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事前に知らされていた時刻に顔を出さなかった上、連絡の一つも寄越さなかったという時点でこちらから電話を掛けなかったのを今更後悔しても遅いという事くらいは嫌でも理解していた。
日も落ち人っ子一人見当たらない程に暗い闇の中を一人、息を上げながら唸る心臓を胸元で抑え付け、先程から脳内で延々と響き渡る親友の言葉がずきずきと体中に突き刺さり、その重みを振り払うようにただただ必死に地面を蹴り続けては前へと足を踏み出した。目的地である廃ホテルの姿を難なく捉えては壊れかけたガラスの扉を乱暴に押し開き、廊下を駆け巡りながら告げられた部屋の番号を探す。
(何処だ、何処にいる…!)
砂を蹴り埃が舞い、トレッキングライトの靴底が地を滑る音だけが建物の中で響き渡り、ようやく探していた部屋番号が視界の中へと写り込んだ瞬間にドアノブを掴んではその場で一瞬呼吸を止め、胸の奥から大きく息を吐いてはゆっくりと手首を捻った。
(…ッ、この、臭い…)
部屋の中は古びた建物の鼻をくすぐるような埃っぽい空気とその中に混じる妙に生々しい臭い、そして恐る恐る寝室へと足を伸ばしたその先に広がる光景はまさしく目を疑う程に凄惨たるものだった。
「……ヒナタ?」
思わずまともな声さえも出なくなった上に情けなくもその場から身動き一つ出来なくなった自分の弱さに絶句する。目の前の湿気たダブルベッドの上で横たわり身を縮めた相方の体には見た事もない複数の青痣が散りばめられ、重ねられたように弾けた血痕が白い肌の上に滑り、しわくちゃになったジップアップカモに隠された下半身の影から確かに垣間見える、シーツの上に点々と染みとなって変わり果てていた白い痕跡が確かに色濃く残されていた。
頭の中は自身の暴れまわる心臓の音に支配され、数分前まであれだけ血眼になっていた存在が確かに目の前にいるはずなのに、棒立ちのまま固まりきった体は一ミリたりとも動かす事が出来ない。
「…う、ぁ…」
「!」
痛い程に冷え切った汗が背中に流れ、息を呑み気付かぬうちに震えを帯びた拳を握り締めていると、まるで死人のように倒れた体から小さな声が漏れたのを確かに聞いた。その瞬間、覚醒したかのように軽くなった体は無意識にその元へと駆け出し、まるで自身を戒めるかのように彼の名を叫んだのだった。
「ヒナタ…っ」
何度繰り返し名前を呼んでも動かない彼の腕を掴み上げ、底から込み上げる苦しみから逃れるように胸の中へと閉じ込めては、腕を回し力いっぱいにその傷だらけの体を抱き締めた。
ぐったりと項垂れた赤の滲む背中、声が届いていないのか視線は合わず、ただただ凭れるように自身へと身を任せている相方は一向に応えない。
(何でっ…どうして、コイツが…!)
何も言わなくとも、ここへ来る数十分前までにこの場で一体何が起きていたのかという事くらいは一目見ただけで瞬時に理解した。乱れた白いシーツと周りに落ちている衣服、そして彼が受けたと思われる暴行の数々を想像するだけで、情けない事に思わず目を背けたくなった。
あんなにも日に照らされてきらきらと輝いていた海色の瞳は淀むように濁り、小刻みに揺れる手を痛いくらいに握り締めてもその震えはいつまでも消えず、ベッドの上で二人体を重ねては蹲り動けずにいるまま数分が経った頃。俯いていた彼の顔がゆっくりと上がり、虚ろだった瞳と自身の赤がぶつかったその瞬間だった。
「あ…あぁあ、や…だ、ぁっ…」
「おい、しっかりしろ!」
「…う、うぅうっ…! い、やだ…離せ、離してぇっ!」
今までの静まりが嘘だったかのように急に暴れだした相方を押さえつけるのは非常に困難であり、まるで自分の存在を拒否されるかのように突き飛ばそうとする腕があまりに辛く、目頭に熱が篭もりそうになるのを必死に耐える事しか出来ない。
これ以上手を伸ばす事も出来ずに一歩後ろへ怯えるように下がった彼は両手で耳を押さえ、側に丸まっていた薄い布団を頭から被ってはそのまま再び動かなくなってしまった。
「…っ」
「……ん、…なさ…」
「…やめろ」
「ごめん、なさい…!ごめ、ん…ごめんなさっ、い…」
「もう、謝らなくていい」
「う、うぅ…う、ああぁっ…!」
一歩一歩、膝を引き摺りながら這うように側へ寄り、布越しに優しく撫でながらもう一度彼の腕を掴み、白に包まれたままの彼の耳元でそっと言葉を落とした。すると、ぽつぽつと返る今にも崩れてしまいそうな程に揺れる不安げな声があまりに胸の奥を突き刺し、思わずその腰へ腕を回してはそっとその身を抱き寄せた時、はらりと落ちた布団の中から剥き出たその表情は涙でしわくちゃで、無理に擦り上げて赤くなってしまった目元を指先で触れるように撫でた。
「すごく、こわ、くて…でも、きもち、よくて、俺…違う、そんな、つもりじゃ」
「ヒナ」
沈むようにベッドへ落ちていく、白以外に身包み一つ纏っていない上半身を覆い、まるで壊れ物に触れるように抱き寄せれば、彼の激しく揺れ続ける心臓が伝わる程にその身を任せると、首元に蹲るように涙を押し付けたその熱さが自身の体さえも硬直させていく。
「あっ…、あぁ…! サキ、行かな、いで…サキっ…!」
「分かってる…だから、頼む。我慢だけは、するな」
固い枕に濁る青紫が混じった頭が沈み、未だ不安げな表情の目元に浮かべた涙を拭い取るように親指で擦っては、投げ出された手を絡めながらそっと触れるように唇を重ねた。
熱の篭る瞼の中でじんわりと滲み、揺れ動く細められた海の色との交わる視線を必死に繋ぎ止めながら、左手を頭の下へと潜り込ませ、持ち上げ押し付けた口付けが離れないようにより強く体を密着させる。交差するように両足の間へ差し込まれた左足、そのまま押し広げるようにぐいぐいと身を寄せ、息の苦しさなど構わずに彼そのものを感じたい思いだけが自身を前へと動かしていった。
「んっ、うぅ…ふ、あぁっ…!」
「…ヒナ」
抱いても、いいか。
冷たい汗が歯止めのきかない程に背中を流れ、息を荒げる彼の耳元でそっと一言、ある意味で震わせながら落としたその言葉を聞き入れれば、自分の不安げな気持ちを察したのか、不器用ながらにもくしゃりとはにかみながら笑みを浮かべる、こくりと静かに頷いていた。
***
嫌われても、捨てられても当然だと思った。何の抵抗も出来ぬまま彼の友人に力任せに抱かれた体は何もかもが傷だらけで、無意識に安らぎを求めているのか、たった数時間前にも関わらず思い出そうとしても、彼にされた行為や掛けられていたはずの罵声さえもモザイクがかかっており、一体この身に何が起きていたのかさえ既に記憶が薄く次第に曖昧になってしまっていた。
ベッドの上に投げ出されていた携帯電話の存在に気付いたのは、一人この部屋に放置され既に長い時間が経過した頃で、丸めた体はそのままに腕を伸ばしてはそっと手に取ると、その画面の中には同じ人物からのいくつもの不在着信が羅列されていた。
(さ、き…)
その名前を見た瞬間に腹の底から込み上げてきた熱に涙が溢れ、その涙さえも烏滸がましさを感じて思わず唇を噛み締めた。
「お、れ…何で、こんな…」
恋人である相方と体を重ねるまで、そのような経験は一度も無かったせいもあり、まさか自分がこんなにも他人から与えられる快楽に溺れやすいなど思ってもおらず、気持ちは確かに彼へ向けられているはずだというのに、それに伴わずびりびりと全身に流れる快感に感じてしまう自身の体がとても恨めしかった。
(どんな、顔して、会えばいいんだ)
彼の友人である男と体を交わらせた事実は、最中に掛けられた電話で既に知らされてしまったのは覚えている。一番聞かされたくなかった叫ぶような嬌声が電波を通じて彼の耳に入ってしまった、それだけで胸が押し潰されそうな程に罪悪感を感じ、恐らく今この場所へ向かっているであろう彼に対し、これからどう接すればいいのか全く分からないままでいた。
(嫌だっ…頼むから、来ないでくれ…!)
彼が隣りにいるだけで幸せだった。それだけで良かったのに、自ら腰を振り抜け出せない沼に沈みかけ、いつも自分を気に掛けてくれていた彼の気持ちを裏切ってしまった事に変わりはなく、汚いものを見るような目と言葉で蔑まれても何も返す言葉も無い。それならば誰の目にも触れない場所で一人、闇の中へ溶けるように消えてしまう方が余程マシだ。そう、思っていたその時。
「ヒナ」
いつの間にか温かいものに体が包まれ、優しいその匂いに冷え切った胸の奥が溶かされているように感じた。そのぬくもりが自然と視界を滲ませてそのまま身を委ねそうになった瞬間、咄嗟に腕を突き出し距離を置いては高鳴る鼓動を押さえ付けようと白の布団を頭から被ったその中で戒めのように胸を押し潰すも、それでも側へと寄り添う彼にこれ以上抗う理由はなかった。
何度も名前を呼び、幾度となく傷を刻まれているにも関わらず頑なに腕を離そうともしない彼の気持ちが掴まれた腕からじわじわと伝わって来るようで、決壊して浮かんだ涙の粒を掬い取っては、静かにベッドへと沈んだ体をしっかりと抱き締めてくれていた。
「あっ…サ、キ…!」
直後、耳元で呟かれた言葉にじんわりと熱を浮かせながら、あまりに優しすぎる心に触れたような気がしてそのまま触れた両腕を彼の首へと回し、ようやく細められた赤色の瞳に穏やかさが見えた気がした。
(今、だけ…今だけで、いいから)
どうしても甘えてしまいたかった。もう一度だけ、自分を思ってくれる彼の優しさに触れてみたかった。夜が明けるまでのあと数時間の中で浸る事の出来る心地良さだけで、例えそれからの日々がまた一人になってしまったとしても、きっと記憶だけを抱いて生きていける。そう、一人覚悟を決めたというのに。
「もう二度と、俺の側を離れるな」
「……!」
全てを捨ててまで決めた覚悟をいとも簡単に打ち崩す彼のその言葉が今はとても苦しくて、しかし心の底では欲しいと思っていた嘘偽りのない言葉があまりに嬉しくて、直後に押し付けられた唇、そして噛み付くように、そのまま食べられてしまうのではないかという程の激しい口付けが疼いた心の中まで掻き回しているようにも感じた。
「あっ、ん…うぅ、サキ……サキッ!」
「っ、ヒナッ…」
所々に痣の浮かぶ胸板の上を滑る彼の大きな手のひら、そしてその感触でびくびくと震える下肢と止まることのない涙、濁った青を照らすように上から見下ろす赤が、死にゆく暗闇の中で小さく目印のように光を灯してくれている気がして、自身を求める彼に全てを委ねてはそっと瞼を下ろしていった。
(あぁ…、もう、何も見えない)
声が聞こえる。何度も何度も、自分を呼ぶ声と、それに反して底へと突き落とすような脳内に響く知らない自分の罵声。
数時間前とは違う、全身に流れる柔らかい快感とその中に微かに混じる痛みが自然と甲高い声を吐き出させ、どれだけの時間そのまどろみに浸っていたか分からない程に沈んだ記憶は萎んでいく視界と共に何処かへ消えて無くなってしまった。
(2016.08.27)
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