暗がりと静けさに包まれた街の中。壁に掛けられていた既に頂点を超えている時計の針を見上げては小さく溜息を吐いて、早々と仕事を終えたその夜のホテルの一室はいつも以上に冷たい空気が流れているように感じる。先程まですぐ隣りに存在していたはずのぬくもりも気付かないうちに何もなかったかのように消え失せていて、ベッドの上にばら撒かれた札を眺めては小さく溜息を落とした。
 知人から依頼の話をされていた時から今日の相手はかなりの絶倫と聞かされていたので覚悟はしていたものの、想像していた以上に激しい行為を強いられた為か数回幾度となく体の中へ吐き出された熱を受けている間に気を失ってしまったようで、全て事を済ませて満足したらしい依頼人はきっちりカネだけを置いて意識のない自分を放置したままどうやら部屋を出て行ってしまったようだった。

(…くっそ、きもちわり…)

 情事の最中に耳元で囁かれた反吐の出る程の甘い声、乗じて何度も経験していると言いながらも相手の事を考えないような乱暴な抱き方から得られる快感など何一つなく、ただただ早く終わってくれまいかと突っ伏した枕を噛み締めながら心の中で願う事しか出来なかった。
 ゴムの有無は事前に約束していた条件の中に指定はなかったものの、まさか溢れ出す程につぎ込まれるとは微塵も思っていなかった為、事を終えて数時間が経過した今でも後孔からどろりと外へと漏れている白濁の感覚に頭を痛めながらも、鉛のように沈んだ体をどうにか持ち上げては重い足取りでバスルームへと向かった。

「……っ、う」

 慣れた手つきで中に溜まったものを指で掻き出し、どうにもいるだけで気分が優れない微睡む部屋の中で一夜を過ごしたくなく、野宿になっても構わないと半ば自暴自棄な気持ちになりながらホテルを飛び出しては握った札をジップアップカモのポケットに突っ込むと、もう片方のポケットに入れていた携帯電話がぶるりと震えている事に気付いた。
 こんな夜中に誰だ、と一人闇の中でぼやきながら画面を確認してみると、発信者はどうやら先日連絡をとったばかりの知人で、もしかしたら本件に関する連絡だろうかと思い仕方なく赤いボタンをタップしては受話口を耳に当てた。

『おっ、出た出た』

 真夜中にも関わらず(迷惑かも、だなんて相手の事を考えて行動するような奴ではないのはとうの昔から知っている)、いつもの軽い調子で電話を掛けてきた知人のあっけらかんとした声と態度に思わず即座に電話を切りそうになるも、その気配を察知したのか慌てて引き留める彼に仕方なく応じてやる。

「…何の用だよ、今日のはもう終わったぞ」
『おろ? そうなんだ、随分早かったなぁ。まぁこっちとしてはありがたいけど』
「どういう意味だ」
『いやぁ、それがね。ヨリに相手をしてもらいたいってリクエストしてきたお客さんがいたもんだから』

 苦笑を交えながら髪が擦れる音と共に伝達されたのは、稀にない指名をした上での新しい仕事の話のようだった。近頃はどうした事か、少し前まで直接依頼人と交渉しそういった話を切り出せばすぐ乗ってきてくれる客ばかりだったのだがそれが唐突に減り始めていて、今ではこうして知人を通しての紹介でなければなかなか稼ぎどころを見つけられないという面倒な状況となっていた。
 最近身辺で変わった事と言えば心当たりがない訳ではない。今から数ヶ月前に、街中に佇む古い銭湯の中で長い事顔を合わせていなかった幼馴染との再会、そしてその店で知り合った十以上も年が離れている、サファリハットを被りジップアップカモを着た少々体つきの良い若いボーイ(しかし老け顔)と諸事情によりお付き合いをする事となった事である。だからと言って生きていく上で必要な生活スタイルを今更変える事など到底出来ず、勿論知人から恋人という関係になった彼にそれを制限されるつもりも全くなかった。
 自身の体を売る、という方法以上に効率的なカネの稼ぎ方を碌に知らず、性行為そのものの存在がそれだけの為にあるのだと認識している自分にとって、恋人以外と体を重ねる事に対しての罪悪感は正直なところ他人よりも遥かに薄く、これも生きる為だと言い聞かせれば彼も納得してくれるはずだと勝手に解釈していた。

『ちょうど終わったんなら、お前さえ良ければ明日の夜とかどうよ。待ち合わせの場所は後でまた連絡するから』
「…今度はまともな客なんだろうな? 今回みてぇなクソ当てて来たら次はもうテメーにゃ頼まねぇぞ」
『ははは、ごめんごめん。今度の客は信用性があるんだよねぇ…ま、騙されたと思って相手してやってくれよ。報酬も弾んでくれるらしいしさ』

 彼の言葉に幾度となくしてやられている側としてはなんとも信用の出来ない話だったが、今日の売上が想像以上に少ないものだった為、出来る事ならすぐにでも手持ちを増やしておきたかったのは事実で。

「…チッ、仕方ねぇ。こっちの取り分、増やせるんだったら引き受けてやる。いいな」
『げっ。案外そういうところちゃっかりしてるよな、お前も…』
「なんか言ったかよ」
『いえいえ。なんでもございませーん』

 小さな溜息と共に切れた電話に舌打ちを漏らし、しかし思わぬ仕事が降って来てくれた事に関しては一応心の中で感謝しているつもりだった。しかし一点だけ引っ掛かるとすれば、妙に彼が話をしている時の声が浮き立っていた事、普段よりもどこか仕事を楽しんでいるかのように心の弾んだ様子の知人に違和感を覚えるも、疲労の溜まった体と頭ではそれ以上熟考する力など最早残って等おらず。

(……今日ぐらい、転がり込んでもいい、よな)

 無意識のうちに幼馴染が経営する古い銭湯への道のりを辿っていた自身の帰巣本能に思わず一人苦笑を漏らしながら、店の入り口からやんわりと中から漏れている光へと引き込まれるように早足で向かったその先で引き戸に手を掛けた。


***


「メシ、美味かった。また料理の腕上がったんじゃねえか?」
「そんなお世辞貰ったって、ツケはツケだからね。たまには風呂代くらい払っていけっての」
「へいへい。そのうちな、そのうち」

 次の日の夕方。店の奥にある居間で幼馴染の昼飯を食わせてもらいながら、知人に指定された約束の時間までゆっくりさせてもらおうと、びくびくと震えている若いボーイ(ヒナタ、とかいう店に居候していて、拾われる前まではどうやら身売りをしていたらしい)の隣りで構わず横になり、疲労の積み重ねでいつの間にか寝てしまったのか二時間程コタツの中に滞在した後、店の準備があるから邪魔だと幼馴染に無理矢理背を押されて店から追い出されてしまった為、致し方なく軽く手を振ってはその場を後にする。
 今夜の相手となる顔も知らない客と落ち合う為、事前に待ち合わせとして指定されていたクラブがある地下への古いコンクリートで出来た階段を下り、暗がりへと身を沈めるにつれて目の前に立ち尽くす扉の奥からは、がやがやと夜の街で生きる人々の沸き立つ声が静かに聞こえてきていた。
 初めて足を運ぶという訳でもないその扉を静かに開け放ち、古めかしさが漂う擦るような音と共に中へと入ると、既に事情を知っているのか、何度も顔を合わせた事のある支配人のボーイにすぐさま予約されているらしい席へと案内をされ、何も言わぬまま先行くその背を追った。
 賑わいを見せている小さなステージが設置されたテーブルより奥、短い廊下を渡った先に打って変わって静けさがに包まれたスペースに、隣席とはフロストガラスで遮られた個室のように区切られている低めのテーブル席が数個設置されていた。そのうちの一つ、その部屋の角に位置する席、しかし今夜の相手である依頼人はまだ来ていないのか、仕方なしに無人である茶色いソファーの真ん中へどっしりと遠慮なしに腰を下ろした。

「お飲み物、どちらに致しましょうか」
「…酒以外なら、なんでもいい」
「畏まりました」

 慣れた様子でカウンターの奥からお冷のグラスを用意している支配人を横目に、先日の夜から今にかけてずっと気に掛けてい点を頭の中で整理する事にする。
 先程まで入り浸っていた幼馴染の経営する古い銭湯、そこにはほぼ毎日大体同じ時間に恋人である彼が現れていて、自分やマゴと世間話をしてはゆっくりと風呂へと入り、必ずイチゴ牛乳を一本飲んでは休憩所で少し体を休めたのちにその場を後にする。帰りがけに時々泊まりに来ないかと誘われる事はあれど、付き合い始めた今でもごく普通のカップルなら当たり前のようなその行為を、今まで散々突っぱねてきた相手としたいという気持ちにはなれず、未だに家へ遊びに行った事はまだない。その代わり、外泊先で体を重ねた経験は幾度とあり、その度に自身の気持ちが知らぬ間に彼へと向いている事実を再認識するも、性格上であるのか二人で甘い雰囲気に浸るなど想像するのも難しい。

(…別に、言う程じゃねえんだけど…な)

 気に食わなさにひたすらぶつかってきた分、今更素直になれるはずもなく、碌に自分の気持ちを伝えぬままに流れに任せて付き合ってはみたものの、この通り、それ以前の生活を変える事さえ出来ないままにずるずると汚い仕事でカネを稼いでいるのが現状だった。彼にはやむを得ず体を売っているという事実は既に知られていて、もうやめるべきだと何度も止められてはいたものの、他に稼ぎアテなどどこにも心当たりはなかった為、忠告を無視しては苦しくなると知人に仕事の仲介を依頼している。
 胸の奥でもやつく感情が存在している事実とは裏腹に、恋人である彼に縛られたくないという意味も自身の行動には含まれているのかも知れない。幼馴染の店の常連客、ただ顔だけ知っていただけの知り合いから恋人に昇格したからといって、自身の行動を縛られなければいけない理由などない。強いて言えば生きる為でもある。こうでもしなければメシも食えない、風呂にも入れない、何もしないでいてもいいのは生きる事を諦めた者だけだ。そう心の中で言い聞かせて一人、どんなに心と体に傷を負うような過酷さが続こうとも必死に耐えながらその日々を過ごしてきた。

(…ったく、自意識過剰すぎだろ、アホたれ…。アイツがあの時言ってた事も、もしかしたら…いつものようにからかってただけかも知れねぇのに)

 その考えに落ち着いた直後、胸の奥で刺さるような痛みが疼き慌てて一度呼吸を止め、奥底へと押し込むようにその塊を飲み込んだ。気にしていないつもりでいたはずだというのに、少し彼の事を考えているだけでこんなにも心が揺さぶられる自身の弱さに呆れている最中、店の入り口がある方向から一つの足音が聞こえた。と、同時に手に持っていた携帯電話がぶるりと震え、画面も見ないままにその電話を受けてみれば聞き慣れた軽い声がぽろりと耳元で落ちてきたのだった。

『おーっす。依頼人、来た?』
「それっぽいヤツが来たようだが、まだ姿は見え…げっ!」

 そろそろさすがに待ち草臥れた、そう思いながら電話を受けた直後。初めは信じられなかった。ゆっくりと、しかししっかりとした足取りで次第に近付いてくるその存在は何度瞬きをしても見知った人物に変わりなく、嘘であって欲しいと願い一度視線を外して再び戻してみるもやはり結果が変わる事はなかった。

『おーっし、無事に落ち合えたみたいだな。じゃ、俺はこれで』
「は!? おま、何で…こいつが客だなんて聞いてねぇぞ!」
『聞かなかったお前が悪い、以上。ちゃんとやる事やってやるんだぞ、いいな。依頼人によろしく〜』

 無情にも一方的に電話を切られてしまい、その場に残されたのは、あまりの予想外すぎる展開で全身に冷や汗を流しながら頭痛を催している自分と、どこか冷ややかな雰囲気を纏わせてはこちらを見下ろし立ち尽くしている、一回り程体格ががっしりとしている見慣れたサファリハットのボーイ、その二人だけだった。

「…黙って付いて来い。言い訳は、聞くつもりはない」
「は、はい…」

 普段以上にクール(寧ろ怒りの炎を掲げているようにも見え、そのまま灰にされるのではないかという程の熱さを感じる)な振る舞いと静かに力が込められた重い言葉に頷く他なく、今にも泣きそうになりながらもそれだけはと必死に堪えては、店の外へと出てゆく彼の背を追う事だけを考え足を踏み出した。




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