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 どうせブティックやスイーツ巡りでもさせられると思っていたものだから、今後の時間を全てワイルドエリア内のキャンプに費やす事になるとは全く想像していなかった。事前に言ってくれればそれなりの格好とそれなりの準備を怠りなくしておいたのに、と文句を吐くと、そんな事をすれば今こうして二人で小さな折り畳みのイスに腰を下ろし仲良く火を焚く事さえ叶わなかっただろうと一人嘆いている。それはそうだろう、今日ばかりは少し買い物に行くという体で家を出てしまったものだから手持ちにいる相棒も一匹しかいない。それをあろう事か、より凶暴性の高い野生ポケモンが生息する逆鱗の湖側の陸地でカレーを作るなどと言い始めるから早々に頭が痛い。

「キテルグマに襲われて死んじまったらおまえ、責任取ってくださいね」
「任せておけって。オレさまのセンスが光る立派な墓を立てておくさ」
「マリィを泣かせたくねぇって言ってんですよ、おれは!」

 大きな鍋を前に笑えない冗談を交えながら香ばしさと共に浮かぶ白の中で小さく溜息を吐いた。辺りを見回して、幸いにも今のところ怪しい影は見当たらない。声もしなければ葉の騒めきもなく、聞こえるのは湖で泳ぐマンタインが水面で跳ねる音くらいである。
 度々文句は零したものの、決してキャンプ自体が嫌いという訳ではない。日々バトルに明け暮れるポケモン達がのびのびと休む事の出来るいい機会であり、狭いボールや街中とは違う広々とした草原で自由に動く事が出来るというのは彼らにとっても良い気分転換になっていると思う。カレーに至っては、小さい頃からマリィに食べたいとよくせがまれ今でも夕飯に作る事は多く、二人で何度も食べているうちに自身もすっかり虜になってしまい、今ではスパイスや隠し味、相性の良いきのみなどを度々試してはお気に入りのレシピを見つけている次第であった。そんなこだわり派だとは恐らく微塵も思っていないキバナはキバナで、手慣れた様子で野菜やきのみを包丁で切り分け、水、火加減を調整し、用意しておいたらしいスパイスと共に大きなへらでゆっくりと混ぜ合わせてゆく。

「……おまえ、料理するんだ」
「カレーだけな。今でもたまに休み取って、こいつらと一緒にキャンプしてるんだぜ。こうして羽を伸ばすのも仕事のうちだから」

 そう言って、一歩後ろで見守っているジュラルドンの頭を優しく撫でながら器用にもカレーを混ぜるキバナの表情は優しく、細めた瞳から覗いたマリンブルーに堪らずどくりと鼓動を唸らせた。

(ずるいよね、本当)

 自分はきっと、とっくの前からキバナの事が好きなのだと思う。もしかしたら彼よりも先に自覚していたのかも知れない。それなのにあの日の告白を素直に受け止められなかったのはきっと、誰にでも愛されるキバナが眩しくて仕方がなかっただけで、友人までならまだしも彼が恋人なのだと想像するとあまりにも自身の不釣り合いさに罪悪感ばかりを募らせてしまう。それどころか、自分とキバナがそのような関係になったと公になった場合、どう転んでも彼に対するイメージが悪化するのは恐らく避けられない。トップジムリーダー且つポケモンを愛するひとりのトレーナーであり、ジムトレーナーの皆々にも慕われ、ガラルという地、そしてナックルシティにとって宝物庫の番人である彼の顔に泥を塗るつもりはなかった。

「そろそろいいかな。ネズ、結構食べられるの?」
「まぁ、そこそこ」
「よし、じゃあがっつり盛っておくな。……ん? はは、心配するなって。お前らの分は元より山盛りだぜ!」

 お互いに何処が好きで何故好きになってこの先どうなりたいか、なんて最早言葉で表現できる程の単純な気持ちではないのかも知れない。それでもこうして二人で過ごす時間は心地良いものである事は間違いなく、それを自ら手放す勇気など当然あるはずもなかった。
 どうぞ、と差し出されたカレーは今まで作ったどのカレーよりも優しく甘い香りがして、しかしその中で舌に感じるちくちくとした辛みが旨味を引き立てているような気がしてその美味しさに自然と目を細めた。隣りで食べているタチフサグマも好みの味だったようで、あっという間にぺろりと平らげてはキバナに空っぽの皿を押し付けておかわりをせがんでいた。

「口に合ったみたいで良かった」
「十分美味いですよ。隠し味はヨプのみですか?」
「ああ、そうだ。ジュラルドンがさ、モモンの甘さとぶつかるこの辛さが好きみたいでよ」

 なあ、と視線を飛ばされたジュラルドンは自身の好みを把握してもらっているのが嬉しいのか、にこりと微笑んで嬉しそうに小さく声を上げた。
 ドラゴンタイプのポケモンを育成するには、知識と忍耐が必要だと聞いた事がある。ただでさえ体の大きい個体が多いせいか、育て始めにきちんとしつけを行わないとトレーナー自身にも危険を及ぼす可能性があるらしく、慣れるまでに受ける細かい切り傷などは最早日常茶飯事で、今となっては全ての手持ちに対し愛し愛されているが、そういった関係を互いに保てるようになったのは、表向きにはされずともキバナが積み重ねてきた努力の賜物といえるのだと思う。そういった観点からバトルに限らず、トレーナーとしてポケモンを育成する姿勢も勿論尊敬していて、まるで兄弟のように仲良さげにカレーを食べている彼らを見て自然と口角を上げていた。

「……おれも、好きです」
「えっ」
「このカレー」
「……あ、そ、そうか! それは、良かった。わはは」
「今絶対勘違いしたでしょ」
「してません」
「いいや、したね」
「はいはい、しましたとも!」

 あからさまにぽっと頬を赤く染めたキバナに苦笑しながら、満天の青空を見上げながら大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。毎日を走り抜けるように過ごしてきた日々とは違う、まるで頭上に浮かぶ雲のような速さで流れる時間も悪くない、そう思い椅子に背を預けたその時だった。

「あれ、急に空が暗く……」
「お、おい。ネズ後ろ!」

 自身を包み込んだ大きな黒い影が今まで眺めていた雲ではない事に気付くまで数秒かかった。両手に持っていたカレー皿を地面に落とし、その場に金属の跳ねる音が響くも金縛りのように繋ぎ止められた体は逃げるという事を知らない。心臓の鼓動だけが脳内でばくばくと警告音のように繰り返し響かせるも、目の前の現実を信じられないばかりに一言、嘘でしょ、と今の自分には小さく零す事しか出来なかった。

「本当に、出やがった……」
「感心してないで、早く逃げろって!」

 キテルグマ、ごうわんポケモン。格闘家顔負けの技で仕留めた獲物を両脇に抱えて住処へ持ち帰る。ジャケットのポケットに入れられたロトムスマホが淡々と発した図鑑の説明書きを耳にして、あらぬ想像をしては嫌な汗がたっぷりと背に溢れ、耳障りな程にごくりと息を呑む音が辺りに響いた。どこか遠く離れていたはずの死に今、ぬるりと背後から蒼白とした顔を覗き込まれている。いつ命を落としてもおかしくない状況に自分は今いるのだとようやく理解して、しかし敵対する相手に刺激を与えないよう、静かに椅子から離れては中腰の状態で一歩、また一歩とその場から離れてゆく。

(刺激するな。そこで黙って見てろ)

 小さく首を振り、両手の平を押し付けるような形でジェスチャーを送る。すぐに理解したのか、眉間に皺を寄せながらもこくりと頷いたキバナにほっと一安心したのも束の間、主に危険が迫っている事態に居ても立っても居られない様子のタチフサグマが今にも飛び掛かりそうな程に興奮している事に気付いて、慌てて宥めようとするも時既に遅し。

「駄目です、相手が悪すぎる!」

 隠す気など更々ない怒りを感じ取ったキテルグマはすぐさま狙いを変え、自身に敵対するタチフサグマへと物凄いスピードで襲い掛かってゆく。いくらダイマックス対策として防御を固めてきたといえど、格闘タイプの技をもろに受けてしまってはただでは済まない。しかし、彼自身それを分かっているにも関わらず全く怖気付く事なく砂埃を巻き上げながら地面を蹴り出した。このままではキテルグマが振りかざした大きな腕から放たれるアームハンマーの直撃を免れない。そう確信して思わず息を呑んだその時、動かなくなった体を解きほぐす突風のような溌溂としたキバナの通る声が辺りを通り抜けていった。

「タチフサグマッ! そのままアイツの攻撃を受けてカウンターだ!」
「おい、キバナ!」
「大丈夫、オレとオマエの相棒を信じろ!」

 その声の力強さに圧倒されるも二人には何か考えがあるのだとすぐに気付いた。舌打ちを鳴らしながら茶色い視界に飛び込むと、キテルグマが拳を地面に叩きつけた衝撃で地面が揺れ、危うく体勢を崩しかけるもなんとかその場に踏み止まる。直後、すぐさま聞こえたのはタチフサグマの咆哮、そして白煙を掻き分けるように繰り出されたカウンターパンチを黒い懐へとめり込ませていた。

「やったか!?」

 ぐ、と苦しそうな呻き声が聞こえるも、キテルグマは未だ力強くその地に踏みしめている。しかし、タチフサグマの方も限界ギリギリの状態でこれ以上は動けそうにない中、その背後からジュラルドンが空高く飛び上がり、頭上から突き刺すようなドラゴンクローを見事に命中させたのだった。再びもうもうと上がる煙に見える大きな影がずしんと倒れ込む音、ようやく元の静けさが戻り安心したのか、へたり込んだ傷だらけのタチフサグマを視認して慌ててその傍へと駆け寄ったのだった。

「全く……相変わらず無茶しやがりますね、おまえは」
「シャウッ」
「でも、助かりました。ありがとう、タチフサグマ。それにジュラルドンも」

 致命傷とまでは言わずともまともに弱点タイプの技を受けている為、体のあちこちに傷が出来ていて、持っていたきずぐすりを使って応急処置を行った後、ゆっくり休むよう一つ声を掛けてからタチフサグマをダークボールの中へ戻してやる。ふう、と一息ついてそのまま地べたに座り込み動かずにいると、どうやら無傷で済んだらしいジュラルドンをハイパーボールに戻したキバナが歩み寄り、長い腕を差し伸べていたので素直にその大きな手と手を重ねた。

「すみません、世話掛けちまいましたね」
「いや、寧ろネズの相棒には少し無理させちまった。すまなかった」
「謝らねぇでください。冷静さを欠いてたおれには出来なかった適切な判断だったと思います」
「でも……」
「……たまには褒めてやるって言ってんだ。素直に受け取りやがれ」

 上手い事収拾がついたにも関わらず、どうも気落ちした様子であったのはそのせいかと一人納得する。今思い返してもキバナはきちんと状況を把握してポケモンへの指示を出し、安全かつ正しい方法で危険を回避していたと思う。タチフサグマはヨプのみの入ったカレーをしっかりと摂取していた為にかくとうタイプの攻撃に対する防御力が上がっていた事を理解し、その上で弱点であれど一撃であれば耐える事が出来るだろうと考えたに違いなかった。そして止めを刺せなかった場合の事も予測し、ジュラルドンを待機させていた。あのキテルグマと対峙して数分の間でその考えに至ったのだから大したものである。

「誇っていいですよ、こういう時くらいね」

 重ねた手に体を持ち上げてもらい、ようやくその場に立ち上がってはにこりと静かに微笑みそう零すと、次第に頬が赤く染まり握った手も不思議と熱が籠もり始めて堪らず声を上げて笑ってしまった。


***


 夜更けのワイルドエリアも悪くない。満天の夜空に広がる星々が輝く下で小さく光るランタンの灯火。ポケモン達を回復させる為に一度ナックルシティへと戻った時に持ち寄った、簡易のリクライニングチェアに背を預け、途中の売店で買った酒瓶を小さなグラスに注いで乾杯する。
 キテルグマ強襲事件から数時間後。自分の知らないネズを見てみたいという軽い気持ちでキャンプに誘った結果、誰の責任とも言えない事柄だったものの彼を危険な目に遭わせてしまったという負い目もあり、ナックルシティのポケモンセンター内でタチフサグマの回復を済ませたら今日は解散しようと提案したところ、意外にも拒否されたどころかもう少しだけ時間をくれないかと申し訳なさそうにネズが言ってきた時は酷く驚いた。下心がないと言ったら嘘になる。そして淡い期待を抱いている事も。それでも勿論自身の気持ちを押し付けたい訳ではなく、彼がいつか受け入れてくれたらこの上ない喜びで、それが嘘偽りのない本当の気持ちでもあった。

(この時間が永遠だったら良いのに……なんて、非現実的な事まで願ってしまうくらい虜になってるんだな、オレは)

 まるで恋する乙女だ。現チャンピオンやホップ達ならまだしも、とっくに十代を終えた大人が祈るような願いではない。それでも祈らずにはいられないのは、ネズと過ごすこの静かな夜があまりに心地良く、アルコールが理由だけではない満ち足りた気分が自然と頬を緩ませた。

「なんです、鼻の下伸ばして」
「……顔に出てた?」
「余程嬉しかったのかと思いましたよ、おれからの誘いが」

 にやりと口角を上げながらグラスに口を付けるネズもどうやら機嫌がいいのかくつくつと笑みを零し、着ていたライダースジャケットを脱ぎ捨てては丸めて地面へと放り投げた。すると、彼の首元から見える白い肌が火照り微かに赤く染まっている事に気付いて思わず息を呑む。しかし、さすがに酔った勢いで、なんて理性のない事はしない精神でいるつもりではいた。それでもとろんと蕩けた瞳、どこかうつらうつらとした熱の籠もった雰囲気に呑まれそうになって慌てて目を背けると、今度は声を上げて腹を抱えながら笑うものだから堪らずちぇっと舌を鳴らした。

「全く、とんだスケベドラゴンだ」
「うるさいな……知ってるくせに」
「そう、ですけど。でも正直、まだ現実味がないんです」

 小さく溜息を吐きながらそうネズは語る。酔っていたせいもあったのかも知れなかった。それでも彼の口から吐き出された言葉である事は確かで、ぼんやりしていた意識をどうにかはっきりさせようと慌てて水筒に残っていた冷たい水を飲み切った。

「……やっぱり、男同士だから?」
「それもあるとは思いますけど。何せ、つい最近まで会話もなかったので。でも、おまえが嫌いだとか、そういう訳ではないです。決して」

 肉付きの薄い太腿に肘を置き、グラスを抱えたまま前のめりに俯いてそう話すネズの声はひとつもぶれていない。タチフサグマのような白と黒の混じる前髪に隠れてしまった表情はきっと、顔色が優れないままなのだと思う。自分の彼に対する真っ直ぐな気持ちが彼を悩ませているという自覚もあって、しかし互いに理解し合わないままに中途半端な関係を築いてしまった事も余計に事態を複雑化させていた。きっとネズは、そう簡単に自身の抱く本来の気持ちを信じる事は出来ないと思う。彼の立場となって考えたとしてもそれは自分とて同じだった。まだ何も知らない、始まってもいないのに彼を誘い、誘われた彼も拒む事なく体を重ねた幾夜の日々の記憶。薄っぺらい関係を築いただけで思いも通じ合っているのだと身勝手に思い込み、その果てにはきっぱりと無理だと振られ。

(嫌われてはいない。でも、こんな始まり方しか出来なかったオレたちが、今更それ以上のものになれるはずなんてない)

 そんな幻聴が続けて聞こえたような気がして、涙腺が緩んでいるのか危うく涙が浮かびそうになる。せめて好きな相手にそんな格好悪い姿は見せたくなくて、そっと頭のバンダナを前に下げては星の散らばる空を見上げた。やっぱり、駄目か。諦められるはずもないくせに自棄になった言葉を一人心の中でぼやいては、深呼吸のような長い溜息を静かに吐き出した。

「で、つまり、その。延長をしたくて」
「そっか、延長か……。それは残念……はぁ!?」

 予想だにしていなかった言葉を耳にして堪らずアイマスク同然になっていたバンダナを慌てて脱ぎ捨てた。その勢いで耐えきれずに溢れた雫が瞳から弾け飛び、スローモーションのようにゆっくりと宙を舞う先に見たネズの頬は、見間違いでなくしっかりと赤らんでいた。

「な、なんですか急に。不満でも?」
「えっ、いや、あの、ちょ、ちょっと待って。オレさま、理解が追い付いてない」
「あのね、言い出しっぺはおまえでしょ。この先の事に関しては今日を境に自由にすればいいって。だからおれは、おまえとの……キバナとの今の関係を延長したいと言いました」

 まるで頭に入ってこなかった。一言一句、集中して聞き入っていたはずなのにあまりの情報量の多さに脳が処理をしきれていないのが分かる。つまり、すっかり静まった草原の中でただ一人大混乱をしている。あのネズが、あのネズに、それはつまり、いやまだ慌てる時間じゃない。ただの勘違い、早とちりかも知れない。そんな身も蓋もない気持ちばかりが生まれては消え、そして形を変え、自分でも分からないくらいに動揺したその様子を眺めていたネズが、ついに耐えきれなくなったのか腹を抱えてげらげらと声を上げていた。

「ふははっ。おま、おまえでもそんな顔、出来るんですね。ああ、おかしい。せっかくの男前が台無しだ」
「またそういう意地の悪い事を言う……」
「勘違いしないでください、別に揶揄ってるつもりはないです。どうやらおれは、キバナという男の事を少し見くびり過ぎていたようですし」
「それって、つまりは」
「……今日一日二人で過ごしてみて、なんとなく、ですけど。どうやら本気だという事は理解したつもりです。それに、おれも……」

 段々と尻すぼみになってゆくネズの声が最後まで届く前に、自身の体は身勝手にも本人の意思と反して勝手に足を踏み出していた。背後でリクライニングチェアが音を立てて後ろに倒れるのをお構いなしに、照れ臭そうに視線を逸らしていたネズの細い体を力いっぱいに抱き締める。んぐ、と苦しそうな声が腕の中で聞こえるも気にしている余裕はまるでない。嬉しくて、嬉しくて、とにかく嬉しくて堪らなくて。また明日からも今まで変わらずにこうして彼とおもしろおかしい話をして、杯を交わして、ポケモンバトルをするしないの押し問答をして、そして笑い合える。それだけで胸の奥が熱く燃え滾り再び溢れそうなものをぐっと抑え込んでは鼻を啜った。

「お、い! ちょ、このッ……息が出来ねえ!」
「もう少しだけ、このままでいさせて……オレさま、今の顔情けなさ過ぎておまえにみせられない」
「いいからどけ! 話はまだ終わってない!」

 華奢そうに見えてネズは案外力が強い。そして足癖が悪い。それは周知の事実ではあったが、まさか気持ちが通じ合ったと思った相手に股間を足蹴りされるとは想像しておらず(しかも躊躇も遠慮もない)、それも男性にしては細めの足が思い切り急所にめり込んだものだから居た堪れない。声を上げる事も出来ず、ただひたすら地面に転がっては負傷箇所を手で抑え痛みに耐えるのに必死だった。
 数十分後。ようやく互いに冷静になったところで再びリクライニングチェアに腰を下ろし、まだ途中だというネズの話を聞く。嬉しい事も、少し残念な事も、でもこれから先の未来が明るいという事も踏まえた内容で、頭を悩ませながらも今まで真剣に考えてきた事を少しずつ言葉にしてくれた彼の優しさにそっと目を細めた。

「……つまり、その。大変中途半端な状態で申し訳ないんですが」
「大丈夫、分かってるよ。焦る必要なんてないさ、待つのは慣れてる」
「キバナ……」
「まぁ、追い掛ける方が性には合ってるけど。でもネズがそう言うなら、オレさまはいつだって隣りは空けとく」

 まだ、付き合えない。ネズのその一言は決して悲観的なものではなく、寧ろ自身にとっては光だった。今の自分に出来る事は全て出し切った。それを受け入れ拒まずに向き合ってくれているのが何よりも嬉しくて、より一層彼への気持ちが強まった気がする。
 夜も更ける中、語り合いながら話しているうちに酒瓶はもう空になっていた。気持ちのいい酔い方をしているおかげか、眠気もなく意識もはっきりしている。隣りで仰向けに夜空を眺めていたネズを見れば、疲れが出たのか今にも夢の世界へと旅立とうとしていた。暖かい季節になってきたとはいえ、さすがにワイルドエリアの夜は冷える。慌てて着ていたパーカーを脱ぎ、彼の下半身を隠すように掛けてやると厚手の布地のぬくもりがちょうど良かったのか、しばらくすると気持ち良さそうに寝息を立てたのだった。


***


「心配しよったんよ。ごめんなさいは?」
「ごめんなさい、マリィ。この通り、アニキはしっかり反省しています」
「なら良し。次からは気い付けんしゃい」

 腰を手に当てきつく睨みを利かせながら自身を叱咤するのは正真正銘我が妹、マリィである。先日、キバナとの約束の為に外出をした時、別れ際に夜には帰ると伝えていたにも関わらず、碌に連絡もせずに結局ワイルドエリアに張ったテント内で一夜を過ごしてしまったものだから弁解の余地もない。それどころか、酒に酔い度重なる疲労がここに来て仇となったのか知らぬ間に眠りに落ちており、さすがにこのまま朝を迎えては風邪を引くと、遅い時間まで付き合わせたキバナにテントの中まで運んでもらうという醜態を晒す羽目となった(居た堪れない)。
 今度会った時は何か詫びをしなければ、そう思いスマートフォンを取り出して、仕事以外の予定はほとんど入力されていないカレンダーアプリを開いては空いている日時を探す。

「またデートの予定?」
「デートじゃありません。詫びをするだけです」
「何。アニキ、キバナさんにまで迷惑かけとるん?」
「……貸し借りはすぐに清算する主義なので」
「まあ、あの時はキテルグマが興奮してて危なかったばい。怪我もなくて良かった」
「あぁ、いえ。そっちの話ではなく……え、マリィ、おまえ、何故それを知って……」

 危うくすらりと聞き逃してしまいそうになったが、本来知るはずのない情報を躊躇いなく漏らし、今もまた腕を組みふふんと不敵な笑みを浮かべるマリィは嫌な汗を流している兄に構わずそのまま話を続ける。

「あのキテルグマ、ユウリの手持ちやけん。いい動きしとろうもん」
「は!?」
「二人のキューピッドになれたみたいで安心した。……あ、そうだ。キバナさん、次は家に連れてきなよ。新しいお兄ちゃんになるんだし、しっかり紹介してもらうけん」
「あ、ちょっとマリィ!」

 あまりの情報量の多さに理解が追い付かず呆然と立ち尽くしていると、しっかりと握っていたはずのスマートフォンを素早く奪い取られ、画面に映るカレンダーを確認してすぐにメッセージアプリを起動した。勿論トーク画面の上部に記された名前はキバナの三文字である。嫌な予感がして必死に腕を伸ばすも華麗に避けられ、その間にも何やら文字を打ちこみ、そしてあれ程笑顔が苦手な彼女がにやにやと厭らしい笑みでその画面を見つめている。

「よし、分かりました! 今日の夕飯はマリィの好きなボブ缶入りのカレーにします!」
「残念。あたし、今日はあらびきヴルストの気分だから」
「マリィいッ!」

 相手の戦略を先読み出来ずに何があくタイプポケモンの天才だというのか、否、今回ばかりは相手が悪い。何せ自身の妹であり、現スパイクタウンジムリーダー、そして現チャンピオンのライバル、マリィだったのだから。
 乱雑に投げ捨てられ全てをやりきったと満足気にリビングから出ていったマリィを気に留める余裕などなく、ようやく戻ってきたスマートフォンの画面を見下ろして思わず絶句する。最新メッセージは早速返信を送ってきたキバナの大層機嫌の宜しそうなスタンプイラスト。ヌメラがニコニコと音符マークを飛ばす程に笑っている。それもそうだろう、その前に自身から送信した事になっているメッセージは、あまりにも身の置き所がない言葉だったのだから。

「オレさまも……じゃ、ねえんですよ。このバカ野郎」

 好きです。たった四文字の言葉がこんなにも胸の奥を締め付ける。酷くノイジーな鼓動ががんがんと頭の中に響いて離れず、焦りよりも照れ臭さの方が先行して嫌に顔が熱い。それが悔しくてまるで八つ当たりのように履歴に残っていた数少ない手持ちのジグザグマスタンプを力いっぱいに何度もタップしたのだった。


(2020.06.29)


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