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身体能力は異様に高いものだから、全速力で追い掛けていたというのにみるみるうちにその姿を見失ってしまった。今はもう、足音さえ聞こえない。
こんなうんざりする気持ちになってしまったのは、空も暗くなり人気も大分落ち着いてきたところ今日はもう家に帰って休もうと思っていた矢先の事だった。急に用事を思い出したと言って広場を飛びだした友人は、瞬く間に暗い路地裏の闇の中へと溶けて消えた。本当に用事があるのなら別段気にする事案でもなかったのだが、このまま放置しておく訳にはいかない理由と心当たりが確かにあった。
ここ最近になって、彼女の様子が少しずつではあるが変わっていた事、そして、今までは散々自分を振り回しては楽しそうに振る舞い、毎日のように笑顔の絶えなかった彼女が、ふとした瞬間に何度も寂しそうな表情を落とすようになっていた事だった。もしかしたら、自分では気付いていないのかも知れない。カフェで休憩している時も話をしている割には気分が上の空だったり、不思議と溜息も増えるようになり、どうしたと声を掛けてみても、何が、と返される始末で、これ以上なにかを問い詰めるのは無理だろうと判断してその時はなんでもないと言葉を濁らせた。
(…嫌な予感がする)
裏路地を彷徨っていると所々ダンボールや黒いゴミ袋が散乱していて、彼女が駆け抜けていった後なのだろうと推測は出来たので、その獣道を頼りに早足で奥へと進んでいくと三十分程で来たことのない街の入口へと抜け出た。壊れかけた街灯がパチパチと点いたり消えたりを繰り返し、日に焼け崩れかけた店や住宅が所々に立ち並んでいる。人気はなくもこの街の中に彼女がいるのは間違いないはずだった。手間は掛かるが一軒一軒中を見て回るしか無い。そう思い商店街の通路へ一歩踏み出したその時、五十メートル先の十字路でキョロキョロと周りを見渡しながら走っている影が二つ見えた。慌ててすぐに廃屋の壁の影へ隠れる。
(あれは……)
こちらの存在にはまだ気付いていないのか、入念に何かを探しながら見た事のないボーイが早足で走って来て、過ぎ去った瞬間に再び通路へ出ては後ろから片方の腕を掴んだ。
「おい」
「ひあぁ! な、なななな何やの!?」
「お前ら、こんな所で何をしてる」
「な、何って…えと、そりゃ…」
「…あぁ。誰かと思えば、噂のハットさんじゃないですか」
シロのイカライダーを着た気弱そうなボーイはびくびくとしながら掴まれた腕を振り解き、奥に立つクロのイカライダーを着たボーイの後ろへと咄嗟に隠れた。暗闇の中でもその細い視線がびしびしと伝わってくる。明らかにガラが悪い。見たところ自分の記憶が正しければ顔に覚えも無く、ただ恨みは何故かよく持たれるタイプなので、無意識に彼らが何かしら自分に対して恨んでいる可能性は悲しいかな、否めない。一定の距離を保ちつつ、警戒しながら様子を窺っていると、嫌な笑みを浮かべたクロのイカライダーボーイが口角を上げながら話を始めた。
「ちょうど良かった。アンタに用事があったんだ。アネさんを探すのはそれからでもいいべ」
アネさん、って誰の事だ。そう心の中で呟いた時、ふと彼らの変わった言葉のイントネーションに不思議と聞き覚えがあった。都会であるハイカラシティにいれば滅多に聞く事のない発音。そして、言葉。訛りが混じったこの話し方は間違いなく、彼女と同じ出身の者だと確信した。
「…お前らみたいな不良が、アイツに何の用だ」
「そんなモンはハナから決まってる。遠路遥々こんな汚ねぇ都会までわざわざ来てやってんだ、目的なんて一つしか無い」
「そ、そうだ。このハット野郎! わやくちゃ言ってねぇで、さっさと俺らのアネさんを返せや!」
声を震わせながら睨みを利かせて叫ぶ彼の言葉に深く溜息を吐いた。言っている事がめちゃくちゃすぎて反論をする気も失せてくる。誰が誰の何を返せと言っているのか、そもそも、彼らの言うアネさんを自分が所有していると思った事など一度もない。それどころか、自分に彼女を手篭めにする力など元々存在さえしない。何故なら彼女と自分は、磁石のように自然と心と体を寄り添っているだけの、まるで細くて脆い糸で繋がれた儚い関係なのだから。
「……お前らが何者で、これから何をするつもりかなんて、私には関係ない。でも、一つだけはっきり言える事はある。アイツは本当に、自分の口でお前らのところへ帰りたいって言ったのか?」
「…………」
反論がないこの時点で明白だった。どうして今、追われていたはずの彼らが、今度は焼きイカを探しているのか。答えなど一つしかない。彼女に拒否をされた二人は、それでも諦めきれずに希望をその手に掴もうと必死にもがいている。彼女自身はそれを望んでいないというのに。
「…アイツのやりたい事はアイツ自身が決める事であって、周りの奴らがどうこう言っていいモンじゃない」
「……何も知らねぇ癖に、よくそんな事が軽々と言えるよな」
「言えるさ、いくらでもな。自由が好きで、仲間と一緒に笑ったりアホな事かましたり、何より人の喜びさえも共感できる、少し優しすぎるバカなヤツだよ。それくらいの事、仲間だったお前らの方がよく知ってるんじゃないのか?」
「あ、当たり前ぇだ。お前ぇなんかより、俺らはアネさんとずっと一緒だったんだべ!」
「だったら、守る事と縛り付ける事の意味を履き違えるな! 本当にアイツの事を大切だと思うなら、アイツ自身の言葉に耳を傾けてみろ。今お前らがやろうとしている事はただ自分の我儘を勝手に押し付けてるだけなんだよ!」
奥底から静かに浮き出した怒りが言葉となってぶつかり合っていく。見たくなかった。誰かの言いなりになって何も出来なくなった他人に縛られる彼女を見る事が。自分と比べ、全てを脱ぎ捨てるように全てをひけらかし生きる今の彼女が、いつの間にか心の拠り所になっていたのかも知れない。
(アイツの悲しむ顔だけは、見たくないんだ。私は)
噛み締めた表情を隠すようにサファリハットの鍔を下げたその時、空気を切るように途轍もない速さで何かが顔の真横を通り過ぎる。反射的に後ろに下がると、いつの間にかクロのイカライダーボーイがN-ZAP89を握り締めてこちらへと銃口を向けていた。
「…何のつもりだ」
「部外者に何と言われようとも、俺らの考えが変わる事はない。アンタが、こんな安モンでアネさんを誑かしたのは事実なんだ。…アンタさえいなけりゃ、こんなモンが無けりゃあ! アネさんは絶対に、俺達のところへ帰って来るんだよ!」
目を疑った。その手に握り締められた小さなホッコリーは、確かに見覚えのあるものだった。しかし、どうして彼が持っているのか、何故その存在を彼が知っているのか。そんな事、今はどうでも良い。ただ単純にあれを失った瞬間、大切な何かが崩れてなくなってしまうようなそんな気がして、沸々と煮え繰り返る感情を無理矢理に抑え付けながら静かに呟いた。
「…返せ」
「何だと?」
「返せよ。それはアイツの缶バッチだ…!」
自分でも驚く程に淀んだ声が漏れて零れた。直後、体が無意識に地を蹴り、屈んだ体制で前へと突っ込んで行く。クロのイカライダーボーイの手から零れた缶バッチがゆっくりと地面へと落ち、まるでスローモーションのように流れる光景の中で、それを踏みつけようとしている足と地の間に隠し持っていたクイックボムを必死に投げ入れた。その衝撃に驚いて、二人はたじろぎ慌てて数歩後ろに下がる。その隙に缶バッチを拾い、付いた膝を立ち上げようとしたその時、頭上に固いものが当たったのが分かった。
「テメェ…舐めた真似しやがって!」
「!!」
カチリと微かに引金が唸る音が聞こえた。思わずごくりと喉が鳴る。先程発砲した一発でこの銃がただのN-ZAP89ではない事は分かっていた。顔の真横を通り過ぎていった弾丸はナワバリバトルで使うようなインクの塊ではなく、明らかに殺傷能力のある銃弾が発砲されたのをついさっき確かに目の前で見てしまっている。
(改造してあるんだろうな)
他人の命を奪いかねないブキの使用は禁止されているはずだった。だとすれば、これが違法なルートで手に入れた部品により改造を施したN-ZAP89である事には間違い無い。抵抗するにも、持っているもので活用できるのがクイックボムだけでは牽制程度の効果にしか成り得ない。
「サヨナラだ。アネさんの正しい未来の為に死ぬのなら後悔も無いだろ?」
「………」
少しでも動けば銃弾が脳にぶち込まれるのは目に見えていた。万事休す、絶体絶命とも言える状況の今、それでも心は不思議と落ち着きを見せている。理由は自分でもよく分からなかった。ただなんとなく、どうにか切り抜けられるはずだという謎の自信が全身から湧き出たその時、ふと空を見上げた瞬間、彼の顔に太い何かが垂直にぶっ刺さっている光景が目の前に広がっていた。
「ぶへえっ!!」
「…!?」
そのまま体が後ろに吹っ飛んだクロのイカライダーボーイが、シロのイカライダーボーイを巻き込む形で二人まとめて廃屋のシャッターをぶち抜きその中へ勢い良く転がっていく。持っていたN-ZAP89はその手を離れ、地面の上をくるくると横回転をしながら滑りそのまま瓦礫の中へと消えていった。呆然とその様子を眺めていると、意気揚揚とした姿勢で仁王立ちをしている悪友とその相棒が確かにそこにいたのだった。
「ヤッホー。随分タノシソーな事シてんじゃネーカヨォ」
「や、やっと見つけた…ハットさん、大丈夫? 怪我はない?」
「お、前ら、何で、ここに…」
驚きのあまり、どもってしまった自分が酷く恥ずかしい。目の前で闇夜にキラリと光る見慣れたイロメガネとイカパッチンがにやりと怪しく微笑んでいる。その黒い眩しさがこれ程まで頼もしく見えるのは初めてかも知れなかった。
情けなくも腰を抜かして動けない状態だったが、パッチンに腕を引っ張り上げてもらいようやくその場へ立ち上がる。どういう事なのか、さっぱり理解していない自分に気付いたパッチンが現在の状況を簡単に説明をしてくれた。
「実はさっき、マゴさんから電話をもらったんだ」
「あのオッサンから…?」
「ちょうど出稼ぎに来てたらしくてヨォ、様子がおかしい二人を見かけたから後よろしくとか、意味ワカンネェ連絡をいきなり寄越しやがったワケ」
「そ、それで…こんなところまで、わざわざ…」
「…前から、心配してたんだよ。なんだか最近、二人共余所余所しい雰囲気だったから…」
伏し目がちに見詰めるパッチンの表情は、いつものにこやかな笑顔と比べてとても寂しそうだった。一番そういうものに鈍感そうな彼がひしひしと感じる程だったのだから、相当妙な空気が流れていたんだろうと思うと人の事を鈍感だなんて言える立場ではなく、まだまだ乏しいらしい感情の制御にがっかりして深い溜息を吐いた。すると、突然前振りもなくフデオロシに背中を押されて転びそうになり、しかし、なんとか体勢を整えながら振り向いては理不尽すぎる対応に思わず怒号を放った。
「おい、何すんだ!」
「そんなプリプリしてる暇あンならサァ、さっさとあのバカ連れ戻して来いヨナァ」
「早くしないと、またあいつらが戻って来ちゃう。二人でなんとか時間を稼ぐよ。だから、ハットさん。お願い」
二人の芯のある優しくも力強い声が踏み出せない一歩の為に押し出してくれている気がした。不良のボーイ達がN-ZAP89の他に危険なブキを隠し持っていないとは限らない。出来る事なら全員で逃げた方がいいに決まっている。でも、フデオロシとパッチンにはそんな考えは毛頭無いようだった。
「…分かった。ただし、これだけは約束しろ。絶対に無理だけはするな」
「オメーに言われるまでもネェ。信じろヨ、ワタシ等の事もアイツの事も」
「…あぁ、そうだな。……悪い、後は頼む」
手中に収めたホッコリーの缶バッチを握り締め、颯爽と街の奥へと向かって全力で走る。次第に遠くなる二人の声が気になるも、もう後ろは振り向かないと決めた。それでも不安だけが胸の中でどろどろと溶けだして心臓が唸るように軋んでいく。
(早く…早く、しないと)
次第に増してゆく焦燥感が息の切れる感覚さえも麻痺させた。無我夢中で名前を呼びながら辺りを見回して、ふと視界に入った古い教会が目につき自然とその場で立ち止まる。理由は分からない、何かが聞こえた訳でもない。それでも何かに誘われるようにゆっくりと近付き、古びた木の扉の手すりをそっと握り締めた。
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