銭湯なんて行こうと思った事はなかったし、行きたいと思った事もなかったので、聞き慣れないその言葉にすぐ頷けと言われてもさすがに無理だった。表情は変わらずとも、少しばかり肩を落としたフデオロシにもどこか諦めの感情は含まれていてそれ以上はしつこく誘われる事もなかった。しかし、後々聞いてみればその銭湯は自分達にとって馴染のある場所で、所謂そういう我儘がまかり通る場所であれば一応話は別である。

「オッケオッケ! アイツらは別の時間に誘ってあるし、マァ、モノは試しっちゅーコトで」

 こちらから提案した条件を易々と了承した彼女は、合点承知とでも言うようにすぐさま携帯電話を取り出して店主のボーイと連絡を取っている。余程の事ではなければ融通は効く程の仲の良さ(否、彼女にとっては使い勝手が良いオッサンでしかないのかも知れないが)に感服するも、胸の奥に多少不安が残るのは致し方ない。なんせ、別の時間に誘ってあると言っていたあの二人が思った通りに行動してくれるなど心の底から思っていなかったのだから。


***


「おっ、来た来た」

 入店早々、今日も一日お疲れさんだなんて、客寄せの言葉にしては何かと軽いその御挨拶にも最早親しみさえ感じる。と言えど、古くてオンボロの割には人が良く入るという、ハイカラシティから少し離れた場所に存在する銭湯の店主と顔を合わせるのは、ある一件以来今日で二回目だった。あまりの馴れ馴れしさに初めは戸惑いもしたが、友人達が気兼ねなく話している様子を眺めている内にそれにも慣れた。しかし、まるで昔から知っているかのような感覚に陥るせいか、彼との保つべき距離感がいまいち掴み辛くなり、時よりそのあまりの近さに驚かされるのが難点ではある。

(…忘れたつもりでも、結構覚えてるもんだな)

 いらっしゃいませと元気に受け入れてくれた、番台に座る小さな看板娘に入湯料を払ってロッカーの鍵を受け取る。桶の中に家から持ってきていたタオルにシャンプー、リンスと貴重品、携帯電話を入れて店の奥へと向かい、女湯の暖簾をくぐった後は誰もいない脱衣所でようやくサファリハットを脱いで荷物と一緒にロッカーの中へと突っ込んだ。

「へぇ…これはなかなか」

 同様、投げ捨てるようにフクを脱ぎ、必要なものだけを入れた桶を持って浴場へと足を踏み入れる。勿論、人っ子一人風呂へ入っている者はいない。何故ならば今から一時間に限り、この銭湯は自分以外無人、店主と友人の計らいで他の客は出入り禁止になっているからで、つまり今だけは貸し切り状態という訳である(理由はお察し願いたい)。
 時間もあまりないので適当に身体を清め、一面水色のタイルが敷き詰められた湯船にたっぷりと張られたお湯の中へゆっくりと足を入れる。沈むように肩まで浸かると、溜まっていた疲れが水に溶けて消えていくようでとても気持ちが良い。

「………なるほどねぇ」

 手の平で湯を掬い肩にかけながらその温かさに暫し感動する。確かに店自体は古いようだったが、まるで祖父母の家のようなどことなくリラックスできる雰囲気がこの店には確かにある。入店二回目の自分でさえもそう感じる事が出来るのだから、やはり今まで築き上げてきた店の柔らかい雰囲気が功を奏しているのだろう。
 ご立派な山の絵を背に一人静かに入浴していると、デッキブラシを肩に担ぎ、ぴしゃりと引き戸を開けて姿を現した友人がずんずんと浴室の中へと入ってきては、浴槽の目の前で立ち止まりイロメガネを曇らせたままこちらを見下ろした。

「湯加減ドーヨ」
「あぁ、ちょうどいい」
「だロォ? オメェ確か、ぬるめの方がスキって言ってたヨなァ」
「そんな昔の話、よく覚えてたな」
「マ、これでも記憶力には自信あるンでェ」
「昨日のメシも思い出せなかったヤツがよく言うよ」

 そういえばそうでした、なんて馬鹿な話をしながらけらけらと笑うフデオロシにつられるようにくすくすと声を漏らした。

「…昔もこんな風に、まぁ、家の風呂だったから狭かったけど、一緒に入ってバカな話したっけな」
「そうさナァ。よーくオメェんちにはメシも食わせてもらったシ?」
「その分、うちのチビ二人の遊び相手にもなってくれてただろ」
「ま、ウチのを相手するよかマシだヨ」
「ははっ…そうだ。そういえばお兄さんとお姉さん、元気か」
「アッーー…ボチボッチね、ウン」

 思い出すたびに懐かしいと思う。幼馴染と言えばいいのかもしくは腐れ縁と言うべきなのかは分からないけれど、物心つく頃から気付けば隣りには彼女がいて、楽しい時も辛い時も悲しい時もいつだって一緒にいたような気がする。

「トコロデ」
「あ?」
「イツまで、アイツらに隠しておくツモリだ」

 そんな付き合いの長い彼女だけが知っている自分の大きな秘密が今の不思議な状況を作り上げている。イロメガネに隠れた細い視線の力が心臓を刺しているようにさえ感じて、胸の奥がどくりと震えた。

(…分かってるんだ。本当は、このままじゃ良くない事くらい)

 隠しているつもりなんて元々ない。結果的に、隠している状態になっているだけの事を他の二人はまだ気付かないでいるだけで。しかし、打ち明ける勇気がなければその切っ掛けが存在しないのだから、未だいつまでと言われたところで返す答えは一向に見つからないままだった。

「…知らねえよ、そんな事」
「アッ…ソ。別にコッチは困らネェケド。でも、隠したママでいて一番辛いのハ、オメェなんじゃネェのか」
「放っとけ。私だって、何も考えてない訳じゃない」
「フウン…だったら、あのバカには気を付けナ。変なトコロ、イイ勘してンゾ」
「あぁ、分かってる」

 そう吹っかけられてふと、ついこの間にも会ったばかりの友人の姿が脳裏に浮かんだ。初めて会った時から人懐っこく、いつでも元気に振り撒いているようにみえて、実は一番の寂しがり屋である彼女は、今頃もう一人の友人である彼と共にここへと向かっている頃だろう。

(今に甘えている自分の弱さが、いつかまた、私を一人にするのだろうか)

 今までだって一人だった。友人であり家族のようだった彼女の存在はありつつも、気付けば周りには誰もいない日々が続いた。しかしそんな真っ暗闇の中へと勝手に入り込んでは暴れ回り、何も見えなかった先から光を灯してくれたのが焼きイカだった。初めは人の領域に勝手に入っては荒らして帰っていく面倒な疫病神だとばかり思っていて、次こそは完全に縁を切ってやると心に決める癖に、次の日もまた同じように共に過ごしてはさよならの時間までがっつりと受け入れてしまう自分が平然とそこにいて、今まで理解していたはずの自分自身を危うく見失いそうになっていた。

「ま、今日はメンドクセー事はナシだナ。ゆっくりしてけヨ。普段からどっかのダレカサンに振り回されてるせいでオツカレなンだローシ」
「……悪い」
「ンな顔すんな、バカ。せっかくフデオロシ様直々にキレーに掃除してやったフロでヨォ、ンな溜息なんて吐くンジャネェ」
「あぁ、そうだな。ありがとう」

 必ず来る先の未来でいつか、自分が決めなければいけない。頭上で束ねていた髪を解くようにタオルを外して、じんわりと湯の中へ浸っていく様子を見ながら瞼を閉じて頷いた。体中へと芯から広がっていく心地良さとふわふわと浮いた湯気に包まれて、今だけはこの気持ちよさに甘えてしまいたいと思う程に。

「…いい風呂屋だな、ここ」
「店主はなかなかのマダオだケド」
「ははっ、そう言ってやるなよ。あの人はあの人なりに頑張ってるんだろ」
「ハァ〜…どうだかねェ…」
「ああいう人は結構、他人の見えないところで知らない努力をしてるのさ」
「そういうモンかァ?」
「そういうもんだ」

 いまいち腑に落ちない表情で溜息を漏らすフデオロシに談笑を交えながら苦笑していると、突然、脱衣所の方でドタバタと騒がしい音が聞こえてくるのに気付いた。何だろうと不思議に思い、椅子に座っていたフデオロシが仕方なしにと腰を上げ、閉めていた引戸を少しだけ開けて数センチ空いたその隙間から外の様子を窺うと、物凄い速さでぴしゃりと再び閉めきったのだった。

「ヤッベ…」
「おい…一体、どうし」
「…オメー、絶対ココから一歩も出るンじゃネェゾ」
「まさか…」

 明らかに彼女の様子がおかしい。心配になって反射的に湯船から飛び出て、念の為にと洗い場に掛けておいたバスタオルを腰に巻いては隣りに付くと、しゃがみ込んで頭を抱えながら蹲る彼女の口から(もしやと思ってはいたけれど)残念すぎるお知らせが、まるで排水溝に流れて行くシャンプーの泡のようにとろとろとその場に流れ落ちていった。

「早くに来ンなっつったのにホントに来やがッタ…あンのバカタレ共ッー!」


***


 何がそんなに楽しみで仕方がないのかと聞かれれば勿論、マゴが経営している店の広い風呂へ入れる事、看板娘のかわいいチビちゃんに会える事、そして友人であるフデオロシちゃんがデッキブラシを担いでアルバイトに専念している貴重なシーンを見られるという事にある。
 実はこっそり一人でお店に出向いた事も一度だけあって、しかしフデオロシちゃんがアルバイトをしていなかった時期だった為、その日は風呂に入ってイチゴ牛乳を飲みながら看板娘のチビちゃんと話をした後ひとり帰路を辿っていた。それからは暫しキンケツ期間を迎えてしまったものだから、今回の来店は思ったよりも以前より間が空いてしまったけれどそれがまた楽しみを増幅させている部分もあり尚更期待に胸を膨らませるというものである。
 看板娘のチビちゃんとは妙にウマが合い、くだらない事ばかりだけれど話をしているうちに少しずつ笑い掛けてくれるようにもなった。最後に店を出る時には、またきてねと手を振りながら見送ってくれて堪らず嬉しくなって振り返すも、その日からいつの間にやら数週間が経過してしまっている。

「あんまり早く行っても、まだお風呂沸いてないんじゃないかな」
「そうけ? 前このくらいの時間に行った時、もうお店空いてたんだけんども」
「んー…でもオロシちゃんが、来るなら絶対一時間後に来いって言ってたしさ…」
「まぁまぁまぁ。まぁ、そこはさー、サプライズってヤツだよ。多少早くても、ちょっと予定より早く来ちゃいました〜オ〜ウ、さすが焼きイカ! イカしたガールだぜ! ってなるじゃん?」
「多分、いや絶対オロシちゃんにデッキブラシで殴られて終わりだと思うんだけど…」
「あ、ほらほら! そんな事言ってる間に着いたよ、パッチンくん」

 同じ時間に招待されていたパッチンくんと二人並んで、少し荒れた路地を進んでいくとようやく古い銭湯が視界の中へと映りこんできた。相変わらず見た目だけでは銭湯だと判断する事さえも正直難しい程に建物が古めかしい(逆に銭湯らしいともいうのかも知れないけれど)。しかしそれがまた、慣れ親しんだ常連客のみが通う居心地の良い雰囲気が醸し出されている。

「ハットちゃんも来ればよかったのになぁ」
「仕方ないよ、用事があるって言ってたし」
「ハァ〜せっかく広いお風呂なのにひとりとかツマンナイ。パッチンくんも一緒に女湯入ろうよ」
「は!? いや! それは! お願いだから勘弁してください!」
「えーダメー?」
「ダメダメダメダメ、絶対ダメ」
「ちえっ、ケチんぼ」

 必死の形相で首を振りまくるパッチンくんに溜息を漏らしながら仕方なしに頷き、ジップアップグリーンの右ポケットに突っ込んでおいた携帯電話を取り出してはある番号に電話を掛けて耳に当てる。プルルル、という呼出音が数秒響いた後、ぷちりと途切れる音がしたかと思えば聞き慣れたおっさんの声がぼそぼそと聞こえてきた。

「おーマゴのおっちゃん! やっほー」
『あ、焼きイカちゃんかい? どもども。約束してた時間までまだ三十分もあるけど、何かあっ』
「もう着いちゃった!」
『……へ?』
「だからぁ、着いちゃったの! 今お店の前!」
『は…はぁー!?』

 耳元から飛び出すように聞こえた叫び声が、すぐ目の前の建物の中からも同じように響いてびくりと体が震えた。普段怠け体質である店主は、どうやら今日ばかりはきちんと店の中で業務をこなしているらしい。

「そんじゃ今から入るね! よろしゅー!」
『あ、いや、ちょ、待』

 束ねた段ボールを力を込めてギュッと梱包した綴り紐をブチンとハサミで切った時のように通話を終わらせて、パッチンくんの腕を掴んでは店の入口へと突き進む。すると、突然逆方向に向かった力が前へと飛びだした体にブレーキが掛かり、不思議に思って後ろを振り向くとパッチンくんが青い顔で全体重を掛けながら必死に抵抗をしていた。

「なんかさっきすごい声聞こえたんですけど!?」
「ん? 入っていいって〜」
「本当に!? 本当にそう言ってた!?」
「言ってた言ってた。ほら、早く行かないとみんな待たせちゃうよ」

 ダメ、とは言われていない(待て、とは微かに言われかけたような気がするけれど)。未だ慌てているパッチンくんを差し置き、玄関の引戸に手を掛け勢い良く横にピシャーンとスライドすると、中から銭湯の独特な塩っ気と古い木の匂いがふんわりと鼻を掠った。

「やっほー!」
「いらっしゃいま…あ、コゲたおねえちゃんとパッチンのおにいちゃん」
「違う違う! ほら、この間教えたじゃろ?」
「えっと…あっ、焼きイカちゃんだ!」
「んへへ〜正解!」

 番台から身を乗り出して手を振ってくれたのは巷で有名なボロ銭湯の一輪の花である小さな看板娘ちゃんで、にこにこと子供らしい笑顔を掲げながらぱたぱたと駆け寄ってお出迎えをしてくれた。マゴのおっちゃんはどこにいるの、と問いかけると、とりあえずお茶でも飲んで待っててもらえますか、と彼から伝言を預かっていたようで、看板娘ちゃんから受け取った熱い湯呑をふうふうと啜りながら、隅っこの方に申し訳程度に存在する休憩処の固いソファーにパッチンくんと二人並んで座って待つ事にする。

「…やっぱり、まだ沸いてなかったんじゃないかな。お風呂…」
「でもお風呂の匂い、するよ?」
「まぁ、確かにそうなんだけど…」
「あ…今ね、貸し切りのお客さんが入ってるの。ごめんね」
「貸し…」
「切り?」
「うん、そう」

 テーブルを挟んだ向かい側のソファーに飛び乗って、床に付かない足をぷらぷらとさせながらそう零した看板娘ちゃんの言葉に、パッチンくんと顔を見合わせて恐らく共通であろう湧き出た疑問が頭上へと浮かんだ。

「今日はアタシとパッチンくんが貸し切りでお風呂に入れるんだよね?」
「うん、俺もそう聞いてたんだけど…」
「アタシ達の前に貸し切りの予約入ってるなんて、オロシちゃん言ってたっけ? …一体何者なんだ…」
「……や、焼きイカちゃん、まさかとは思うけど…」
「ハイ! パッチンくん、スタンダップリーズ! 様子見に行こう!」
「いやいやいやいや、それはまずいって…あっつい!」

 熱いお茶を一気に飲み干しては空の湯呑をテーブルに叩きつけ、勢いよくその場に立ち上がると、小さく落とされた彼女の制止の声が、自分を止めようと騒ぐパッチンくんとそれを振り払って前へ飛びだそうとする自分の動きを止めた。

「えーっと…」
「マゴにいが誰も入れちゃダメって、言ってた」
「おっちゃんが?」
「うん。絶対って約束しちゃったから、焼きイカちゃんでもダメです」
「そうかぁ〜そいつは残念」
「助かった…」

 これ以上はさすがに身が持たないよ、とぽろりと零れた疲れた声は聞こえなかった事とする。折角暇つぶしのお楽しみが出来たと思ったのに、看板娘ちゃんに止められてしまっては流石にこれ以上禁止区域へ足を踏み入れる事は出来ない。仕方がないので最近発売された携帯用イカジャンプのハイスコアでも狙ってみようかと思った矢先、女湯の奥から待ちに待っていた人物がのそのそと姿を現した。

「オイコラ」
「あ、オロシちゃんだ! やっほー」

 いつものイロメガネに真っ赤なロゴマシマシアロハを着こなして古いデッキブラシを肩に担ぎながら、なかなかヤンキーなツッパリスタイル(何故だか親近感が沸いてくる)で登場したフデオロシちゃんのご機嫌はどうやら今現在あまりよろしくないらしい。

「ったく、オメェらは言われた時間も守れネェノカ? アァ?」
「ほ、ほら…だから言ったじゃないか」
「まぁ、まぁまぁまぁ」
「ハァ…別にいいケド。先客様がオカエリになったラ呼んでヤルからヨ、もう少しここで待ッテロヤ」
「えー! それ誰? 女湯だし、オロシちゃんのお友達?」
「個人情報は一切、ナ、ガ、シ、マ、セーン」
「くぁッー、オロシちゃんのケチんぼ!」

 頬を膨らませながら仁王立ちで立ち塞がるフデオロシちゃんの前に仕方なく元の位置(つまり、座っていたソファーの事である)へ静かに腰を下ろすと、満足気ににやりと口角を上げた彼女は何かに気付いたのか、パッチンくんの方を見遣ってはそこか怪しげな表情を浮かべたままぼそりと声を掛けた。

「…アァ、でも男湯は空いてるカラ、ダーリンはスグ入れっケド」
「あ、そうなんだ。どうしよう…焼きイカちゃんには悪いけど、先に入っちゃおうかな」
「おっ、いいよいいよ! アタシはココでもうちょっと待ってるからさ」
「そっか…それじゃあ、お言葉に甘えて」

 パッチンくんが照れ臭そうに桶を抱えて男湯の暖簾を潜っていたその後、その姿が見えなくなった直後にフデオロシちゃんと顔を見合わせ、にやりと顔を歪ませながら無言の意思疎通を交わすと、持っていた携帯型イカジャンプをポケットに突っ込み、そして彼女は担いでいたデッキブラシを床に放り投げ、軽い足取りで颯爽と彼の跡を辿るように二人で追ったのだった。

「男湯には入れるなって言われてないから…ま、いっか」




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