忘却の姫子
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出立の船 
 留まることなく流れる海の潮騒と濃い潮の香りに包まれていると、疲弊した心は幾らかは落ち着いた。
 昨日(さくじつ)にランズ港を出航した定期船は、六日後にはウルディアスへと到着する予定だった。
 甲板の最後尾、穏やかな波をかき分けるスクリューの稼動音に紛れて、海鳥達の鳴き交わす声が耳を打つ。甲板の船縁に立っていた長身の男は、海鳥達から青く透き通る空に視線を移した。
 海の水は空の色を映して様々な色に様相を変える。凪いだ海と穏やかな空を、海鳥達の風をかき分ける飛行を眺めていると、夢うつつの状態を彷徨っているのかと錯覚をしてしまう。

 ここはこんなにも穏やかだった。何もかもが。

 甲板には乗客達がまばらに散り、思い思いの場所で船旅を満喫している。

「旅行ですかな?」

 少し離れた船縁に同じく立っていた初老の男が、にこやかに笑いながら話しかけてきた。

「──いえ。私は、ウルディアスに移住をしようと思っています」

 一瞬だけ返答に迷う。しかし笑い返しながら、そう答えた。

「ほぅ。移住ですか」

 この初老の男も、ランズ港から乗って来たはずだ。顔に覚えがあった。彼の奥さんだろうか、一緒にいた老婦人の姿はない。

「ここ近年、ウルディアスに移住をする人が増えましたな。私の娘も、ウルディアスに嫁ぎましてな。先の冬に、子供が産まれたのです」

 老人は嬉しそうに語った。

「それは、おめでとうございます」
「待ちわびた初孫なのです。私のところは雪が深いのでなかなか動くことが出来なかったのですわ。ようやく顔を見ることが出来ます」


忘却の姫子