屋根裏部屋にひっそりと佇む成歩堂相談事務所の大きな机は相変わらず汚いままで、 寿沙都が帰国をした後も、アイリスに発明品の実験だと言われて積まれた資料や本の数々をものの見事に吹っ飛ばされてしまったとしても、 数日経てばそれはまた元通りの山に戻ってしまう程にずぼらな性格は一向に直らないままだった。 だが、成歩堂龍ノ介にとってそれは別段気にしている事案ではなく、寧ろその山々を前にしているという環境が体が馴染んでいる気がして極力このままでありたいと願っている節もある。 しかし、そんな彼が何故頭を抱えて落胆しているのかといえば他当て嵌まる事なく、まさしく目の前に佇んでいる威圧感、その一つしか原因は有り得なかった。
(何なんだ、一体)
法廷にて異議を唱えるが如く、両方の拳を机に力強く叩きつけたホームズの周りはその勢いで散らばった書類がひらひらと舞って床へと落ちていった。 咄嗟の判断で参考書のタワーを押さえてなんとか倒さずに済んだものの、どうやら目の前の名探偵はいつもと様子が少しばかり違うようだった(元々が変わった性格故に、少々判断がし難い)。 そのままの体制で互いに固まる事数分。交わす言葉は一つたりともなく、龍ノ介の目が只々泳ぐばかりで物音さえも起こらないままだった。 この奇妙な状況は一体何なのか問い質したいところだったが、如何せんホームズの表情は地に落ちていて、龍ノ介から彼が今どのような状態に陥っているのかは分からなかった。
(…また、相棒無くしちゃったのかな)
様子のおかしいホームズを見て、龍ノ介は質屋で起きたあの衝撃的な事件の直前のこれまた衝撃的な事件を思い出していた。 まさか、あんなにもおちゃらけた性格のホームズがバイオリンひとつ満足に弾けなくなったくらいであそこまで落ち込むとは、誰しもが想像をしていなかっただろう。 しかし今まさに、あの時のようなじっとりとした暗さがホームズを再度纏っている事実は確かだった。 声を掛けるべきか掛けないべきなのか、その判断がつけられずにいる今、周りからしてみればまるで睨み合いが続いている、 今にも喧嘩が勃発するのではないかという緊張した局面に陥っていると思われていても過言ではない。 とにかく、龍ノ介はバランスを取り戻した塔からそっと手を離すと、一歩体を横にずらして違う方面からホームズの様子を伺う事にする。 その陰からこっそりと覗いていると、辛うじて聞き取れる程の小さな呟きがぶつぶつと龍ノ介の耳へと入ってくる。何て言っているのだろう、と思い、目を瞑り耳を澄ませた。
(……ええと、なになに…)
途切れ途切れに聞き取った言葉の欠片を順々に繋ぎ合わせていく。全てが繋がったその時、龍ノ介は思わずホームズを目の前にその場で叫んでいた。
「いや、ぼくじゃないですからね! ホームズさんの板キャラメル食べたの!」
「何だって!? じゃあ言ってみろよ、ミスターナルホドー以外に誰がボクの板キャラメル食べちまうっていうんだ!」
突拍子に(割とくだらない)容疑をかけられた龍ノ介は心底呆れた。 まさか、板キャラメルが原因で机のものを散らばせられる羽目になるとはさすがに思ってはいなかった。 しかし、ホームズの血走った目を見ればどうやら冗談ではなく、本気で言ってのけているという事に間違いはなさそうだった。
「適当な推理で疑いをかけるのはやめてくださいよ」
「ふっ…世界中から名探偵と呼ばれるボクをあまり侮らないで欲しいな。しらばっくれたところで、真実を隠した嘘はいつか必ず暴かれるものだと君が一番に知っているはずだが」
ホームズが言っている事は実に論理的であり正しい事であるのは確かだった。 しかし、その例に当て嵌めようとしている事案があまりにどうでもいい上に説得力がまるでない。 龍ノ介は頭をポリポリとかきながら、未だ真剣な表情で訴えてくるホームズに仕方なく力が入らないままに異議を唱えたのだった。
「……そこまで言うなら、弁護側はシャーロック・ホームズさんに証拠の提出を要求します。それくらいはしてもらわないと、 さすがのぼくとてそう簡単に覚えのない罪を認める訳にはいきませんからね」
「ふむ…相変わらず君は自分で自分を弁護するのが大好きみたいだな」
「いや、別にそういう訳では」
「よし、いいだろう。お望み通り、その証拠とやらを提出しようじゃないか。君がボクの…最後の板キャラメルを無神経にもぱくぱく食べちまった証拠をね。そこで、だ」
「え? あ、はい。何でしょう」
「賭けをしないか? ミスターナルホドー」
「か、賭け?」
にこやかな笑顔で唐突に謎の提案をされた龍ノ介は思わずたじろいだ。いつもの調子でパチンと指を鳴らし、 ちらりと横目で龍ノ介を見下ろすホームズに圧倒され、言葉が出ないままに息を呑む。
「もしボクが決定的な証拠を突きつける事が出来たら、君はボクの言う事を何でも聞くってのはどうだ」
「なっ、なん、何ですか、それ…」
「勿論、失敗したら君の勝ちだ。ミスターナルホドーの言う事をボクが何でも聞いてやる。どうだい?」
「ど、どうだい…って言われても。何でわざわざ賭けなんてしなくちゃいけないんですか」
「何がって…君も無粋な事を聞くね。ただのゲーム、お遊びさ。お楽しみ要素がないと面白くないだろう」
(別にぼくはそんなお楽しみ要素なんて求めてないんだけど)
板キャラメルを食べた記憶など有りはしないのに、何故だか嫌な予感が頭の中を過ぎって背中に冷や汗が静かに流れた。 絶対に違う、犯人はぼくじゃない、他の誰かかホームズの勘違いに決まっている、龍ノ介はそう確信していた。 しかし、ホームズの自信に満ちた表情が妙に心に引っかかる。その謎のを解明できないままに、話は怒涛の勢いで流れ続け止まる事を知らない。
「お楽しみが増えた所で、さっさとこの裁判ごっこを終わらせるとしよう。 それでは早速、そこのゴミ箱の中身を見てみるといい。さすれば決着はすぐにつくはずさ」
「ご、ゴミ箱…?」
そして、嫌な予感とは大抵当たってしまうるもので。
恐る恐る、机の脇に置かれたゴミ箱を上からそっと覗いてみる。 すると、龍ノ介には見覚えのない丸められた何かがその中に転がっていた。 手に取り、しわくちゃになったそれをゆっくりと開いていく。
(こ、これは…!)
さすがに、こんなのぼくは存じ上げません、とは言えなかった。 ここ最近でさえ何度も見た事のあるお菓子のパッケージは正しく今二人が探していたものの残骸に違いはなく、 反論する気さえ起きなかった龍ノ介は肩を落とし、実に小さな声でぼそりと呟いた。
「い、板キャラメルの、包み紙…」
「ぷっ……あーっはっはっはっは!お見事、大正解だね」
「なっ、なっ…なん、何で…だあああ!!」
嘲笑うかのように部屋中に響き渡るホームズの高らかな笑い声と共に、 拳をわなわなと震わせていた龍ノ介は見事までにがっくりと膝から崩れ落ちたのだった。
***
「…で、いつまでこうしていればいいんですか」
そして時が過ぎる事、約二時間。ホームズに言い寄られ渋々要求を呑む覚悟を決めた龍ノ介に下された命令は意外な事にたった一つだった。 一階のホームズとアイリスが住んでいる部屋の、リビングに当たる場所でずっしりと構えたソファーに腰を下ろすと、 こっちに来いとでも言うように手招きをするホームズに不思議に思いながらも素直に従った直後、龍ノ介の視界は一瞬で暗転した。 普段では見る事が出来ない程の素早い行動で龍ノ介の体を抱き上げたホームズはそのまま、所謂女性を抱き上げた時のような横抱き状態のままで再びソファーに腰を下ろした。 そんな奇妙な状態になり果ててから実に二時間が経過している。何か会話をするでもなく昼寝をするでもなく、ましてや放り投げるような事もせず、 ただただ目を閉じて今この瞬間を噛み締めるかのように龍ノ介の体を抱き締めるホームズは怖いくらいに物静かだった。
「あの。返事くらいしてください」
「……うん」
「いや、返事だけされても困るんですが」
くぐもった声で返されたたった二文字の返事はふわふわと宙に浮いては蒸発して消える。 さすがに二時間も同じ体制のままでいる龍ノ介の体の節々は悲鳴をあげ始めていて、ましてやホームズの方がよっぽど負担がかかっているというのに顔色一つ変える様子はない。 このまま堕落していたら、何も出来ないうちに一日が終わってしまうのではないだろうか。 龍ノ介がそう胸に小さく不安を募らせた時、今度はゆっくりとホームズの体が傾いていき、そのまま巻き込まれる形で二人はソファーの上で横になっていた。 ホームズの膝の上からソファーへとずり落ちて倒れた龍ノ介は最早呆れて声も出ない。
「はあー…気持ちいいなぁ…」
「言っている意味がよく分かりませんが、そろそろ放して頂けませんか」
「なんだかすごく、抱き心地が良くてね。このまま朝まで眠ってしまおうかな」
「いや、困りますよ。というか大体、男の体抱き締めて気持ちいいって…どうかしてるんじゃないですかっ」
小さなソファーに縮こまって大の大人、しかも男二人、ホームズが龍ノ介を背中から抱きかかえるように寝ている光景はさぞ暑苦しい事だろう、と龍ノ介は心の底で思った。 そして、頬が赤くなる程に彼の心は照れくささで塗れてしまっている。それに気付いたホームズは、にやりと怪しく口角を上げていた。
「何だか知らないうちに板キャラメルを食べてしまった事は謝ります!ですから、本当に、そろそろ…もう、放してくださ…」
「……駄目だ」
「な、何で…」
「嫌じゃないんだろう? 本当は」
龍ノ介は今この瞬間に、心臓が飛ぶくらいに突かれた衝撃を受けたように感じた。 痛みにも構わず、首を後ろに曲げてホームズの表情をうかがうと想像以上に顔が近くなる。 う、と息さえも出来なくなり、次第に距離がぐいぐいと縮まって、もう少しで唇と唇がぶつかろうとしたその時ようやく、真っ白にぼけていた龍ノ介の頭が覚醒した。
「え、あ、いや、ちょ…ま、ままま待った!」
「何だい、いい雰囲気だったってのに」
「あの、今、何を、しようと」
「…さぁ、何だったのかなぁ」
今、確かに逸れた。 ぼそりとこぼしたその声と共に変化したものを、龍ノ介は見逃さなかった。 どうしたのか、と聞こうと体を起き上げるつもりが、変な所に力が入ったのかそのまま後ろに体が倒れ込み、そのままソファーから落ちて床に転がった。 上から、大丈夫かい、ミスターナルホドー、という心配の言葉と共に高笑いが落ちていく(絶対に心配はしていない)。
「ま、いいや。満足したし。もういいよ、何処行っても。ほら、シッシ」
「あのですね…ぼくは犬じゃないんですから、そん、な…」
「今すぐ出て行け、早く」
「は…?」
ホームズの声が溢れたその時、不意に体が震えて声が出なくなった。 ソファーで寝転がりながら龍ノ介を眺めているホームズは、勿論見てくれは至って普通だった。 しかし、ひどく声が重く暗かった。地を響かすようなその声に、龍ノ介の背中には変に冷たい汗がたらりと流れていた。
「…情けないよ。このボクが、自制なく無意識に手を出してしまうなんて」
「あ、あの…ホームズ、さ」
「さっさと出て行けと言ってるんだ! 成歩堂龍ノ介!」
張り上げられるホームズの声にびくりと体が震えた。 頭がぐちゃぐちゃになりながら力の入らない拳を握り締め、龍ノ介はその場から逃げ出すように屋根裏部屋までの道を駆け上がった。 後ろは見ない。声も聞かない。何も考えない。 ただただ、悲しそうなホームズの表情だけが脳裏に浮かんで、息が整わないままにベッドに飛び込んで何かを押し込むように頭から布団を被った。
(何で…何で、しらばっくれるんだよ。ひどいだろ)
ついさっき起きた数分の間の出来事が瞼の裏で再生され、龍ノ介は昂った声にならない声を顔を埋めて吐き出した。
「…意気地なし」
自分も、貴方も。 頭の中で響く自身のその言葉が、唸るように鼓動する龍ノ介の心臓を掴んでは酷く苦しませているようだった。
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