何言っ…うわぁ!」
一人用の布団の中へと吸い込むように二人で潜り、ぼんやりとした暗闇で体中を弄ればけらけらと声を上げて笑うトキワにつられて思わず腹を抱えた。そのままやられやり返しを延々と続けていくうちに力尽き、すっかり眠り込んだおかげで寝坊をした次の日には二人まとめて怒り心頭のシノブに叩き起こされたのだった。
***
「あっー…いいお湯」
「いつもと一緒なんだけどな」
「それでも」
真っ白な湯気が辺りを包み込み、ゆらゆらと揺らぐ視界と体の芯からじんわりと心身を温めてくれる湯に浸かると自然と瞼が下がってゆく。大きく息を吐きながら水色のタイルに背を預けてぐっと前へと両腕を伸ばしては喉元を伝う汗が湯船へと帰ってゆく中、そっと隣りを見遣ると何故だかその指先へと視線を送る幼馴染がいた。
「…もー。ちょっと心配しすぎ」
「だってよ…」
「大丈夫。俺だって忘れてたくらいなんだから」
「そら、まぁ…別に大した事ねぇっつー事くらい、分かってっけど…」
「なら、何をそんなに気にしてるのさ」
歳を重ねていくにつれて色褪せ始めていた子供の頃の記憶。それと共に当時の傷跡もほとんど薄く消えかかっていて、一体彼は何を気にかけているのだろうと不思議に思い首を傾げると、右の手首を湯から取り出すように持ち上げ、自らの口元へと運んではあろう事かそのまま痣のある部分へと口付けを落としたのだった。
「ちょっと、ヨリっ…!」
「…もう二度と、こんな跡、残させねぇから」
「っ、よくもまぁ、そんな台詞を恥ずかしげもなく…」
「う、うるせぇな。…これでも一応、真面目に言ってんの」
あまりに唐突過ぎる言葉に頬を染めながらも思わず突っぱねた態度で返してしまうも、それでも表情を変えずに自分を真っ直ぐ見据える彼に致し方なくこちらも合わせるように視線を向けた。すると掴んでいた腕をそのまま引き寄せ、自然と幼馴染の胸元へと収まった体の背に回るもう片方の腕、肩口に埋まった顔とぴったりと密着した互いの胸、いきなり何をするのかと文句をぶつける隙もなく、今度は首筋へと弾けたリップ音で再び上昇した熱に頭の中はふわふわと揺れ始めていた。
「あ、う、ぅっ…も、やめて、って」
「いーやーだ。なんか、こうしてたい気分なの」
「そんな事言ったって、俺が保たないよっ」
ただでさえ水温の高い湯船の中で抱き締められ、更に激しく鼓動する心臓が全てを掻き回されている気がしてこのままでは逆上せてしまいそうな気がした。それを察してか、突然腕を両脇へと差し込み持ち上げられ体を肩に担がれたかと思えば、ざばんと湯船から出てはそのまま脱衣所へとのしのしと向かう幼馴染に、慌てて背中をぺしぺしと叩きながら必死に不満を訴えた。
「降ーろーしーてっ、このアホヨリ!」
「保たないっつーから風呂上がんだろが。寝室でならどれだけ抱いても逆上せねぇだろ?」
「そういう問題じゃ…っ、ぁ…ば、ばかっ! お尻揉むな!」
頭の後ろでにししといやらしく笑う幼馴染のどこか楽しそうな声と、しかし自身の体を支える腕に籠もる力が不思議と何かが込められたものを仄かに感じ、小さく溜息を吐きながらも今夜だけはされるがままになってやろうと諦める事にした。
「絶対ぇ……さねぇ、からな」
「…今、何か言った?」
「いいや、ただの独り言」
今朝洗濯したばかりのやわらかな枕に頭を沈め、二人して一糸纏わぬままに襖の僅かな隙間から差し込む光のみに照らされた、寝室に敷かれている縒れた布団の上で体を重ねては、意識が熱に浮かれる中で呟かれた言葉はふわふわと宙へと舞ってゆく。見上げた先で細められた薄茶の瞳、その艶やかさに目を奪われたまま視界から外れ、胸元でちくりと感じた一瞬の痛みと共にゆっくりと瞼を落とし、昨日までの彼と比べ微かに伝わる違和感をひしひしと感じながらもその身の全てを托したのだった。
(2019.01.28)
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