沙翁の毒劇
さりとて、イチヨウが、愛していないというのではない。ただ、イチヨウの中にある激情という物が、生身の人間に向けられたとき、それが他人にとってどのような影響を及ぼしかねないのか、全く検討も附かないからである。
イチヨウ:それで、僕は、君を愛したいのだ。たとへ肉がくずれ、骨の見えるようになっても!
「それで…、……、ああ、だめだめ……だめなんだ」
髪を掻いて台本をばっさりと投げ捨てると命をなげうつ清水寺よろしくソファに斃れこむ。ずずず...埋まりこんだビーズクッションは、メフィストの再来か、悪魔的天才な商売上手が「人をだめにするクッション」と銘打ってからはまあ確かにビーズクッションは人をだめにした。人間をだめにしたり予定を狂わせたりするといったものでは、ジャポン文化の炬燵の隣にランクインしているのではないだろうか。
カフカは投げ捨てた台本をちらと横目で見たが、ばらけた酷い惨状だというのに、片付けようという気分が起きなかった。そもそも気乗りがしないのだ。
「いや、いやだ…ああー。いや。」
何が厭なのだといわれたら何が厭なのかはことばにするのがむずかしいような、もやもやした気持ちで鬱屈ばかりが溜まっていくのだが、カフカがつとめて表現したのはむっすと不快そうな顔をつくり、人間を駄目にするクッションに沸騰した頭と身を埋めて、湖畔のような気分になるまで心を穏かに静めることだけだった。場合によっては赤子以下の表現方法である。
「何が駄目なの」
眼のまで風船がはじけたような針の声。ぱっちん。とはじかれたようにカフカは眼を開いた。
ぼやぼやとした靄がかった眠たげな視界で幽霊のように動く物体が右から左目の端に動いていく。ぎゅっと眼を瞑ってからうごうごと上半身を動かして転がしてクッションからずり落ちると、人より少しだけ出っ張った額がこんと、へりを叩く。いい音だなと思っていると、すがすがしいほど気分のよさげな声が頭に響いた。
「いい音だ」
「黙れよ」
「へりに頭からうちにいくなんて、いつの間に打楽器に転職したんだよ」
「五月蝿い、五月蝿いって云ってるだろ」
顔を顰め、クッションをわし掴む。うわ、と声が届くと小気味よくなって、カフカはねぼう気味の腕に力を入れて投げつけた。「あっぶなァ、あっぶない」ひとりごちる。「いや、ぶつかったところで痛くはないけど」溜息。ねっちっこい。「うわ、―なんかきもちわる」
「元気だなお前は」
ずん、ずんずんずん、巨人が足を立てて侵してくるようなその無遠慮が人間の関係性を構築するのを忘れ、無秩序に濫立してくる無遠慮が、ピアノ線よりせんさいなカフカの性質が傷んでいく。蔓を切断されるように気持ちが萎んでいき、憂鬱に支配されて、無気力な奴隷(プリゾニゼーションというんだったか不勉強でさっぱりだ)のように何もない床に倒れこんだ。
「うわあ」という声と共に近づいてくるシャルナークを疲れたように見上げる。視界の端で、くすんだ月色が揺れて、鼻が近づいているのが解ると、眼の中の黒く大きな点が結びつき、硝子質のつややかなところに、己の水色が反射して映っている。今度は本当に目覚めたように眼を見開いた。
「―何してんだッ気持ち悪!」
「あはは、やっと起きた」
上体を思い切り起こすと腹筋に痛みが走るが、構わずカフカは足でシャルナークの脛に向かって蹴り上げる。シャルナークはひょいっと揺らして避けながら、にやにやと笑っていた。お前、チェシャ猫か。前世チェシャ猫だろ
「大体、お前、なに人様の家に入ってんだ」
「カフカ、人様って身分じゃないだろ」
げらげらと腹を押さえながら不気味なほど笑う。壷か。つぼだったのか。それほど人様って言葉が面白いか。ぶすくれて腕を組み、足を組んだカフカが目つきを悪くさせて睨み上げる。一頻り笑った後は「あーおもしろかった」と余計な一言を呟きながら、家主に言葉をかけるでなく扉をつけられていない妙な切り口の奥、厨房に入っていった。カフカは、苦々しくそれを見詰めることだけしかできなかった。
題名の毒劇は「毒婦」より
201909/28