***
「どうして勝手にデンワ出てんだヨ、オイ」
「ごめんなさーい、許してくださーい」
「許さねぇヨ、コッチは啖呵切ってダーリンとこ離れてカネ稼ぎの為に必死に働いてンだから場所がバレたら意味ねぇダロ! 分かってンのか、アァ!?」
「ほんとゴメンって。給料弾んであげるから機嫌直してよ」
「当たり前ェーだ、バーカ。ハァ…ンな事よりダーリンにヘンなカンチガイさせてたらドーシヨ…アーもう、ヤッ」
デッキブラシを肩に担ぎながら、目の前で土下座をしている半裸の青年ボーイに苛立ちにより積もった文句をこれでもかという勢いで駄弁ってやった。
ちょっとどころではなくナヨナヨしい彼が誰なのかというと、バトルを始めてから知り合った戦闘の店主兼ブキ職人だったジーサンのおマゴサンに当たる人物で、ジーサンが亡くなった今は彼が代々受け継がれていったボロ銭湯の経営を一任されている。とは言え、本人は渋々やっているようなものなので、経営などという言葉で言い表せられる程立派な事はほとんどしておらず、バイトの子を雇っては安い賃金で働かせてなんとか店を開けられているという状態が常に続いるようだった。
正直久し振りに此処へ訪れたものの、店がまだ存在しているのかどうかさえ怪しいところであったし、元よりジーサンはとっくの昔に亡くなっていると聞いていた為、何度か面識のあるマゴがしっかり引き継いでいると小耳に挟んではいたのだが、どうやら噂は所詮噂で半分正解半分不正解といったところのようで、顔だけは良かったお兄さんがいつの間にやら顔だけはいいオッサンになりつつある現実に時の流れは早いものだと痛感した。
溜まったストレスを発散するように建てつけの悪い引き戸を力任せに開いて、適当に洗剤を振り撒きながら小汚いタイルの床をゴシゴシと洗う。やっているのかやっていないのかも分からない古ぼけた銭湯にも関わらず、きちんと毎日客がやって来ると言うのだからそれが不思議で仕方がない。
「オメーは外見張ってロ。もしダーリンが来ちまったらオロシはいないって追い払っとけ」
「えー? 君の知り合いならお茶くらい出さないと」
「イーから、サッサと行けヨ! 誰のせいでンな事するハメになったと思ってンだ、アァ!?」
「ハイハイハイハイ、分かりました〜」
「アッ! ちょ、やっぱオロシって言うな! バレるジャン!」
ふと重要なミスに気付いて握っていたデッキブラシをぶん投げると、すたこらと外へ出たマゴの背中を追いかけて、それが間違いだったと気付かないままクツも履かずにドアを開けて飛びだした瞬間、ぼふりと柔らかい何かにぶつかった。するとごく自然に腰へと腕が回り、よしよしと額を撫でられる。そこはかとなく臭い。
「何すんだヨ! オッサン臭ェ!」
「え? いや、痛くなかったかなあってオデコ。てか、臭いって何」
「ンな事よりこの手を離…」
「オ、オロシちゃん!」
急に外から掛けられた聞き慣れた声に思わずマゴをそのまま外へと押し出して(ぎゃあ、という悲鳴を聞いた気がするが気にも留めていない)、バタンと強くドアと鍵を閉めて背を凭れながらずるずると床へ沈むように胸を抑えて座り込む。
(な、何で、)
パッチンだった。視界には入らなかったが確かに一日ぶりのパッチンの声だった。そっとドアに耳を当てる。一人外へ取り残されたマゴとパッチンが何かを話している声が聞こえた。
「あ、あの…すいません。えと…つかぬ事をお伺いしますが…」
「い、痛い…あ、えと…あれ? 君の声、どこかで…」
「…もしかして、オロシちゃんの携帯に出たの、あなたですか?」
「あっ…やっぱり! そう、その時一人でベラベラ喋ってたの、俺。ごめんね、驚かせちゃって」
「え? あ、はぁ…」
(あのバカ! ダーリン困らせてんじゃネェ!)
思わず立ち上がり鍵穴から外の様子をこっそり伺うと、道端に転がっていたマゴがのそのそと立ち上がり、フクに付いた砂埃をぱたぱたと叩いて落としているところだった。それを少し引いた体制で、余所余所しく話に耳を傾けている本日のダーリンもなんともかわいらしい。今すぐ駆け寄って抱き締めたい。なんて邪な考えを募らせていると、一歩一歩マゴに近付いて行ったパッチンはいつもの優しそうな柔らかい表情と打って変わり、気を引き締めたかのような顔つきで彼へ声を掛けていた。
「あ、あの!!」
「へ? はい、何でしょう」
ぽりぽりと頭を掻きながらパッチンを見下ろすマゴは不思議そうにその様子を窺っている。少し緊張しているのか視線を合わせられずに下を向いたままの状態で、パッチンはゆっくりとしかし必死に胸元を掴みながらその場で呟き始めたのだった。
「お、俺、オロシちゃんの友達で、周りからはパッチンって呼ばれてます。その、突然で失礼かとは思いますが、お名前、お聞きしてもいいですか」
パッチン、相変わらず異様に礼儀が正しい。マゴ、それでもマイペースは崩す事無く順調に返答をする。
「…あぁ、俺はここの銭湯の店主で、皆からはマゴって呼ばれてる。えと…ごめんよ、ここ開くの夕方からなんだ。もう少ししてから来てくれるかなぁ。まだ風呂沸かしてないし」
「あ、いや、別にお風呂に入りたい訳ではなくて」
「そうなの? じゃあ、もしかして君もバイト? 今人手不足だし、ちょうどいいや」
「だ、だから、そうじゃなくて…!」
「…オロシちゃんは、ダメだよ」
「え…?」
マゴの突然地へと落ちた声色で告げられたパッチンはびくりと体を震わせる。深く被っていたエゾッコメッシュの鍔を掴み、表情が見えない程度にそれを下げ不敵な笑みを零しながらマゴはそのまま続けた。
「悪いけど、彼女は今俺のだから。困るんだよね、いなくなられると。帰ってくれるかな、まだ店開いてないし」
「そ、そんな…嫌です、お願いします。せめて話だけでもさせてください。俺、そんな簡単に諦められません」
「そう言われても、オロシちゃんの方が引き籠っちゃってるから俺にはなんともなぁ。そもそも、何一つ分かっちゃいない君に、彼女が本当に会ってくれると思ってるの?」
明らかに挑発的なマゴの紛らわしい台詞に勘違いをしたのか、少なからずショックを受けて顔が青白くなったパッチンに思わず外へ飛び出すか否かで悩んでいた。
(あのヤロー…分かっててダーリンを弄んでやがる)
先程頭ごなしに八つ当たりをされた仕返しのつもりなのか、マゴは今まさに下手すれば自分とパッチンの関係に溝が生まれるかも知れないような馬鹿な事を仕出かそうとしている。このままではサイテーでイカしてない(ケンカしてないのに)ケンカ別れみたいな自体に陥ってしまう、それだけはどうしても避けたかった。
全部誤解なんだ、全ては普段から貯金をしてなかった自分のせいなんだよ、と心の中で呟いて、焦った頭と体がドアノブに手を掛けたその時。外からよく耳を澄ませなければ聞こえないくらいの小さな声で、ぽろぽろとパッチンの声が落ち始めた。
「あ、あなたが…オロシちゃんとどんな関係かなんて存じ上げません、けど…その、俺にとって彼女はとても、すごく、超が付くくらい、いや、えと、めちゃくちゃ一番大切なひとなんです! だから、あの…お願いします! 何でもしますから、おカネなら貯金下ろせば…じゃなくて、とにかく! オロシちゃんを、かっ、返してくださいっ…!」
真っ赤な顔で今にも泣きそうになりながらマゴに訴えるパッチンにいつの間にか抑え込んでいた体が勝手に動いていた。足蹴りでドアを開け(そしてそのまま外れたドアはマゴを巻き込んで共に向かいの倉庫へ吹き飛んでいった。悲鳴は聞こえなかった事とする)、辺り一面が埃で舞ったその中で目を丸くして立ち尽くしているパッチンを、これでもかという程に首に腕を回して力いっぱい抱き締めていた(締めあげているとも言う)。
「ダーーー…リンッ!!」
「ウゥッ! ちょ、え、あ、オロシちゃ…!? くっ、苦じい死ぬ! ストップ!」
「アー…いい匂い、やっぱりガマンはカラダによくないネ。修理代稼ぐまではパッチン禁止…パチ禁するツモリだったのにヨォ。ア、オッパイ当たっちゃった?」
「パ、パチ禁…? オッパイ…?」
怒濤の展開の末、ようやく力を緩めたところで冷静さを取り戻したパッチンは、急に何かを思い出したように慌てて、ごめんなさい、と一言叫んで走り出そうとしたので、思わずその腕を引っ張り返してその場に留めた。
「ナニナニ、そんなに慌ててドコ行くノ」
「か、帰るっ」
「エッー!? 何でそうなるワケェ?」
「だ、だって、お邪魔みたいだったから」
「……ハァ。まぁ、そんなジュンスイボーイのダーリンも嫌いじゃないケド、サ」
「ジュ、ジュンスイボーイ?」
思った通り、何か頓珍漢な事を勘違いしている不安そうな様子のパッチンの腕を掴んだまま、ずりずりと引き摺りながらイロメガネ越しに映る神妙な面持ちの彼を見据えて堪らずゲラゲラと笑いながらぼやいた。
「ゼーンブ説明してやっから、ダーリンもあのバカ回収するの手伝えヨ。今頃きっと、頭の上にオホシサマピヨピヨしてっからナァ」
そう告げた先のパッチンの頭の上には星の代わりに大量のクエスチョンマークがちらほらと浮かんでいる。そんな彼を心の中で苦笑しながら、ごちゃごちゃのゴミの山のようになっている埃を被った倉庫の中へ二人で足を踏み入れたのだった。
***
銭湯といい勝負であろう、かなりのボロさ加減を誇る倉庫の中で瓦礫の山に埋まっていたマゴさんは捜索が始まった直後にあっさりと見つかった。バキバキに真っ二つになったドアは彼の横に死んだように横たわっており、元々ここに存在していたと思われるバケツやブラシ、一輪車やホウキやらの下敷きになっていたようだったが、奇跡的にもケガひとつせずに済んだようだった(死んでたらどうしようかと思った)。
探していた側も含め砂埃が舞っていたせいもあり、体中がかさかさして堪らなかったのでマゴさんの銭湯を借りて心身さっぱりと清めた後、フクが洗い終わるまでゆっくりしていって欲しいと言われ、少し悩んだもののここは素直にご厚意に甘えさせて頂く事にした。案内をされ、普段住処にしているという奥の居間へと連れていってもらうと、そこは小さな畳部屋で真ん中に四角のコタツ机、そしてシンプル且つ少々質の良さそうな紫色の座布団が敷かれていた。
(なんか…初めて来たのにすごく落ち着く…)
マゴさんはお茶を入れてくると言って台所へ向かってしまったので、おそるおそる座布団の上に腰を下ろしてはなんとなく正座をする。店の場所そのものが街の中心から離れているせいか、ハイカラシティとは思えない程に静かな空間が心に余裕を持たせてくれて、今まで強ばらせていた体をゆっくりと解していった。
「ほんとに、いいのかな…」
「ナァニがイイって?」
「う、うわあ! ちょ、いるならいるって言ってよ!」
「オー! ソーリー」
ピシャリと後ろの襖を開けてお風呂から上がってきたフデオロシちゃんは、Tシャツとステテコという普段よりも更にラフな服装で首にタオルを掛けながら登場すると、隣の座布団によっこらしょと息を吐きながら胡座を掻いて座った。
「…ここのお風呂、広くて楽しいね」
「ソウカァ?」
「うん。一人じゃなかったら、もっと楽しかったかな」
「ジャアもういっぺん、今度は二人で入ル?」
「なっ、ななな何言ってんのさっ」
「ハハッ、ジョーダンだヨ」
テレビのチャンネルを何度も変えながらそう言って笑うフデオロシちゃんについ顔を熱くすると、何故だか余計な想像までしてしまって思わず頭を横に振った。
すると、見たい番組がなかったのか、電源を落として机の上にチャンネルを放り投げると、再びしんとした居間の中で彼女はぼそりと零すように呟いたのだった。
「…アノ、サ」
「な、何…?」
「昨日は、ゴメン。ヒドいコト言って」
珍しく気落ちした様子のフデオロシちゃんは、俯きながらそのまま話を続けた。自分はというと、そんな彼女を見守りながらただただ静かに耳を傾けている。
「ジブンの相棒くらい、ジブンの力で直してやりたかった。でも、ココロのどこかでダーリンに甘えちまいそうなジブンも確かにいて、稼ぐ間ダケでも離れねーとって思ってつい、ヒデー事だけ言い捨てていつの間にかココの銭湯に逃げ込んでた」
「…知ってるお店だったの? ここ」
「アァ。マゴのジーサンが生きてた頃からダカラ…えーっと、だいぶ小セェ頃に来たっきりだったケド」
「マゴさんの、おじいさん?」
「アイツの前の店主で、知る人ぞ知るウデのイイブキ職人だったンダト。ワタシのパブロもジーサンのオコボレだヨ。イカしてんダロ?」
「あ………」
もうこの世にはいないというおじいさんの話をしているフデオロシちゃんは、いつにもなく喜々としていてとても楽しそうだった。ハイカラシティにそんな名職人がいたなんて初耳だったけれど、色々と大物の彼女が言うくらいなのだからその言葉に嘘はないのだろうと思った。だからこそ、どうして彼女がボロボロになったパブロをここまでして修理しようとしたのかも分かったような気もした。
「…思い出のパブロ、だったんだね。だから、あんなに大事にしてたんだ…。俺こそごめん、新しいの買えばいいだなんて、軽はずみな事言っちゃって…」
「え、あ、イヤ。別にソコまで大切にはしてネーけど」
「してないの!?」
まさかの返答に勢いでツッコんでしまった訳だが、どうやら気を遣ってそう言ってくれた様子でもなく、本気で大切に扱っている訳ではないらしい(確かにブキチさんも言っていた通り、普段からブキ使いは荒いように見受けられる)。すると、お盆に湯呑みを三つ乗せて再び登場したマゴさんが、今までの話を聞いていたのか小さく笑いながら二人の向かいに腰を下ろした。
「オイ。盗み聞きタァ相変わらずイイ趣味してンナァ」
「たまたま耳に入っちゃったんだから、仕方ないだろ? …パッチンくん、笑わないでやっておくれ。オロシちゃんがあのパブロを大事にしているのは、アレがじいさん特製だからって訳じゃなくて、他とは違うちょーっと特別仕様にしてもらってるからなんだ」
「コラ! 勝手にシャベンナ!」
貰ったお茶を啜りながらマゴさんの話を聞いたところ、あのパブロの正体は意外にも想像していたようなものとは相違があったようだった。マゴさんのおじいさんに作ってもらったフデオロシちゃんのパブロにはちょっとした仕掛けが施されていて、それはなんと通常のものと比べて一度に噴出されるインクの量が少しだけ増量される仕組みになっているらしい。しかも実に巧妙で他の職人には理解できない構造になっている為、今となっては修理を出来る職人は一人もいないらしく、とどのつまり、そういう事だったのだ。
「オ、オロシちゃん………」
「ダーリンにこの冷めた目で見られたくなかったから一人で何とかしたかったのに! クソッ! 全部テメーのせいだ! スンスン!」
「えぇー? それ、俺のせいなの?」
「べ、別に冷めてなんかないよ! …でも、そんな改造しなくたって、オロシちゃん強いから必要ないんじゃないかな…」
「まっ、儲かるもんな。なっ」
「……………イエス」
(そ、そっちかぁ…)
拍子抜けを食らわされたような、寧ろ少し謎の安心感が生まれたような、自分でもよく分からない感情が胸の内に渦巻いていていて、しかしフデオロシちゃんらしいなと惚れた弱みで甘く考えてしまっている自分に思わず苦笑してしまった。
「…あ、それと」
「え? あ、はい」
「言っておかないと怒られちゃいそうだから言っとくけど、俺とオロシちゃんは、君の考えてるような関係では無いからね」
「え、あ、あの」
「さっき俺のって言ったのはぁ、今ちょうどオロシちゃんにここでバイトしてもらってたから、俺が今ここで雇ってるんだぞーって意味。分かる? オーケー?」
「は、はい。なんとなくは」
「…ハイ、これで満足かい。オロシちゃん」
「マンゾクはしてネェケド…仕方ねぇ。時給単価増ししてもらえンならヨシとしてヤル」
「あははは。相変わらずちゃっかりしてるよね、君は」
悪態をつきながらもマゴさんと話すフデオロシちゃんはどこか楽しそうで仲が悪いという訳ではなさそうな上、血は繋がってはいないけれどどことなく兄妹のような雰囲気を醸し出す二人がなんだか微笑ましく感じた。
誤解が解けてしばらく雑談をした後、店を開ける時間だとマゴさんが準備を始めたので、このまま居座り続けても邪魔になってしまうと思い、二人で今日はもう店を出る事にした。
「またきてね、パッチンくん」
結局、フデオロシちゃんはパブロの修理代が貯まるまでアルバイトを続ける事になり、自分はというと時々お風呂へ入りにまた遊びに行くとマゴさんと約束をして銭湯を後にした。
日も暮れて次第に辺りは暗くなり始め、そんな中広場へと繋がる人気のない狭い路地をとぼとぼと二人で歩いている。居間で寛いでいた時はあんなにも楽しく話をしていたはずなのに、二人きりになった途端、急にお互い緊張をしているのか何も言葉が出なくなっていた。フデオロシちゃんはというとそっぽを向いたまま視線は蚊帳の外で、今どんな表情をしているのかもよく分からない。双方無言のまま、ついに方向が別れる岐路に辿り着いてしまった。
「…それジャ、また今度ナ」
「う、うん。アルバイト、頑張ってね」
「オーイエ。任しとけヤ。すぐバトル復帰してやるカラヨ」
力強い声で背中を向けながらそう告げたフデオロシちゃんは、両手をポケットに突っ込みながら我先にと帰り道を再び辿り始めた。それが急に寂しく感じて、十歩ほど自分より離れたところまで彼女が歩んだ時、自分でも驚くくらい咄嗟にその背中へと向かって叫んでいた。
「オ、オロシちゃん!」
「何ダヨ!」
「…俺、待ってるから!」
「……」
「ずっと君のいないバトルなんて、絶対に嫌だ」
「ダ、」
「だから、俺の為に早く戻ってきてよ! 約束だからね!」
自分の顔が真っ赤に染まって熱くなっていくのが分かった。勢いで言ってしまったものの、死ぬほど恥ずかしくて顔を上げる事は出来ない。すると、もう少し先で足を止めていた彼女の呼ぶ声が聞こえた。ぶんぶんと火照りを払うように振っては前を見据える。
「……いない間にウワキなんかしてたら、一生チューしてやらネーからナァー!」
それだけをしっかりと言い捨てて、彼女は夜の街の中へと消えていった。あまりに唐突な、まるで夢のような言葉が飛んできたせいで、一体何を言われたのかすぐにはさっぱり理解できず、ぼうっとした頭を冷やすかのようにしばらくその場で立ち尽くしていた。
***
「随分、早い復帰だったな」
「何ヶ月かは帰ってこないんじゃなかったがや?」
「あはは…そうだったみたい、なんだけど……」
銭湯事件から一ヶ月後。普段から日常的に財布の底が見えている生活を送っているフデオロシちゃんは、当然のようにパブロを担いで三人の前に忽然と姿を現していた。見たところ不調だった部分もしっかりと修理されており、筆の部分も新調されてさらさらの柔らかい繊維が風に揺れてたなびいている。
「このフデオロシ様が帰ってキタっつーのに、お前らその態度は何なんダァ!? アァ!?」
「誰もそんな早く帰って来いなんて言ってないぞ」
「フーンダ。ダーリンは言ってくれたモン!」
腕を組みながらぷいっと明後日の方向を向いて拗ねるフデオロシちゃんを見て、ついそれがおかしくてくすくすと笑ってしまった。後にマゴさんから聞いた話だと、別に来なくてもいい時間にまで店にやってきては、何かと(無駄に)仕事をしていくものだから予定よりも支払う給料が格段にアップしてしまったらしく、働いているのに支払わない訳にもいかないのできっちりその分は払わさせてもらった、との事だった。その結果、たった一ヶ月分の給料で無事パブロを修理する事が出来たらしく、まさに一ヶ月振りにバトルが出来るという訳で当の本人はいつになくやる気で満ち溢れている。すると、ほんの少し頭の片隅で気になっていた事を、代わりにハットさんがフデオロシちゃんへと問い掛けていた。
「…ところで。例の改造してあった部分はどうなったんだ」
「アッー… アレネ。結局壊れちまったヨ。ブキチのヤローにもバレて怒られたしナァ」
「アリャーそいつは残念だったね」
「ま、今まで以上にブンブンフリまくって稼げばイイ話だし、ジーサンの形見っつーコトで仕方なくこれからもこのボロパブロ使ってやるヨ」
「オロシちゃん…」
誇らしげに持ち上げたパブロを見上げるオロシちゃんはとても眩しく見え、空に掲げられたそれもボロだとは思えない程煌びやかに輝いていた。
もう我慢ならないと言わんばかりに、啖呵を切るが如くパンと手を叩いた焼きイカちゃんは、座っていた地べたから颯爽と立ち上がると、もう片方のフデオロシちゃんの腕を掴んではイカスツリーへと向かって地を蹴り走りだしていた。
「オ、オイオイオイオイ! 危ネェナ、焼きイカヤロー!」
「二人も早くおいでよー! みんなでバトル! たくさんしよー!」
「おーい、そんな慌てるとまた転…転んだな」
「一回転してるけど大丈夫かな…」
「…なぁ、パッチン」
「な、何?」
遠くの方でわちゃわちゃと言い争っている声と笑い声が混じった騒ぎ声が聞こえる。そんな二人を呆れたように見詰めながらハットさんに名前を呼ばれてふと振り返った。
「今回ばかりは大丈夫だったが…付き合いだけは長いから、私はアイツがヤバイもんに手を出した事があるのも知ってる。お前でも想像できちまうような事もな」
細めた目で彼女を見据えながら呟くハットさんの表情には、さっきと打って変わって少しばかり影が帯びていた。フデオロシちゃんが所謂、そういったものに手を出しているのは全く知らなかった訳ではない。それでも、自分の言葉にそんな彼女を止められる程の力は決してなかった。初めて会った頃にそれを知っていた自分には最初から分かっていた事で。
「私でも無理だった。こんなにキモチイイ上、儲けられるアソビをそう簡単にやめられるかって、何度も断られた。でもきっと、お前なら、もしかしたら…」
「ハットさん…」
サファリハットの鍔を上げ、横目に此方を見ると静かに目を瞑り、まるで願い事のように零すハットさんに胸の奥で弾けた何かが瞬時に声を上げていた。
「今の俺に何が出来るのか、まだ、分からないけど。この気持ちが嘘じゃない事くらいは分かる。だから、俺は…その、これからも、変わらない気持ちで彼女を守りたい。そう、思ってるよ」
「パッチン…」
「…よし! 難しい事は今日は置いといて、二人のところに行こう! 見てよ、あの待ちくたびれて暇そうな顔! 早く行かないと、またあのパブロで殴られそうだ」
「…そうだな。あんまり待たせると、私もアイツのノヴァで色々と破裂させられそうだ」
痺れを切らしてこちらに呼びかけている二人の声が聞こえる。胸に抱えていたZAPをしっかりと手で握り、今日もしっくり馴染む相棒に思わず微笑んだ。重そうなリッター3Kを担ぎながら小走りで前を走るハットさんの足取りも軽い。追いついたら追いついたで有言実行、言葉の通りに真っ直ぐ飛んできたパブロが顔面に衝突しても、自身の胸の中は今までよりずっと清々しく晴れやかな青空のようだった。
(2016.04.08)
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