01

 殺しておけば良かった。ホストクラブの煌びやかなネオンに照らされながらボロ雑巾のように地面に転がる母親を見て、強く思った。ああ、本当に、殺しておけば良かった。もっともっと早い内に。
「それで、お前が返すでいいんだな」
 頭上から降ってくる言葉にハッとする。顔を上げるといつもの消費者金融の取り立てでもない、知らない男が地面に座り込む私を見下ろしていた。男の咥えていた煙草の先が仄かに赤く色づく。そのまま煙を吐いて、私と目線を合わすようにしゃがみこんだ。
「か、返す……」
 男は私の言葉を聞くと「そうか」とだけ言って再び煙草を咥えた。この街において女が男に取り立てられている姿なんて日常茶飯事、誰も気に留める人などいない。粘ついた女の声や下卑た男の笑い声がいくつも私の横を通り過ぎていく。目の前の男の耳や舌にちらちらと見える数多のピアスに、痛そうだなあと完全に現実逃避した感想が浮かんだ。
 私の母親は端的に言ってクズだった。一緒に住んでいた相手からは私を身籠った瞬間に見捨てられ、それで騙されたと一念発起するならまだしも私が物心つく前からずーっとホスト通い。それは私がとっくに成人する年になっても辞められず、膨れ上がる借金を私が文字通り心身を削りながら働いて返している状態だった。けれど母親は私が金を稼いできた瞬間また更に借金をする。いい加減にしてくれと言ったこともあるが、「彼には私がいないとダメなの」と甲高い声でギャンギャン騒いで話にならない。こんな母親見捨てて仕舞えばいいのにと思うのにそれができないのは、私が馬鹿で愚かだからか、愚図で甘ちゃんだからか、それとも未だこの女に母親としての姿を期待してしまうからか。
「じゃあ、これな」
 男が一枚の紙を差し出す。おそらく借用書だろう。借入金の欄に目を通して、少し息を吐く。正直言うとなんだこれだけかと思った。この母親のことだからとんでもない額を借りたのではと思ったが、少し理性があったらしい。金利を含めても一年出勤数を増やせば自身の生活費も賄いながら何とか返していける金額だろうと脳内で簡単に計算する。自分の心はもうこれ以上ない擦り切れているんだ。仕事が増えるくらいどうってことない。
 何とかなるか、と息をついたのも束の間。男はすかさずもう一枚の紙を私に差し出してきた。
「プラスこれ」
「は……はぁ⁉︎」
 新たな借用書に書かれていた数字は0が7つほどついており、見た瞬間後頭部を強くぶたれたような心地がした。眩暈がしているのも気のせいではないだろう。このまま気を失えたらよかったのにそんな都合の良いことが起こるはずもなく、私はただただ書かれた数字に繰り返し目を通すしかできなかった。
「あんたの母親、どうやら俺の顔をいたく気に入ってくれたみたいで」
「な……」
「あとこいつも」
「ちょっと……ニカまで巻き込むつもりすか?」
「他のとこで作った金を俺んとこで借りた金で返して、『これからはずっと貴方のところで借りるからね』って――有難いことだな」
 ふう、と男が吐いた煙が顔にかかる。男の顔をよく見るとたしかに整った顔立ちをしていた。そして男が指さした先にいたおそらく仲間であろう別の男も、なるほど母が好きそうな男だった。ああ、この母親は、どこまで私に迷惑をかければ気が済むのか。……いや、迷惑をかけたとかかけないとかそんなことこの女が考えているはずもない。この女が考えていたのは実の娘のことなんかじゃなくてこの街に生きるホストのことだけだ。自分が搾取されているなんて微塵も思わず、「彼のためなの」と言って私の言葉に耳を傾けたことなんて一片もなかった。
「で、返す?」
「返さなきゃ……」
 どうなる。出かけた言葉は声にならなかった。男は酷く冷めた目つきで横に転がる母親を一瞥し、「さあて」と言った。
 殺される、今度こそ死ぬんだ、私。ああでもそれも良いかもしれない。もうこんな人生、どうなったっていい。
「……いい」
「あ?」
「どうなったっていい、殺して……」
「何言ってんだ、お前」
 口からこぼれた言葉は決して拾われることはなく、それどころかアスファルトに捨てられた煙草の吸い殻と一緒に踏み躙られる。
「借りたもんは返す、常識だろ」
 言うや否や、私は腕を引かれて黒い車に押し込められた。片目を隠したもう一人の男が「女性に乱暴する趣味はないんすけど」と言っていたが、胡散臭すぎて最早どうでもよかった。
 私を乗せると車は繁華街をどんどんと抜けていく。このままどこに行くのだろうか。考えられるのは人身売買とか、臓器売買とか、凡そ今以上に人に言えないことをさせられる法外な店か。処女でもなんでもない、三食まともに喰えてもいない女の身体にどんな価値があるのかは知らない。死ねるならもうなんでもよかった。
「着いたぞ」
「は……え?」
 暫く車に揺られて着いた先に私は目を疑った。外から見ても築ウン十年は経っているのが分かるボロボロの建物は、どこからどう見ても私と母親が長年住んでるアパートだった。隙間風がひどい、六畳一間のオンボロアパート。
 ワケがわからず男の顔を見るが、男は何でもないというふうに「朝九時迎えにくるからしっかり休んどけ」とだけ言って私を車から降ろしそのまま帰って行った。
「何……?」
 頬をつねっても叩いてみても痛みはそのままで夢ではないことがわかる。呆然としていると鞄に入れていたスマホに通知が入る。開くと知らない電話番号からショートメッセージが送られてきており、一言「逃げるなよ」とだけ書いてあった。
「……頭、痛い……」
 もう何も考えたくない。早く寝たい。
 月額2000円以下の格安スマホを適当に鞄に突っ込み、重い足を引き摺りながら私はアパートの自室を目指した。



 無崎と二階堂は車から降り、さっきまでいた場所へ戻る。あれから結構な時間が経つというのにホストクラブの前に転がっている女は一回も目を覚ましていないようだった。誰も気にかける人間がいないように、この街ではよくある光景の一つだ。
「オイ、起きろ。行くぞ」
 無崎が乱暴に女の髪を掴み無理やり顔を上に向かせる。一瞬顔を顰めた後女は目を覚ました。状況を把握するのに時間がかかっているのかよくわからない呻き声を上げていたが、無崎と二階堂の顔を見た瞬間満面の笑みを浮かべた
「嗚呼! レイくん、ニカちゃん!」
「チッ、酒臭え」
「あー……気安く呼ばないでくれやせんかねえ」
 無崎に向かって無遠慮に伸びてくる手を二階堂が払い落とした。しかしそんなことは気にせず、再び女は男二人に手を伸ばしてくる。二階堂は「ゾンビみてえ」と小さく呟いた。
「なああんた、分かってんだろ。借りたもんは返さなきゃな」
「え……えぇ? ああ、お金、お金は……娘が……」
「ハハ、そうだなあ」
 女は身体から酒が抜けきっていない様子で、焦点がまるで合わない。無崎は二階堂に指示し、最近よく付き合いのある相手へと電話かける。
 決して若くはないが、多少は金になるだろう。それに、「物好き」な人間はこの世にごまんといる。もうこの女には"そういう道"しか残されていない。そこには同情の余地など微塵もない。無崎は繋がった電話の相手に淡々と状況を伝え、あとは好きにしろとだけ言って通話を切った。幾許もしない内にこの女の元へは迎えが来るだろう。
「子どもは親を選べない、か」
 一人じゃ立ち上がれずに蹲ってる憐れな女を見下ろした。無崎の瞳はいつもと変わらず眠たげだった。

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