真夜中のハイカラシティの裏路地で滑るような足音が生まれては消え、乾いた突風が吹き込んでは地面に落ちていた空き缶がカラカラと泣いて次第に止まる。イカスツリーを中心に賑わいを見せる広場と、その周りに立ち並ぶきらびやかな店々の雰囲気と正反対の寂れた闇の中で、こっそりとその楽園を建物の暗がりから覗き込む二人の影が薄らと姿を見せた。その視線の先にいるのは、スロープの下の自販機の前で空を見上げながら勢いよく炭酸ジュースを口の中へ流し込んで飲んでいる、少しとは言えない程の豪快さを際立てているボンボンニットを被った肌の黒いインクリングのガールで、彼女を見つめる二人は確信したかのように視線を合わせ頷き合い、音を立てないようにその場から再び姿を消していく。
「…おい、今のそうだべ?」
「あぁ、俺らがあの人を見間違える訳ねぇっしょや」
眩しい程に輝き続ける街の中心から随分と遠くまで走り、気付けば街頭さえない外れの高台までの暗闇の中を駆け抜けていた。ペンキの塗装がばりばりに剥がれた古いベンチに、息を切らしながら二人並んでどっしりと深く座り込む。ぎしりと軋む音がした。
「どうしよ…俺、嬉しくて泣きそうだっぺ…」
「バカ、今から泣いてどうすんだ。これからけっぱらねぇといけねぇって時に」
「だ、だって…もう会えないと思ってたから…なまら嬉しくてよぉ」
「…はぁ。お前ぇってやつは…ったく」
じんわりと溢れる涙を隠すようにジャケットの袖でそれを拭き取ると、隣りに座っている彼をあやす様に頭を優しく撫でた。夜が明けるまでまだ時間がある。今更急ぐ必要はない、ずっと探し求めていた彼女が自分達のすぐ近くに居るのは確かに証明されたのだから。
(これからが勝負だ)
揺るぎない決意を込めるように爪が肉に食い込むまで強く拳を握る。故郷を出る前に必ず成し遂げると仲間に告げた以上、もう後戻りはできない。これでも数年前まではグイグイいわせていた程の名の知れたグループだったのだから、威勢と腕っぷしには自信がある。
(絶対に、取り戻してみせる)
都会にも関わらず星々が煌めく夜空を見上げ、もうすぐ手に届きそうな温かい懐かしさに、堪らず声にならない声を叫んだ。
***
いつもいつでも毎日一緒だなんて、そんな恋人同士のような関係ではなかった(そもそも同性である)。ふと気付いた時にその人が隣りにいたと思えば次の日はそれぞれが自由に生き、気分によってナワバリバトルへと出向いては、それから好きな事をして美味しいご飯をたらふく食べ、そんな日々の中で時々互いが擦れ違ってしまった時、無意識にも二人寄り添った時に生まれる安心感で疲れた心は確かに癒されていた。ずっと、この街に来てからひとりぼっちだった自分には、それだけで幸せだったはずなのに。
(いつから、こんなワガママになっちゃったんだろう)
小さく溜息を吐きながら、エビスシューズのすぐ脇にある自動販売機の前で蹲るように座り込む。視線の少し先にはバトルをしたくてうずうずしているインクリング達が集まる広場と、そのまた先にはイカスツリーが聳え立ち、ロビーの中では今か今かと待ち構えている者ばかりで溢れているのだろう。今頃本当は自分もその中に入ってバトルをしていたはずなのに。
「…帰ろっかな」
無性に心の中に広がる虚しさを知ったのは今日だけではない。いつも一人という事はなくなったけれど、毎日一人でなくなったという事でもなく、不器用な自分にも仲良くしてくれている友達はできたが、彼らだってそれぞれ事情もある上に都合が悪い事だってある。そもそも約束をして会うなど普段からあまりないのだから、毎日誰かと一緒にいられるなんて思う方が間違っているのは分かっていたはずなのに。つまり、この心細い気持ちも結局は自分の我儘なのだけれど、正直な気持ちには嘘をつけなくてそれ故に前へ進めず何も出来ないままでいる。そんな弱さが身に染みて、余計に自己嫌悪してしまうのかも知れない。
(いつもなら、アイスでも食べれば少し元気になれるのに)
元気の源を食べる気力もない程、いつも以上にこんな情けない状態になってしまった原因が一つあり、その話は今から数十分前に遡る。
新作のギアが入ったとおかしら堂のアネモに連絡をもらい、意気揚揚としながらお店へとお邪魔して陳列されていた帽子やヘッドホンを眺めていると、店の窓から見える広場に見覚えのあるガールを見つけた。最初は半信半疑だったが、サファリハットから垣間見えた薄い表情ですぐに確信し、持っていたギアを慌てて棚に戻して外へ飛びだそうとするも、その隣りに立っていたもう一人の存在に気付いてピタリと足を止めてしまった。
(あの子、誰だろ…)
見た事のないインクリングだった。肌は色白でウィンターボンボンを被り、話している間もずっとにこにこと微笑み続けていてとても可愛らしいガールで、サファリハットの友人も彼女と気が合うのか、普段はあまり見せないような優しい目つきでくすくすと声を漏らして談笑している。駅のホーム近くのベンチに座っているそんな二人を遠目に眺めながら、軽かったはずの足取りは石のようにずっしりと重く感じ始め、振り返り、もう一度店の奥へと戻る。しかしそんな気分で買い物をする気など起きるはずもなく、しばらく商品を眺めていたものの欲しいと思ったものは何一つ見つからず申し訳なさにアネモへ一言謝ってから店を出た。その頃には二人の姿はもうなく、おそらく二人でナワバリバトルへ行ってしまったのだろう、と考えただけで胸がきゅっと締め付けられるように苦しかった。
(どうして、こんなに悲しいんだろう)
そして今現在へと至る。こんな気持ちになるくらいなら、今日は一日家でのんびり過ごした方がいい。そう自分に言い聞かせて、やっとの事で立ち上がり帰路を辿ろうと思ったその時。何かが体中に突き刺さる感覚を帯びて衝動的に地を蹴り駆け出した。
「…誰?」
周囲を見回しても不審なものは何も見当たらない。しかし、一瞬だけオフィスビルの陰に何者かの存在を確かに感じた。薄気味悪い。存在のわからない恐怖に思わず大股で早足に歩きながら路地の裏へと出るも、何処からか向けられているような気がする妙な視線はいつまでもすぐ側で付き纏っていた。
***
「シュワシュワ!」
「毎日毎日、よく飽きないな…本当に」
「バトルの後はやっぱりシュワシュワに限るっしょ」
「はいはい、そーですかい…」
次の日。昨夜は自己嫌悪と欲求不満に駆られたせいかあまり眠る事が出来なかった。いつもの事だというのに、今回は念には念を入れ、勇気を出して震える手で明日は一緒にナワバリバトルへ行こうという旨のメールを珍しく送信してみると、意外にもすぐさま二つ返事でその許可が下りた。それだけでも今の自分にとってはとにかく嬉しくて、こんなにも簡単に元気が回復するのは我ながら単純な性格が功を成しているような気もする。それでも彼女はそんな我儘にも文句を言わず(いや、文句みたいなグチは言ってるかも知れない)、やれやれといった様子ではあったけれど、なんだかんだと今日は一日ずっと自分の隣りにいてくれた。
辺りは真っ暗な空で包まれているも、イカスツリーや並んだお店の電飾がきらきらと輝いている為、毎日がお祭りのような雰囲気を漂わせる夜の広場はとても好きだった。とはいえ、体力にも限界は付きものであり、朝から晩までバトルで暴れ回ってしまったので、さすがに持久力に自信のある自分の体も悲鳴を上げているのか、言葉の通りへとへとになっていた。
「はぁ〜そろそろ帰ろっか」
「だな。潮時だろ、私もお前も」
そう言って苦笑する彼女にはどうやらお見通しだったようで、しかしそれが何故だか嬉しくてつられて思わずけらけらと笑ってしまった。
「…?」
その時、どこからか背中へ射し込んだむず痒い感覚を帯びてふと後ろを振り向く。
(また、だ)
昨日と同じ、気持ちの悪いねっとりとした重みのある視線だった。結局あの後は正体が掴めないままで、追っ手を振り切るようにあちこちの街を巡っていたせいで次第に辺りは真っ暗になってしまい、それでも不安が残っていた為に気配が完全に無くなった後にようやく家へと帰る事が出来た。そしてその日の夜中、一体あの影は誰だったのだろうと眠れない頭で考え、当て嵌まりそうな可能性を粗方洗い出してみたところ、確証はないが、唯一一人だけ心当たりはあった。
(今日こそは、とっ捕まえてやる)
もし、その心当たりが的中してしまったとしたら。明らかに無関係である彼女を面倒事に巻き込む訳にはいかず、どうにかして一人で解決までに導かなければならない。そもそも自分で汚したケツくらい自分で拭えなくてどうするというのだ。
「…アタシ、ちょっと野暮用思い出しちゃった。ハットちゃん、先帰ってて」
「は? お前、何言って…」
気付いた時にはもう体が勝手に動いていた。彼女の制止も聞かずに颯爽と飛びだし、暗い路地裏の中へ逃げる二つの人影を必死に走っては追い掛ける。
「おい待てよ、焼きイカ!」
そう叫ぶ彼女の声と姿は次第に遠くなっていき、やがて完全に姿は人混みに紛れて消えていった。罪悪感は多少残るも、事情が事情でもある為今回ばかりは仕方がない。
(ごめんね、ハットちゃん)
後でしこたま怒られる事を覚悟しながら、ジグザグに入り乱れた細い道筋の脇へと入る。すると、無数とも思える程に高く積まれたビール瓶の箱や山のように重なった黒いごみ袋の群体が所狭しに置かれており、しかし、その中を軽い足取りで悠々と飛び越えては華麗に避けながらペースを落とさずに走ってゆく。時々その山を崩されて進路を妨害されるも、とりあえず蹴り飛ばしてしまえばどうという事はない。塞がれたところでまた抉じ開ければいいだけである。しかし、なかなか距離は縮まらないまま、付いていくがままにやがて通った事のない広い道へ出ると、そこには少し寂れている沈静な住宅街が広がっていた。
(…誘い込まれてる、か)
辺りを見回しても誰かが住んでいる様子もなく、あちらこちらに崩れかけの建物が並んだシャッター街が続き、どこもかしこも古い落書きや何かの衝撃で穴が開いているところもある。ハイカラシティの中心から二十分ほどしか走っていないその先に、まさかこんなゴーストタウンのような街があるとは思いもしなかった。しかし、この街の何処かに先程の二人が逃げ込んだのは間違いない。
「えーっと、どこから探そうかなあ」
いつかは賑わっていたのだろう、商店街に挟まれた大きな歩道でさえ瓦礫に支配されていて辺りは物悲しい雰囲気がどんよりと漂っている。障害物を避けながら少しずつ進んだ先にひとつ、一際目立つ煉瓦造りの大きな建物が佇み、民家とは比べられない程にひしひしと伝わるその威圧感にいつの間にか口が開いたまま体が固まっていた。例えるならば、ちょっとしたそれらしい雰囲気のある古城。古めかしくも洒落ていてどこか情緒のあるその姿は今もなお強く生きているようにも見えた。
誘われるかのように大扉の前へ立ち、重い金属で出来ているがっしりとした取っ手を両手で掴むと、足で地を蹴りながら体全体で引いてはずりずりと砂埃を擦りながらもゆっくりと開いた。
「お、おじゃましまぁす…」
少しばかり光が差した中へと恐る恐る足音を立てないように侵入すると、傷だらけの受付カウンターや古ぼけたソファーとテーブル、枯れ切った観葉植物が隅に置かれ、まるでホテルのエントランスのような広大な空間が広がっていた。その奥にはそれなりに大きな観音扉が鎮座されていて、そっと覗くように既に少しだけ開いていた扉の隙間から中の様子を窺うと思わず感嘆の声を上げてしまった。
「すっご………」
まず視界に入ったのが何十人も立てるような大きなステージと、その向かいには何十席にも渡る観客席の椅子の並びが壁ギリギリにまで設置されていて、よく見ると同じように二階席と三階席にもびっしりと椅子が詰まっている。舞台袖には穴ぼこの空いた大きな袖幕が垂れており、引き上げられたままの緞帳幕も埃を被っていて地の赤の上に薄らと白味がかかってしまっている。どんよりとしているというよりも、長い時間をかけて廃墟化していったこの部屋の雰囲気は、何処かしら懐かしささえ帯びているような気もして決して嫌いではなかった。
ただ、歩く度に埃も一緒に舞ってしまうので鼻がむず痒いといったらない。少し目にも入ったのかしぱしぱしてしまっている。舞台裏の古い大道具が山になって瓦礫と化している場所に足を踏み入れ、ガラクタをかき分けてしゃがみながら進んでいた時、ふと小さな物音が聞こえて顔を上げれば、壁に突き刺さっていた頭上の大きな鉄骨に見事額をぶつけてその場で蹲った。
「いっ、だああぁ…って、アレ? あ、やば…アタシのボンボン! …あった、良かった」
ぶつけた拍子につるんと脱げて床に落ちていたボンボンニットを急いで拾い、胸の中でぎゅっと抱き締めて安心をしていると、そこから一つ、先程まで絶対にあったはずの物がなくなっている事に気付いて再び辺りをくまなく探した。
(ど、どうしようっ…やだ、アレがないと、アタシ…!)
彼女と自分を繋ぐその存在を、今や命よりも大切にしていたかも知れないそれを、しゃがみ込み埃だらけの空間で必死に探していると、ふと自分以外の気配と細い視線が向けられている事に気付いた。
「…これをお探しですか、アネさん」
唐突にステージ中央からぼそりと聞こえてきた低いボーイの声。天井の割れ目から射し込む月の光の一筋が彼の表情を映し出していた。細めの瞳とびしりと決めたクロのイカライダーを着こなしたボーイは、一見そのクールさで少しばかり近寄りがたい雰囲気を冷たく漂わせている。
ボンボンニットを深く被り直し恐る恐るステージの中央へと近付くと、そこには想像していた通りの彼が、指先で缶バッチを掲げながらこちらをじっとりと見詰めていた。
「お久し振りです。やっと、会えましたね」
「…シオン」
「ずっと探してたんですよ、アイツと二人で。アナタがいなくなってしまった後、当然グループは解散しちまったけど、でも、俺らはそう簡単には吹っ切れなかった。諦めきれなかったんです。分かりますよね、俺が言いたい事」
「…アタシ、あの時ちゃんと言ったよね。もう戻らないって」
ぶつけた額を擦りながら、ゆっくりと立ち上がり近付いていく。縮んでいく彼との距離はしっかりと視線がぶつかるまでに至り、開いた手の平を突き出しては彼に告げた。
「それ、大事なものなの。返して」
「もしかして、あのハット野郎に貰ったんですかい」
「…だったら、何」
「それでしたら、俺が責任を持ってこれを処分します」
「は…? ちょっと、何、言って」
「悪影響なんですよ。あんなヤツがいるから、アナタの心はひどく脆くなった」
細めた目でこちらを見据えながら、強い眼差しが彼の強い気持ちを表しているようで体が震えた。ひとつひとつの攻撃的な言葉、そして知らない振りをしてきた全てが少しずつ、しかし自分の心を確実に追い詰めていく。
「頼りきりで、いざとなったら一人では何も出来ない。昔は違った、俺達の憧れてたリーダーのアネさんはそんなんじゃ…」
「や、やだ…何言ってんの? やめてよ。お願い、やめて」
苦痛だった。これ以上、昔の自分を掘り下げられるのは。沸々と腹の底から込み上げてくる、とうに忘れていたはずの怒りが次々と蘇るようだった。それでも彼は怯むことなく、冷静な顔立ちでずんずんと目の前にまで近付き、引いた腕をそっと掴んでは驚く程優しい力で体を引き寄せた。視界が真っ黒に染まる。遥か昔に嗅いだことのある、とても懐かしい匂いを強く感じた。
「…今はなくとも、いずれ見限られる。早いか遅いかの問題だ。アネさんだって見ただろう。アナタにとっては唯一の人かも知れない。でも、アイツにとって、アネさんはたくさんいるうちの一人に過ぎないんです」
「…さい…うるさい、うるさい…」
「だったら、傷付く前にまた昔に戻ればいい。俺達だったらアネさんを、絶対にひとりになんて、させな」
「……うるさいって言ってんだろ!!」
根底から叫びを上げた体が熱い。びりびりと震えを増し、耳から入る全ての音と声が雑音と化していく。恐ろしかった。変わる為に進んできたはずの道が先からぼろぼろと崩れて何も出来なくなる。消えていく道から足を踏み外して底の無い暗闇に沈んでいくようだった。
「ち、違う…ハットちゃんは、違うの。アタシは、ひとりじゃ…ひとりぼっち、なんかじゃ…な、いっ…!」
頭の中は棒で乱暴に掻き回されたようにぐちゃぐちゃだった。怒りや悲しみや、寂しさ、色んな感情が渦を巻いて目の前をぷつりぷつりと黒く塗り潰していく。変な汗が体中に吹き流れ、息を荒げながら胸を抑えて掴まれた腕を振り払った。
「くっ…! 待て、待ってくれよアネさん!」
肩を抱くように再び体を包み込んでくる彼を衝動的に突き飛ばして、勢い良くステージから飛び降りては死に物狂いで走りながら外へ出た。何もかもから逃げたかった。自分の弱さからも、過去を知る存在からも、嫌になる程の素直な気持ちが擦れ合って深い傷を無数に作っていく。息が切れているのにも気付かないまま、街の外れまで夢中で駆け抜けた。自分が今どこにいるのかも見当がつかない。重しが乗ったように抑え付けられた胸はずきずきと痛むままだった。
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