02

 夢を見た。私はまだ5歳で母親に手を引かれて街を歩いていた。そのときの私は、たまたま母親の機嫌が良かった日に買ってもらった絵本を腕に抱えていた。どこに行くにも――どこ、というか、母親が出勤の日によく預けられていた場所しかないけど――私はその絵本をずっとずっと大事にして持ち歩いていた。母親のことは憎かった。けどたまに、本当にたまに普通の母親みたいになる瞬間があった。絵本に載ってるホットケーキを食べてみたいと言ったとき、気分が向いていたからか作ってくれたことが一回だけある。あのときのホットケーキの味を私はもう――。

 カーテンを開ける音が聞こえる。誰だろう。母親がそんなことをするはずがない。そもそも部屋のカーテンは薄手すぎて開けようが閉めようが関係ないくらいだ。暫くもしないうちに台所のガスを点火させる音が聞こえた。あの母親が台所に立っている? ますますおかしいが、変に疲れている私の身体は言うことを聞かずまるで立ち上がろうともしない。だって昨晩、母親が新しい借金を、借金を?
「――!」
 起き上がれない瞼が重いと思っていたはずなのに昨日の出来事が濁流のように脳内に流れてきた瞬間、一気に目が覚めた。勢いよく上半身を起こして周囲をキョロキョロと見回すがそこは変わらず私の住んでいる激安オンボロアパート。けれど決定的に違うモノがいた。
「あ、やっと起きやした? 9時に迎えに行くつったのに全然こねーから死んだのかと……」
「……え、は、昨日の……」
「あー台所勝手に使ってます。つか普段何喰ってんすか? 冷蔵庫何もなさすぎでしょ」
 そりゃ、私の部屋にある冷蔵庫はもともと備えついている小さいやつしかないから、もちろん入る量も少ないし――いや、そうじゃなくて。再び夢の世界に旅立ってしまいたいと脳みそは助けを求めているがそうもしていられないと無理やり思考を巡らせる。
 昨日自分の元に現れた男の内の一人。が、私の部屋のアパートにいる。しかも台所に立っている。微塵も想像していなかった展開にまた目眩がした。
「そうそう、昨日の男すよ」
 男はゆったりと笑って見せるが袖の下からはびっしりと入れられた入れ墨が見えている。改めて堅気じゃないことを確信させられた。昨日アパートに帰ってからのことを思い出すが、辛うじてメイクを落として布団に倒れ込んだことだけは覚えている。いろいろとキャパシティオーバーだったのでそのまま気絶するように眠ってしまったんだった。さて思い出したからと言ってこの状況の理解は流石に無理。しかし男は説明するでもなく「これ」と私にコンビニの袋を差し出した。
 コンビニ袋を受け取ると中にはおにぎりが二つとカップのインスタント味噌汁が入っていた。男が台所に立っていることに気を取られすぎていたが、もしやと改めて台所を見るとやかんが火にかけられており、さっきの音はこれだったのかと合点がいく。いったところでますます意味が分からないが。約束の時間を無視したのはこっちなんだから無理やりにでも連れていけばいいのに、急かすどころか朝飯(恐らく)まで渡してくるのはどういうつもりなのだろう。
「若がどうせ腹でも空かせてるだろーって。ま、とりあえず30分待つんで、飯食って準備終わったら下に来てくださいね」
 そう言うと男はさっさと部屋から出て行ってしまった。
「意味わかんない……」
 やかんが沸騰する音が部屋の中に響いた。久しぶりに聞いた音だった。

 意味は分からないがどうせ相手はヤクザか何かだ。当人がヤクザなのかバックにヤクザがついているのかは現時点ではわからない。しかしただでさえ相手を待たせているんだからこれ以上待たせたら本格的に何されるか見当もつかない。手渡された食料も一応警戒はしたが変な匂いもしなかったしコンビニで買ってきたものを本当にそのまま渡して来たのだろう。食べ物に罪はないし、と有難く頂戴した。もしこれで仮に何か入っていて体調を崩したとしても、それならそれでいい。
 とりあえず適当な服を引っ掴んで化粧はしないが最低限の身嗜みは整える。アパートを出て階段を降りると男が顔を上げた。
「やっと来た。遅いすよ」
「す、すみません……?」
「さっさと行きやすか」
 かなり急いで準備したんだけどと思ったがそもそも最初に言われた時間を破ってるので言い返すことはできなかった。
 言われるがまま男に着いていくとアパートの前に停まっていた黒い車にまた乗せられる。昨日とデジャヴだ。さて本当に私どこに連れて行かれるんだろう。数千万サクッと――とは言わずとも、相応の額を稼げる店なんてあるのか、あったとしたらかなり法外な店だろう。しかし今の私には人権なんてあってないようなモノなので、大人しく従うしかない。だとしても、こんな朝早くにやっている店があるのか。疑問は尽きないがどうせ私に断る選択肢はない。車に揺られている間、私は今一応籍を置いている店になんて言おうかなということだけ考えていた。
「着きやしたよ」
「はあ……」
 暫く車に揺られ辿り着いた先で自分で車から降りるよう促される。少しくらい車の中で寝てやれと思ったが私の精神はそこまで図太くなかったらしい。言われるがまま下ろされた先で、目の前に飛び込んできたビルの名前を自然と口に出していた。
「ゼロベース……」
「ゼロベース・ビルディング。あんたには今度からここで働いてもらいやす」
「……はい」
「あれ、素直っすね」
「まあ、抵抗しても意味ないって分かってるんで」
 一瞬男が顔を顰めたがすぐ「話が早くていいすけど」とまた人好きしそうな笑みを浮かべた。私みたいな人間からすれば胡散臭くて仕方がない顔だけど、たまたま通りすがった女性ぼうっと見惚れていたのできっと大層おモテになられるんだろう。
 そこで、ふと違和感を感じた。正直、どうせどこかの薄暗い裏通りにある怪しい場所にでも連れて行かれるんだろうと思っていた。しかし実際に連れてこられたビルは見た目も普通に綺麗で(エントランスは花とかペンギンのキャラクターのグッズとか飾っているし)明るい表通りに面して建っていて、何よりビルに入っていく客層が想像と違い過ぎた。若い女性――は何となく想像していたが――だけでなく、カップルの客は私とは生きる世界がまったく違うんだろうなと感じる層だし、制服を着た男女のカップルやグループ、私の母親世代の夫婦や友人同士、果てはおじいちゃんおばあちゃんの客もいる。本当に老若男女問わずビルを出入りしており、一体何のビルなのかまったくわからない。
「ここに入ってんのは1階から7階までぜーんぶカフェっすよ」
「カフェ……? あ、そっか……」
 カフェと言われて納得した。きっと何かの隠語なんだろう。表向きは一般層向けの店を展開して裏ではというタイプなんだと察しがつくし、それならまだわかる。多分私は裏の事務所の方にでも連れて行かれるんだろう。
「物騒な事考えてますよね? 違いますよ。ここに入ってんのは1から100までぜーんぶクリーン……ではないかもしれねーすけど……な店なんで。正真正銘、普通の喫茶店が入ったビルっす」
「ええ……?」
 男の説明に絶句する。今まで1から100までクリーンな店で働いたことなんてないし普通の喫茶店なんて、高校生の時やっていてファミレスのアルバイト以来だ。訝し気な視線を向けるが男は気にする様子もなく、「じゃあ行きやすか」と勝手にビルの中に入って行ってしまった。
「ちょ、待ってよ……!」
 私の声など知ってか知らずか、男は瞬く間に姿を消してしまう。流石にここで立ち往生しているわけにもいかない、と私は男に着いていくようにビルの中へと歩みを進めた。

 男に着いていった先はビル内にある休憩室のようなところだった。ロッカーと机と椅子がいくつか並んでいるその場所に、私は男に促されるまま座っていた。「もう少しでオーナー的な人が来るんで」という男の言葉に警戒を募らせるばかりだったが、今更こんなところで警戒したって後の祭りだ。私は今から言い渡される今後の未来について嘆きつつも受け入れるしか道は残されていない。
「すみません、遅れました……!」
 どれくらい待っただろうか。男と会話らしい会話も交わさずただ部屋でじっと待っていると、高いソプラノと共に部屋のドアが開いた。
 飛び込んできたのは低い位置で髪をふたつに結んだ私よりも若いと思われる女の子で、胸元にはいくつかの書類を抱えていた。
「あ……借金取りさんの言ってた人……⁉︎」
 そんな女の子が私の姿を見とめた途端そう口に出した。私の横にいた男は「ちょっと、素直すぎ」と笑っていたが、私からしたらその女の子も言っているシャッキントリさんも誰なのかよくわからないしなんのことかさっぱりなので、咎める気にもなれない。
 女の子が忙しなく手にしていた書類を机に置くと、「あの」と改めて切り出した。
「私、ここのビル全体の経営を担ってるの有川ヒナナって言います。これからよろしくお願いします!」
 明るくそう言った彼女に、いったい何がよろしくなんだろうと思いつつこちらこそと頭を下げた。そばにいた男は我関せずスマホをいじりながらどこかにメッセージを送っていた。
「実は私も父親に借金を残されたクチで……」
 苦笑しながら話す彼女に、いったい私はどれだけ私生活の情報を流されているのだろうとうんざりしたが、ここで変に波風を立てる気にもなれず「そうなんですね」とだけ曖昧に笑いながら返した。

prevnext
top