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 今は自分の姿であるパッチンの腕を引きながら、時間も時間であった為とりあえず今いる場所から近かった彼の住む団地へと戻る事にした。ようやく会う事が出来たのも束の間、ポケットに突っ込んだままだった携帯電話が何度も震えていたのに今更気付き、画面を見るとびっしりと羅列された着信履歴に思わずげんなりした。電話を掛け直せば腐れ縁の彼から怒涛の文句が飛んでくるのは目に見えていたので、そこはかとなく機嫌を損なわない程度のお詫びのメールを一通だけ送っておく。
 真っ暗な部屋の電気を付けて、シンプルなベッドにどっしりと座り込んでは、冷静になった頭で昨日あった出来事を目を閉じて思い返してみた。

(何でこんな事になっちまったんだっけなぁ)

 昨日が特別変わった一日だった訳ではない。普通にナワバリバトルをして帰りがけにファーストフード店で一緒にハンバーガーを食べただけだ、とそこまで思い返してひとつ、そういえばその店の店員に妙な商品を薦められた事を思い出した。その日は一日勝ちが続いて上機嫌だったのを覚えている。新商品だと言われ、喜々として勢いで購入したそれの名前がまさしく。

「…好きなあのコと入れ替わりバーガー」

 あまりにも、そのまんますぎて頭が痛い。原因がこれ以外に果たしてあるだろうか。と、言えど、推していた店員でさえおまじないのようなものですけどね、と笑って言っていたくらいなのだからマンガに出てくるような変な薬なんてものは混入はされていないはずだった。

(だったら、何で…)

 夢の世界ではない。現実で自分と彼が入れ替わってしまった事実がここに確かにある。ましては友人を巻き込んでまで大変な事態になっているのは紛れもない事実だ。

「…やっぱり、昨日のハンバーガーかナァ」

 ホットコーヒーを淹れたマグカップを二つ持って隣に腰を下ろしたパッチンも、どうやら心当たりはそのハンバーガーに絞られるらしく、やはり他には原因として考えられるものはないらしい。
 手渡されたマグカップにそっと口をつけると、砂糖の甘味とほのかに苦い香ばしさがすっと喉を通っては中へと溶けて心を落ち着かせた。

「アレにそんな効果あると思うかぁ?」
「それもそうなんだケド…でも、このままじゃちょっと困るし」
「そう? 別に困りはしねぇけど」
「い、いやいや困るデショ! 何言ってんの!」
「何で?」
「な、何で…って、だって…その」

 自分でも突然何を言い出したのかと思った。つい先程まで元の身体に戻る事を考えていたばかりだというのに。困惑した彼の表情が次第に俯き、ほのかに頬を染めているのに気付いて、イロメガネの向こうにぼやける濁色が微かに光を灯しているようにも見えた。

「…怖かった?」
「え?」
「あそこでヤられそうになっちゃった時」
「あっ…えと、それは、その」
「約束してたの、ぶっちゃけ忘れてた。悪い事しちったなぁ」
「や、約束って…」
「セックス、するつもりだった。今夜、アイツと」

 あまりに直接的すぎるその言葉に、あからさまに見開いた彼は気まずそうに視線を落とした。無理もない、そんなものに縁のなさそうな彼にそんな話をするだけでも、拒否反応を示されてもおかしくはないのだから。それでも、ここまで自分の裏での生活を知られてしまっている時点で今更嘘をつく必要なんてない。自分にとっては生き甲斐でもある、しかし周りから見れば軽蔑されてしまう程に汚らしい日々に快感を覚える自分をこれ以上隠す事は不可能だった。

「…ワリィ。そんな、キッタネー身体ン中にいると思うと気持ち悪いよな。でも、嘘なんかじゃない。今回が初めてでもない。もう何度も知らないヤツらと、ワタシは…っ!?」

 自分で言っていて虚しささえ感じてきたその時、ふわりとあたたかい温もりが自身を包み込んでいた。危なく落とすところだったマグカップを咄嗟にサイドテーブルに置き、勢い良く飛び込んできたその体を無意識に抱き返すように腰に両腕を回した。

「…今は、言わないデ」
「……パッチン?」
「今夜、だけでイイから…今夜ダケは俺を見てて」

 彼の掛けていたイロメガネがフローリングの上にからんと音を立てて落ちた。あ、と声を零した瞬間、頬に優しい何かが触れた気がして一気に頭の中がふんわりとぼやけては視界が曇ってゆく。

(……あったかい、な)

 何度も行為を繰り返してきた日々の中、こんなにも胸がいっぱいになる口づけが一度でもあっただろうか。瞳を閉じて、未だにぴりぴりと疼くその跡が消えていく事に寂しさを感じた。いっその事、このまま一緒に混じり消えてしまえたらいいのに。そう心から願って止まなかった。


***


 いつの間にか、二人で死んだように寝て起きた次の日。まるで昨日の出来事が夢だったかのように、宿る場所を間違っていた互いの魂はいつの間にか一夜の間で元の身体へと戻っていた。目を覚ますと隣には乾いた涙を目元に残したまま眠るパッチンが横たわっていて、その体にそっと布団を掛け直してやった後、少ない荷物を纏めて部屋の外へと出た。
 まだ早い団地の朝は人っ子一人おらず、駅のホームまで出てきてもほとんど人気はないままだった。ハイカラシティへ向かう電車が来るのを駅で一人、ぼうっと突っ立ったまま待っていると、持っていた携帯電話がぶるりと震えた。画面を確認して、一息重く吐き出しながら仕方なく通話ボタンを押す。

「ハイハイ、モォシモオシ…」
『…おはよう』
「はい、オハヨ」

 平気な振りをしつつ少々心の中では怯えながら電話に出たものの、意外にもいつも通り冷静な態度だった腐れ縁に酷く安心する。

『その様子じゃ、ちゃんと戻れたみたいだな』
「アッー…なんか知らんケド、そうミタイッス」
『良かったじゃないか。悪かったな、何の役にも立てなくて』
「オメェが謝るコトじゃネーヨ。自業自得ってヤツァ」
『…そうかよ。焼きイカも心配してたぞ、ちゃんとチューしたのかって』
「…ハァ!?」

 あまりにも昨夜の事を見透かされたような意外な言葉に思わず変な声を上げてしまった。何故バレたのか、と堪らず零してしまいそうになって慌てて飲み込むと、受話口の先からくすくすと苦笑する声が聞こえて唇を噛んだ。

「ナニ珍しくゲラゲラ笑ってンだヨ」
「いやなに、結局アイツの言った通りになっちまったなと思って」
「それ、どういう…」
「昨日の昼間、パッチンに言ってたんだよ」

 ちゅーのひとつやふたつやっときゃ治るんじゃね。
 まさかあのパッチンが本当にやってのけるとは思ってもみなかったけど。そう浮き立つ声で感心したように話す腐れ縁になんとなく悔しさが滲み、ちょうど線路の先から段々と近付いてくる電車を見つけては、また後でナァと一言吐き捨てるように通話口で叫んでは電話を断ち切った。

(…マ、自分にチューされるのはもう勘弁ナ)

 忘れてしまった訳ではない。それでもまるで夢の中の話のようにも感じた、彼からの現実味のない口付けは未だにしっかりと頬に焼き付いている。その跡をそっと指先でなぞるように触れ、携帯電話をポケットに突っ込みながら軽い足取りで目の前で開いた扉の先へと飛び乗った。


***


「うわ、切られた」

 ベランダの外からガタンゴトンと電車の走る音が聞こえる。ごちゃごちゃに物が散乱した部屋の中で唯一片付いているキッチンのダイニングテーブルで、焼いた食パンを咥えながらテレビを眺めている焼きイカと、その向かいで耳に当てていた携帯電話を降ろしては中断していた食事に自分も手を付ける。結局昨日は街の中を探し回っては見たものの、見事にすれ違いを起こしてしまったのか、探していた本人からのメールで自分達のいないところで無事再会を果たしたと知り、飛とんだとばっちりを受けてしまったような損をした気持ちになるも、今し方の電話で無事に解決をしたと判明したので一先ず安心はしたのだけれど。

「二人、ちゃんと戻ってた?」
「あぁ。しかも、あいつらほんとにキスしたらしいぞ」
「うほおおっ、すごい! パッチンくんやるなあ!」

 うっかり一番漏らしてはいけない人物に情報を漏らしてしまったような気がして謎の罪悪感が胸に募るも、一方的に電話を切った仕返しだと考えあまり深く考えない事にする。
 昨夜はパッチンの団地より数駅離れた場所に立つアパートで暮らす、彼女の部屋に急遽泊まっていく事に決め、探し回って疲れた体はあっという間に睡魔に襲われ、焼きイカはベッドに自分は物が散らかるリビングに置かれた二人用のソファーに横になって一夜を過ごした(ソファーの上にも恐ろしい程に物が山盛りになっていた。仕分けるのも面倒だったのでその大体をゴミ袋の中へ突っ込んでスペースを作った)。

「そうやってキスまでしてダーリンって呼んでるのに、何故か付き合ってないのがめっちゃ面白い」
「あと一歩なんだけど…その辺、お互い勇気ないよな」
「周りからしてみたらさぁ、すっごいじれったい状況なんですけど! 分かってんのかなぁ、もう」

 ぷりぷりと頬を膨らませながら、イチゴジャムをたっぷりつけた食パンを噛み千切りながら彼女はそう零した。二人の徐々に縮んでいく距離をどうこう言う資格は周りの人間にはない。しかし、彼女の言う通り焦らされているような気分になるのは間違いないので、出来る事ならさっさとくっ付いてしまえと背中を押したくなるのも事実だった。
 椅子に腰を下ろし、コップに注いだ牛乳を一口含んではバターだけ塗られた食パンをくしゃりと一口かじる。その時、ふとまだ寝惚けた脳裏にふわりと浮かんだ疑問がぽろりと言葉になって零れた。

「…お前は誰か好きなヤツ、いるのか」
「へ?」
「は?」

 自分で言っておいて何を言ったのか一瞬分からなかった。しかし、言い切ってしまったものは仕方がない。後戻りできない状況に陥った今、唸る心臓を抑え付け平然とした態度でごくりと息を呑む。

「あ、いや…その、なんとなく」

 半分程、既に減っていた牛乳を熱くなった胸の奥もう一口含む。

「んー…好きな人、かぁ〜…」
「考えた事、ないか」
「ない事はないよ! アタシだってうら若きガールだもん、へへへ」
「あぁ、そうですか…」

 崩したハムが散りばめられたシンプルなサラダを箸で引き摺りながら取り皿に落として、危なく蓋を閉めずに振るところだったドレッシングを慎重にかけていく。

「でもー、やっぱりー、もしケッコンするならー」
「飛んだな、随分」
「…ハットちゃんみたいな優しくてカッコイイボーイくんがいいな!」
「ゴッフォ!」
「うわ、ハットちゃん汚い」

 無性に口に突っ込んでいた大根サラダを思わぬ彼女の言葉に吹き出しそうになって、なんとか残り少ない牛乳を飲んでは押し流した。唐突に予想外なところで名前を出されるとさすがに驚く上、深い意味合いがあるのではないかと妙に探りを入れたくなってしまう。

「うっ、くそ…お前のせいだろうが」
「はいはいはいはい、布巾持ってきたぞい」
「はっ! ちょ、待、近…!」

 いつの間にか目の前から姿を消していたと思えば、気付けば本当に文字通り目の前に輝くピンク色の瞳がそこにあった。真っ白の濡れた布巾を持って自分の汚れた口周りをごしごしと拭くのは百歩譲って許すとする。しかし、一歩でも前に踏み出せば密着しかねないその距離感に堪らずたじろいだ。

「ほ〜れ、キレイになりました」
「…………」
「ハットちゃん美人さんなんだから、もっと食事のマナーっつーのを身に付けるべきだやな! 台無し台無し!」
「……そりゃ、どーも」

 余計なお世話だ、とも言える程冷静な気持ちでいられるはずもなく。ふわりと浮かんだイチゴジャムの甘い香りが鼻を掠って一息、心を落ち着かせるように喉から出そうになった言葉を飲み込む。しかし、寝起きのせいなのか、乱れたまま着ているジップアップグリーンのあまりの目のやりどころの悪さに頬が熱くなり、洗い場で汚れた布巾を洗う彼女の背後でずり落ちた肩をそっと直してあげるのだった。


(2016.09.08)


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