時刻はちょうど昼の12時になろうとしていた。世間一般では昼休みの時間帯。きっとカフェも一番忙しい頃だろう。
「手が足りないところ、手伝ってきます」と有川さんが出て行こうとしたとき、ちょうど鉢合わせるようにしてニカさんが入ってきた。
「すみません、大将。この人、今日はもう退勤ってことで」
「あ、そうなんですね! わかりました。みょうじさん、また明日からよろしくお願いします!」
私も慌てて挨拶しようとしたけれど、昼時の忙しさはそれどころではないのか、有川さんはそのまま階段を下りて行ってしまった。
「……私も、手伝った方がいいんじゃ」
「昼時はだいたいこんな感じなんで、慣れてますよ。むしろ新入りがこの時間に入る方が、手間っていうか」
「……まあ、そうか」
ニカさんの言うことはもっともだった。私の飲食店の経験なんて、高校時代のバイトくらい。下手に首を突っ込むより、大人しくしていた方がいいだろう。
そんなことを思っていた矢先、ニカさんが出入り口から私に視線を戻した。
「あんたには、やってもらうことがあるんですよ」
「……え?」
質問する間もなく、気がつけば私は朝来たときと同じ車に乗せられていた。私が大人しく乗ったのを確認して、そのままニカさんは車を発進させる。
――ようやく合点がいった。
こんなに平和な仕事で済むわけがない。
これからまた別の店に行くんだろうか? でも、そうなるとさっきのビルに行った意味は?
それはそれとして“ビルの方も普通に手伝え”ってこと? それとも、有川さんの手前だけ“真っ当に働け”と言っただけ?
ほんの少しだけ緩んでいた警戒心が、またぐわりと胸の奥で広がっていった。
どう転んでも、私が「真っ当に、そして平和に」働くなんて土台無理な話だ。私自身が――というよりも、環境が、それを許してくれない。
昨日から今日にかけて、どん底に突き落とされたかと思えば引き上げられ、そしてまた手を離される。その繰り返し。もううんざりだ。
「……また変なこと考えてます? 違いますよ。ただ、あんたの家に戻るだけです」
「……家で客引きしろってこと? さすがにやったことないんだけど。大家にバレたらどうするの? どこまで融通きかせてくれるわけ?」
「バっ……だから違いますって」
「……」
今、「バカ」って言いかけた?
さすがに突っ込む気にもなれないけど……こっちにとっては死活問題だというのに。
「引っ越しですよ。今のボロアパートからビルの近くのマンションに越してもらいます」
「……はぁ?」
「だってあのアパート、ビルから遠すぎるんすよね。出勤はなるべく楽な方がよくないすか? ああ、あと、目も届くし」
――絶対、最後のが本音でしょ。
いや、それよりも。
引っ越しなんて、そんな急にできるものなの? もう話通してあるってこと? ていうか、いきなりすぎない? いつから決まってたの? 疑問ばかりが頭の中を埋めていく。
けれどニカさんはもうそれ以上何も言う気はないようだった。まあ、運転中だからっていうのもあるかもしれないけれど。何も言わないのであれば私ももう何も訊けない。
窓の外には見知らぬ景色がただひたすら流れていた。
鍵を開けて朝ぶりに部屋へ戻ると、玄関先にいくつかの開いた段ボールが積まれていた。
「じゃ、夕方ごろまた来るんで、それまでに準備しておいてくださいね」
「……え、ほんとに? ほんとに言ってるの?」
「? さっきからずっと言ってますけど」
そう言い残してニカさんはさっさと出て行ってしまった。しばらくしてエンジンが遠ざかっていく音が聞こえた。本当に帰ったらしい。
さっきまでいろいろな人と関わっていたせいか一人きりになった部屋の静けさがやけに耳に痛かった。ずっと住んできたこの場所でそんなふうに感じたのは初めてだった。
疑問も不信感も山ほどあるが、それは一旦置いておくとして、とりあえず今やるべきことをやらなければならない。と自然に思ってしまうくらいには私に拒否権はないと理解している。
積まれた段ボールのひとつを持ち上げると、紛れ込んでいたのかガムテープが転がり落ちてきた。多分気を利かせて置いてくれたんだろう。実際家にガムテープなんて置いてなかったし、助かる。
この狭い2人暮らしのアパートに「大事なもの」なんてほとんどなかった。自分の下着や服、化粧品などの消耗品を段ボールに詰め込んでしまえば、荷造りはあっという間に終わった。
余った段ボールを眺めながら夕方まで少し寝てしまおうかと部屋を見回していると、唯一の収納スペースである押し入れの存在に気がついた。そこは母のものが入っていて私が使うことはほとんどなかったからすっかり忘れていた。
――そういえば、母はどうしているんだろう。
昨日のあのあと、結局母はどうしたのか私は知らない。私が引っ越すとして、母はこの部屋に住み続けるのか? そのことを母自身は知っているのか?
考えれば考えるほどその辺りが不自然だ。今日ニカさんも母については何も言わなかったし、私も敢えて聞かなかった。どこか――別の男の家にでも行ってるんだろうか。いや、もしかして――
最悪の展開が一瞬脳裡を過る。
「……もしかしたら一緒に引っ越すかもだし」
誰に言うでもない言い訳を口にしながら、押し入れを開けた。
中には母がホストクラブへ行くときによく着ていた派手な服がハンガーに掛けられていた。まあ、予想通りといえばそうだ。
一応母のものと自分の荷物は分けておいた方がいいか――と押し入れを探っていると、奥に小さな段ボール箱を見つけた。気になって手を伸ばし引っ張り出してみると、中には一冊の絵本だけが入っていた。
それは、今朝夢に見たあのホットケーキの絵本だった。ずっと失くしたと思っていたものだった。
「……なんで、ここに……」
母がここにしまったことは間違いない。でも、なぜそれをしたのかは、もう聞く術がない。
どうしようもなく、泣きそうになった。
こんなものどこかに投げ捨ててしまえばいいのに――それもできなくて、私はその絵本をそっと他の荷物と一緒に段ボールへ入れた。
荷造りが終わってからぼうっとしていたらいつの間にか日が暮れていたらしい。インターホンが鳴ったので立ち上がろうとしたが、返事も待たずに玄関のドアが開いた。そこには昨日のあの男が昨日と同じようにタバコを吸いながら立っていて、その横にはニカさんがいた。
なんのためのインターホンなんだと思ったがまさか口に出せるわけもなく、「どうも……」と小さく挨拶するに留めた。
「荷物は――あ? それだけか?」
自分でも少し驚いたが私の荷物は結局ダンボール二箱だけに収まってしまった。私は頷いてから、男に気になっていたことを切り出す。
「あの……母は? 私が出るってこと知ってるの?」
男は一瞬黙り手元のタバコを深く吸い込んでからふうっと長く煙を吐いた。
「この部屋は引き払う」
当たり前だろ、というような口調だった。
「大家にはもう話は通してある。お前は余計なことは考えずに、借りたもん働いて返せ」
ああ、そうか。そりゃまあ、そうなるか。
“その事実”は妙にすとんと胸に落ちた。思っていたよりも動揺はしなかった。ただいろんなことがやっと「あるべき形に収まった」ような気がした。
「じゃあもういいか? おい、ニカ」
「はあ〜……ほんっとニカづかい荒いんだから……」
ぶつぶつ言いながらも、ニカさんはダンボールをひょいと持ち上げた。「軽っ」と小さく呟いた声が聞こえる。
「この部屋は明日には空になる。鍵は適当に置いとけ」
「え、大家さんに挨拶とか……」
「いらねえ」
でも、十何年も住んだ家なんだけど――と言いかけたころにはもう二人ともさっさと外に出てしまっていたので、私も慌てて後を追うしかなかった。
昨日から何度も乗っている黒い車に今度は自分の意志で乗り込む。私が乗ったのを確認してからニカさんは隣の席にダンボールを置いた。
「崩れないように気をつけてくださいね」
しばらく車に揺られ着いた先は今まで住んでいたアパートとは比べものにならないくらいしっかりとした作りの建物だった。
「ほら」
「うわっ」
投げられた何かを慌ててキャッチする。見てみれば渡されたのは鍵だった。こんな大事なもの投げなて渡さないでほしい。
「ニカ、俺は事務所に戻る。あとは任せたからな」
「はいはい」
男はそれだけ言って街の雑踏の中へと姿を消した。ニカさんは特に気にする様子もなく「じゃ、行きますか」と言ってエレベーターのボタンを押した。
私にあてがわれた部屋は、5階の角部屋だった。一人で住むには充分すぎる広さがあり、風呂もトイレもきちんとあるし、レンジや冷蔵庫、洗濯機も備えつけられていてガスも水道も電気もすでに使える状態になっていた。
本当に、ここが今日から私の部屋になるの?
あまりにもうまい話すぎてどこかに落とし穴があるんじゃないかと警戒せずにはいられなかった。……いや、落とし穴といえばもうずっと落とし穴の中なんだけど。あの男が、この人たちが、私にここまでする理由が全くわからない。
「あ、家賃は前のアパートと同じでいいらしいですよ」
「え?」
「毎月末、若んとこに持ってこいって」
「は……?」
一枚の書類を渡されて目を通すと、確かにその内容がしっかりと記載されていた。本当に本気でこの条件なのか。
頭がパンクしそうになりながらその書類を穴が開きそうなくらい見ていると隣でニカさんが急に笑い出した。その声に驚いて視線をそちらに向ける。
「し、失礼じゃないの……」
「はは、すみません」
ニカさんは笑いすぎて潤んだ目元を指で拭った。なにがおかしいのか、私には全くわからなかった。
「若にはちゃんと感謝してくださいね」
「別に、言われなくても……」
母があんなふうになったのはたしかに彼女の自業自得の部分が大きい。というか、ほとんどそれ。でもこの人たちが完全に無関係かというと正直そうは思えない。ただ、それでも、あの男のおかげで衣食住と仕事が与えられたのも事実だった。私はこの複雑な感情の持っていき場に困っていた。
「――可哀想っすね」
「……は?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。逆光でニカさんの表情はよく見えない。
戸惑っているとふいに顎を持ち上げられる。顔が近いはずなのにその表情が読み取れず、妙に不気味だった。
「勘違いしちゃだめっすよ。あんたは若に“飼われてる”だけ」
「っ……」
強く掴まれた顎に思わず顔を歪める。するとすぐに手が離され、ようやくニカさんの顔がはっきり見えた。
「じゃ、出勤は明日朝9時です。ビルの住所は契約書に書いてあるんで、忘れずに確認してくださいね」
そう言って、ニカさんは部屋を出て行った。
残された私は、しばらくその場に立ち尽くしたままだった。