***


「心配しなくていいですよ、死んでませんから」

 しゃがみ込み、パッチンの介抱をする焼きイカを見下ろしながら彼は確かにそう言った。声を聞き、ようやく我に返ったところで二人の側に駆け寄ると、彼の真後ろに一瞬振られた筆が踊る。それを軽々と避けては筆そのものを掴んでは彼女の体ごと投げるように突き飛ばした。その衝撃に耐えられず、体制を崩されたフデオロシは三人の前に音を立てて尻もちをつく。

「フデオロシ!」
「イッテェ! ケツ擦れる」
「そんなボロパブロでどうにか出来ると思ったら大間違いだ。まぁ…一人、どうにかされたバカはいるみたいだが」

 ふぅと溜息を吐き、どうやらフデオロシにやられてしまったらしい姿のないもう一人の仲間の事を言っているのか、やれやれとでもいうように首を横に振った。これ以上、焼きイカの為にも彼の好きにさせる訳にはいかない。そう思い、フデオロシの腕を引き自分の後ろへと下がらせながら、サファリハットの影で睨みを利かせていたその時だった。気付かない間にすぐ側の彼女の雰囲気が明らかに冷たく一変している事に気付いた。普段のおちゃらけたお花畑のような明るさはどこへいったのか、あまりのその変貌ぶりに思わず息を呑む。

「や、焼きイカ…?」

 いつもならば、どうしたのハットちゃん、なんて気楽な声で返事が返ってくるはずなのに、呼び掛けられた事自体も気付いていないのか、何も声が返らないままに前髪に隠れた瞳は輝きを失って真っ黒に沈んでいる。

「おい。お前…どうし」
「…よくも、よくも二人を……」
「……あぁ。久し振りに見たなぁ、アネさんがキレてるところ。俺、あの時もその顔に惚れたんですよ。だからもっと近くで見せてみてください。ほら、早…」

 暗く微笑みながら煽る言葉を彼が投げ、焼きイカが行動へと移すまでの時間は本当に一瞬だった。まるで、残像を残すかのように物凄いスピードで前へと飛んだ体はすぐさま彼の目の前へと入り込み、一気に飛び出したかと思えば、瞬間、かまいたちのような俊敏な速さで焼きイカの拳が彼の右頬へと打ち込まれていた。

「うぐっ!」
「…まだ、まだ足りない…」
「がっ、くそ…ったれが!」

 なんとか倒れずに済み衝撃に耐え抜いた体で足を踏ん張り負けじと反撃に殴りかかるも、低い体勢のまま易々とその拳を避けた焼きイカは顎を突き上げるように再び拳を振り上げ、右足を振るように風を切り脇腹から足を蹴り入れる。そのまま穴の開いた壁へと向かって後戻りするように吹き飛んだ体は瓦礫を押し退けながら地を滑り、再び薄茶色の砂煙が一気に五人を包んだのだった。

「……今、何が、起きて…」

 焼きイカが動きを見せてからの約数分間は、周りの人物にとってまるで一瞬の出来事のようにも見え、ふと気付いた頃には静けさを帯び既に終わりを迎えていた。誰一人止める事も声を掛ける事も、ましてや腕を伸ばす事も出来ずにただ呆然とその光景を眺める事しか出来なかった。
 そんな様子など気にも留めず、ふらりと亡霊のようにゆっくりと前へ足を踏み出した焼きイカは一歩一歩瓦礫の山へと近付いていく。その時、今が非常に危険な状況である事と、そして彼女自身が望んでいない最悪の展開を迎えようとしているのにようやく気付き、嫌な汗で冷えて固まった体に鞭を打つように手の平に爪が食い込む程に拳を握り締め、真っ白になった頭を横に振っては駆け足でその緑色の背中を追った。

(ダメだ。それ以上は、絶対に)

 自身の周りが張り詰めたような無音へと陥る。そして、気持ちの悪い程に脳内で響き渡る心臓の昂ぶる音と止まらない警報がどくんどくんと激しく震えを上げていた。息を荒げて上体を上げようとするシオンの前に立ち尽くし、見下すように視線を落とす焼きイカの手には、いつの間にやら地面に転がっていた古いバールのようなものを握られていて、今まさにそれをゆっくりと振り上げている所だった。

「っ…やめろ、焼きイカッー!!」

 震える手で彼女の腕を掴み、無理矢理こちらへ振り向かせようと力尽くで引っ張りその勢いで反転した体が自分の胸の中へ落ちると、彼女の手から離れたバールは再び地面の上をからからと転がった。
 ただただ、無我夢中だった。埋まる顔もお構いなしに力いっぱいに彼女を抱き締めた。ぶつかるように抱き留めたせいで頭から落ちたサファリハットがぱさりと音を立てて落ち裏に返る。どれくらいの時間をそのままで感じていたのだろう。自分でさえ分からない果てしない微睡みに瞳を閉じ、体全体で彼女が今募らせているもの全てを感じていた気がする。しばらくして、腕の中から唸るような嗚咽の声が漏れ、ようやく正気を取り戻したらしい彼女の頭をそっと撫でてあげた。

「………さい。ごめん、なさい、ごめんなさい…!」
「…もういい。もう、いいんだ」
「ッ…! おい、前!」

 小刻みに震える体に力が抜けてきた時、彼女の背後にゆらりと伸びた黒い影を見た。慌てたフデオロシの声が全身に突き刺さり、反射的に背を向けて胸の中の存在にだけは危害を加えられないよう警戒し両腕に力を入れた。しかし、予想外にも彼はこれ以上何をしてくるでもなく、口元から垂れた血を腕で拭い、棒のように立ったままその場を動く事はなかった。そして、その口元からぽつりぽつりと零れる哀愁の込められた言葉の数々が側を通り抜けては不意に溢れていた涙と共に流れ消えていく。

「…何で、だ」
「お前…」
「いつも、この手からすり抜けていく…俺はただ、アネさんと一緒に…」
「…」
「どうして…どうして、アネさんの隣りが俺じゃなくてお前なんだよ! クッソ…ふざけんじゃ、ね…」

 今まで隠されたままの彼の本心が、初めて見溢れ出した瞬間だった。ほとんど変化のなかった表情が狂う程にしわくちゃに崩れた末に頭を抱え膝をつく。すると緩んだ腕から抜けた焼きイカがふらりと自分から離れ、ゆっくりと彼の傍へと歩み寄ってゆく。慌てて声を掛けようとして、しかしフデオロシがその腕を掴んでは顔を横に振る。素直に頷いた。

「…アネさん」
「……怒ってるんでしょ。アタシが、あの時逃げたから」
「それは…」
「いいの、分かってる。アタシが弱虫じゃなければ、アタシに、ちゃんと気持ちを伝える勇気があれば、二人がこんな事をする必要なんてなかったのに」
「違う…そうじゃない。違うんだ…」
「どれだけ謝っても許されない事をした自覚はあるの。だから、アタシの事はどれだけ恨んでも構わない。でも、お願い。アタシの大切な人だけはどうか、傷付けないで」
「っ…違うって、言ってるだろ!」

 掠れた濁声で叫んだ声にびりびりと痺れる体が恨めしかった。心が打たれる程の感情が諸にぶち当たってくる事実に怒りを覚える程に。しかし、自分が冷静でいる事に必死になる一方で、彼女の表情はいつまでも穏やかで柔らかいままだった。

「もう、いい。俺の負けです。やるなら躊躇わずやってください。そうすれば二度と、俺はアナタの前に姿を現わさな…」

 自暴自棄になった言葉が、差し出された手に遮られる。細長い目がかっと開いて、見上げた先の彼女と彼自身の視線ががっちりとぶつかり合っていた。

「…ずっと、友達だと思ってた」
「…え?」
「でも、何処かで何かを間違えて、そこからずっとすれ違ってしまったままだったんだと思う」
「な、何を、言って」
「ごめん…ワケ、わかんないよね。でもアタシ、あの日に二人と出会えた事、本当に嬉しかったの」

 酷く震えた声だったけれど涙だけは流さず、今の今まで心の奥底に沈めていた気持ちの全てを吐き出していた彼女の言葉に誰しもが疑う事なく耳を傾けていた。

「アタシの事、もし、許してくれるのなら…もう一度、やり直したいよ。今度こそシオンやカエデ、地元の皆と友達になりたい。…ダメ、ですか?」

 照れ臭そうに微笑みながらそう言った焼きイカの言葉に、ずっと燃え上がっていた怒りが静かに鎮火していくのを感じた。彼女から溢れた正しい素直な優しさが、不思議と心に安らぎを感じさせてそんな自分に少し呆れてしまったところもある。

(参ったな、降参だ)

 他の誰かであればそんなうまい話があるか、と一蹴していたかも知れない。しかし、彼女の心からの本気とひしひしと感じる熱い言葉の強さに信じる他ない不思議な力を感じた。いつの間にかそう思わせられる程に信頼を寄せていた自分自身に小さく苦笑して、二人が手を取り合い笑顔を交わしたところで辛抱堪らず力強く彼女の名前を呼んだのだった。


***


「おーっす、パッチンくーん!」
「あ、焼きイカちゃん。それに、皆も」

 途轍もなく長かったあの夜から数日が経ったある日。へとへとになりながらハイカラシティへと帰ってきた四人は家に帰る気力などとうになく、あの街から近いマゴさんの銭湯へと押し入る形で無理矢理雪崩込んだ。意識が朦朧としていた自分は、どうやらハットさんとオロシちゃんに肩を担がれ運んでもらっていたらしく、謂わばそのせいで残り少ない体力を使い果たしてしまったと言っても過言ではない。それどころか殴られた後から全く記憶がないという、あまりの情けなさに三人には頭が上がらなかったものの、目が覚めた時に見た焼きイカちゃんの笑顔でその後どうだったのかは少なからず察し、彼と何があったのかは気になりはしたけれど、彼女の口からその話が出るまでは何も聞かないままでいようと思い、飛び出しそうになった声をそっと飲み込んだ。
 殴られた箇所よりも、教会の壁を突き抜けた際に背中へ受けた衝撃の方が響いていたらしく、夜中だというのに銭湯の看板娘であるリンちゃんが、ズキズキと痛む体に応急手当として献身的に薬を塗ってくれて、これでもかという程に包帯をぐるぐると巻いてもらった(他の三人は残念ながら居間でぐうすか熟睡していた。別に悲しくなんてないし泣いてもいない)。
 その後は念の為にとマゴさんの古いスクーターの後ろに乗り、近くにある病院にて診てもらったところ自分でも分からないくらいに体へのダメージは大きかったらしく、診察後即入院というバタバタ具合で気付けば病室のベッドに横になっている始末だった。医師に全治一週間と言われて、今日で三日目になる。三人もマゴさんの銭湯には一泊だけして次の日には一度家に帰ったと話を聞いていた。
 そして今日、元気な声で病室へと入ってきた三人はすっかりいつもの調子を取り戻したようで、ニコニコ笑顔の焼きイカちゃんににやりと口元を歪ませたオロシちゃん、そしてフルーツのバスケットを持ったクールなハットさんが視界の中へ飛び込んできた。

「怪我の具合はどうだ」
「大分良くなったよ。痛みもないし、あとは経過観察だって」
「ヘェ〜スッゲェ回復力。さすがダーリン、そのマゾッ気には勝てネェナァ」
「マ、マゾッ気って何!?」
「ほら、パッチンくん。みんなで鶴折ったんだよ。一本しか出来なかったけど」
「なんで一本!? 一本で効果あるの!? 普通千羽でしょ? これしかも十羽くらいしかいないじゃないか!」
「…はぁ、やっぱりパッチンがいるとツッコミ疲れがなくていいな」
「勘弁してよ、ハットさん! 俺だけじゃこの二人捌けないよ!」

 散々文句を言いつつも折角作ってもらった鶴なので仕方なく受け取ると、カーテンレールに掛かっていたS字フックに紐を掛けて吊り下げた。たった一本で、しかも十羽分しかないけれど確かに何も無いよりは寂しくないような気もする。

「えと…今日は、お見舞いに来てくれたの?」
「あぁ。それと、ちょっともう一つ」
「え?」
「ほれ、焼きイカ。言い出したのはお前だろうが」
「ぐえっ! お、押さないでハットちゃん…」

 サイドテーブルにバスケットを置いたハットさんに背中を押された焼きイカちゃんは、ベッド脇の丸椅子にそっと腰を下ろしては、先程と打って変わって神妙な顔つきでどことなく気まずそうにぼそりと呟いた。

「あ、あのね、パッチンくん…」
「な、何?」
「えと、その…この間は、ごめんなさい」
「え?」
「その怪我、アタシのせいだから」
「…焼きイカちゃん」

 なるほど、そういう理由か、と深く納得した。焼きイカちゃんはずっと罪悪感に苛まれていたのだろう、あの夜の件で。しかし、ここにいる誰もが彼女のせいではないと思っている訳で謝る必要もないし謝って欲しいなどと一度も思った事はない。それでも頭を下げている彼女に苦笑しながらも、そっと声を掛けて顔を上げさせるとにっこりと微笑んでは答えたのだった。

「焼きイカちゃんのせいじゃないよ。俺、あんまりケンカ強くなくて。あはは、次までにはしっかり鍛えておくからさ」
「パ、パッチンくん…! でも、アタシ、みんなに迷惑掛けて…」
「メイワク掛けネェで生きてるヤツなんて、この世に一人もいねぇヨ」
「オロシ、ちゃん…」
「困った時はお互い様。だな、パッチン」
「うん。俺達で良ければもっとたくさん頼って欲しい。友達だもん、当たり前の事さ」
「あっ…ありがと、みんなっ…!」
「ったく…。こないだからメソメソメソメソ泣いてんじゃネェヨ、テメーは。その涙はトーチャンとカーチャンがシんだ時までとっときナ」
「…もー何それー! ふふふ、へへっ…あはははっ!」

 二人にぐしゃぐしゃとボンボンニットごと頭を撫でられる焼きイカちゃんは、今まで見たことない程の明るい笑顔を振り撒いていた。それにつられるように笑う三人の心もとても晴れやかで、ついつい騒ぎ過ぎたのか廊下を歩いていたナースさんに頭ごなしに怒られてしまったのだった。それでも楽しい気持ちはいつまでも消えなくて、ずっとこんな時間が続けばいいのにと心から願った。
 そして無事に退院する事ができた後、二人で故郷に帰っていったシオンとカエデから焼きイカちゃん宛に手紙が届いた。中を開くととても短い達筆な文章が書き連ねられ、それと一緒に古い写真が一枚入っていた。手紙にはただ一文、また会いに行きますとだけ書かれ、同封されていた写真にはバイクに乗った焼きイカを挟んで二人、そして後ろには仲間達と思われる不良達が笑顔で並んで映っている。

「まさか、焼きイカちゃんが元ヤンだったなんて…」
「なんとなーく、その気はアッタけどナァ」
「以下同文」
「えっ! な、なんでや!?」
「そりゃ…ナァ?」
「…たまに、感情が昂ぶった時の荒い口調と、何より…部屋にやたら派手に改造してありそうなバイクの模型が置いてあった」
「な、なるほど…」
「うぐぐ…ば、バイクはな、今でも好きなんだもん…仕方ないじゃあん…」
「ホンット、相変わらずウソがヘタなヤローだな全く」
「…ま、コイツらしいっちゃ、らしいがな」
「シクシク…完璧に隠せてたと思ってたのに…」

 がっくりと肩を落とす焼きイカちゃんを可哀想に思うも、やれやれと鼻で笑う二人につられて静かに心の中で笑った。
 それから焼きイカちゃんは時々故郷に帰っては、彼らと共にツーリングへ行ったりずっと顔を見せていなかった実家へと帰ったりしているとの事で、いつか四人で一緒に観光がてら遊びに行こうと本人がいないのをいい事に勝手に口約束をした。でもきっと、彼女なら快く了承してくれると思う。そんな楽しそうな未来がすっと頭の上に浮かんではひとり、期待に胸を膨らませていたのだった。


***


「無事、届いたってよ」
「…あぁ」

 遠い都会の中で今も住んでいる憧れの人の元へと、数日前にポストへ投函した手紙を確かに受け取ったとカエデの携帯電話へメールでの連絡が届いていたのを知り、固い表情はそのまま軽く頷いた。中身は大したものなど一つもなく、強いて言えばグループを組んでいた時に撮った唯一の写真を同封したくらいだった。
 自分の運命が一転したとも言えるあの日の夜の出来事は、一週間経った今でも忘れる事はできない。喫茶店でホットコーヒーを飲みながら、その時のあまりに必死過ぎた葛藤を考えれば考えるほど顔が熱く染まってははまともに頭を悩ませる事さえ出来なかった。
 すると、テーブル席の向かいに腰を下ろしたカエデが頭をぽりぽりと掻きながらにししと口元を歪ませ、じっとこちらを眺めながら微笑みは零したままに言葉を落としたのだった。

「なぁシオン、残んなくて良かったんけ」
「そんな事、する訳ねぇだろ。用事もねぇし、あんなゴミだらけの町で埋もれて過ごすなんて真っ平ごめんだ」
「ま、そうだよなぁ…」

 都会の空気に自分達がそう簡単に馴染めないくらい、一度でも足を出向けば分かる事だった。それが例え、彼女との過ごせる時間が今まで通り無に等しくなる事になったとしても。しかし、以前のように無理矢理にでもこちらへ連れ戻そうだなんて考えはもうない。ここから遥か遠い場所にあるハイカラシティで新たな仲間と共に、悔しくも今まで一度も見た事のないような明るい笑顔を振り撒いている彼女の幸せを奪いたくはなかった。

「…あっ。アネさんから、またメールきた」

 くるくるとスプーンで黒と白を交じらわせていたカエデの携帯電話の着信ランプがチカチカと緑色に光り、特に気にもせずコーヒーカップに口を付けながら画面をタッチした彼は数十秒後、一転して慌てた様子で、ソーサーに音を立てて戻しながらその画面をこちらへ向けて突き出してきた。

「こ、これ! これ見て!」
「なんだよ。ただの、アネさんからのメールだ、ろ…?」

 あまり長くはない文章が綴られた文字の羅列をなんの気もなしに目で辿ると、その意味を理解した瞬間、その携帯電話を両手で掴み上げ、半分程残したホットコーヒーの存在も忘れるくらいに焦燥した心が店の外へとこの体を飛び出させた。
 その後ろで会計をしながら、先行ってろ、とだけ聞き取った声にすぐ頷き、数年前の運命のあの夜に彼女と出会ったあの場所へと地を蹴り呼吸が乱れるのも気に留めず、とにかく必死なままに全力で街の中を風を感じるままに地面を駆けた。
 たまたま近くの喫茶店に居合わせていた自分を今日ばかりは褒めてやりたい。数十分もの間走り続けた体は完全に息が切れ、呼吸もままならないままに地べたへと座り込む。昼でも真っ暗だったはず路地裏は、今ではすぐ側の建物は取り壊されていて、太陽の光がその廃屋の隙間から数本、まるで目印のように暗闇の中を堂々と突き刺している。

「はぁ、はぁ…こんなの、ズルイですよ…。あんまりだ」

 数メートル先から聞き慣れた、しかし不思議と懐かしい唸るようなエンジン音に危なく涙が溢れるところだった。路地裏に溶ける暗闇など関係ないとでも言うように、細い光の中できらきらと輝く彼女の笑顔はまさしく、太陽そのもののように感じ、自分等が触れる事さえ烏滸がましいとさえ思えた。

「おか、えり、なさい。アネさん…!」
「…へへ。ただいま、シオン」

 激しく響いていた重低音が段々と静まってゆき、眠るように沈んだバイクを置いてはゆっくりと一歩一歩、自分の目の前へと近寄り、あの日のように伸ばしてくれた手をおそるおそる掴むと勢い良くぐいっと体を起こされ、再びバイクに跨った彼女はすぐさま後ろへ乗るように促した。

「カエデ、どうせまだあの喫茶店にいるんでしょ? 早く迎えに行かな!」
「で、でも、そんな…お、俺は…!」
「ほら! 乗るったら乗るの! …また一緒に、ツーリングしようって言ったでしょ?」

 ねっ、とウィンクをしながら笑っては黄緑色のボンボンニットを揺らす彼女の言葉を拒否する理由など元よりなかった。出会ったばかりの数年前に戻ったような、しかし明らかにあの頃よりも輝いているその姿を見て、久しく冷えて死んでいた胸の奥が少しずつ温もりを帯び始めていた事に、この時はまだ気付いてはいなかった。

「…おっしゃ、フルスピードで行くぞぉ!」
「お願いだから俺を振り落とさないでくださいよ!」


(2016.05.30)


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