連絡も無しに突然顔を出すなど日常茶飯事で今更驚くような事柄ではない。それでも一応、無しにと言うには少しばかり語弊があって、常日頃からスマホロトムを相棒に持ちSNS等にへばり付いている彼から送られていた一通のメッセージに、自分が気付くよりも早くその本人が直接出向いてくる、というのが多々あるパターンであった。大袈裟に肩を落としながらやむを得ず家の中へと招き入れれば何の悪びれもなくふにゃりと微笑み、すらりと長く伸びた足を玄関に踏み入れたキバナは慣れた様子でリビングのソファーへと腰掛けてはいつものようにふわりと宙に浮かぶスマホロトムでネットサーフィンを始めた。
 彼とのティーブレイクをする時間が出来たのはつい最近の事で、寧ろ昨年のファイナルトーナメント準決勝にて全力でぶつかり合ってからというものの、バトル以外の場でもここぞとばかりに声を掛けてくるものだからたまったものではない。連絡先の交換もする予定など更々なかったにも関わらず、本人のいない間に妹と違法な取引(初めてメッセージが届いたあの日、確かにマリィは見慣れぬ服を着て上機嫌な様子だったのだ)をして手に入れては唐突に彼の勝手をこちらの予定に無理矢理捩じ込んでくる。そのうちに返信をするのも億劫になり、通知バーのみで内容を確認し緊急ではないと分かるとそのまま無視を決め込んだ。そんな雑な対応をされた彼はというと、その無視を何を思ってか了承したものだと捉え始め、次第にきちんと事前に連絡をしておけば遊びに行っても良いものなのだと勝手な解釈をし始めたものだから実に腹が立った。
 ジムリーダーの座をマリィに明け渡した今は歌手活動を主として過ごすようになったといえど、多忙さは以前と然程変化はない。就任して間もない彼女のサポートは勿論、引退後の事務処理や現チャンピオン、各ジムリーダーによるトーナメントやエキシビションマッチへの招待、時にはスパイクタウン周辺で起きたトラブル対応はまだまだ余裕のないマリィに代わり今でも自身が引き受けていた。その合間で作曲作業をしているが故、徹夜続きになる事も少なくはなく、ようやく一段落して休憩がてら一眠りしようとベッドに寝転んだ直後に突然顔を出されても迷惑以外の何者でもないのだ。

「とか言っちゃって。なんだかんだ入れてくれるんだよなぁ」
「どこかの誰かさんと違って、ごく一般的な常識は持ち合わせてるつもりなんで。それ飲んだらさっさと帰りやがれ」

 いつものようにそう突き返す割には彼の好みである茶葉をきちんと切らさずに準備してしておいてしまう辺り、嫌なところで浮き出る自身の世話好きな性格にはうんざりしてしまう。
 キバナが何故、隣町とはいえ彼のホームとは明らかに賑わいと華やかさの欠いたスパイクタウンへと単身でわざわざ出向いているのか、その理由は一つしかない。今日も今日とて顔を合わせれば次はいつバトルをするかとか、場所は何処で日にちはいつ、今度は手持ち三匹でルールはどうとかこうとか、了承などした覚えがないのに目の前でその話はどんどん先へ進み、最終的に切り捨てるように断るも、全く気にしていないのか後日何食わぬ顔で再び自身の前へと姿を現すドラゴンストームのその執着心には思わず感服してしまう程だった。

「……一体、何がおまえをそうまでさせるんでしょうね。正直なところ理解できません」
「オレさまとしては、何回誘っても頑なに断ってくる誰かさんの事の方がさっぱり分かんねえんだよな」
「言っておきますけど、おれはもう引退してんですよ。ジムリーダー」

 おれ達にはもうバトルする理由なんてないでしょう。そう続けると、彼は小さく溜息を吐いてスマホロトムを静かにパーカーのポケットへ押し込んだ。そして、すっと立ち上がり目の前へと歩み寄ってきたかと思えば突然上げた手のひらの影に飲み込まれ堪らずぐっと目を瞑る。暗闇の中、ぱちんと弾くような音と共に訪れたのは額に帯びた小さな痛みだった。

「なッ……に、すんだこの野郎!」
「そっちが訳の分からん事を言うのが悪い」
「はぁ? おれは別に何も…」
「……ジムリーダーじゃなくたって、ポケモントレーナーである事に変わりはないだろ。それにオマエは、このキバナさまをここまで夢中にさせたあくタイプポケモンの天才、哀愁のネズなんだから」

 根拠のない自信をありありと見せつけ、口角の上がったにやつくその表情が実に憎たらしく、しかしどこか楽しげにそう話すキバナにこれ以上文句を叩きつける気力などとうに失せていた。


***


「本日も返信はなし、か」

 ふわふわと浮かぶスマホロトムの画面をちらりと横目に、三十分程前に送信したメッセージに既読さえ付いていない事を確認して溜息と共にがっくりと肩を落とす。
 ネズは日頃から緊急時以外に連絡ツールを利用する事があまりない。かと言って全く使用しないという訳ではなく、言うならば必要最低限、それも一日に数回確認する程度の為か即座の返信は期待できない。一度本人に直接理由を聞いた事もあったが、単に習慣付いていないからだとしか言わなかった。それでも気付いたらなるべく迅速に返して欲しいと頼み込んではみたものの、ご覧の通りどうやら未だに彼のルーティン内には含まれていないようで、早々に諦めては再び一向に進まない事務作業へと目を向けた。
 ネズに対して特別な思いがある、という自覚はある。それが友人に対するものか、もしくは色恋沙汰であるのかというと実際は後者により近く、自身の気持ちが成熟するまで掛かった時間もそう長くはなかった。納得してしまえば行動は早い方で、実を言うと既に体の関係が彼とはある。それでも付き合うという形までに及んでいないのは、ネズが頑なに今以上のものを望んでいない事、そもそもそういった感情は持ち合わせていないとはっきり断言されてしまったからだった。といえど、そこで諦められる程に半端な気持ちは抱いておらず、寧ろそれならばと謎のやる気に火がついたのか、あの手この手で彼の気を引く前向きさに我ながら苦笑を禁じえない。

「……そうそう。小さな事でグダグダ悩んでたらオレさまらしくねぇしな」
「キバナさま、今何かおっしゃいましたか?」
「なーんでもない。全然、なんでもないぜ」

 あの手がダメならこの手で試す。ガラルのプレイボーイと名高い自分を舐めたらさぞ痛い目に遭うのだと彼には思い知らせてやらねばならない。無自覚とはいえ先に仕掛けてきたのは向こうで、それにまんまとしてやられたのだから彼の思いにこちらも本気で応えるというのが男というものである。そうと決まれば早速キョダイマックスの姿と化したジュラルドンのようにそびえ立つ書類の山々を切り崩し、おおよそ数日分の仕事量を片付ける勢いで握った職印を力強く押し付けたのだった。
 そして日も暮れ定時前にはすっかり何もなくなったデスクの上を眺めてはにやりと口角を上げると、早々と職場から逃げるように外へと飛び出してパーカーのポケットから呼び出したスマホロトムのホーム画面からショートカットアイコンをタップし、未だ更新のないトーク画面に再び文字列を打ち込んでは送信ボタンを押す。相変わらずいつまで待っても既読の表示は出てこない。

(こりゃあ今度の休みが楽しみだな)

 にやにやと隠しきれない笑みを咄嗟に手で覆い、退勤時間で街に溢れる人々から怪しまれないよう足早に帰路を辿る、つもりだったのだけれどここで予定を変更。ふと耳元で小さく響いた音、画面上の通知バーには意外にも普段よりは早めに返事を送ったらしい彼の名前とメッセージが表示されていた。全てを視認する前に、スタンプが送信されましたと内容が上書きされ、そっと指先をタップしてアプリケーションを開けばそこには彼らしい文面が短くも分かりやすく、そして最後には可愛らしいジグザグマの拗ねたイラストが届いていた。

「卑怯な手使いやがって、クソッタレ……だと。はははっ」

 そう彼から送られてきた言葉を零しながら、今頃オクタンのように顔を真っ赤にさせて怒っているであろう元ジムリーダー、ジグザグマを見下ろして自宅の玄関前で腹を抱えてはげらげらと声を上げて笑ってしまったのだった。


***


「この間のメッセ、ついにトチ狂ったかと思いましたよ。一度頭診てもらった方がいいんじゃないですか」
「ああ……。あれはまぁ、一種の賭けだったからさ。そっちこそ普段もあれくらいの速さで返事してくれよ」
「あの時はたまたま手が空いてただけです。四六時中イジり倒してるおまえと一緒にするんじゃねぇ」

  リビングに広がった柔らかな茶葉の香りとは裏腹に、刺々しい言葉ばかりを飛ばし合う現状を一番理解していないのは恐らく自分だった。毎度の如く、勝手に家まで押し掛けてきたキバナは約束を守りに来たとさぞ当然のように部屋へ入っては、我が物顔に二人掛けのソファーのど真ん中に腰を下ろした。何の約束だったかさっぱりだと吐き捨てると、にやにやと口角を上げ垂れに垂れ下がった細い目をだらしなく掲げては手に持ったスマホロトムの画面を見せつけてきた。

「またまた、そんな事言って。それでも律儀に言われた事を守ってくれるのがネズなんだよな」
「……勘違いしないでください。あんな約束、素直に聞くのは今回限りです」

 視界いっぱいに広がる、今見ても腹立たしい彼から送られてきた短いけれどやかましいメッセージ。あまりにも自己中が過ぎるその内容は、詰まる所時間制限付きの一方的な要求であり、それを仕方なく承諾して現在に至る。

「五分以内に返信がない場合は次の週末、無条件でネズの家まで遊びに行く。なお、茶菓子はオレさまの方で用意するものとする……という事で。本日のセレクトはナックルシティでも若い女の子に人気のバームクーヘンだ」
「また洒落たものを」
「マリィも喜びそうなやつを選んでみた。残りは後で食べさせてやってくれ」

 そう言って花柄のビニール袋に入った白い箱をテーブルに置くと、早速と言わんばかりに開封したその横に淹れたばかりの紅茶のティーカップを二つ並べた。
 そもそもの話、いくら同僚とはいえ彼が自分の妹とやけに交流が多い事も気に食わない。何を企んでいるのか今まで彼女の存在さえ知らなかったくせに、一線を交えたあの日を境に彼は、自分と関わりのある人物と次々に何かしら理由を付けては関わりを持った。そして最終的に行き着くのは此処で、SNS上ではナックルシティからスパイクタウンへと向かう彼の目撃情報が度々飛び交っているという噂もある。そして今日も恐らく、あれから一度も交えた事のないバトルの約束をこじつける話が始まるのだ。

「と、いう訳で。了承してくれるか」
「……は?」
「もしかして、今の話ひとつも聞いてなかった?」
「まぁ、そういう事ですね。すみません」
「はぁ……。オレさま一世一代の告白だったのに……」
「バトルの話ですか? それならお断りです」
「そっちの件は今までだって散々してるだろ!」

 どうせ話す内容はいつも同じなのだ、そんな先入観からキバナの話はいつも半ば聞いているようで聞いていない。適当に頷いていれば大抵は上手い事話が通るのを知っていたから尚更だった。しかしどうやら今回だけは何かが違う。珍しく彼が顔を赤らめてどこか蕩けるような瞳を細めていて、呆然とその様子を眺めていると突如一回り大きな両手に握り締められた後、気付けば真っ直ぐ見据えた翠玉の視線にがっしりと捕らえられていた。

「一日だけでいい」
「な、にが」
「オレと、付き合って欲しい」

 表情は朗らかなままだった。しかし、普段のようなふにゃりと柔らかな笑顔ではなく、どこか真剣で吐き出した言葉にはしっかりと力が込められているように聞こえる。あまりの唐突さに理解が追い付かず説明を求めたところ、一日というのは所謂お試しでという意味であるらしくその後の判断はそちらに任せたいとキバナははっきり言った。元の関係に戻るでも、そのまま付き合うでも、もしくは全ての関係を精算するでも構わないとまで言われてようやく彼が自分を揶揄ってそのような類の話をしている訳ではないのだと理解した。恐らくキバナとしても覚悟を決めて放った言葉であり、さすればその返事もその誠意にしっかりと応えるのが筋というものである。

「……ハァ。おまえというヤツは本当に、色々と勝手な男だよね」
「わ、悪い……」
「おれみたいなヤツを抱きたがる悪趣味な野郎だとは、前々から思ってはいましたが……まあ、いいよ。それくらいの我儘は聞いてやります」
「本当か!?」

 我ながら世話焼きと言うべきか。自分でも何故こうもすんなりと受け入れてしまったのかは分からない。しかし、目の前できらきらと輝く笑みの眩しさにそっと顔を背けながらも浮き立つ熱は確かに存在して、子供のように喜ぶキバナのその笑顔と勢いに押された挙句、早速と言わんばかりに明日また会う約束を取り付けられた。 そのままあれよあれよというままに手を握られた挙句に軽いハグと頬ずり、しかし嫌悪感というよりはワンパチがじゃれてくるような感覚に近く、仕方ないヤツだと肩を落としては弛みきった顔のまま家を出た彼に視線を向けないままそっと手を振った。

(……どうせ、ただの暇つぶしに決まってる)

 払っても払っても追いかけ回し続けるつもりであるならば、一層の事、キバナ自身も知らないネズという人間の全てを見せつけて失望させてやるのが一番に手っ取り早いのだ。押して駄目なら引いてみろ。誰もが存じている通りポケモンバトルが強く、優しくて人当たりも良い為か部下や女性に人気もあるような人間が、自分ようなダメなヤツと付き合いたいなどと抜かすのだから人生は分からない。単に体の相性が良かっただけでただの気の迷いとしか思えない、冷静になれば芽生えた気持ちが色恋沙汰によるものではないと頭の良い彼ならばきっとすぐに理解し正しい判断を下してくれる。ひたすらに心の中でそう祈っては、何処か不透明さが募る軋みにくしゃりと胸元を掴んだ。


***


 恐らくネズはあの言葉を真に受けてはいない。意外にも思っている事が表情に出やすい彼の様子を見てそれはすぐに分かった。そして自身に対するイメージも事実とは相違あるものとなっている事も。
 誰かと知り合う度、割に想像と違ったと言われる事は多々あった。見えないところで複数の異性と遊び歩いているだとか、有り余る金を使って豪遊しているだとか、根拠のない噂やデマでSNSが荒れる事さえある。実際のところ、女性との付き合いが全然なかった訳ではないけれど浮気をした事は一度もない。相手の気持ちを尊重した上で交際している、そして遊びのつもりで了承をした事もない。それでも根も葉もない浮いた話が彼方此方から飛び出すのは、それなりに自覚をしているこの顔と高身長のせいだろうとは思う。故に同性且つ元々人との交流を避けていたネズからは敬遠されているのも知っていた。しかし、分かっていても抱いた気持ちは抑えられないのが現実で。

「ドラゴンストームの諦めの悪さ、よく知ってるだろうになぁ」

 一体どうすれば上手く彼の懐に入り込み、愛おしいという気持ちを伝えられるのか。それにはまず初デートである今日、そして明日と続く提示した期間内で、お互いに自然体でいられるような間柄へと進展させておきたい。

(あわよくば……なんて、図々しいにも程があるか)

 そんな期待を寄せてしまう程にネズが自身の願いを受け入れてくれた事が嬉しくて堪らなかった。あれから帰路を辿っている間も、たった数分前の出来事を思い出しては込み上げる嬉しさで崩れていく表情を何度叩いて引き締めたか分からない。無理矢理漕ぎ付けた約束だったけれどネズはきっと来てくれる、そんな確信も心のどこかにあって、気取ら過ぎずに普段と同じパーカーを着込んで待ち合わせ場所であるバトルカフェの前でスマートフォンを弄りながらぼんやりと彼を待っていると、おい、と一言声を掛けられた。少し反応が遅れて慌てて顔を上げた先、そこには普段と装いの違う、首元の広いだぼっとした黒Tシャツの上に同色のダブルライダースジャケットと細く長い足が尚更すっきりと見えるレザーパンツを合わせたモノトーンコーデで現れたのは、紛うこと無きネズ本人であった。

「……お待たせ、したみたいですね」
「あっ! い、いや。今来たとこ!」
「そういう分かりやすい嘘はつかんでよろしい」

 まさか彼の私服をこのような形で拝む事が出来るとは思っても見ておらず(今まで何度も会っていたが大抵が仕事帰りだった為、お互いにいつもユニフォーム姿だった)、珍しい、しかしパンクロッカーらしいその格好良さに思わず全身に痺れるような電流が走ったのは間違いない。今の今まで会ったらまず何を話そうかだとか、どうリードしようかだとか、しっかり組んだはずの今日の予定さえも頭の中から吹き飛んでいてあまりの驚きに言葉も出なかった。すると、すっかり目も意識も奪われてしまっている呆けた自身の額にぱちんと小さな痛みが生まれ、そこでようやく視界が透明化すると、知らぬ間にすぐ目の前に立っていたネズが一瞬、恐らく彼自身も無自覚なままに浮かべた優しい綻びに自然と頬を熱くさせたのだった。

「ひっでー顔」
「だ、誰のせいだよっ」
「さぁ。おれは別に、何かした覚えはねぇですけど」
「またそういう事を言う……」
「ほら、確か今日はデートなんでしょ。何の面白みもないプラン立ててやがったら、もう二度と付き合いませんから」

 にやりと口角を上げながら一歩前に足を踏み出し、ぼうっと突っ立っていたら本当にこのまま置いて行かれてしまうのではないかという速さで先を越され、慌ててその細い背を追い掛けてはきらりと眩しく跳ねる太陽の光の中で焦がれていた。
 ネズは優しい。少々捻くれてはいるものの正義感が強く決めた事は最後までやり通す責任感もある。そして妹がいる為か年下の子供に対して世話焼きで、現チャンピオンやその友人達から慕われている様子も窺えた。ここまで聞くと彼は本当にあくタイプの天才なのか、と周りから疑問を抱かれがちだが、並々ならぬバトルの腕前を持っており、相手の癖をよく理解し的確に裏をかき意表をついてくる戦法はチャレンジャーだけでなく数あるトレーナー達が苦しめられてきたのだと思う。そして現在、そんな彼に良い意味でも悪い意味でも悩まされているのが自身なのである。

「うぐぐ、今に見てろよ。オレさま、バトルとセックス以外でもおまえを楽しませられる自信はある!」
「ふふっ。何ですか、それ。根拠のない自信はただの過信ですよ」
「ある! ちゃんと根拠も理由もあるの!」

 けらけらと声を上げて笑うネズの普段とのギャップに嫌でも仄かに染まってゆく頬、それが何故だか悔しくて自慢の長い脚で地を蹴りぐいぐいと前を歩く彼を追い抜いては、ジャケット越しでも分かる細い腕を咄嗟に掴んでそのまま馴染みの喫茶店へと引き摺り込んでいった。


***


 珍しい組み合わせの二人が喫茶店で茶を飲んでいる。そんなメッセージを受け、偶然その店の近くをうろついていたものだから、少しばかりの興味本位で向かいにある雑貨屋からガラス越しにその様子を眺めてみればころころと変わりゆくキバナの表情に思わず笑ってしまいそうになった。しかしそれ以上に面白かったのは、けらけらと子供のように腹を抱えて声を上げているネズの方だった。彼の引退試合、つまりあのファイナルトーナメント準決勝での激闘を終え、そして休む暇もないまま、最早遠い昔のようにも思える各地で起きたダイマックス事件。あの渦中でキバナとネズ、二人が改めてナックルスタジアムで顔を合わせていたらしい頃とは打って変わり、今はまるで昔からの旧友のように親しみ深く共に茶を飲んでいる。

(……アニキはやっぱり、ただの意地っ張りたい)

 商品棚に並ぶ無数のアクセサリーの中から、きらりと光るビビットピンクの小さな石が付いたピアスを手に取り、手のひらの上でころころと転がしながら小さく息を吐く。
 兄と二人で暮らしている自宅にキバナがよく訪れるようになったのは、様々な事件を経てようやくガラル全体が落ち着きを取り戻し始めた数ヶ月前。シンガーソングライターとしての活動に専念したいという兄から正式にジムリーダーを継承し、自身もようやくその地位が板に付いてきた頃の事で、それまで碌に交流がなかっただけに突然顔を出し始めた彼に酷く驚いていたのを覚えている。勿論、兄自身も困惑した表情は隠せずにいたものの、どうやらバトルの再戦を望む声はそれ以前から掛けられていたようで、初めのうちは適当に追い払っていたものだったが、最近になるとまるで旧友のように親し気に見える上、当たり前のように部屋へ招いてはキバナの好む紅茶を出している(兄曰く、それでも友人ではないと言い張っている)。

「自分の気持ちを認めるのが悔しいのか、それとも照れ臭いのか分からんけど……でもそれってつまり、そういう事やね」
「ネズさんってあまり自分の話とかしないけど、結構顔には出るもの出るもんね」
「さすがユウリ、アニキの事よう分かっとる」

 裏の裏を読み自身の考えを悟られないように不意を突くバトルスタイルは正しくあくタイプのジムリーダーとして相応しいと思いつつも、その反動か案外普段の兄は感情を表に出す事が多い。冷静そうに見えて突然の出来事に取り乱す事もあるし、それはもしかしたら家族間特有の反応かと思いきや、ジムリーダーやエール団からして見ても割と兄に対してはそのようなイメージを持っている事を知って、昔から変なところ分かりやすい部分があるなぁと苦笑を漏らしてしまうのは日常茶飯事である。
 そして今現在、恐らく当の本人は無自覚かも知れないが、誰がどう見てもガラスと歩道を挟んだ向こう側の二人はカップル同然の仲の良さが滲み出ているのだ。何せまず、笑顔が眩しい。兄が妹である自分以外に対してあのような朗らかで優しい笑みを浮かべられる人間だったとは、今はただただ驚きという感情以外は何もない。そして向かいの椅子に座るキバナの表情も実に柔らかで兄を眺める彼の垂れた瞳は最早蕩けている。

「どう考えても付き合っているかのような雰囲気すぎて」
「あんな顔する癖に聞くと毎回否定されるんよ。どう思う?」
「無自覚って怖い……」

 目を細めながらぶるりと体を震わせるユウリを横目に苦笑しつつも、実際問題としていつまでも平行線を辿りつつある彼らをどぎまぎしながら見守っているには、さすがにもうそろそろ我慢の限界というものがある。
 お互いに視線を合わせ、何が言いたいのか言葉にせずとも理解したユウリは静かに頷いて手に持っていたイヤリングを商品棚へと戻してゆっくりと店の外へ出る。その背を追い掛けるように付いていくと二人の視界に入らないよう、極力自然体で向かいの喫茶店へと足を延ばし存在を悟られないままこっそりと二人で店内に入った。昼時の為かテーブル席は殆ど客で埋まっているらしく、中でも兄とキバナのいる窓際の角、顔が売れている為に店員が気遣ったのか見えないようにパーテーションで区切られた場所で二人は食事をとっているらしい。しかし声が聞こえない訳ではないので、そのすぐ傍にあるテーブル席に二人で座る事にした。完全には耳に入ってこないものの、部分的に声は聞き取れる為、飲み物を注文して店員が奥へと姿を消した直後そっと二人の会話に耳を澄ませた。

「……なるほど、オッケー。この後はワイルドエリアでキャンプだって」
「へえ、意外。キバナさんならシュートシティとかエンジンシティでデートするつもりなのかと思った」
「きっとポケモンと一緒なら懐柔しやすいと思ったのでは?」

 それは有り得る、等と勝手に失礼な事を考えながらユウリの推理を聞いてつい面白くて笑みを零してしまう。事実、兄はあまり発展している町には行きたがらない。ナックルシティやエンジンシティなどの歴史ある古き良き町並みはまだしも、ローズ元委員長より計画的に造られた大都市ともいえるシュートシティであれば尚更である。
 しかし兄は外の町を妬んだ事はない。それはスパイクタウンが己の生まれ故郷である事を誇りに思っているからで、一見寂れたように見えるあの町やそこに住む人々の事が大好きだし、離れたいと思った事も一度もなかった。だからこそ、兄が守り続けたものを今度は自分がこれからの未来を築いていきたいと思っている。そして自分や街の事を常に優先して生きてきた兄には、今度こそ自分自身の為に生きる道を歩んで欲しいとも。

(……きっとキバナさんは、アニキにとっての特異点やけん。ここで逃すわけにはいかん)

 兄が妹の幸せを願うように、妹もまた兄の幸せを願っている。それを彼自身も知っているかどうかは分からないけれど、今まで支えてもらってきた分、今度は自分が微力ながらも兄のこれからを支える事が出来たらと幼い頃からそう思ってきた。兄妹とはいえプライベートな事柄に第三者が下手に関わるべき事ではないのかも知れない、それでも兄の喜ぶ顔をどうしても見たいという気持ちがどうしても勝ってしまうが故、どうか許されたいと心の中で願ってしまうのだ。

「ユウリ、先回りしておこう」
「どうするの?」
「ちょっと、背中を押してやるだけばい。後は勝手に上手い事いくに決まっとる」

 冷たい氷がぶつかり合う清らかな音、テーブルに並べられたグラスの中で揺れる痺れる甘さを口に含みながら、にやりと浮かべた怪しい互いの笑顔に危うく声を上げそうになる。そして、こうして身を隠さなければ拝めそうにない兄の笑顔が、いつか何の変哲もない日常の中でも自然と見かけられるようになればいいと一人心の中で呟いたのだった。




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