もっとも、この時点では自分でも驚く程に軽い気持ちで考えていた。

「あ、いたいた」

 カンブリアームズで自前のパブロをブキチにメンテナンスしてもらっている間、暇潰しにショーケースに並べられた彼の自慢のブキ達をイロメガネ越しに見下ろしていると、広場から入店してきた見慣れたボーイに後ろから声を掛けられた。ヨォ、と一言返すと、にっこりとはにかんで微笑む彼の笑顔はいつにも増して輝かしい。

「パブロ、調子悪かったんだよね」
「アァ。インクの出がワリィっつったら、それが溜まってる部分とフデの接合部にナンカ詰まってるトカ言われてヨォ」

 つい数十分前に店主と話していた会話の内容をぶつぶつと零せば、店の奥で修復作業をしているブキチの様子を遠目で見ているパッチンは不思議そうにその様子を眺めている。

「なんだろう…塗ってる最中に何か紛れ込んじゃったのかな」
「サァネェ。アレ振ってる時に落ちてるモンなんぞ気にしてネェからナァ」

 謎が残る突然のパブロの不調。実は先日、いつものように共にナワバリバトルへ参加をしていたところ、いつの間にやら手元から妙な音を耳にした直後、チューブの部分から筆へと滴るはずのインクが途切れ途切れに出るようになってしまっていた事に気付いた。さすがにこれでは使い物にならず、昨日は仕方なく彼のスプラチャージャーを借りてはそれからのバトルにしぶしぶ臨んでいたのだが、今までに見た事のない支障であった為、不安で堪らないままのバトルはどうも身が入らず、結果的にあまりいつもの調子も出せずに終わってしまった。

「で、オメーは何シに来たんだヨ。新しいブキでも買いにきたのカァ?」
「あー…うん、それも気になってはいたんだけど。ただ、オロシちゃんいるかなって思って、ちょっと覗きに来ただけ」
「…フウン。ちょっと、ヒマ持て余しスギなんジャネ?」
「あはは、そうかもね」

 そうお腹を抱えながら笑うパッチンの、頭上に束ねたポニーテールの根元にきらりと光るイカパッチンが小さく揺れた。そんなはにかんだ彼の輝く表情に思わず後ろを振り向いてはブキチの作業場に目を向ける。

(アー…クソ、ンな事、本人の目の前で言うかよフツー…)

 顔が熱い。そんな胸の奥の感情を見透かされたくなくて、咄嗟に首を振ってその冷めないほとぼりを拭った。すると、慌てるようにブキチが自分のパブロを担いでこちらへと走り寄ってくるものだから、浮ついた気持ちは名残惜しくも知らぬ間に飛んで消えてなくなってしまった。

「はいはい、お待たせでし」
「ヨォ、どうだった?」
「大変言いにくいんでしが、こいつはちょーっとヤバイんじゃないでしか?」
「ハァ? 何がダヨ」

 ヤバイ、と言われた途端に嫌な胸騒ぎがした。負傷した相棒が目の前で横たわる姿を細めた目で見据える。俯く自分を見遣ってはブキチは眉尻を下げて小さく溜息を吐きながらそのまま説明を続けた。

「この手持ち部分、よーく見ると欠けてるでしな。その欠けたパーツがフデの中の方に入り込んでるみたいなんでし」
「で、直ンのか直らネェのカ」
「そりゃあ、分解してそれを取り除いて新しい部品と取り換えて…ってすれば直せるけど、キミ使い方乱暴すぎるし、ちょっとこれ古いタイプのパブロだから、他のパーツもいい加減交換しないとこのままじゃほんとにぶっ壊れるでし。だから修理代なんかバカにならないし、寧ろこのパブロは廃棄して新しいのを買った方が…」

 瞬間、自分でも意識をしないうちに両手をレジカウンターにバンと叩きつけていた。沸々と熱いなにかが腹の底で沸騰して苛々が募っていく。ヒッ、という弱弱しい悲痛な声が目の前で漏れ、がやついていた店内には潮が引いたように静寂が訪れていた。

「…ヤーーーダネ。イクラでも払ってヤるヨ。だからコレ、キッチリ直してクレヤ」
「ほ、本気で言ってるでしか?」
「ツマンネー冗談は言わない主義。ワリーけどカネは後で頼むナ。直してる間に稼いでくるカラヨ」

 自信満々にそう言い放つも、不安そうな目で見てくるブキチとパッチンの視線が居た堪れなくなり、両手をポケットに突っ込みながらズカズカと足音を立てて店の外へと出た。既に日は傾いていて広場も夕方の薄暗さにやんわりと包まれている。

「待ってよ、オロシちゃん!」

 後ろから駆け足で追ってきたパッチンに腕を掴まれて、しかし反射的にその手を思い切り振り払った。

「…ナンダヨ」
「いや、その、えと…ブキもないのに、どうやって稼ぐつもり?」
「……オメーには関係ネーダロ」
「な、なに、それ…。関係ないって、何だよ」
「カネなんてナァ、その気になればいつでもイクラでも稼げンダヨ。方法さえ、選ばにゃあナ」
「そ、そんな事までして、あのパブロ直さなくたって…。ブキチさんも言ってたじゃないか、新しいのを買った方が安…」
「ダメなんダヨ、それジャア!」

 意外と、自分でも驚く程に大きな声が出た。広場に響き渡った声に驚き、不思議そうに視線を向けるインクリング達、嫌でも聞こえてくるぼそぼそと喋りながら怪しむ声。しかし、そんなものは一切気にならなかった。パッチンの言葉にもやついた何かがただただ増幅していく一方で、吐き出した言葉はもう止まる事を知らずにぼたぼたと落ちていく。

「オメーのそのイカパッチンと同じだ。代わりなんてネェんだヨ。アレ以外のパブロ、相棒にするツモリはないネ」
「オ、オロシ、ちゃ」
「…アテはいる。心配なんてスンじゃネーゾ。すぐ、戻ってくるカラ」
「え!? ちょっと、待っ」

 制止の声を無視してざわついたハイカラシティのど真ん中を背に街の裏へと駆け抜けていく。ずっと後ろの方から自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。別れ際に見えた泣きそうな彼の顔が頭の中から離れない。息を切らして自棄糞気味に暗闇の中を走りながら、もう朧げになっていた昔の記憶を久しぶりに掘り起こしていた。


***


「で、泣き寝入りか。このダボパッチン」
「うぅ、面目ない…」

 次の日の朝。関係ないとの一点張りで彼女に突き離された自身の心は、正直な所ズタズタのボロボロのまるで使い古しの雑巾みたいになっていた。別れた直後は頭の中が真っ白になり、状況の把握等は一切出来ずにいて、正気に戻ったのはそれから数十分を経過した後でそれに気付かぬまま広場のベンチに座り暫く頭を抱えていた。ふと嫌な予感がして、思い当たるところを全て探し回っても彼女の居所は掴めず、結局は朝日を迎えた所で息絶えまた広場に出戻り今に至る。

「俺が払ってやるの一言くらい言ってやれよ」
「だ、だって、そんな事言ったら尚更怒りそうだったし」
「パッチンくんはそういう所ボーイらしくないよね〜、いくないいくな〜い」

 向かいで完全にこちらを見下しているサファリハットを被ったインクリングのガール、通称ハットさんは四人の中でもフデオロシちゃんとの交流が一番長い。自分や、隣りで地べたに座り込みポテトチップスを食べながら頷いている、ボンボンニットを被った肌の黒い彼女、通称焼きイカちゃんがハットさんと出会う前からも二人には面識があった。
 それならばと、もしかしたらフデオロシちゃんの居場所が分かるかも知れないと踏んでハットさんを探し出すまでは良かったが、残念な事にそれでも有力な情報は得る事は出来ず、唯一のアテを外してしまいがっくりと肩を落としていると、焼きイカちゃんが不思議そうにこちらの顔色を見上げて窺っていた。

「ねぇ、パッチンくん」
「な、何?」

 すぐ目の前まで急接近して話し掛けてくる彼女に、恥ずかしくてつい顔が熱くなってしまう。

「電話、したの?」
「で、デン、な、何だって?」
「だから、デーーンーーワーーー!」
「うわあ! し、したよ、勿論した! でも、全然繋げてもらえなかったんだ!」

 昨日の夜、ハイカラシティの街中を駆け回りながら何度も何度も携帯電話の通話ボタンを押した。耳に当てても聞こえるのは悲しい程の機械音だけで声などひとつも聞こえない。それが尚更不安を掻き立てて、もう自分の力だけではどうする事も出来ないのだと理解したその瞬間、涙が溢れて暗い路地裏の中でひとりその場にしゃがみ込んだ。実に情けないと思った。今頃、彼女はどうしているのだろう。変な奴に絡まれてないだろうかとか、悪い男に連れ去られていないかとか、嫌な事件に巻き込まれていたりしないかとか、考えれば考える程に心配で居ても立っても居られなくなる。

「電池切れとか? オロシちゃんち、電気繋がってないのかな」
「んな訳あるかよ。あんなデッケーナマズがそこにいるのに」
「それじゃあ、電気代払えなかったのかも! だっていっつもカネがネェーって嘆いてるからさぁ。アタシと一緒で」
「可哀想なフデオロシ…お前と一緒にされて」
「ンアッー! ハットちゃんひどい!」

 目の前でいつもの夫婦漫才が繰り広げられるも、さすがにそれをいつもの調子で突っ込んでいられる程、今の自分は落ち着いてはいられなかった。

(そうだ…もう一回、掛けてみよう)

 ふと思い出したようにポケットから携帯電話を取り出して、もう一度昨夜同様に電話を掛けてみる事にする。耳に当て、ドキドキしながら呼出音を聞く。十秒、二十秒、三十秒と待つも応答はない。やはり駄目かと思って、通話を切る為に携帯電話を耳から離そうとしたその時、ぶつりと千切れるような音が聞こえた。

「も、もしもし!?」

 慌ててぴたりと受話口を耳に当てる。なんとか通話は繋がったらしいが、多少雑音が入り混じってどんな状況であるかは判断は出来ない。もしかしたら電波が悪いのかと思い、そっと音量を上げてみる。

「よし、これでなんとか…」
『…し、もしもーし!』
「うわぁ! う、うるさっ」

 まさかその途端に通常通り聞こえてくるとは思わず、最大音量で飛び出した電話の主の声に驚いてがしゃりと地面に携帯電話を落としてしまった。ハットさんと焼きイカちゃんが不思議そうにこちらを見詰め、これこれ、と指を差して緊急事態を訴える。必死の形相に勘付いたのか、落ちた携帯電話を三人で囲むようにしゃがみ込んだ。

『んーー…と、どなた様でしょう』
「誰、だろ…」
「シッ。明らかにフデオロシじゃない。もう少し様子を見よう」
「う、うん」

 向こうに聞き取れないくらいの声で小さく交わし、頷く。スピーカーから漏れている声は明らかにガールではなくボーイの声だった。若くもなく高齢でもなく、少し訛りの入った話し方をする低く落ち着いた声がぼそぼそと流れてくる。

『んー…困った。大事な用事だったらやっばいよなぁ…。おーい、オロシちゃん。電話ー。電話でろー。まだ切れてな』

 オロシちゃん。確かに今、このボーイはその名前を口にした。しかし、まるで携帯電話ごと壊れたかのようなぶち切れた音と共に、その声は弾けて消えてなくなってしまった。しん、とした空気が辺りに流れる。何も言葉が出ないまま、数分が経過したその頃、その冷たい雰囲気をぶち破ったのは無表情のまま固まった焼きイカちゃんだった。

「…………オロシちゃんのオトコ?」
「このバカ! ほんとバカ! 空気読めバカ!」

 言うまい言うまいとしてくれていたハットさんの努力は今この瞬間に無駄になった訳だったけれど、不思議と自分の心は予想以上に落ち着きを見せていた。目の前で青ざめるハットさんに大丈夫と頷くも、心配そうに自分を見遣っては目を細めて言った。

「まぁ、その…なんだ。あんまり気を落とすなよ」
「あ、ありがとう、ハットさん。でもやっぱり、心配なのは変わりないから…何も情報ないけどもう一度探してみるよ。まだ行ってないところもあるし…」
「…デッキブラシ?」
「へ?」

 はにかみながら話をしているその間に割り込んで来た、明らかに全く無関係と思える焼きイカちゃんのデッキブラシという言葉。あまりに突然すぎてハットさんと同じく自然とその声が聞こえた方へ顔を向けた。すると、腕を組みながら珍しく真面目な表情をしている焼きイカちゃんは目を瞑りながらウンウンと唸り、そのまま言葉を続ける。

「やっぱ、デッキブラシだと思うんだよね。アレ」
「お前…頭大丈夫か?」
「アッー! もう、今は静かにしててハットちゃん! 思い出したらいっぱい話し掛けてくれていいから!」
「何を思い出してるの?」
「今のデンワ…後ろの方で何か流れる音と…ブラシを擦る音……ンッーどこかで聞いた事あるんだよなぁ…」
「ブラシを、擦る音…」

そんな音がスピーカーの向こうから聞こえてくる場所なんて、この街の中に果たしてあっただろうか。地面に置いたままだった自分の携帯電話を拾い、真っ黒な画面に元気のない自分の顔が映ったその時、ふと何かを思い出してすぐにタップしてブラウザを開いた。

「も、もしかして」
「何だ、心当たりがあるのか?」
「ちょっと待って、多分、だけど」

 行った事はない。ただ、心当たりはあった。目的の場所をマップで探し出し現在地との距離を調べる。徒歩でも二十分程で辿りつけるその場所にその心当たりのある場所は佇んでいるようだった。行こうとすればいつでも行ける。しかしその時、今まで考えた事のなかったものが今生まれようとしていた。

(心配なのは勿論変わりない、けれど、)

 もし無事に、そこで彼女にようやく会えたとしても。

(…行ったところで、俺は一体どうすればいいんだろう)

 今の今まで何も考えずにただただ必死だった。彼女が離れていく不安に押し潰されそうになりながら夜の街を駆け抜けて結局、手を伸ばした先には姿形さえ見えなくて空を掴むばかりだった。
 昨日、確かに彼女は言った。自分に向かって、お前には関係ない、と。初めて出会って、連絡先を知って、一緒にバトルをするようになって、くだらない冗談も言い合える程の仲になって、互いに信じ合える関係を築く事が出来ていたと思っていた。それなのに、そう思っていたのは自分だけだったのかも知れないと思う度、悲しみに敷き詰められた胸が苦しくて堪らなかった。

(好きでいる事さえ、許されないのかな)

 そのままスリープモードになった携帯電話をポケットの中へそっと突っ込む。ハットさんが不思議そうな目で見詰めているのが分かった。それが何故だか蔑まれているようにも感じて、目を合わせる事さえ出来ずに背を向ける。

「おい、何処へ行く」
「…ごめん。俺、やっぱり、やめ」
「諦めるのかよ」
「別に、そういう訳じゃ…」
「そういう事だろ」

 ぶれない言葉で、今にも涙が溢れそうだった。どうするべきなのか自分が一番分かっているのに、ちっとも素直になる事が出来ない。目を伏せる。

「オロシちゃんは俺に来て欲しいとは思ってない、から。きっと、その…」
「…アイツの為だと思ってそんなバカな事を言ってるつもりなら、私はもうお前を友人だとは思わない」
「ちょ、ハットちゃん…何言ってんの!?」
「アイツを言い訳に使って逃げてんじゃねえよ。大事なのは、お前自身がどうしたいのか、だろ」

 背中に突き刺さるたくさんの言葉がぽたぽたと地面に雫の後を残して、止まる事を知らないそれをフクの袖で無理矢理拭った。言われなければ甘えられない自分にほとほと呆れる。どうするべきかなんて初めから決めていたはずなのに、背中を押してもらわなければ行動に移せない自分の情けなさに苦笑した。

「俺が、どう、したいか」
「私がお前にアイツを諦めろって言ったら、ハイ分かりましたで本当に終わるのか? お前の気持ちなんてその程度だったのか? 答えてみろよ、この弱虫」
「ちょちょちょ、ハットちゃん、ストップ! さすがに、そこまで言わんでも…」

 目が覚めるようだった。今まで胸の奥でもやついていたものが少しずつ浄化されていくような、そんな晴れやかな気分を迎え、大きく息を吸い込んでは吐いた息と共に消えてなくなっていった。

「…ハットさん、色々ごめん、ありがとう。俺、諦めろって言われてもやっぱり、もう無理みたいだ」
「パッチンくん…」
「んな事ぁコッチだって百も承知なんだよ。責任とってさっさと迎えに行ってこい、このダボパッチン。これ以上、面倒事に巻き込まれるのは真っ平ゴメンだ」
「アハハ。素直じゃないよね〜ハットちゃんも」
「お前は黙っとけ」

 バシンと背中を叩かれて、日向と日陰の境目を一歩跨いで踏み出した。振り向けば、にこにこ笑ってその場を飛び跳ねながら手を振る焼きイカちゃんと、サファリハットの鍔を下げ、そこからちらりと覗く柔らかい表情を見せたハットさんが立っている。返すようにはにかみながら力強く頷き、開いたままだった携帯電話のブラウザをもう一度確認しては、目的の場所に向かって青空の下を風のように駆け抜けていった。




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