(はぁ…なんて声かけよう)

 その日の夜。夕食の準備をしていたアイリスが心配そうに屋根裏部屋に声を掛けても、返事は一つも返ってくる事はなかった。 一方、ホームズはさして気にも留める様子はなく、テーブルに置かれた夕食を我先にと料理にがっついて掻き込んでいた。 まだ全員揃ってないのに、と散々アイリスにお叱りを受けたホームズはついにスモークランチャーを向けられ、なるほどくん早く呼んできて、と恐喝をされてしまった為、 渋々ながら屋根裏部屋に続く階段の前に佇んでいる。

「……おーい、ミスターナルホドー。夕飯だぞー…」

 天井を見上げながら申し訳程度の小さな声で部屋の主の名前を呼ぶ。 昼の事もあってか、普段のように堂々たる態度で叩き起こしに行けないのがなんとも歯がゆかった。

(悪い事したな、とは思ってるさ。一応)

 龍ノ介はとっくの昔に自分の気持ちに気付いている、と別れ際の彼の表情を見てホームズは理解していた。 てっきり自覚一歩手前だと思っていた。少しからかえば通じ合える自信があった。 しかし、それが失敗に終わってしまったのは寧ろ、ホームズ自身が無自覚の気持ちのままだった事が問題であり敗因と言える。

「ま、中途半端は一番いけませんよなぁ…」

 ぼさぼさの髪の毛ごと頭をぽりぽりと掻いたホームズはゆっくりと目の前の階段を昇ってゆく。 次第に広がる屋根裏部屋は電気が付いておらず、辺りは真っ暗で何も見えなかった。 一歩一歩、まるで盗人のように忍び足で部屋の奥へ進むと、規則正しい深い呼吸音が微かに聞こえてくる。

「あ、もしかし……いでぇっ!」

 その音を辿るように足を踏み出すと、勢い余ってベッドの足を思い切り蹴ってしまったらしい。 びりびりと痺れる足をなんとか立ち直らせて、目の前に膨らむ布団の山を見る。

(…………起きちまったかな)

 片足を上げたまま凝視するも山は少しも動く気配は無い。恐る恐る布団の端を指先で掴んでぺろりと捲る。 その中にはやはり龍ノ介が器用にも体を丸めて意識を沈めていた。 日本人特有の小さな鼻からすーっと細い息が通っては胸が上下に浮き沈み、なんとも気持ちの良さそうに寝息を立てている。

(参ったね、ほんと)

 思わず、喉が鳴る。ついさっき夕食はしっかりと取ったはずだった。 ホームズはその場にしゃがみ込み、龍ノ介の優しい寝顔をしっくりと見つめると、額に垂れた柔らかい前髪を撫でるように掻き上げた。 ぴくり、と眉が揺れる。暗闇のせいで見えていないのか、ホームズは気付かないままその額に少しずつ顔を近付けていく。

「タヌキネイリ、って言ったっけ」

 小さく笑いながら耳元に囁くと、突如小さく弾く音静かな部屋の中で響いた。 途端、ぎゃあ、と比較的控えめの絶叫が飛び出して、ぱっちりと瞼を開いた龍ノ介と目が合う。

「い、痛い…」
「ボクの呼びかけを無視した罰だ」

 指で弾かれて瞬時に開眼した龍ノ介はぼやきながらじんわりと痛む額を優しく擦る。 アイリスの折角の料理も冷めてしまった、と溜息を吐きながら、ベッドを背に床に座り込んだホームズが見上げるようにふんぞり返ると、 上半身だけを起き上げて目線を外しながら頭を下げている龍ノ介が視界に映っていた。

「あの、その…なんというか、すみません」
「どうせならアイリスに謝っておくれよ。意外と怒ると怖いんだ、ボクでも敵わない」
「あぁ、はい。そうですね、そうします」
「…寧ろ、そうだな。ボクは謝られるんじゃなくて謝りたい訳だし」
「え? あ、はぁ…」

 明らかに元気のないホームズを察して、龍ノ介はのそのそとベッドから降りるとその隣に同じように腰を降ろした。

「もしかして、気にしてるんですか? 昼間の事」
「そりゃあ、まぁ。ちょっとからかいすぎたというか。その………色々とごめん」
「いや、ぼくは別に、その…気にしてませんから」
「……だったら、この痕は何?」

 ホームズは咄嗟に、龍ノ介自身でも気付いていなかった、目の下に残っている乾ききった涙の跡を拭うように人差し指でなぞった。 明らかに、あれからずっと眠りながら泣き続けたという何よりの証拠だった。びくりと体が震えて、思わず後退る。

「こ、これは…その、別に…」
「…怒ってる?」
「もう、怒ってません」
「じゃあ、ちょっと前までは怒ってたのかい」
「まぁ、それなりに…」
「それじゃあどうしたら君に許してもらえるのかな、ボクは」

 揺れる瞳を射抜くように見詰めながらホームズは真剣な表情で龍ノ介を見遣る。心臓が高鳴った。 何と答えるべきなのか、頭の中でぐるぐると回る思考の中で振り絞るように龍ノ介は声を出した。

「……それくらい、自分で考えてくださいよ」
「分からないから聞いてるのに、それはないだろ」
「仮にも名探偵でしょ、当ててみてください。いつもの調子で」

 半ば自棄糞である。どうすればいいかなんて、お互いに分かっているはずなのにどうも素直になれない。 視線を落としたままの龍ノ介に真っ直ぐ目を向けたまま腕を組み、小さく息を吐き覚悟を決めたホームズはただ一言分かったと答え、言われるがままに話を続けた。

「単刀直入に言おう。ボクは君が好きだ」

 そう、世間話のように軽く言い放つホームズの言葉に、龍ノ介の頭上にはまるで稲妻のような衝撃が落ちていた。 開眼したまん丸の瞳がぱちぱちと開閉して動揺を隠せない。にやりと微笑むホームズに遠のきかけた意識をはっと覚醒させて龍ノ介は反撃を試みる。

「い、いいい、いくらなんでも単刀直入すぎます!」
「あのね、ボクは日本人みたいにまごまごするのは苦手なの。…もう一度言うが、ボクは君が好き。そして、君もボクの事が好きだ、そうだろう?」
「あの、勝手に決め付けないでください」
「でも、本当の事だし」
「う、ぐぐ…」
「君の気持ちにボクは気付いていたのに、ずっと気付かない振りををした上自分の気持ちにさえ素直になれていなかった。 言い訳にしか聞こえないかも知れないけど、きっと、なんというか、自信が無かったんだと思う」

 こんなにも悲しみに帯びた重い声で話すホームズを果たして今まで見たことがあっただろうかと、龍ノ介は彼と出会った日から今までの事を密かに思い出していた。 よくよく考えてみれば今日の昼間に一度見たばかりだったのだが。

「いつもならハッタリだって自信満々に言う癖に…」
「何か言ったかい」
「いいえ、何も?」
「だよねえ……ぶふっ」
「ふふふ、あはははっ」

 しんとした空気の中で、沸々と生まれた二人の笑い声が辺りに広がる。いつものようなくだらない冗談の言い合いが今は嬉しくて堪らなかった。 乱れた呼吸を整えて、ホームズはそっと龍ノ介の腕を掴む。 しかし、びくりと震えたその腕は振り払われる事はなかった。少しばかり困惑した顔で目を細めながらホームズを見る。

「面白ついでに、もう少し近くに来てくれ」
「ち、近くにって。もう十分近いですけど」
「いいからもっと!」
「はぁ…」

 仕方なく、ずりずりと尻を引き摺りながら再びホームズのすぐ傍へと近寄る。 ぴったりと隙間なくくっつき合い、ただでさえ仄かに感じる体温が余計に体を火照らせるというのに、 ホームズはそれに構わずに龍ノ介を自分の目の前まで引き摺り込んだ。

「わ、わわ、ちょ、何」
「ナルホドー、ボクの目を見ろ」
「は…あ、の、ホームズ、さ」
「…さっきの。嘘なんかじゃ、ないからな」

 龍ノ介の柔らかな、しかし日本男児らしいハリのある男らしい頬を両手で挟んで、ホームズは無理矢理にも自分の方向へ目を向けさせて言った。

「隠すつもりなんてなかった。でも、その…」
「意気地なしだったんでしょ」
「う、うるさいな。そういうナルホドーだって、今までなんにも言わなかったじゃないか!」
「んんんおおお、ひゃめ、顔はしゃむのひゃめて!」

 あのホームズがあからさまな表情を醸し出して照れている。 頬を染めながら自分の頬をむにむにと潰してくるホームズが龍ノ介には不思議と可愛く見えておかしくて堪らなかった。 そして、ようやくその圧迫から解放されて乱れた呼吸を整えると、龍ノ介は仕返しとでも言うように同じくホームズの頬を両手で挟み潰しては叫んだのだった。

「ふごっ! にゃ、にゃんだよ…」
「ぼ、ぼくだって! …自信、なかったんです。ホームズさんが同じ気持ちだったなんて、思ってもみなかった。 そんな素振り、一つも見せなかったし。 それなのに、あんな意味深な事して、好きだって事ばれてしまったら…もうここに居られなくなるんじゃないかと思って、あぁもう、くそ…」
「にゃ、にゃるほろー…」
「せっかく止まったのに、これ貴方のせいですからねっ。どうしてくれるんですか、もう!」

 瞳から零れ落ちた透明な雫が頬を伝っては落ちて跳ねた。 離した手の甲で乱暴にそれを拭うと、ホームズの両腕が龍ノ介の背中に回って倒れこむように抱き締められたのだった。 顔が胸に当たる。激しく唸る心臓の音が耳元を揺らして、鼓動するかのように自身の心臓までもが震えを増してゆく。

「ホ、ホームズさん、ぐるじい…」
「締め上げてるんだから当たり前だろう」
「もっ、もしかして、怒ってるんですか」
「あぁもう、そうじゃなくて…ボクは嬉しいの」
「あ、そ、そうですか…」

 愛おしくて仕方がなかった。 どれだけ頬を摘ままれようが割と強めに頭を叩かれようが、増してや沸騰寸前の龍ノ介が恥ずかしさで顔を胸に埋めてこようが、 心満たされたホームズにとってそんなものはもう敵ではなかった。

「ナルホドー、顔、上げて」
「あ…は、はい」

 言葉はもう必要ない。今度は必要以上に潰さないよう、優しい手つきで龍ノ介の頬を覆い、ついに二人の唇が重なろうとしたその時だった。

「ホーーームズくーーーーん!!」
「うわっ!! ア、アイリス?」
「いつまで二人で喋ってるのー? もうこれ以上待ってられないの! なるほどくんの分も全部食べちゃうからねー!」
「わー! ちょ、アイリスちゃん待って! 今行く、今行くから!」

 部屋の下から発射されたアイリスの大音声に大慌てでその場に立ち上がった二人はそれはもう酷い有様で、 絡んだ足が一度起き上がらせた体を見事にひっくり返し、その勢いでホームズが龍ノ介を押し倒したかと思えば そこからまた立ち上がろうとして額と額をぶつけ合って悲鳴が上がった。

「いっでぇ!」
「それはこっちのセリフ…あいだだだっ!」

 暴れるだけ暴れてようやく体制を整えたその時、龍ノ介の視界がふと黒く塗り染まった。 一回り大きい手の平で押さえ付けられた後頭部、ふわりと香る大人の匂い、そして柔らかく温かいぬくもりを帯びた唇がふわりと重なった。

「……ゴチソウサマ、でした」
「あ……は、はい…」

 振り向きざまににっこりと微笑んだホームズにいつの間にか見とれていて、しばらくの間その場から動く事が出来ずにいて、 その後の第二の大音声のおかげでようやく体が解れ、飛び降りる勢いで彼の背中を追うように階段を駆け下りた。 それでも、たった一瞬だったあの時間を、一夜を明かしてからも龍ノ介の脳裏には優しさと温かさがいつまでもこびり付いたまま消える事はなかった。


***


「ご、ごめん! すごく待ったよね、ほんとごめん!」
「別に怒ってないの。悪いのはホームズくんなんだし」
「あっはっはっは! 相変わらず厳しいなぁ、アイリスは」
「夕飯だって一人で食べちゃうし。昼間あんなにばくばく板キャラメル食べたのによく食べられるよね」
「へ? 板キャラメルをばくばく…?」
「そうだよー。朝から晩まで食べちゃってさ。すっからかんになっちゃったから仕方なく新しいの、アイリスがいっぱい買ってきてあげたんだからね」
「朝から晩まで…だと?」
「アイリスストップ! それ以上は危険だ!」
「しかもホームズくんって、板キャラメルのゴミその辺にぽんぽん捨てるんだから! 掃除する人の身にもなって欲しいの!  なるほどくんのところでもばくばくしてるから見つけたら捨てといてくれる? さすがに屋根裏部屋までは掃除できないの」
「ああー! すまない、急用思い出したからちょっと出かけてく…」
「……ホームズさん」
「…はい」
「亜双義から受け継いだ狩魔の切れ味をとくと味わわせてあげます。覚悟しておいてください、こんのバカアホ名探偵!」
「バカアホとは失礼な! …って危ない、危ないよ! その長い刃物を早くしまえー!」


(2015.08.03)


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