休憩室から2階に降りる途中ビルの各階にあるカフェをちらりと見てみたが、どこもなかなかに繁盛しているようだった。老若男女問わず人の出入りが多いのは最初にここへ来たときから気づいていたことだ。ただ、どのカフェも何かしらの「テーマ」があり内装や制服はもちろん、メニューまでもそのコンセプトに沿って提供しているという。そんな手間をかけて本当に利益は出ているのかとつい勘繰ってしまいそうになる。
まあそれについては「有川さんが100億の借金を完済した」という事実がすべての答えなのだろう。
「ここです」
考えごとをしながら二人の後ろをついて行っていたらいつの間にか着いていた。ドアには「CLOSE」の札がかかっている。
「今日は定休日なんすよ」
ニカ――さんがそう言いながら、鍵を開けた。
店内に入るとテーブル席とカウンターのほかにグランドピアノやギター、スピーカーが並んでいて、カフェというよりはバーの方がしっくりくるような雰囲気だった。ブラインドが下りているせいか薄暗いが、それもまた落ち着いた空気を演出していて、妙にしっくりくる。
「バックヤードはこっちです」
「みょうじさん、足元気をつけてくださいね!」
「は、はい……」
楽器にぶつからないように慎重に歩きながら、ニカさんと有川さんの後を追った。
バックヤードで有川さんから在庫表を受け取り、それを確認しながら備品の数をチェックしていく。このビルでは各カフェごとに食材や食器、内装に必要なものは独自に在庫管理されているが、共用の備品に関してはビル全体で一括管理されているのだという。
「本当は食器とかカトラリー類もまとめて管理できるんですけど……」
「……ああ、コンセプトがありますもんね」
「そう! そうなんです」
「みんな、何だかんだでこだわってるんですよ」
有川さんに説明を受け、ニカさんが時折補足を入れてくれるおかげで、業務の大まかな流れがだんだん掴めてきた。ほっと息をついたそのとき、階下から「待て!」という声が響いた。
その声に反応する間もなく何か黒くて素早いものが開けっぱなしだったドアから飛び込んできて、勢いよく私の足に激突した。大きさこそそれほどでもないがあまりのスピードと質量に私はバランスを崩しそうになる。転ぶ、と思った瞬間予想していた痛みは来ず、代わりに背中と肩にぬくもりが触れた。
振り返るとニカさんがいた――というより、私を支えてくれていた。
「うっわ……」
「え? お礼の前にそれですか?」
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
私が体勢を立て直したのを確認すると、ニカさんはすぐに手を放した。まるで「これ以上借りは作らせないでおいてあげますよ」とでも言いたげな動きで、妙に気に障った。
とはいえ、それはそれとして、ようやく足元を見ると真っ黒な猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら寝転んでいた。そういえば1階は猫カフェだったっけ。
「もう、イチハヤ! 何してるの!」
「す、すまないヒナナ! 新入りの猫ちゃんが思ってたより元気で……!!」
いつの間にか姿を消していた有川さんが、黒髪の少年の腕を引きながら店内へ戻ってきた。
勢いよく頭を下げられて、こちらもどう反応していいのかわからない。「だ、大丈夫だから」と促すと、彼はようやく顔を上げた。
「イチハヤ、この人が今日から入る事務員さん」
「! そうか、あなたが……本当に申し訳ないことを……」
「いや、もういいから」
また頭を下げそうな雰囲気を察し、慌てて制止する。ちょっと気まずい空気になりかけたところでニカさんが「とりあえず自己紹介でもしたらどうですかね」と声をかけ、有川さんが「そうですね!」と手を叩いた。
「ほら、イチハヤから」
有川さんに促された男の子はそうだな、とひとつ頷いてから名前を名乗った。彼の名前は一重 壱早というらしい。先ほどは本当に申し訳ありませんでしたという謝罪の言葉と共に右手を差し出される。一拍してから握手を求められていると気づいた。
「私はみょうじ なまえです……まあ、有川さんと似たような感じで……働くことになりました」
「なっ……つまりあなたも、親の借金を……!?」
「父親じゃなくて母親だけど……まあ、そんなところ」
「苦労されてるんですね」と本当に心の底からそう思っているというように言われ、戸惑いながら私も右手をを伸ばす。すると、思っていたよりもしっかりと握られ、「がんばりましょう!!」と熱く言われた。私は苦笑いするしかなかった。握手なんて初めてしたかもしれない。
その後、まだ足元でゴロゴロしていた猫をイチハヤが抱き上げ、「店を開けたままだから」と1階へと戻っていった。
「真っすぐな子でしょ」
ニカさんが笑ったが、正直どこに笑いどころがあるのか分からず、私は「そうなんですね」とだけ返しておいた。
一重さんが出て行った後だいたいの説明は終わったということで、私たちは先ほどの部屋――休憩室兼事務スペースへ戻ることになった。ニカさんは「ちょっと用事があるんで」と言ってビルを出て行き、残ったのは私と有川さんだけだった。
契約書などを確認した場所がそのまま私の主な仕事場になるらしく、今後は基本的にここに出勤することになるらしい。休憩室は他の従業員も使うので、誰か来たらちゃんと挨拶しなければならない。そう思うと少し気が重くなるが、仕方ないと腹を括る。
――でも本当に、“まともな人たち”相手に、何をどう話せばいいのか分からない。
「みょうじさん、PCってどのくらい使えますか?」
「Excelとかなら、少しは……でも、実務レベルかというと……」
「それなら、だんだん慣れていけば大丈夫ですよ!」
屈託なく笑う有川さんの明るさに、思わず目が眩むような気がした。いったいこの人の前向きさは、どこから湧いてくるのだろう。
「そうですかね」と口にしながら、私はつい目をそらしてしまったが、有川さんは気にする様子もなく、PCの場所や席を案内してくれた。
――この人、本当に絶望とか、人間不信とか、知らないのかな。
あんな莫大な借金を背負わされた人生なのに、そんなことが本当にあるのだろうか。
「おーい、ヒナナいるかー……って、あれ?」
「あ、お兄ちゃん」
ドアが開いて、見知らぬ男性が有川さんの名前を呼びながら入ってきた。「お兄ちゃん」ということは、やっぱり兄妹なんだろう。二人の顔を見比べると、どことなく似ている気がする。
「もしかして、新しい事務の人か?」
「あ、はい……」
まっすぐこちらを見て話すその感じが、有川さんとそっくりだった。それを意識したせいか、ずっと感じていた居心地の悪さが、さらに強くなった気がした。
この空気から一刻も早く逃げたくて、私は早口で自分の名前を名乗った。すると彼はにっこりと笑って、自己紹介をしてくれた。
「俺は有川七星。苗字でだいたい察しがつくと思うが――ヒナナの兄だ。よろしくな」
「お兄ちゃんは7階のカフェで働いてて、あと実はけ――」
「おーっと、ヒナナぁ! ちょっとだけこっち来ようか!」
有川さんが何か言いかけたのを、お兄さんがあわてて止めて部屋の隅へ連れて行った。どうやら私に聞かれたくない話らしいが、別に私が聞いたところで何ができるわけでもないのに、ずいぶん慎重だなと思いながら、二人の会話が終わるのを待った。
数分後、何かしら話がまとまったらしく、二人は何事もなかったように戻ってきた。
「と、とにかくお兄ちゃんです! よろしくお願いします!」
「そう、兄です! これからよろしく!」
「はあ、よろしくお願いします」
「そうだ、何か困ったことがあれば、いつでも相談してくれて大丈夫だからな」
「もう、お兄ちゃんてば……」
ばちんとウインクまでされて、ますますどうしたらいいか分からなくなった。気さくと言えば聞こえはいいけれど、どうしても軽薄そうにしか見えない。
こういうタイプの人間には、あまり良い思い出がない。
私は「何かあれば……」という言葉を、ただオウム返しにするしかなかった。
「そういえば、何か用事だった?」
「ああそうだ忘れてた。次の連休なんだけどさ……」
資料のようなものを開きながら二人が話し始める。おそらく私では手伝えないような仕事なのだろうし、まだ初日なので無理もないが、手持ち無沙汰な状況が妙に気になってしまう。
PCもまだ説明を受けていないし、勝手に触るのもためらわれたので、とりあえずジャズカフェの在庫表を見直すフリをしながら、その場をやり過ごすことにした。